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第1部
3 | 突然の訪問者 - ベルスタ①
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薪の燃える音が耳に届くほど、夜明け前は静寂に満ちている。
セルシウスが旅立ってから、犬一匹いなくなるのはそれなりにさびしいのだと思った。孤独は覚悟のうえで羊飼いになったのに、いなくなってはじめてこれまでは孤独ではなかったのだと気づく。
一日の放牧を終えて山小屋のドアを開けるたび、戻っているのではないかとつい室内を見回す自分がいた。
だからもちろん無事で帰ってきたことはうれしい。しかしこうして、変わらぬふてぶてしい態度をとられると、帰宅を待っていた自分の軟弱さが悔しくなってくる。
それに、辺境伯夫人からの労いってなんだ? 犬が会えるのか? いやそれよりも、ラザフォード家といえば疑惑の渦中なのに羊飼いを労っている場合か?
聞いていいのかどうなのか、寝起きのぼんやりとした思考回路でスープをかき混ぜる。
パウンダル領の羊たちを預かっている身であるが、雇い主というだけで遠い存在だと思っていたのに。ラザフォード家との関係性は意外に近しいものなのだろうか。そうなると、五日前の出来事を言っておいたほうがいいかもしれない。
となりでスープが温まるのを待っている犬を見下ろし、「セルシウス」と声をかける。
「なんだ」
「俺には領主様のお宅の問題は与り知らないが…」
話しながら鍋をかまどから机へ移動させると、セルシウスもついてきてひょいと長椅子にあがって座る。給仕を待つ貴族のごとき犬は、ボウルにそそがれる干し魚とトマトのスープをすました様子で見守った。
「まあ、食いながら聞いてくれ」
椅子に座り机で食事をする牧羊犬であれば、辺境伯夫人へ会いに行っても不思議ではないのかもしれない。俺がその常識を知らなかっただけで。
◇◇◇
五日前、放牧を終えて山小屋へ戻ると、見計らったように一人の女が訪ねてきた。
「こんにちは、羊飼いさん」
屋敷の使用人のお仕着せ姿で、靴に汚れはない。町のおつかいならわかるが、ここは羊飼いの山小屋だ。軽装の女が靴を汚さずに一人で来るなんて普通ではない。なにより、女と顔を合わせた途端に体が動かせなくなったのだからただの訪問者でないことはわかる。
「突然で悪いのだけど、グリモワールの鍵はどこ?」
体は動かせないまま、口だけが勝手に「知らない」と動く。
「まあ、そうよね。簡単に居場所がわかるわけないわよね。とりあえず椅子に座りなさいよ」
女がそう言うと固まっていた体が勝手に動く。
「アタシが怖い?」
「怖くはない」
「さすが元軍人さん、体に自由はないし嘘もつけない状況なのに立派なものね。アンタが今考えていることを教えてくれる?」
「…殺気がないから怖くはないが、この女は何者だ? 魔術師か? 魔術師ならどうして使用人の恰好をしている? 『グリモワールの鍵』とはなんだ?」
女は目を見開いて、「それで『知らない』のね」と納得した。
「グリモワールの鍵は通り名よ。封印された魔導書を開けることができるから。聞き方を変えるわ、シュルッセル・ラザフォードは知ってるかしら?」
「知っている」
「そう! 彼はどこにいるの?」
「知らない」
「どうして?」
「俺には知るすべがない」
「ふうん、彼は生きてるの?」
「知らない」
「なんにも知らないのね、実は生きてて国家転覆を企んでるってうわさよ」
「彼はそんなことはしない」
「……彼に会ったことがある?」
「ある」
「あるのね! いつ、どこで?」
この話はしたくない。わけのわからない尋問で、ささやかな思い出を披露するのは嫌だ。
「…昔、羊の毛刈り祭りの夜に」
「昔って、どれくらい前?」
「十年前」
「そんなに前じゃ意味がないわ。この二年間のうちに会ったことは?」
「ない」
「簡単に言わないでよね! 手がかりもなく一年が過ぎて、ようやく怪しい動きがあったと思ったのに…ああ、落ち込んでる時間はないわ」
詳しく聞かれなくてよかった。俺は大人になった彼を知らない。俺が知っているのは、十年前、大人になりたくないと言った十五歳の少年だけだ。
殺気に気づいたときには目の前に鋭く尖った長い爪があった。体を仰け反らせようと力むが動かせない。目蓋を閉じることもできず、右目に突き立てられる爪を見つめるしかなかった。
「痛みはないでしょ、アタシの右目と交換よ」
◇◇◇
「右目を交換?」
セルシウスが驚くのをはじめて見るかもしれない。犬のくせに俺よりも表情が豊かだと思う。
「領主様へ伝えたほうがいいだろうか」
「それより右目を見せてみろ」
食事中の行儀の良さはどこへやら、セルシウスは迷いなく机へのぼると向かいに座る俺の顔に鼻先を近づける。
「ゔゔ、さっぱりわからん! 私には魔力の察知はできないんだった! というか、なぜそう平然としている!」
大型犬に至近距離で怒鳴られるとそれなりに迫力があった。俺は悪くないのになぜ怒られているのか。
「いや…まあ…視力は落ちていないし、それに当の魔術師殿はここにはいないわけだし」
「まったく呑気なものだな。目を交換するなんて正気の沙汰じゃない、そんなこと人間にできるわけがない」
「…まさか、魔物? でも今は結界があるじゃないか」
シュルッセル・ラザフォードが稀代の魔術師と呼ばれる所以のひとつは、王国中に魔物の侵入を防ぐ結界を施したことにある。
二年前、彼が亡くなったあとも結界は消えることなく王国を守っている、らしい。俺は結界を見たことはないが、魔物の存在が日常的だった昔に比べ、今は魔物が人間を襲ったという話は聞かないし新聞の記事にもなっていない。
セルシウスが旅立ってから、犬一匹いなくなるのはそれなりにさびしいのだと思った。孤独は覚悟のうえで羊飼いになったのに、いなくなってはじめてこれまでは孤独ではなかったのだと気づく。
一日の放牧を終えて山小屋のドアを開けるたび、戻っているのではないかとつい室内を見回す自分がいた。
だからもちろん無事で帰ってきたことはうれしい。しかしこうして、変わらぬふてぶてしい態度をとられると、帰宅を待っていた自分の軟弱さが悔しくなってくる。
それに、辺境伯夫人からの労いってなんだ? 犬が会えるのか? いやそれよりも、ラザフォード家といえば疑惑の渦中なのに羊飼いを労っている場合か?
聞いていいのかどうなのか、寝起きのぼんやりとした思考回路でスープをかき混ぜる。
パウンダル領の羊たちを預かっている身であるが、雇い主というだけで遠い存在だと思っていたのに。ラザフォード家との関係性は意外に近しいものなのだろうか。そうなると、五日前の出来事を言っておいたほうがいいかもしれない。
となりでスープが温まるのを待っている犬を見下ろし、「セルシウス」と声をかける。
「なんだ」
「俺には領主様のお宅の問題は与り知らないが…」
話しながら鍋をかまどから机へ移動させると、セルシウスもついてきてひょいと長椅子にあがって座る。給仕を待つ貴族のごとき犬は、ボウルにそそがれる干し魚とトマトのスープをすました様子で見守った。
「まあ、食いながら聞いてくれ」
椅子に座り机で食事をする牧羊犬であれば、辺境伯夫人へ会いに行っても不思議ではないのかもしれない。俺がその常識を知らなかっただけで。
◇◇◇
五日前、放牧を終えて山小屋へ戻ると、見計らったように一人の女が訪ねてきた。
「こんにちは、羊飼いさん」
屋敷の使用人のお仕着せ姿で、靴に汚れはない。町のおつかいならわかるが、ここは羊飼いの山小屋だ。軽装の女が靴を汚さずに一人で来るなんて普通ではない。なにより、女と顔を合わせた途端に体が動かせなくなったのだからただの訪問者でないことはわかる。
「突然で悪いのだけど、グリモワールの鍵はどこ?」
体は動かせないまま、口だけが勝手に「知らない」と動く。
「まあ、そうよね。簡単に居場所がわかるわけないわよね。とりあえず椅子に座りなさいよ」
女がそう言うと固まっていた体が勝手に動く。
「アタシが怖い?」
「怖くはない」
「さすが元軍人さん、体に自由はないし嘘もつけない状況なのに立派なものね。アンタが今考えていることを教えてくれる?」
「…殺気がないから怖くはないが、この女は何者だ? 魔術師か? 魔術師ならどうして使用人の恰好をしている? 『グリモワールの鍵』とはなんだ?」
女は目を見開いて、「それで『知らない』のね」と納得した。
「グリモワールの鍵は通り名よ。封印された魔導書を開けることができるから。聞き方を変えるわ、シュルッセル・ラザフォードは知ってるかしら?」
「知っている」
「そう! 彼はどこにいるの?」
「知らない」
「どうして?」
「俺には知るすべがない」
「ふうん、彼は生きてるの?」
「知らない」
「なんにも知らないのね、実は生きてて国家転覆を企んでるってうわさよ」
「彼はそんなことはしない」
「……彼に会ったことがある?」
「ある」
「あるのね! いつ、どこで?」
この話はしたくない。わけのわからない尋問で、ささやかな思い出を披露するのは嫌だ。
「…昔、羊の毛刈り祭りの夜に」
「昔って、どれくらい前?」
「十年前」
「そんなに前じゃ意味がないわ。この二年間のうちに会ったことは?」
「ない」
「簡単に言わないでよね! 手がかりもなく一年が過ぎて、ようやく怪しい動きがあったと思ったのに…ああ、落ち込んでる時間はないわ」
詳しく聞かれなくてよかった。俺は大人になった彼を知らない。俺が知っているのは、十年前、大人になりたくないと言った十五歳の少年だけだ。
殺気に気づいたときには目の前に鋭く尖った長い爪があった。体を仰け反らせようと力むが動かせない。目蓋を閉じることもできず、右目に突き立てられる爪を見つめるしかなかった。
「痛みはないでしょ、アタシの右目と交換よ」
◇◇◇
「右目を交換?」
セルシウスが驚くのをはじめて見るかもしれない。犬のくせに俺よりも表情が豊かだと思う。
「領主様へ伝えたほうがいいだろうか」
「それより右目を見せてみろ」
食事中の行儀の良さはどこへやら、セルシウスは迷いなく机へのぼると向かいに座る俺の顔に鼻先を近づける。
「ゔゔ、さっぱりわからん! 私には魔力の察知はできないんだった! というか、なぜそう平然としている!」
大型犬に至近距離で怒鳴られるとそれなりに迫力があった。俺は悪くないのになぜ怒られているのか。
「いや…まあ…視力は落ちていないし、それに当の魔術師殿はここにはいないわけだし」
「まったく呑気なものだな。目を交換するなんて正気の沙汰じゃない、そんなこと人間にできるわけがない」
「…まさか、魔物? でも今は結界があるじゃないか」
シュルッセル・ラザフォードが稀代の魔術師と呼ばれる所以のひとつは、王国中に魔物の侵入を防ぐ結界を施したことにある。
二年前、彼が亡くなったあとも結界は消えることなく王国を守っている、らしい。俺は結界を見たことはないが、魔物の存在が日常的だった昔に比べ、今は魔物が人間を襲ったという話は聞かないし新聞の記事にもなっていない。
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