ぼくのベティちゃん

むらうた

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プロローグ

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 見間違えたと思った。

 だから回れ右をして数歩戻り、大きく息を吸い込んで、吐いた。

 入社して三日、知らないうちに気疲れだかよくわからないがストレス的なものが溜まり認知能力に異常が出たに違いない。意味もなく腕時計を確認し天井を仰ぎ見てから、何事もなかったかのように再び事務所へ足を踏み入れる。

「戻りましたぁ」

 今度はしっかりと存在をアピールするために声をかけた。

「おう、午後からは外回りに行くぞ」

 俺の教育係である五十川さんはにこりともせず、後輩をかわいがる気なんてない冷ややかな視線をこちらへ向けた。両手でクマのぬいぐるみを持って。

 見間違えじゃなかった。

「弥田?」

「っ外回りですね! よろしくお願いします」

 俺の視線は体長二十センチ程の明るいベージュ色をしたクマに釘付けだ。そんな視線に気付いて、もっともな事情を説明してくれるかもしれない…という淡い期待は叶わなかった。

「もう出れるなら行くか」

 五十川さんは何事もないようにクマと鞄を手に持って立ち上がる。

 軽口をたたけるような雰囲気の相手ではないため、「なんすかそのクマ~」と笑って聞くことができない。

 私物のクマなのかな。

 いやいや、考え過ぎだ。最初に見たとき、クマのぬいぐるみに話しかけていたように見えたのだって勘違いに違いない。今の状況で慌てる様子もないし、きっと俺には考え及ばない事情があるのだ。

「なにボサッとしてんだ」

 睨まれ肩が上がる。

「すみませんっ! なんでもないです」

 中指で眼鏡のブリッジを持ち上げる仕事が出来る男、そして癒し要素しかないクマのぬいぐるみ。ふたつの間に関係性などあるわけがない。

 冷静に考えろ、と自分に言い聞かせて背筋の伸びた後ろ姿を追った。

「道分かるか? 地元じゃないんだろ?」

「そうなんです。大学の四年間は過ごしたんですけど…土地勘はあまり」

「ふうん。まあ、ナビもあるしな。嫌でも道は覚えるよ」

 五十川さんは営業車の運転席に乗り込むと、迷うことなくクマのぬいぐるみを膝のうえへのせた。

 そこへのせるのか。もしかしてツッコミ待ち?

「次からは一人で行ってもらうからな、分からないことは今日のうちに聞けよ」

「はいっ」

 運転をする成人男性とクマのぬいぐるみを横目で盗み見る。

 日差しは柔らかく、すこしあけた窓からはいる風は心地好い。クマのつぶらな瞳は夢見るように輝き、奇妙な取り合わせなはずが違和感なく馴染んでいる。

 平和だな。クマのぬいぐるみのためにあつらえたようないい天気だ。

「寝んなよ」

「ねてにゃ…んがっ」

 強めに踏まれたブレーキに首が大きく揺れた。
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