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第1部

4 | 魔の力と術と - セルシウス①

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 「恐れる必要はない」と教授は言った。「君は選ばれた人間なんだよ」


   ◇◇◇


 雨音がする。これは、どこに降る雨だ?

 香が焚かれた教授の私室、ではない。匂いが違う。王宮のベッドでも、ラザフォード家のベッドでも、ない。

「セルシウス、大丈夫か?」

 これは、ベルスタの声。そうだ、ここは。ファラド山脈の中腹、羊飼いの山小屋だ。

 ぐぐっと獣の四肢を伸ばす。どれくらい眠ったのだろう。

「うなされていたぞ」

「…嫌な夢を見ていた」

 机にはベルスタともうひとつ人影がある。さらりと長い髪の毛の女はこちらを向き、「ワンちゃんでも夢って見るのね」とにこやかに言った。

「なぜいる」

 監視するだけなら来る必要はないはずだ。

「アンズのパイをお裾分けしに来たの」

「…どういう魂胆だ?」

「失礼しちゃうわ、羊飼いさんが誘ってくれたのよ」

 ベルスタを睨むと、「俺の声が聞こえるか試したというか」と呑気なことを言う。

「魔物と会話する機会なんてなかったから、興味がわいたんだ。セルシウスもパイを食べるか?」

 危機感がまるでない。

「いらない」

 私はふたたび目を閉じた。

「ワンちゃんったら山小屋では愛想がないのねぇ」

 リリスは遠慮なくベッドまで来て馴れ馴れしく頭を撫でる。

 この魔物は魔術師と契約していると言った。魔術師で、しかも王宮から使用人の紹介状が出せそうな人物となると、私は一人しか知らない。

 兄弟子のマクスウェル、彼しかいないだろう。

 ラザフォード家に滞在している間、新聞記事の実態を探っていたが、途中、これは私を誘い出す罠かもしれないと思って深追いはやめた。

 それが勘違いでなければ黒幕は王宮の誰かかどこぞの貴族だろうし、リリスの契約主であるマクスウェルとも繋がっているかもしれない。

 シュルッセル・ラザフォードを殺した本人が生存をほのめかす工作をするなんてご苦労なことだ。

 大方、二年前と同じく誰かと誰かの利害が絡み合っているのだろう。

 殺し損ねたとわかっていても表舞台から消えることで二年前は見逃してくれたが、状況が変わったのだ。

「アタシって捨て駒なのよ、結局のところ」

 考えごとをしていてリリスの話を聞いていなかった。

 捨て駒? まあ、敵陣に置かれているんだから違いないか。

「人間に仕えるなんてフザケンナってかんじだけど、ワンちゃんの言うとおり、キュリー様はアタシのことわかったうえで雇ってるし、人間に化けて暮らすのも悪くないかもってパイを作りながら悟ったの。グリモワールの鍵が見つからないとずっとこのままなんだけど、だからって捨て駒が裏切ったところで返り討ちにあうにきまってるもの」

 リリスの言う『グリモワールの鍵』はシュルッセル・ラザフォードを指しているらしいが、そんなふうに呼ばれていることなど私は知らない。

 私を探している理由は、その魔導書グリモワールとやらにあるのだろうか。

 リリスのひとり語りを無視していると、ベルスタが、「魔物も人間と同じ物を食うんだな」とよくわからない感想を述べた。

「んー、食べれるけどマネしてるだけね、魔物の主食は魔力だから」

「…魔力」

「知らなかった? 魔力がほしくて襲ってるのに」

「魔物が魔力を食うのは知っている。ただ、人間として暮らしているのに、きみの本来の食事はどうなっているのかと…」

 元軍人でも魔物の生態や魔力がどういうものかは知らないらしい。

「ちょっと待って、野蛮な奴らと一緒にしないでよ。アタシはちゃぁんと合意の上でお行儀良く」

「…食べるんだな」

「品がない言い方やめてよね。そんなにがっつかないし、羊飼いさんも試してみる?」

 話があらぬ方向にすすみそうだったので、「魔力は人間を含む動物の汗や血液といった体液に含まれている」と補足してやった。

 リリスの食事方法は予想できたが各種体液を具体的に説明するのはやめておいた。

「手っ取り早く肉体を物理的に食う魔物もいれば、魔力だけを摂取する魔物もいる。リリスは後者なんだろう」

「…なるほど」

「わかってなかったのね! 小指ひとつ、合意でくれる人間がいるわけないのに」

「そんな物騒な使用人を雇うわけもないな」

 「じゃ、羊飼いさんの誤解がとけたところで」と妙に艶っぽいリリスの声に、私は、「アンズのパイをいただこう」と言葉を続けた。

「ワンちゃん、わざとね」

「なにがだ。さっきは悪かったな。せっかく持ってきてくれたんだみんなで食べようじゃないか」

 素知らぬ顔をしてベッドをおりる。雨雲は通り過ぎたらしく、窓から差し込んだ午後の日差しが床に伸びていた。


   ◇◇◇


 リリスが帰ったあと、ベルスタは手紙を書きはじめた。サッシュの贈り主宛てらしいが、手紙を書き慣れていないようで、日が暮れ、寝る時間になっても書き終わる気配はなかった。

 私はしばらくベッドでごろごろしていたが昼寝のせいか眠たさのかけらもない。仕方がないので、「散歩してくる」と山小屋を出た。

 初夏の夜。しっとりと濡れた草地を走る。谷をくだり、かけあがる。空には満月が浮かんでいた。あの丸い月が欠けていき、次の新月の日は羊の毛刈り祭りだ。

 本格的に暑くなる前に、一旦羊たちを下山させ、麓の村人総出で毛を刈ってしまう。音楽を奏で、踊り、酒を飲みながら。そして夜が更けるころには心地よい高揚感に疲れて眠ってしまう。

 だから村人たちはその夜更けに流星雨が降ることを知らない。

 十年前、領主の息子と会ったことをベルスタは覚えていた。正直、オンスに言われるまで私は思い出せなかったし、思い出したといっても、そんなことあったな、くらいで細かいことは覚えていない。
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