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1巻
1-1
しおりを挟む第一章
東京のど真ん中だというのに、その屋敷はまるで海外のおとぎ話に出てくる洋館のようだ。
敷地は広大で、瀟洒な建物にはいくつもの部屋があり、庭にはバラ園や噴水がある。
周囲から隔絶された空間には静謐な空気が流れ、ここが都会だということを忘れてしまうほどだ。
この洋館「望月邸」には、日本を代表するグローバル企業・望月自動車株式会社の社長である望月誠一郎と、息子で営業部長として働いている桔梗、高校二年生の娘・桜子、そしてその使用人たちが暮らしている。
隅々まで美しく手入れされた庭園の片隅では、使用人のひとりである古森楓が、落ち葉の片付けに精を出していた。
「ふぅー、片付いて良かった。でもまた強い風が吹いたら元通りかなぁ……」
片手に庭ほうき、片手にちりとりを持ち、夕焼け空を見上げると、十一月の冷たい風が吹いて、楓は思わずぶるっと身震いをした。
楓には親がいない。
父親は、楓が八歳の時、仕事帰りに信号無視のトラックが起こした事故に巻き込まれて亡くなった。
それからは母親と二人で慎ましく暮らしていたが、愛する夫を亡くしたショックと過労がたたり、後を追うように二年後、病気で亡くなった。
身寄りのない楓は、十歳で施設に預けられることになった。
そんな楓に転機が訪れたのは、五年前の春の日。
当時、まだ大学を卒業したばかりの望月自動車の御曹司・望月桔梗が施設を訪れ、楓を家に引き取りたいと申し出た。そして、学校に通わせてもらいながらここで使用人として働くことになったのだ。
施設の中で、楓は子供たちからいじめられ、職員にも雑に扱われていた。
それも、背が低く華奢で貧弱な体と、この緑色の瞳と栗色の髪のせいだったのだろう。
楓の両親は二人とも黒髪、黒色の瞳だったこともあり、物心ついたときには、その容姿のせいで奇異な目で見られたり、いじめられたりすることが当たり前だった。生前の両親はその理由を教えてくれなかった。祖父母や他の親戚と会ったこともなかったので、きっとこれは本で読んだ隔世遺伝ってやつなんだろう、と楓は自分自身を無理矢理納得させていた。
楓を施設から救い出し、使用人の自分にも家族のように分け隔てなく接してくれる桔梗のことを、楓は尊敬していた。
そして、桔梗への尊敬の気持ちが恋心に変わるのに、さして時間はかからなかった。
「桔梗様……、今夜も遅いのかな。ここしばらく顔を合わせてないな……」
落ち葉の入ったゴミ袋を両手に持ち、うつむきながらゴミ捨て場まで歩こうとした時、聞き慣れたエンジン音が遠くの方から聞こえた。
――この車の音は……
ゴミ袋を持ったまま屋敷内の駐車場まで走っていくと、ちょうどそこには車から降りてくる桔梗の姿があった。引き締まった体にすらりと長い足。そのスタイルの良さを引き立てる高級そうなスーツを纏っている。短い漆黒の髪の毛が夕日に照らされキラキラと輝く姿は、まるでモデルのようだ。
「桔梗様! おかえりなさい、今日は早いんですね」
「ただいま、楓。残業と出張続きだったからね、たまには早く帰らないと。楓は……落ち葉拾いかい?」
「あっ……!」
楓は咄嗟に背中にゴミ袋を隠したが、恥ずかしくなって顔が熱くなる。
「急いで来てくれたんだろう? ありがとう、楓」
桔梗はくすくす笑いながら優しく頭を撫でてくれる。その温かい手が嬉しくて、楓はそっと目を閉じ、されるがままになった。
――優しい優しい桔梗様。あなたに出逢えて僕は本当に幸せなんです……
「そうだ! 桔梗様、新しい刺繍ができあがりそうなんです。また見てもらえますか……?」
「もちろんだよ。でも、もう私より楓のほうが上手なんだけどね」
「そ、そんな……桔梗様の教え方がとても丁寧なおかげです」
ここに来たばかりの頃、何もせずぼーっとする楓を見かねて、桔梗が刺繍を教えたのだった。
刺繍は、今は亡き桔梗の母親が得意としていたという。幼い桔梗は母親と一緒にいたくて、よく刺繍を教えてほしいとせがんでいたそうだ。桔梗の刺繍の腕前はそれは見事で、何でもできる人だと、さらに尊敬の念を募らせた楓だった。
「ところで楓、なんだか熱っぽい気がするんだが……。体調が悪いのか?」
優しく撫でていた桔梗の手が楓の頬に触れる。そして、熱さを確かめるようにそのまま両手で楓の頬を包み込んだ。
「やっぱり熱い……。今日はもう休んだほうがいい」
「だ、大丈夫です! これを捨ててこないといけないですし……」
――桔梗様が僕に触れている!
そう思っただけで、さらに熱が上がりそうだった。楓はゴミ袋を持ちなおすと、一度だけ深く頭を下げ、ゴミ置き場まで走った。
桔梗はいつも楓に優しい。まるで本当の弟のように大切にしてくれている……。楓は、その優しさにドキドキさせられてしまうのだ。
――バレてないよね? 僕の気持ち……。僕なんかが桔梗様を好きってことが知られてしまったら、きっともうここにはいられないのに……
この世界には、男女とは別に、三つの性がある。
世の中に二割いるとされている「アルファ」、大多数を占める「ベータ」、そして一番少ないとされている「オメガ」。
アルファは能力値が高く、社会的地位の高い人間が多くを占める。有名なスポーツ選手や政治家、企業の経営者などがほとんどだ。
一方、ベータは大多数の一般人で、もちろん中には例外的に優秀な人間もいるが、それでもアルファを超えるのは難しいとされている。
そしてオメガ。男女ともに妊娠・出産が可能で、およそ三か月に一度、一週間程度の「ヒート」という発情期がある。薬である程度抑えることもできるが、完全に抑えられるわけではない。だから発情期にはほとんどのオメガが部屋に引きこもり、この期間が過ぎるのをひたすら耐えて待つ。このような生活を余儀なくされているため、オメガは社会的地位が低く、進学や就職で差別されることも多い。もちろん差別は禁止されているのだが、実際には不利益を被る者が多かった。
楓は十歳の頃に受けた検査で「ベータ」と診断された。両親もベータだったし、特別何かに秀でているわけではない自分もベータなんだろうと思っていたから、「まぁそうだろうなぁ」という感想しかなかった。
でも、もし自分がアルファだったら、もっと桔梗様のお役に立てたかもしれない。
オメガだったら一度くらいは抱いてもらえたかもしれない――
そう思ってしまう気持ちをぐっと胸にしまい込んで、楓は仕事に勤しんだ。
この日は落ち葉をゴミ置き場に持って行ったあと、皿洗いを手伝っていたら夕食の時間になった。皿洗いを終えた楓は、自分の分の夕飯をお盆に載せ、与えられた自室に向かう。
「えっと、英語のテキストっと……そろそろ資格の勉強もしないとなぁ」
いつか桔梗のために役立つかもしれないと、高校を卒業してから始めた英語の勉強。使用人としてもさらにいろいろな仕事に取り組めるよう、資格試験のテキストも取り寄せていた。
分厚い参考書とノートを取り出し、いざ始めようとしたが、なかなかペンが進まない。
――体、怠いなぁ……。お腹の下もチクチク痛むし……
桔梗が言っていたように、ここ何日か体調がすぐれなかった。
寝込むほどではないが体が重く、微熱もあった。仕事中は栄養ドリンクを飲みながらやり過ごしていたが、効いている様子はなかった。
――風邪かなぁ……明日も怠かったら病院に行こう。
はぁ、と大きいため息を一つ漏らして、参考書のページをペラペラとめくる。
するとその時、コンコンと部屋のドアを叩く音がした。
「はい、今開けます」
参考書を閉じ、備え付けの椅子から立ち上がった。
――使用人の誰かが風呂の順番が回ってきたことを知らせにきてくれたのだろうか? でもいつもならドア越しに声を掛けられるだけだから……何か用事かな?
「楓、体調はどう?」
「――! き、桔梗様っ!」
そこには、白のニットにグレーのパンツというラフな格好で、藍色のマグカップを持った桔梗が立っていた。
「ジンジャー入りのホットミルクを作ったんだ。……楓、部屋に入ってもいい? 長居はしないようにする」
「も、もちろんです。……あの、どうぞ」
楓の部屋は六畳ほどの洋室だ。シングルベッドと勉強机に小さなチェスト、それにコートを掛けるハンガーラックがあるだけの小さな部屋。
桔梗は、部屋に入るなりいつも通りベッドに座ると、マグカップを持っていない方の手でポンポンとかけ布団を叩いた。
これは『ここに座って』のサイン。楓は嬉しくてにやけそうになるのを必死に隠して、桔梗の隣に座った。
「この部屋に来るのも久しぶりだね。……何か困ってることはない?」
「な、ないです! こんなに良くしてもらって僕は幸せです」
「本当? 部屋も、もっと大きい部屋に移ってもいいんだよ。若い男の子の部屋にしては狭いだろう」
「そんな……この屋敷に置いてもらえて、高校も卒業まで通わせてもらえて、それに自分の部屋までくださいました……。これ以上何も望みません!」
「ふふ……楓は本当に欲のない子だね」
困ったように微笑むと、桔梗は楓にマグカップを差し出した。
「さぁ、これ飲んで。よく、体調を崩した時に飲んでいただろう」
まだ温かいそれは、ここに来たばかりの頃、ストレスで体調を崩しがちだった楓のために桔梗がよく作ってくれたものだ。
「ありがとうございます……桔梗様」
受け取ったマグカップはまだ温かく、楓の心まで温かくなるような気がした。
一口飲むと、ジンジャーの香りとはちみつの甘さが楓の好みピッタリで、思わず頬が緩んだ。
「楓は美味しそうに飲むね」
桔梗もその美しい顔を綻ばせる。
「……そういえば楓、来週の金曜日、何か予定ある?」
「来週の金曜日ですか? えっと、いつも通りお仕事があるだけです」
「そう、なら仕事は休みにするよう言っておくね」
「えっ、なんでですか?」
「なんでって、来週の金曜は楓の誕生日でしょう? 今年もお祝いしようね」
「そういえば……あの、でも、いいんでしょうか、お祝いだなんて……」
楓は、誕生日をお祝いしてくれるのは嬉しいと思う反面、身分不相応なんじゃないかと悩んでいた。
自分は、桔梗に拾われただけのただの使用人なのだ。
マグカップを両手で持ったまま俯く楓のそんな気持ちに気づいたのか、桔梗は優しく楓の頭を撫でた。
「私がお祝いしたいんだよ。楓は何も気にしなくていい」
――桔梗様は優しい。でも……
「それより早く体調を戻さないとね……? さあ、そろそろ寝ようか」
そう言いながら立ち上がると、桔梗は部屋のドアに向かった。
楓も慌てて立ち上がったが、桔梗はそれを微笑んで止めた。
「ここでいいよ。ゆっくり休んで」
その時、桔梗がふと何かに気づいたような表情で、部屋の匂いをクンと一つ嗅いだ。
「……ねえ、楓。君はベータなんだよね?」
「? はい。僕はベータです……」
桔梗は眉間に皺を寄せ、何か考え事をしているようだった。
「桔梗様……? どうかしましたか?」
「いや、なんでもないよ。楓おやすみ、早く良くなってね」
そう言い残し、桔梗は静かに部屋の扉を閉めた。
「なんだったんだろう? もしかして部屋が臭かったのかな……!」
せっかく来てくれた桔梗に不快な思いをさせてしまったかもしれない、と楓は頬を赤くした。
ベッドから立ち上がり、ハンガーラックに掛けてあった消臭スプレーを部屋に振りかけたところで、また下腹部がチクチクと痛み出した。
「はぁ……今日はもう寝よう。明日早起きして勉強したらいっか」
ベッドに腰掛け、桔梗がくれたホットミルクをぐっと飲み干す。
――いつまでも甘えてちゃいけないのはわかってるけど……今だけは許してください……
そう心の中で願いながらベッドの中に潜り込んだ。
翌朝。いつもよりたくさん寝たおかげで、早朝から勉強もできたし、体の怠さも心なしか楽になった気がする。
そのままいつも通り朝の仕事をし、早めの休憩をもらって、念のため病院に向かった。
「疲れてなんかないのになぁ……」
医者に診てもらったものの、結果は特に異状なし。「ストレスや疲れからの体調不良でしょう」と言われ、整腸剤とビタミン剤を出してもらっただけで終わった。
「別に働く分には問題ないし、いつもより早く寝れば問題なし!」
そう自分に言い聞かせると、急いで家路についた。
帰宅すると、裏門から自分の部屋に戻った。裏門を使うのは、使用人の楓には正門を使うことが許されていないからだ。
自室に戻ると、すぐさま着ていた服を脱ぎ、使用人の制服に着替えた。
「遅れてすみません、ただいま戻りました」
「お帰り、楓。それより体調大丈夫だったの?」
一階の使用人の控室にいくと、同じく使用人としてこの屋敷で働く美知子がいた。美知子は楓より五歳年上の先輩で、家族のいない楓をいつも気にしてくれる頼りになる人だ。
「はい、特には……ただ疲労とストレスが原因かもって」
「えっ、それ大丈夫じゃないでしょう! ねえ……原因ってもしかして……」
とその時、控室の扉が開いた。扉を開けたのはこの屋敷の執事、田中だった。
「古森くん、帰っていましたか。早速ですが、桜子様がお呼びです。今すぐお部屋に行ってください」
「は、はい! わかりました」
座っていた椅子から立とうとしたとき、美知子が楓の腕を掴んだ。
「田中さん、楓は今日体調が良くないんです。代わりに私が行きます」
「古森くん、それは本当ですか」
「美知子さん! ……あのっ、確かに少し疲れているかもしれませんが大丈夫です! 働けます!」
楓は美知子ににっこり微笑むと、優しく腕を振りほどいた。
美知子は心配そうな目で楓を見ていたが、あえて気づかないふりをして控室を出た。
――美知子さんに心配させちゃったなあ。確かに桜子様のところに一人で行くのは少し気が重いけれど、これも僕の仕事だから。
足早に廊下を歩き、桜子の部屋の前に着いた。
制服のネクタイをぐっと締め直し、逃げ出したくなる気持ちを抑え、ふぅ……と一つ息を吐く。
拳に力をこめ、決心してドアをノックした。
「桜子様。楓です。遅くなってしまい申し訳ありません」
「入りなさい」
冷たく刺すような声が部屋の中から聞こえた。
「桜子様、何かご用でしょうか」
部屋に入ると、桜子は部屋の真ん中でアンティーク調の一人掛けのソファに座り、紅茶を嗜んでいた。
桔梗と同じ漆黒の長い髪を耳に掛け、猫のような大きな瞳で楓を睨みつける。
「何かって……あなたわからないの? ……楓、来週の金曜日のあなたの予定を教えなさい」
「えっと……予定というのは……」
「……あなた! 私が何を聞きたいのかわかってるでしょう!?」
桜子はガシャン! と音が響くほど乱暴にティーカップを机に叩きつけた。
ティーカップからは紅茶がこぼれ、絨毯にまで滴っている。そして桜子の美しい顔面は怒りに満ち、額には青筋が浮いていた。
楓はそんな桜子の様子にたじろぎ、一瞬迷った。しかし、ここで変に嘘をついたりごまかしたりするとさらに桜子の機嫌が悪くなるので、覚悟を決めて伝えた。
「あの……その日は、桔梗様とお食事に行く予定です」
言い終わると同時に「はぁ~……」と大きなため息が聞こえた。
「やっぱりね。毎年毎年……本当に懲りないわね、あなた?」
また怒鳴られる――
ぎゅっと目を瞑った楓に、桜子は容赦なく罵倒を浴びせる。
「お兄様はね、望月家の次期当主になる方なのよ! そのお兄様がただの使用人のあなたと二人で食事なんておかしいことなのよ!」
桜子は苛立ちが収まらないという様子で、ギリギリと歯を食いしばっている。
「お兄様も同情か何か知らないけど……いい加減、こんな使用人に構うのを止めてほしいわ! だいたいあなたは……」
楓は、目を瞑り頭を下げたまま、ただひたすら桜子の苛立ちが通り過ぎるのを待った。
――桜子様は、桔梗様が好きだから僕に怒っているんだ……
楓より二つ年下の桜子は、楓のことを嫌っており、事あるごとに辛く当たる。
それは自分が誰よりも尊敬し大好きな兄・桔梗が、楓のことを大切にしているからだ。
桜子も根っからの悪人というわけではなく、初めは親がいなくて可哀想、と楓に同情の目を向け、親切にしてくれていた。しかし桔梗が頻繁に楓の部屋に向かい、あれこれと気にかけるので、血を分けた妹である自分よりも楓を可愛がっているように見え、我慢ができなくなってしまったのだ。
「聞いているの!? 楓!」
桜子の鋭い声に身をすくめる。
「楓、あなたお兄様のお誘いを断りなさい」
「えっ……」
咄嗟に下げていた頭を上げた。
「あの、桜子様、申し訳ありません。桔梗様とお約束してしまったので、お断りするのは……。これ限りにします、もしまたこのようなことがあればお断りするように……」
「ダメよ! 断りなさい。理由なんてなんとでもなるわ。さもないとお父様に言ってあなたを追い出すわよ?」
「そ、そんな……」
ここを追い出されたら、楓には帰る家がなくなる。
楓の額から冷や汗が流れる。
――桔梗様に会えなくなるのは嫌だ! この家を追い出されたら、住む世界が違う桔梗様には、きっともう会えなくなってしまう……
「わかりました……。桔梗様には行けなくなったと連絡します」
「今ここで連絡しなさい。持っているんでしょう? お兄様に買ってもらった携帯」
桜子が楓のジャケットのポケットの膨らみを指さす。
高校卒業後、「もう社会人になるのだから必要だよ」と桔梗に言われ、初めて自分名義で契約した携帯。楓が分割で購入するつもりでいると、一緒に来てくれた桔梗が「社会人になったお祝いだよ」とプレゼントしてくれたそのシルバーの携帯を、楓はおそるおそる取り出した。
桜子の視線が突き刺さる。桔梗によく似た漆黒の瞳が早くしろ、と楓に言っているようだった。
ごくん、と唾を一つ飲み込むと、震える手でメッセージアプリを開いた。
『桔梗様、申し訳ありません。来週の金曜日のお食事、行けなくなりました。本当に申し訳ありません。楓』
――ごめんなさい、桔梗様……
涙がこぼれそうになるのを必死に堪えながら、震える指先で送信ボタンを押した。
「桜子様、桔梗様にメッセージを送りました」
「本当に送ったのよね? 見せなさい!」
楓が本当にメッセージを送ったのか疑っている桜子は、携帯を見せるよう強い口調で命令した。
楓が半泣きになりながら携帯を差し出そうとした、その時。
――ピリリリリ、ピリリリリー……
携帯の着信音が鳴り響いた。
この携帯には、望月家の固定電話と、桔梗の携帯の番号しか登録されていない。
そっと着信画面を見ると、そこには「桔梗様」の文字。桜子も画面を見たのか、一瞬驚いた顔をした後、楓をじろりと睨んだ。
「桜子様、電話をとってもよろしいでしょうか……」
「……いいわ、ただしここで取りなさい」
桜子の冷ややかな視線を浴びながら、楓は着信画面の応答ボタンを押した。
「はい、楓です」
『楓、今いいかい? メッセージ見たんだけど、どうしたの?』
「すみません、桔梗様。あの、せっかくのお誘いだったんですが……英語の試験も近いですから」
『試験って……楓はいつも勉強しているから大丈夫だろう? でも、そんなに勉強が大変ならお祝いは日にちをずらそう。それなら、当日は私が勉強を見てあげるよ』
いつもの、楓を労るような優しい桔梗の声。そんな桔梗に嘘をつかなくてはいけないと思うと、胸が苦しくなる。
「いえ、あの大丈夫です。桔梗様のお手を煩わせることはできません。……あの桔梗様っ、僕もうすぐ十九になります。もう子供ではありません。今までっ、その……お祝いとかたくさんの心遣い、あ、ありがとうごさいました」
桜子の視線と、桔梗への後ろめたさで声が上ずってしまうのを隠すように、楓はひと息に告げた。
『楓……?』
「もう僕は大丈夫です。ただの使用人なのですから……。だから今後は……そういうことはしないでください」
『どういうこと?』
「桔梗様、ごめんなさい。本当にごめんなさい……もう切りますね」
そこで楓は電話を切った。
桔梗が何か言いかけていたが、これ以上話すと涙が出そうで、そうなると勘のいい桔梗のことだから、きっと楓がどんな状況にいるかわかってしまうだろう。
――そうなったら……そして、それが桜子様にバレてしまったら、ここにはいられない……
震える手で携帯を握りしめ茫然としていると、桜子のくすくすと馬鹿にするような笑い声が聴こえた。
「なんだ、ちゃんと言えるじゃない」
桜子は満足そうに続けた。
「お兄様の着信はもう取ってはだめよ。そうそう、お兄様には私がちゃあんと話しておくから安心して? 『楓は、お兄様に何かと構われるのが本当は嫌だった』って」
「そ、そんな!」
「あら、なあに? ここに居られなくなってもいいの?」
「……っ」
「楓。よく覚えておきなさい。私がお父様に言えば、あなたなんてすぐに追い出せるんだから。身分をわきまえなさい。わかったなら早く出て行って」
桜子の部屋を出て仕事に向かったが、その後のことはぼんやりとしか覚えていない。
仕事が終わり携帯を見ると、不在着信が何十件も残っていた。
もう取ることのできない電話を、ただ握りしめることしかできない。
体の怠さに耐えきれず、ふらふらとベッドに横たわる。
「薬飲んだのに、おかしいな……」
目を瞑り、桔梗のことを想うだけで体に熱がこもり、お腹がちくちくと痛んだ。
それから何日も桔梗に会うことはなかった。
桔梗はどうやら仕事が忙しくなったらしく、毎日真夜中に帰ってきて、朝早く出て行っている。あの日以来、屋敷で姿を一目見ることもできなかった。
電話も着信があったのはあの日だけだった。自分から拒絶したくせに、桔梗からの着信がないか、一日に何度も携帯を確認してしまう。
――桔梗様に嫌われてしまったのかな。でも、それでも……もう会えなくなるよりはずっといい……
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