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第1部
6 | 憂鬱な魔術師 - セルシウス①
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常に冷静であれ、というのは魔術を教わる前にまず言い含められることだ。『一時の感情で魔術を使ってはならない。自制心を身に着け、状況を把握する観察眼と想像力を養い、常に冷静であれ。魔術は世界を救うことも滅ぼすこともできる。』
床に木炭を使ってペンタクルを描きながら、自分の未熟さに陰鬱な気分になった。
ほかに方法があったんじゃないのか。
ベルスタの撫で方がいつもと違っていたからリリスにまた体を乗っ取られているかもしれないと思った。命を落とすことはないだろうが気になって後をつけてみれば家の扉にも窓にも魔術がかかっていて、だから。いや、だからって、シュルッセルに戻る必要はなかったはずだ。
落ち着いて考えれば、オンスを呼んでくるとか、いくらでも方法はありそうなのに。魔術師の矜持は、牧羊犬としての暮らしで失われてしまったのかもしれない。
煩わしいからというだけでジュールを転移させてしまったし…違うな、これは正しい判断か。部外者だからな彼は。
私は気を取り直して、あっけにとられているベルスタに、「こっちへ来いと言ったはずだが」と声をかける。
「はい…」
ベルスタは立ち上がりかけたところでよろけた。
「どうした」
「なんでもありません」
動作がぎこちない。リリスの魔力の気配がするからなにか影響が残っているのかもしれない。
「この円の中に立ってくれ」
牧羊犬としてはいつもベルスタを見上げていたわけだが、こうして人間に戻り向かい合ってみれば背丈は私のほうが高い。そのことで若干の優越感がある。
「いまから右目の魔物を呼ぶ。奪われた目を取り返してやろう」
「あ、ありがとうございます」
「礼は不要だ。私の用のついでにすぎない」
ベルスタの瞳の色は若草色だった。右目も擬態させてあるが、ある程度の魔力が発現している者が見れば油膜のようなものが瞳を覆い淀んでいるのがわかる。
私はベルスタの右目に手のひらを当て、リリスの真の名前を呼んだ。
私の言葉が鎖となって、右目の本体を捕らえるところを想像する。少しずつ手のひらが熱を帯びていく。机の上にある皿や燭台、床に転がる細かな石がかすかに震える。
空間がゆっくりと収縮し元へ戻ったときには、ラザフォード家のお仕着せ姿の魔物が床に座り込んでいた。と同時に媒介となったベルスタが体勢を崩すから私は慌てて体を支える。
「負荷のことを言い忘れていたな…しばらく休めば回復する」
私の肩に預けられた頭がこくりと頷いた。意識はあるようだった。支えた体をベッドまで運んで寝かせる。
「さて」
セルシウスとして会ったときとは打って変わって、リリスは警戒した面持ちでこちらを睨んでいた。
「そう怯えるな。私を探していたのはそっちだろう、用件はなんだ」
「…いままでどこにいたのよ」
「問うているのは私だ」
「アタシは用なんてないわ。アンタを見つけろって命令されただけだもの」
「それでは命令したやつに伝えてくれ、魔物の手を借りるなど回りくどいことをするなと。私に用があるなら、キュリー・ラザフォードへ言付けるだけでいい」
「わかったわ。もういい?」
「まだだ。羊飼いの右目を返すんだ」
リリスは抵抗しなかった。一刻も早くこの場から立ち去りたい様子だった。
ラザフォード家の庭で姉上が言っていたことを思い出す。ベルスタもリリスも、私がセルシウスだとは気付きもしない。魔術師が牧羊犬に姿を変えているとは想像もしないのだろう。そうでないと困るのだが、まったく気付かれないというのも、なんというか、つまらない。
「はい、目は元通り。もう帰っていいわよね?」
「待て、羊飼いにまだお前の魔力が残っている」
「…だって、それは、アンタが邪魔したんじゃない!」
「どういうことだ?」
「楽しもうと思ってちょっと力を使っただけだもん」
「よくわからないがさっさと解け」
「ばかじゃないの、魔術じゃないんだから解けるわけないじゃない。交わればおさまるわ! じゃあね!」
「おい!」
呼び止める声も虚しくリリスは消えてしまう。もう一度召喚することもできるが、リリスの言ったとおり(ばかは余計だが)魔物の力は魔術とは根本的に違う。
例えば、魔物の吹いた炎が森を焼いていたとして元凶の魔物を倒したところで森を焼いている炎は消えないのと同じだ。物理的に行使されてしまえば「解く」ことなどできない。
つまり? 森を焼く炎であれば水で消すことができるだろう。しかし、リリスの魔力を消すための術となると…
「あの! 大丈夫です」
ベッドから体を起こしてベルスタが言う。
「あとは自分でどうにかします」
「たかが淫魔の力を私が助けられないと?」
「そうではなくて、もしかしたらリリスが仲間を連れて戻ってくるかもしれませんし」
「…戻ってきたとして、お前はどうするんだ。そいつらに慰めてもらうのか」
「俺のことより…」
リリスの魔力がぱちぱちと漂ってうるさい。
「まったく不愉快な魔力だな。いいか、手っ取り早い方法だから文句は言うなよ」
ベッドに腰掛けているベルスタのとなりへ座る。
「私の魔力でリリスの魔力を中和させる」
「…なるほど?」
わかっているのかいないのか。説明するのも面倒なのでベルスタの胸元を掴んで体を引き寄せる。
「私の唾液をいくらか摂取すればいい、交わるよりマシだろう」
そう言ってひと呼吸おいてから、ぎこちなくくちびるを合わせる。驚きで見開かれた瞳は、リリスの魔力のせいか、深く口づけるごとにとろんと悦がにじんでいった。
床に木炭を使ってペンタクルを描きながら、自分の未熟さに陰鬱な気分になった。
ほかに方法があったんじゃないのか。
ベルスタの撫で方がいつもと違っていたからリリスにまた体を乗っ取られているかもしれないと思った。命を落とすことはないだろうが気になって後をつけてみれば家の扉にも窓にも魔術がかかっていて、だから。いや、だからって、シュルッセルに戻る必要はなかったはずだ。
落ち着いて考えれば、オンスを呼んでくるとか、いくらでも方法はありそうなのに。魔術師の矜持は、牧羊犬としての暮らしで失われてしまったのかもしれない。
煩わしいからというだけでジュールを転移させてしまったし…違うな、これは正しい判断か。部外者だからな彼は。
私は気を取り直して、あっけにとられているベルスタに、「こっちへ来いと言ったはずだが」と声をかける。
「はい…」
ベルスタは立ち上がりかけたところでよろけた。
「どうした」
「なんでもありません」
動作がぎこちない。リリスの魔力の気配がするからなにか影響が残っているのかもしれない。
「この円の中に立ってくれ」
牧羊犬としてはいつもベルスタを見上げていたわけだが、こうして人間に戻り向かい合ってみれば背丈は私のほうが高い。そのことで若干の優越感がある。
「いまから右目の魔物を呼ぶ。奪われた目を取り返してやろう」
「あ、ありがとうございます」
「礼は不要だ。私の用のついでにすぎない」
ベルスタの瞳の色は若草色だった。右目も擬態させてあるが、ある程度の魔力が発現している者が見れば油膜のようなものが瞳を覆い淀んでいるのがわかる。
私はベルスタの右目に手のひらを当て、リリスの真の名前を呼んだ。
私の言葉が鎖となって、右目の本体を捕らえるところを想像する。少しずつ手のひらが熱を帯びていく。机の上にある皿や燭台、床に転がる細かな石がかすかに震える。
空間がゆっくりと収縮し元へ戻ったときには、ラザフォード家のお仕着せ姿の魔物が床に座り込んでいた。と同時に媒介となったベルスタが体勢を崩すから私は慌てて体を支える。
「負荷のことを言い忘れていたな…しばらく休めば回復する」
私の肩に預けられた頭がこくりと頷いた。意識はあるようだった。支えた体をベッドまで運んで寝かせる。
「さて」
セルシウスとして会ったときとは打って変わって、リリスは警戒した面持ちでこちらを睨んでいた。
「そう怯えるな。私を探していたのはそっちだろう、用件はなんだ」
「…いままでどこにいたのよ」
「問うているのは私だ」
「アタシは用なんてないわ。アンタを見つけろって命令されただけだもの」
「それでは命令したやつに伝えてくれ、魔物の手を借りるなど回りくどいことをするなと。私に用があるなら、キュリー・ラザフォードへ言付けるだけでいい」
「わかったわ。もういい?」
「まだだ。羊飼いの右目を返すんだ」
リリスは抵抗しなかった。一刻も早くこの場から立ち去りたい様子だった。
ラザフォード家の庭で姉上が言っていたことを思い出す。ベルスタもリリスも、私がセルシウスだとは気付きもしない。魔術師が牧羊犬に姿を変えているとは想像もしないのだろう。そうでないと困るのだが、まったく気付かれないというのも、なんというか、つまらない。
「はい、目は元通り。もう帰っていいわよね?」
「待て、羊飼いにまだお前の魔力が残っている」
「…だって、それは、アンタが邪魔したんじゃない!」
「どういうことだ?」
「楽しもうと思ってちょっと力を使っただけだもん」
「よくわからないがさっさと解け」
「ばかじゃないの、魔術じゃないんだから解けるわけないじゃない。交わればおさまるわ! じゃあね!」
「おい!」
呼び止める声も虚しくリリスは消えてしまう。もう一度召喚することもできるが、リリスの言ったとおり(ばかは余計だが)魔物の力は魔術とは根本的に違う。
例えば、魔物の吹いた炎が森を焼いていたとして元凶の魔物を倒したところで森を焼いている炎は消えないのと同じだ。物理的に行使されてしまえば「解く」ことなどできない。
つまり? 森を焼く炎であれば水で消すことができるだろう。しかし、リリスの魔力を消すための術となると…
「あの! 大丈夫です」
ベッドから体を起こしてベルスタが言う。
「あとは自分でどうにかします」
「たかが淫魔の力を私が助けられないと?」
「そうではなくて、もしかしたらリリスが仲間を連れて戻ってくるかもしれませんし」
「…戻ってきたとして、お前はどうするんだ。そいつらに慰めてもらうのか」
「俺のことより…」
リリスの魔力がぱちぱちと漂ってうるさい。
「まったく不愉快な魔力だな。いいか、手っ取り早い方法だから文句は言うなよ」
ベッドに腰掛けているベルスタのとなりへ座る。
「私の魔力でリリスの魔力を中和させる」
「…なるほど?」
わかっているのかいないのか。説明するのも面倒なのでベルスタの胸元を掴んで体を引き寄せる。
「私の唾液をいくらか摂取すればいい、交わるよりマシだろう」
そう言ってひと呼吸おいてから、ぎこちなくくちびるを合わせる。驚きで見開かれた瞳は、リリスの魔力のせいか、深く口づけるごとにとろんと悦がにじんでいった。
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