昭和オヤジの罪禍

在江

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 山野文男は会社員で、課長の職にある。

 今日もいつもの時間に地下鉄に乗って、会社へ出勤した。
 地下鉄の車両は、いつも通り混雑しているが、山野は慣れた手付きで新書のページをめくっていた。

 ふっ、と車内灯が消えた。

 それは一瞬のことで、すぐにまた明るくなった。山野は、再び新書に目を落した。


 いつも通りの時間に会社へ到着した。山野の勤める会社は、世間でも知られた大企業である。市街地の中心部に自社ビルを構えており、入口には受付嬢も詰めている。受付嬢は、容姿の優れた、声も可愛い若い女性が採用されている。

 山野は毎朝、受付嬢に話しかける。業務を円滑にするため、ちょっとしたコミュニケーションというやつである。今日は、胸の大きな娘が受付に座っていた。エレベータが丁度来たところだったので、挨拶代わりに一言。

 「おはよう、ホルスタインちゃん」

 反応を確かめる暇がなかったのは残念だが、受付嬢の「あ痛っ!」という声は聞こえた。
 山野がすぐ去ったので、声でサービスしてくれたのだ。山野はエレベータの中でにやにやした。
 乗り合わせた他の社員達が、怪訝な顔で山野の様子を窺っていた。話せる知人がいないのは残念だった。

 オフィスに入ると、部下は全員揃っていた。

 「おはようございます」
 「おはよう」

 綺麗に拭き掃除の済んだ課長席に座り、机の上に置かれた新聞を広げる。
 素早く若手の女子社員がお茶を淹れる。女子社員は全員独身である。
 確かお茶汲みは日替わり当番制だ。山野にとって,  席に着いたらお茶が出るのは当然である。

 「失礼します」
 「ああ。ありがとう。若い子に入れてもらったお茶はおいしいね」

 新聞から目を離さず,  しかし礼はきちんと言う。この気遣いが上司として大事なのだ。
 手探りで湯呑を持ち、一口啜る。

 入社したての女子社員が淹れると、火傷するほど熱いか、舌が緑色になるほど渋いか、その両方であることが多い。今朝のお茶は熱すぎず、ぬるくもなく、丁度よい加減である。

 山野は満足して湯呑を置き、新聞を読み耽った。視界の端に、お局と化している最年長の独身女子社員が、具合悪そうに胸を押さえて席を立つのが見えた。彼女もそろそろ寿退社の年頃であるが、特に浮いた噂も聞かない。
 朝から体調が悪いようでは、嫁の貰い手も現れまい。

 新聞を読み終わると、山野は手帳を取り出し、予定を確認する。
 10時から、上役への報告を兼ねた会議がある。山野は、部下に書類を用意しておくよう命令した。
 お局はまだ戻らない。一度席を立つと、なかなか戻らないのだ。
 尤も、大した仕事を任せていないので、山野は困らない。

 ふと、煙草が吸いたくなった。ポケットを探ると残りが1本であることに気付いた。
 今から煙草を買いにやらせたら、きっと会議前には帰ってこない。しかし,  会議終了後には一服できるだろう。
 山野は、丁度席の前を通りかかった若い女子社員を呼びとめた。

 「おい、君。煙草を1箱買ってきてくれないか」

 女子社員は、書類を沢山抱えていたが、にこりと微笑んで立ち止まる。

 「はい課長。銘柄は何でしょう」

 銘柄を伝え、書類を抱え手を動かせない彼女のために、包み込むようにして小銭を手に握らせてやる。女子社員の掌の温もりが山野を触発する。

 「じゃあ、頼むよ。やろうと思えば、君も女らしくできるんだな」

 書類を抱えた手に、小銭を握り締めた女子社員の背中が、ぐらっと傾く。何とか持ちこたえて自席まで戻り、書類を置いて部屋の外へ出て行った。

 わき腹を押さえていた。急な腹痛でバランスを崩したらしい。ちょっと雑用を頼むとこれだから、女子社員は困る。大して仕事もしていないクセに、遅くまで残っているし。


 決裁書類に判を押しているうちに、10分前となった。書類を抱えた部下と共に、会議室へ向かう。部下を連れて行く理由は、配布書類が多いのと、指名された際の説明役である。部下を鍛えるのも上司の大事な役目だ。

 エレベータ前に、秘書連れの部長がいた。

 「おはようございます」
 「おはよう」

 部長以上には秘書がつく。秘書は女子社員の中でも容姿端麗な者が厳選される。

 山野の直属の上司に当る部長の秘書は、中でも抜きん出てスタイルが良く、山野好みの美人だった。
 部長に遠慮しつつ、山野は秘書と口を利く機会を常に窺っていた。
 そして時々、辺り障りのない会話を楽しんでいた。

 しかしながら最近、この秘書は社員の誰かと交際の噂があった。山野としては面白くない。

 エレベータが目的階に止まると、秘書は先に降りて扉を押さえ、部長を迎えた。
 山野は部長の後に続いて出た。早足で,  部長を追う秘書に追いつく。背後から一言囁いた。

 「元気? 最近ちょっと太ったんじゃないの」

 プシュッ! ビールを開けたような音がした。山野の顔に何やら生ぬるいものが飛んできた。咄嗟に手で拭う。見れば赤い液体。血のようだ。
 気づけば、目の前に部長の秘書がうつ伏せに倒れていた。背中が切り裂かれて、血が噴き出している。

 「何をしたんだ、君は!」

 異変に振り返った部長が、秘書を抱き起こす。山野の部下が書類を抱えたまま、廊下に設置された内線電話まで走り、
 「救急車を! 至急手配願います」
 と叫ぶ。

 会議開始時刻間近で、辺りに幾人もいた。突然の騒ぎに、会議室からも顔が覗く。
 課長級以上の社員ばかりである。誰かが上着を脱ぎ、止血を始めた。
 秘書の顔は真っ青で、目を硬く閉じたままである。
 部長と秘書を取り囲む人の輪が増える。

 山野は呆然と立ち尽くした。何が起きたかわからない。とりあえず、邪魔にならないよう廊下の端へ移動した。


 救急隊員が担架を持ち、エレベータから現れた。倒れた秘書を見て、一気に緊張が走る。救急隊員の表情は、周囲に伝播した。

 「誰か、付き添いをお願いします」
 「私が行きます」

 何時の間に来たのか、秘書課の女性係長が手を挙げる。この女もお局だ。しかもうるさくて生意気である。
 山野はこの係長が嫌いだが,   今は勇敢さを認めざるを得ない。

 部長が頷き、担架に乗せられた秘書が移動を始める。エレベータは、山野の部下の手で止められ、扉が開いたままである。広いエレベータの中へ、担架に乗せられたままの秘書が納まり扉が閉まる。

 一同にほっとした空気が広がる。

 今日の会議の議題はこの事件で終わりだな。
 山野が何か得した気分で振り返ると、集まっていた一同の視線が突き刺さった。

 人だかりの中から、見慣れない2人組が近付く。
 スーツにネクタイを締めているが、同業者には見えない。
 2人は山野の前まで来て立ち止まる。年嵩の方が背広の内ポケットに、年若が腰の辺りに手を入れた。

 「警視庁の者ですが。山野文男さんですね」
 「そうですが」
 「山野文男、傷害の現行犯で逮捕する」

 手錠を掛けられた。呆然としたところへ更に、猿轡も噛まされた。逮捕だけでも驚きだが、警察に猿轡をされるのは明らかにおかしい。

 「おい、これは人権侵害じゃないか。誰か、助けてくれ!」

 山野は叫んだが、優秀な猿轡が邪魔をして言葉にならなかった。
 腕を振りまわそうとしても、既に押さえられており、手錠がきつく締まるだけであった。

 山野はそのままエレベータへ連行された。エレベータは、山野の部下の手で止められ、扉が開いていた。
 部下は顔をそむけながら、
 「僕が呼んだんじゃありませんからね」
 と小さな声で言った。

 「皆様、会議が始まります。会議室へお入りください」
 誰かの声が廊下に響いた。
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