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1巻

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 そうこうしているうちに、楓の誕生日になった。

「ん……薬飲んでるのになかなか良くならないな……」

 朝、ベッドから怠い体を無理やり起こすと、額に片手を当てた。ここ数日は体調の波が大きく、調子がいい時もあったが、今朝は一段と悪かった。
 チェストから救急箱を出し、中から体温計を取り出した。

「頭痛はないから、まあ大丈夫だと思うけど……」

 ピピピと音がした体温計を見ると、三十七度四分。

「うーん……微熱だけど、悪化するかもしれないし……今日はお仕事休むしかないかな……」

 楓は自分の携帯から望月家の固定電話に電話を掛けた。しばらく呼び出し音が鳴った後、男性が電話に出た。

『はい、望月でございます』
「あっ……田中さんですか。か、楓です」
『古森くんですか、どうしましたか? 今は部屋ですよね』
「はい、少し熱があって、体調が悪いんです……今日はお仕事休んでも大丈夫ですか」
『それはいいですけど、大丈夫なんですか?』

 桔梗のことや体調のことでこのところ心細さを感じていたこともあり、いつも冷静で笑わない田中が心配してくれることが嬉しくて、思わず涙ぐんでしまった。

「大丈夫、です……ありがとうございます」

 電話を切った後、ぼんやりする頭の中で桔梗のことを思い浮かべた。
 ――どっちみち、こんなんじゃ会えなかったな……桔梗様……。夢の中だけでも一目会えたらいいな……
 そう思いながら、深い眠りの中に落ちていった。


   ◇◆◇


 熱い――?
 目が覚めたのは、もうとっぷりと日が暮れた夜だった。

「はぁ、はぁ……なに、これ……」

 体が異様に熱い。なにより、下半身がムズムズして触りたくてたまらない。

「ひっ……な、なんで……」

 恐る恐る掛布団をめくりズボンを下げると、陰茎は勃ちあがり、パンツは自分の精液でベトベトに汚れていた。さらには苦しくて身をよじるたび、後孔が濡れていく感覚がした。

「なに、なんで……うぅー……」

 自分の身体の変化に戸惑いながらも、とりあえずベトベトになっている下着を脱ごうとした。
 だが、少しでも体に触れると快感が全身を襲い、陰茎からピュクピュクと白濁した液がこぼれてしまう。

「もういやぁ……なにこれ……ん、あ……」

 不安と快感が同時にやってきて、どうしていいかわからない。


 涙とよだれを垂れ流し、喘ぎ苦しむ中――
 部屋のドアの向こうから、一番会いたい人の声が聴こえた。

「楓。私だ……少し会えないか」


   第二章


「き、桔梗、様……?」
「楓、田中から聞いたよ。体調悪いんだろう? 心配なんだ……」

 桔梗の声を聞いた途端、体にピリピリと電流のような感覚が走った。

「だ、だめです……! はぁ……桔梗様、お願い……来ないでくだ、さい……」
「そんなに私が嫌になったのか?」
「……っ!」

 そんなことは絶対にない。けれど、この状況でははっきりと否定することもできなかった。

「……わかった、食事を持ってきたんだ。朝から何も食べていないのだろう? これだけでも置かせてくれ」
「だめっ……桔梗様っ!」

 誰よりも大切な桔梗にこんな姿を見られたくない。幻滅されたくない、嫌われたくない――
 その一心で桔梗の名を叫んだが、それも桔梗がドアを開けたことで無意味になってしまった。

「この匂い……」
「ひぃっ……ふぇ……来ないでって、言ったのに……」

 ベッドの上でぐずぐずになりながら必死にシーツで体を隠そうとする楓に、躊躇ちゅうちょなく桔梗が近づく。
 ベッドのそばまで来ると「やめて、来ないで」と泣きながら繰り返す楓の頬を、長い指で柔らかく包み込んだ。

「やはり君は、私の運命だ……」

 そう言いながら、楓の唇に噛みつくようなキスをする。
 楓は驚き、桔梗から自分の体を引き離そうとしたが、本能が桔梗を求めていた。


 ――欲しい、欲しい……桔梗様が欲しい……


 さっきまで不安でしょうがなかったはずなのに、今はもう桔梗に誘われるがまま舌先を絡め、流れてきた唾液を飲みこんだ。
 ふと桔梗を見つめると、その目はいつもの優しいものではなく、熱を帯び、獰猛どうもうな獣の色を覗かせていた。
 射すくめるようなその視線に、楓はさらに体を熱くした。

「き、桔梗様……気持ち、いい……もっと……」

 初めてのキス。
 しかもずっと慕っていた桔梗が相手。それだけで、体中が敏感に反応してしまう。

「気持ちいいね……楓。可愛いよ、とっても。私はずっと、ずっとこの時を待っていたんだ……」
「あっ、あ、桔梗様……もう……体がへん……助け、て……」
「はぁ……匂いが濃くなった……。これが、運命か……たまらない」

 ぴくぴく痙攣けいれんする楓の体がぐっと抱きしめられた瞬間、陰茎からぴゅるっと白濁した液が飛び出した。

「あ、あぁっ……き、きょう、様……あっ……ごめ、なさ……」

 自分の醜態が恥ずかしくなり、涙がぽろぽろと流れてしまう。
 しかし快楽を我慢することはできず、ただ感じるままに身をよじった。

「感じてくれているんだね、楓、すぐに楽にしてあげるから」

 桔梗が慈しむように楓の色素の薄い髪を撫でる。

「ただ……私も、もう限界なんだ。少し我慢して」

 そのまま楓はシーツを巻き付けられ、横抱きにされて、桔梗とともに部屋を出た。


 ぼんやりとしたまま辿り着いたのは、桔梗の自室だった。
 キスをしたままベッドになだれ込むと、桔梗は楓の服のボタンを外し、生まれたままの姿にした。

「はぁ……綺麗だ、楓」

 手のひらを薄い脇腹から腰へと滑らせると、楓の透き通るような白い肌がピンク色に染まる。

「あ、あん……もう辛いです……桔梗様っ、桔梗様ぁ……!」

 楓は半泣きになりながら桔梗の頬に手を伸ばし、腰を揺らしながら、陰茎を桔梗の太腿にこすり付けた。

「私の運命はなんていやらしくて可愛いんだ……」

 桔梗が楓の白濁液で汚れたスラックスとシャツを脱ぎ去ると、細身ながらもしっかりと鍛えられた肌が露わになる。そして楓を見下ろすと、その細く柔らかい太腿をぐいっと持ち上げた。短めに切られた黒髪が楓の下腹部に当たる。その次の瞬間、桔梗の舌先が躊躇ちゅうちょなく楓のつぼみを捉え、舐めた。

「ひゃあっ……そん、な……桔梗さまぁっ!」

 楓は半泣きでイヤイヤと首を振り、力の入らない手で桔梗の頭を押したが、桔梗は構わずつぼみの奥へと舌を進めた。
 こんなところを……と最初は恥ずかしく思ったが、とろとろとした汁がつぼみからじゅわっと溢れ出てきて、楓はあまりの快感に、次第に全てがどうでもよくなっていった。後孔に触れる桔梗の舌先の感覚だけが全身を支配していく。

「凄いな、これは……楓、私を見て?」
「あっ、あ、桔梗、様……桔梗様……もっと……」

 快楽を求め、何度も桔梗の名前を呼ぶだけで、楓の理性はもう少しも残っていなかった。

「き、きょう様……キス……して、ください……」

 楓の指先が桔梗の頬に触れ、唇が名前を呼んだ瞬間。
 桔梗が性急に楓を組み敷いた。

「本当は、心も繋がってから交わりたかったが……すまない、楓。絶対、絶対何があっても離さないから」

 唇を何度も甘噛みされ、自分のものではないような、柔らかく高い喘ぎ声が部屋中に響きわたる。その声を誰にも聞かせまいとするように、桔梗が舌を楓の舌に絡ませる。
 馬乗りになった桔梗に、胸のぷっくりとした尖りを指先でころころいじられる。反対の手で臀部でんぶを優しく撫でられるだけで、全身を快感が駆け抜けていく。楓はもっとしてとせがむように腰を揺らし、濡れた瞳で桔梗を見つめた。
 そんな楓に応えるように、桔梗の長く男らしい指先がつぼみに触れると、もうそこは簡単に指を飲み込んでしまうほど蜜で溢れ、濡れそぼっていた。

「ヒクヒクしてるね。指……いれるから、痛かったら我慢しないで言いなさい」
「ひゃあんっ……!」

 桔梗の優しい心配は杞憂に終わり――楓のそこは、一切の抵抗なく桔梗の指を飲み込んだ。
 待ちわびた刺激に、ゾクゾクと快感が走り抜ける。
 ゆっくりと奥まで挿入された指先が、つっとお腹側に曲げられた瞬間――桔梗の腕を強く掴みながら、白濁をまき散らしてしまった。

「大丈夫そうだね……。ねぇ楓、好きだよ」

 イったばかりで、ふるふると体が勝手に震えてしまう。楓のこめかみにキスを落とすと、桔梗は楓の両足を持ち上げ、自身のいきり立った竿を楓の入り口に当てた。

「あぁっ……! あ、あん……はぁ、あ、あんっ」
「楓……楓っ……!」

 桔梗が自分の中に入っている――そんなことを感じる余裕もなく、奥へ奥へと入ってくる桔梗にただ腰を掴まれ、揺さぶられ続けた。
 シーツがお互いの汗と体液で冷たくなるほど濡れている。そのひやりとした感覚だけが自分を今ここに繋ぎとめているように楓には思えた。


「は、はぁ……あ、あ……」

 ひっきりなしにあえぎ続けた楓の喉はカラカラになり、声はだんだんとかすれてきた。

「楓、そんなに私を煽らないでくれ……」
「ぁ……あっ、ああっ……」

 一体どのくらい時間がたったのだろう。何度も絶頂を迎えては抱かれ、与えられ続ける快感にだんだんと意識が朦朧もうろうとしてきた。

「楓、もう限界……? でも、もう少し付き合って……」
「あぁっ! んっ……はぁあ……ん!」

 一際強い感覚が全身を刺激する。そこで楓の意識はプツリと途絶えた。


「ん……」

 柔らかい光がレースのカーテンから漏れる。
 その暖かさに気づいて、楓は微睡まどろみから覚めた。
 そして、いつもと違う寝心地の良いベッドの感触にサーッと血の気が引く。
 急いでベッドから身を起こし辺りを見回すと、そこは桔梗の部屋で、一気に昨夜のことを思い出した。

「ぼ、ぼくは……なんてことを……」

 ――昨日の僕は体がとても変だった……。でもだからって……桔梗様になんてことをしてしまったんだ……
 これからのことを考えると、体がガタガタ震えてしまう。
 それをなんとか抑えようと、自分の体を両手でぎゅっと抱きしめた。
 そしてそれと同時に、自分が何も着ていないことに気がついた。

「と、とりあえず何か服を着ないと……」

 痛む腰に手を添えながらそっとベッドから降りると、自分の太腿の間に白くとろっとした液が伝った。
 ――……ひっ! ……これって、桔梗様の……?
 交わった証が自分の中から溢れるのを見た瞬間、体が一気に熱くなった。
 昨夜の記憶は残っているが、どれもぼんやりとしていた。
 覚えているのは快楽と痛み、ピリピリと伝わる桔梗の熱、そして自分が桔梗を求める声……
 ――どうしよう、僕……こんなにも幸せだなんて。抱いて……もらえた。ダメだってわかってるけれど……好きな人に抱いてもらえたんだ……
 嬉しくて涙がこみ上げてくる。でもその涙は、嬉しいだけの涙ではなかった。
 ――このことが誰かにバレたら、この家から追い出されてしまう……でも、嘘をついて隠し通せる自信なんかない。桔梗様を見たら、きっと思いが溢れてしまう。なによりこんなことをさせてしまった桔梗様に申し訳ない。それならいっそ自分から……

「この家を出ないと……」

 幸い、今ここに桔梗はいない。
 決心が鈍る前に……と、涙を手の甲で拭い、よろける足で着るものを探した。
 が、ここは桔梗の自室。当然桔梗の服しか置いておらず、楓は裸のままうろうろするしかなかった。

「とりあえずシャワールームにあるタオルでなんとかするしかないかな……」

 桔梗の自室にはシャワールームとトイレが備え付けてある。現在の時刻は朝の六時半。この時間、使用人は働いているが、誠一郎も桜子もまだ自分の部屋にいるだろう。バスルームにあるタオルで隠せるところだけでも隠して、急いで自分の部屋に戻らなければならない。
 シャワールームに駆け込むと、脱衣所の一番上の棚に白いバスローブが置いてあるのが見えた。

「あっ、これならタオルよりは……」

 しかし楓の背では、棚の上には手が届かない。必死につま先立ちし、手を伸ばすと運よく中指がバスローブの襟に引っ掛かり、取ることができた。

「早くここから出ないと」

 自分に言い聞かせるように呟くと、バスローブを着込みシャワールームを飛び出した。
 廊下に繋がる扉のドアノブに手をかけ、そっと開けた。顔だけ出して左右を確認するが、誰の姿も見えず、こちらにやってくる気配もしない。

「誰もいないみたい、良かった……」

 頭の中で、最短で自分の部屋までの道をシミュレーションする。

「よしっ、非常階段から外に出られたら、あとは裏口からこっそり行けば大丈夫なはず……」

 そして一歩部屋を出ようとした瞬間、ふわっとシトラスの爽やかな香りが楓の鼻腔を刺激した。

「この香り……」

 ――間違うはずがない、忘れるはずがない。

「桔梗様の……」

 まるで『出ていくな』と呼び止められたような感じがして、思わず振り返った。
 そこにはいない桔梗の香りを、忘れないようにくん、と一つ嗅ぐと涙が溢れそうになり、咄嗟とっさに目頭を押さえた。


 ――ありがとうもごめんなさいも言えなかった。


「さようなら」

 誰にも聞こえないほど小さな声で呟くと、楓は廊下に飛び出した。


 誰にも見つからないように息を殺し、足音を立てないように走った。
 十一月の朝の気温は思った以上に冷たく、裸足で非常階段を降りる楓の足先は凍えて真っ赤になっていた。
 非常階段を降り、裏庭を誰にも見つからないように身を屈めながら走ると、裏口から一番近くにある楓の部屋まであっという間に着く。

「はぁ、はぁ……良かった。誰にも見つからなかった……」

 ドアにもたれながら息を整える。誰にも見つかることなく自室に戻れて、ほっとしてしばらくへたり込みながらぼーっとしていた。しかし、ドアの向こうから早番で来ている通いの使用人たちの話し声が聞こえて、ハッと我に返った。

「ぼーっとしてる暇ないのにっ……!」

 楓は急いでバスローブを脱ぐとチェストを開け、濃紺のジーンズと深緑のセーターを出した。数少ない楓の私服は、ほとんどが目立たない地味な色ばかりだった。それは自分の肌や瞳、髪の色がただでさえ目立ってしまうので、少しでも隠すためだった。
 小さめのボストンバッグに下着といくつかの服を入れる。チェストの奥にしまってあった通帳と刺繍の道具を入れると、もうそれだけでバッグはパンパンになった。

「これは……持っていってもいいですよね、桔梗様」

 ハンガーラックに掛けてある上質なキャメルカラーのトレンチコートをハンガーから外すと、楓は大切そうにぎゅっと抱きしめた。
 このコートは一年前、楓の誕生日に桔梗からプレゼントされたものだった。
 ボストンバッグの上にトレンチコートを置くと、楓は机の引き出しからシャープペンシルとノートを取り出した。桔梗に置き手紙をと、ノートから一枚紙を破りペンを握りしめる。
 書きたいことはたくさんあったが、いざ書こうとすると桔梗への想いが溢れてしまい、上手く書くことができなかった。何度も書いては消しを繰り返したが、結局『今までありがとうございました』と書くので精一杯だった。
 そして机の上に手紙と、この間完成したばかりの刺繍入りの白いハンカチーフを置いた。

「せめて、これだけでもあなたに届いてくれたらいいな」

 赤い椿の刺繍が入ったハンカチーフ。
 赤い椿は西洋の花言葉で「あなたは私の胸の中で炎のように輝く」。
 ――出会った時から、僕の胸は桔梗様、あなたでいっぱいでした……
 そっと指先で椿の刺繍に触れた後、ボストンバッグとコートを持つと部屋の扉の前に立った。
 時刻は七時前。今なら使用人たちは忙しく働いているからきっとここには誰も来ないはず。
 そう思いながらドアノブに手をかけた。
 すると、まだ力を入れていないのに勝手にドアノブが動いた。

「楓っ!!」
「ひゃっ……」

 勢いよく開いたドアに押され、楓は尻もちをついた。
 驚き見上げると、そこには悲しそうに微笑む桔梗が立っていた。

「き、きょう……様」
「楓っ! ここにいたんだね、心配した……」

 桔梗は部屋から消えた楓を捜してくれていたのだ。
 心底ほっとしたように大きく息を吐くと、桔梗は座り込んでいる楓を力一杯抱きしめた。

「え……なんで、僕、桔梗様に酷いこと……」

 力強い腕の中で、楓の心臓がバクバクと鳴る。
 桔梗は抱きしめていた腕を緩め、楓の顔をじっと見つめる。
 そして床に置いてあるボストンバッグとコートを見つけると、眉間にしわを寄せた。

「楓、もしかして出て行こうとしたのか」
「だって、僕……桔梗様のお誘い……断ったし、酷いこと言いました。それなのに、昨日……してはいけないことを……もう、合わせる顔がありません」
「楓……。大丈夫。気にしなくていい。……それより、体は大丈夫?」
「あっ……」

 そこで楓は気づいた。一週間以上続いた微熱や倦怠感、そして昨日のうなされるような熱と、下半身のうずきが一晩にしてなくなっていたのだ。

「あれ……? あの、大丈夫です。だるさとかももうありません」

 その言葉を聞くと、桔梗は満面の笑みを浮かべた。

「楓、私は今とても嬉しいんだ。さぁ、お医者様のところへ行こう」

 楓の両手を取り、優しく立たせると、床に置いてあったコートを楓の肩にそっと掛けた。

「桔梗様! あの、僕、大丈夫です。本当に体はもう良くて……」
「だからだよ」

 断ろうと必死に訴えたが、楓の肩に触れる桔梗の手は力強く、振りほどくことができない。
 そのまま押されるように部屋を出て、気づいた時には桔梗の車に乗せられていた。
 途中、すれ違った使用人の中に美知子がいたが、まるで鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして驚いていた。
 仕事用ではない桔梗の車。望月自動車のセダンでは最高級ラインで、漆黒のボディがピカピカに磨かれている。
 この車に初めて乗った日のことはよく覚えている。
 高校の入学式。せっかく高校に行かせてもらうんだからと猛勉強し、首席で入学した学校。家族のいない楓は、一人で式に出ていた。それが当たり前だと思っていたので、寂しいとも思わなかった。
 教頭先生から名前を呼ばれ、新入生代表としてスピーチをするために壇上に上がると、なんと保護者席に桔梗が座っていた。楓は自分のために来る人なんていないと思っていたから、もの凄く驚いた。ましてや忙しい桔梗が、仕事を抜けて来てくれるなんて。
 式が終わり、保護者席の桔梗に駆け寄り、どうしてここにいるのかと聞くと『大切な子の、大切な日に来るのは当たり前のことだよ』と、さも当然のように言ってくれた。そのことが嬉しくて、教室に戻る道中は口元が緩みっぱなしだった。
 そして、帰ろうと校門をくぐるとこの車が停まっていて、そのままホテルのレストランに連れて行かれ、初めて高級フレンチ料理というものを食べさせてもらったのだ。


 ――そんなこともあったな……
 窓の外をぼんやり見ながら物思いにふける。
 桔梗は、出発直前にどこかに電話をしたきりで、車の中の二人は終始無言だった。

「さぁ楓、着いたよ」

 桔梗の言葉ではっと我に返る。
 外を見ると、そこはあの高校の入学式の日に来たホテルだった。

「桔梗様、ここ病院じゃ……」

 そこまで言うと桔梗は楓の言葉をさえぎった。

「楓。運命って信じるかい?」


   ◇◆◇


 ホテルのエントランスでは、既に支配人が二人を待っていた。

「お待ちしておりました、望月様。いつものお部屋を用意しております。こちらへどうぞ」

 支配人はしっかりと整髪料でオールバックに固めた頭を深々と下げた後、桔梗の鞄を受け取った。

「支配人。急なお願いに対応、感謝するよ」
「いえいえ、いつも望月様にはよくしていただいておりますから」

 どうやら、出発前に電話をかけていた相手はこの支配人だったらしい。


 エレベーターはみるみるうちに上がる。ガラス張りのエレベーターから下を覗くと、外を歩いている人たちがだんだん小さくなっていき、楓の足はすくんだ。
 チン、とエレベーターが目的階に着いた音がし、扉が開く。桔梗がニコニコと微笑みながら楓の手をきゅっと握った。

「さあ行こう。……ところで、ずっと、外を見ていたね。何か面白いものでもあった?」
「あっ、いえ……その、こんな高いところ初めてで……すみません」

 高級ホテルでは相応しくない行動だったかもしれない、と楓は真っ赤になった。

「なに、謝ることはない。真剣に外を見ている姿、可愛かったよ。……まあ、これからはこういうところに来る機会が増えるから、少しずつ慣れていこうね」
「え……?」

 なんで増えるんだろう? そう思っているうちに一つの扉の前で支配人が歩みを止め、こちらを振り返った。

「お部屋はいつもの最上階をお取りしております。何かありましたらフロントまでご連絡ください。……ではごゆっくりお過ごしください」

 支配人は桔梗にルームキーと鞄を渡し、頭を下げると、そのまま来た道を戻っていった。

「さあ、楓。中に入って」

 桔梗はルームキーで扉を開けると、楓に入るよう促した。
 楓は緊張しながらも部屋に入ると、口を開けて固まってしまった。
 広々としたリビングにガラス張りの窓。そこからは東京の高層ビル群と富士山が見える。

「楓、大丈夫? ……もうすぐお医者様が来るから。コートを脱いでソファに座ってて。私はお茶でも淹れてくるよ」
「は、はい……!」

 桔梗に言われるまま急いでコートを脱ぎ、ソファに座った。
 と、そこで楓はあることに気がついた。
 ――お医者様に診てもらうって……僕、保険証もお金も持ってきてない!
 慌ててキッチンにいる桔梗に駆け寄った。

「あの、桔梗様。僕、お金も保険証も持ってきていなくて、その……」
「……え? お金? 何言ってるの楓」

 楓がなんとか診察代が払えないことを説明しようとしていると、ピンポーンと部屋のチャイムが鳴る音がした。

「あっ、お医者様がいらしたよ。楓、ソファのところで待ってて」

 桔梗はそう言うと、さっさとドアのところに行ってしまった。


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