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殺す。
俺は、女を刺した。女は、包丁が贅肉に食い込んで、引き抜かれてからも、俺の殺意に気づかなかった。目も口もまんまるく開けたアホ面のまま、しばらく突っ立っていた。
「きゃ」
女の頭に血が巡るのと、腹から血が噴き出すのと、俺が女の喉をかき切るのは、ほぼ同時だった。女の悲鳴は、漏れ出る息に主旋律を奪われ、トーンダウンした。
こんな時にまでしおらしく口を覆おうとしたせいで、俺の包丁は完全に喉を切り裂けなかった。代わりに女の指先を軒並み削ってやった訳だが、そんな細かいところはどうでもよかった。女は膝をついて、横倒しになった。血まみれの手で首と腹を押さえる格好が滑稽だった。
「な、ん、で」
盛大に息を漏らす聞き取りにくい声で、女は尋ねた。手に力が入らないらしい。見開いた目からは涙が出ていたが、泣き顔には見えなかった。
俺は手近にあった延長コードを引っこ抜き、女の脚を縛った。女は抵抗したが、腹の痛みに耐えかねて力が抜けたところで勝負がついた。それから女をまたいだ。女は背後に回られて不安そうに首をねじ曲げかけ、やはり痛みが増したらしく、元に戻した。
「な、ん、で」
息も血もますます勢いを増す中、必死に喋ろうとする。俺は女を見下ろした。女が倒れたり抵抗したりしたせいで、床が血モザイクである。
女はまだ動いている。壁や家具にも付いたかもしれない。それらは女の物だから、どうでもいいが、俺の服に付くのは許せない。俺は黒っぽい服で全身固めていたので、女を見下ろすついでに眺めたぐらいでは、いわゆる返り血をどれぐらい受けたのか、わからなかった。
「た、す、け、」
もはやほとんど声とは言えない音を出しつつも、女は動きを止めない。脚をしばられたまま、首と腹を押さえて動き続ける女は、調子の悪い芋虫みたいで笑えた。
ピロピロリィーン。人気グループの明るく元気な曲が鳴った。女のスマホである。音量が小さいせいか、間延びして聞こえた。女が、はっと目を強張らす。目標は、手を伸ばした数センチ先の台の上。
せき止められていた血流が、逃げ道を得て、喜び勇んで飛び出した。女は、赤い奔流などものともしない。自分の血を潤滑剤にして、どこまでも滑っていきそうな勢いだ。俺は、頭を思い切り踏みつけた。確かな手応えを感じた。
「ぐえ」
女は、1時間前には想像もつかなかった声を出した。なかなか凄みがあった。俺は反射的に力を緩め、息を吐き出した。
「死ね」
女の腕がばたりと落ちた。弾みでスマホも転がり落ち、床で跳ねて一層遠くへ落ち着いた。メロディーが止んだ。女は下手な芝居みたいに、全身を震わせている。揺れた勢いでうつ伏せになる。揺れながら、徐々に電話へ近づこうとする。俺は、無防備な背中に包丁を突き立てた。女はもう声を立てなかった。ひときわ大きな痙攣をした後、事切れた。
警察は、俺を疑わなかった、らしい。いちいち参考人に容疑の度合いを教えるほど奴らは暇ではない。署へ引っ張られる回数や、刑事の出現頻度から推測しただけである。他に疑わしい人間がいるのかどうか、俺は気にしなかった。女を殺したのは俺だ。俺はそれを知っている。警察は知らない。充分だ。
女がこの世から消滅して以来、俺はこれにまでなく爽やかな気分で毎日を過ごした。まさに重荷を肩から下ろした感じ。女の見開かれた間抜けな目を思い出しても、笑えるだけで何の呵責も感じなかった。面白いもので、気分が軽いと、仕事にしても生活にしても、不思議なほどよい方へ転がる。すると金にも不自由しなくなる。まさに好循環、よいこと尽くめだった。
俺は毎日楽しく暮らした。新しい女もできた。向こうから寄ってきたのだ。
女はいつも、自分からやってくる。だから俺は、どの女にも同じように、適当にあしらうことにしている。利巧な女は、野望に応じて諦めたり、適度な距離でのお付き合いをする。
気づかないバカ女には、バカ度合いに応じて冷たくする。近頃では、頭のおかしい女を取り締まるストーカー規制法もできたから、俺もやばいと思ったら早めに警察に相談するようにしている。
相談したって、あんまり早いと何をしてくれるでもないのだが、警察の網にかからなかったのは、そういう日頃の行いも預かっているかもしれなかった。満更無駄でもない訳だ。
ある晩、テレビを点けっ放しでビールを飲みながら雑誌をめくっていると、変な音声が聞こえてきた。
「‥‥ぞくぞくと、詰めかけてきております。もちろん、拘置所は塀で囲まれておりまして、中へ入ることはできないのですが、門のところで警備員と揉み合っております」
バラエティ番組を見ていた筈だったが、目を向けるとニュース番組に変わっていた。どこかの門の前で、青い制服の警備員数人と、倍近い数の浮浪者っぽい集団の押し合いが、ライトに照らされている。
俺はザッピングした。2チャンネル持っているお陰で何が起きても通常プログラムを流す局と、マイナーと割り切る経済系の局以外は、皆同じような映像を流していた。
ちょっと見には同じでも、よく見ると、全部場所が違う。
最初に見た局では拘置所だったが、他は警察の留置場だったり、刑務所だったり、病院だったり、霞ヶ関の官庁街を映し出した局もあった。
どこも、ぼろぼろの衣服をまとった集団が中へ入ろうとするのを、職員が押し止めようとする図だった。映像だけ眺めても事態が理解できないので、俺は1局に落ち着いた。謎の集団は浮浪者とは違うらしい。嘘みたいな話だが、不慮の死を遂げた人間が殺された時の状態で復活した姿だ、とテレビでは言っていた。
「アホか」
俺は1つずつ局を変えて、全部の報道を聞いた。どこも同じ説明だった。インターネットを立ち上げてみると、更に詳しく載っていた。彼らは墓から復活した訳ではなく、殺した人間がいる近くで不意に出現した。
たまたま通夜の席にいた投稿者がいて、棺に化粧した死体が横たわっているのに、同時に血まみれで犯人に迫る死者の映像をアップしていた。大胆にも、犯人は焼香に来ていたのだ。普通なら不謹慎と炎上ものだし、第一死体の写真なんか即削除なのに、混乱のどさくさに紛れて、アクセス数は急上昇中だった。
チャイムが鳴った。俺は玄関の扉を開けた。
俺は、女を刺した。女は、包丁が贅肉に食い込んで、引き抜かれてからも、俺の殺意に気づかなかった。目も口もまんまるく開けたアホ面のまま、しばらく突っ立っていた。
「きゃ」
女の頭に血が巡るのと、腹から血が噴き出すのと、俺が女の喉をかき切るのは、ほぼ同時だった。女の悲鳴は、漏れ出る息に主旋律を奪われ、トーンダウンした。
こんな時にまでしおらしく口を覆おうとしたせいで、俺の包丁は完全に喉を切り裂けなかった。代わりに女の指先を軒並み削ってやった訳だが、そんな細かいところはどうでもよかった。女は膝をついて、横倒しになった。血まみれの手で首と腹を押さえる格好が滑稽だった。
「な、ん、で」
盛大に息を漏らす聞き取りにくい声で、女は尋ねた。手に力が入らないらしい。見開いた目からは涙が出ていたが、泣き顔には見えなかった。
俺は手近にあった延長コードを引っこ抜き、女の脚を縛った。女は抵抗したが、腹の痛みに耐えかねて力が抜けたところで勝負がついた。それから女をまたいだ。女は背後に回られて不安そうに首をねじ曲げかけ、やはり痛みが増したらしく、元に戻した。
「な、ん、で」
息も血もますます勢いを増す中、必死に喋ろうとする。俺は女を見下ろした。女が倒れたり抵抗したりしたせいで、床が血モザイクである。
女はまだ動いている。壁や家具にも付いたかもしれない。それらは女の物だから、どうでもいいが、俺の服に付くのは許せない。俺は黒っぽい服で全身固めていたので、女を見下ろすついでに眺めたぐらいでは、いわゆる返り血をどれぐらい受けたのか、わからなかった。
「た、す、け、」
もはやほとんど声とは言えない音を出しつつも、女は動きを止めない。脚をしばられたまま、首と腹を押さえて動き続ける女は、調子の悪い芋虫みたいで笑えた。
ピロピロリィーン。人気グループの明るく元気な曲が鳴った。女のスマホである。音量が小さいせいか、間延びして聞こえた。女が、はっと目を強張らす。目標は、手を伸ばした数センチ先の台の上。
せき止められていた血流が、逃げ道を得て、喜び勇んで飛び出した。女は、赤い奔流などものともしない。自分の血を潤滑剤にして、どこまでも滑っていきそうな勢いだ。俺は、頭を思い切り踏みつけた。確かな手応えを感じた。
「ぐえ」
女は、1時間前には想像もつかなかった声を出した。なかなか凄みがあった。俺は反射的に力を緩め、息を吐き出した。
「死ね」
女の腕がばたりと落ちた。弾みでスマホも転がり落ち、床で跳ねて一層遠くへ落ち着いた。メロディーが止んだ。女は下手な芝居みたいに、全身を震わせている。揺れた勢いでうつ伏せになる。揺れながら、徐々に電話へ近づこうとする。俺は、無防備な背中に包丁を突き立てた。女はもう声を立てなかった。ひときわ大きな痙攣をした後、事切れた。
警察は、俺を疑わなかった、らしい。いちいち参考人に容疑の度合いを教えるほど奴らは暇ではない。署へ引っ張られる回数や、刑事の出現頻度から推測しただけである。他に疑わしい人間がいるのかどうか、俺は気にしなかった。女を殺したのは俺だ。俺はそれを知っている。警察は知らない。充分だ。
女がこの世から消滅して以来、俺はこれにまでなく爽やかな気分で毎日を過ごした。まさに重荷を肩から下ろした感じ。女の見開かれた間抜けな目を思い出しても、笑えるだけで何の呵責も感じなかった。面白いもので、気分が軽いと、仕事にしても生活にしても、不思議なほどよい方へ転がる。すると金にも不自由しなくなる。まさに好循環、よいこと尽くめだった。
俺は毎日楽しく暮らした。新しい女もできた。向こうから寄ってきたのだ。
女はいつも、自分からやってくる。だから俺は、どの女にも同じように、適当にあしらうことにしている。利巧な女は、野望に応じて諦めたり、適度な距離でのお付き合いをする。
気づかないバカ女には、バカ度合いに応じて冷たくする。近頃では、頭のおかしい女を取り締まるストーカー規制法もできたから、俺もやばいと思ったら早めに警察に相談するようにしている。
相談したって、あんまり早いと何をしてくれるでもないのだが、警察の網にかからなかったのは、そういう日頃の行いも預かっているかもしれなかった。満更無駄でもない訳だ。
ある晩、テレビを点けっ放しでビールを飲みながら雑誌をめくっていると、変な音声が聞こえてきた。
「‥‥ぞくぞくと、詰めかけてきております。もちろん、拘置所は塀で囲まれておりまして、中へ入ることはできないのですが、門のところで警備員と揉み合っております」
バラエティ番組を見ていた筈だったが、目を向けるとニュース番組に変わっていた。どこかの門の前で、青い制服の警備員数人と、倍近い数の浮浪者っぽい集団の押し合いが、ライトに照らされている。
俺はザッピングした。2チャンネル持っているお陰で何が起きても通常プログラムを流す局と、マイナーと割り切る経済系の局以外は、皆同じような映像を流していた。
ちょっと見には同じでも、よく見ると、全部場所が違う。
最初に見た局では拘置所だったが、他は警察の留置場だったり、刑務所だったり、病院だったり、霞ヶ関の官庁街を映し出した局もあった。
どこも、ぼろぼろの衣服をまとった集団が中へ入ろうとするのを、職員が押し止めようとする図だった。映像だけ眺めても事態が理解できないので、俺は1局に落ち着いた。謎の集団は浮浪者とは違うらしい。嘘みたいな話だが、不慮の死を遂げた人間が殺された時の状態で復活した姿だ、とテレビでは言っていた。
「アホか」
俺は1つずつ局を変えて、全部の報道を聞いた。どこも同じ説明だった。インターネットを立ち上げてみると、更に詳しく載っていた。彼らは墓から復活した訳ではなく、殺した人間がいる近くで不意に出現した。
たまたま通夜の席にいた投稿者がいて、棺に化粧した死体が横たわっているのに、同時に血まみれで犯人に迫る死者の映像をアップしていた。大胆にも、犯人は焼香に来ていたのだ。普通なら不謹慎と炎上ものだし、第一死体の写真なんか即削除なのに、混乱のどさくさに紛れて、アクセス数は急上昇中だった。
チャイムが鳴った。俺は玄関の扉を開けた。
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