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第二章
片時雨の村《四》
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『昔、何処かで嗅いだことがあるような匂いだ』
「そうだろうな」
そう呟きながら、誰もいない真っ暗な道を沙麼蘿と琉格泉は駆け抜ける。この村に正気の人間が一人でもいたなら、宿屋以外の建物と言う建物の全てから灯りが消えたこの状態を不気味に思うことだろう。まるであの宿屋以外には、生きた人間はいないようではないか。
『雨がやんだ』
「所詮は、天候が操れると言ってもこの程度」
そう、全ては女狐達が見せる夢幻でしかない。確かに女狐とやらは、多少は天候を操れるのだろう。だが、真に天候を操り長い間雨を降らせることができるのは、玉龍のような龍だけだ。
村人は、この村には水害はない。どんなに雨が降り続いても御狐様が守ってくれると、そう言っていた。だがご覧の通りと言うべきか、今は雨音だけが僅かに聞こえはするが雨は降っていない。
この村が片時雨なのも、村全体に雨を降らせられるだけの力がないからだ。とんだ紛い物ではないか、と沙麼蘿は思う。
「女狐が喰らったのは、堕ち龍だろう」
『罪を犯し、その力を封じられて下界に落とされた、嘗て龍だったものと言うことか』
それならば、片時雨くらいの雨は降らせられるだろう。あとは心を操れる者、幻を見せられる者がいれさえすれば、どうとでもなる。玄奘一行がこの村の宿屋に辿り着いた時、確かに雨は降っていた。だが、それも初めだけ。雨音だけは激しくなって行ったが、結局沙麼蘿と琉格泉が宿屋の窓から飛び出した時には雨はほとんど降ってはいなかった。
『どんなに長雨になろうとも、実際は雨音が聞こえるような気がするだけ、雨が降っているような幻が見えるだけで雨は降ってはいないのだから、水害が起こるはずもない』
「だがそれを、人間がわかるわけがない」
そう、天候を操る力と呪詛にも近い歌声で巧妙に仕組まれた世界。それを、ただの人間が気付ける筈もない。一つ一つ長い時をかけ女狐は、村人に現実と幻を交互に見せて有りもしない記憶をすり込み、この村を思いのままに操ってきたに違いなかった。
天人である李子ですら、全てを見通せていたわけではない。実際に外に出てみても、この雨の量に気付けたかどうか。そう思えば、李子一人で子供達を護れるのかはわからないが、女狐の出方がわかっている金角と銀角、それに玉龍がいれば何とかなるはずだ。
『女狐の狙いは玄奘か』
「喰って上仙になりたいのだろう、天界へ行くために」
一瞬、琉格泉の眉間にシワがよる。琉格泉にとっても沙麼蘿にとっても、仙と言えば皇と聖宮に献身を捧げ続けた花薔仙女が一番最初に思い浮かぶ。
その花薔仙女は沙麼蘿にも献身を尽くし、琉格泉と須格泉をとても大切にした。そして同じように、沙麼蘿と大神達も花薔仙女を大切に思っていたのだ。そんな花薔仙女ですら上仙ではなかったと言うのに、あの女狐ごときが仙の最上位である上仙になるなどと、考えただけでも許せるはずがないと沙麼蘿と琉格泉が思うのも、当然のことだろう。
『いたぞ!』
感じていた気配は三つ、だがそこには既に二つの気配しかなかった。
「誰!!」
沙麼蘿達が女狐と呼ぶ白骨夫人と呪詛のような歌声で幻を見せる美后は、まだ森の中にいた。
「気配くらいは感じられるか、たかだか女狐の分際でも」
「あら、誰かと思えば。えぇ、ワタクシは知っていてよ、玄奘三蔵が飼っている化け物と、犬ね」
沙麼蘿のぞんざいな言葉にも余裕の笑みを見せながら、女狐と呼ばれた白骨夫人は最後に馬鹿にするよるような言葉を投げかけ “ホホホ” と笑って見せた。
「この村は全てワタクシの領域、お前達が好きなようにできるかしら。見ものだと思わない、お行き美后!」
木の影からこちらを見ていた美后の姿が消えて行くのを、沙麼蘿は見ていただけで手は出さなかった。それをできなかったとでも勘違いしたのか、白骨夫人の笑い声がさらに大きくなる。
耳障りな声を聞きながら、沙麼蘿はそっと視線を移す。その場所にいたであろう、嘗ての見知った姿を思い出しながら。
『何も存じません! 私は無実でございます! 信じて下さいませ! 本当に私は、何も知りません!! 私は、私は…! 無実でございます! 公女様……、私は…無…実……』
そう言って、泥犂の入口ように口を開ける真っ暗な穴に落とされたのは…。
あの時の自分に、いったい何ができただろうか。視線を合わせて話を聞いてやることもできず、手を差し伸べて助けてやることもできなかった。沙麼蘿と視線が合っただけで、その手に触れられただけで普通の天人は消えてしまう。最後まで見えていた白い手が、真っ暗な穴に吸い込まれて行く瞬間を、沙麼蘿は今でもよく覚えている。
誰も、疑心暗鬼に陥り、全てを疑えるだけ疑い尽くし、その結果として沢山の命を奪い下界に落として行った鶯光帝の行動を、諌めることも止めることもできなかった。
もう少し早くあの場に辿り着けていれば、沙麼蘿なら助けられていたであろう無垢な命。罪など、何も犯してはいなかった。罪をきせられ下界に落された天人は、女狐の仲間になるしか生きて行く術を持たなかったのだろう。
「この村に入り込んだからには、三蔵はワタクシのもの! 化け物や犬にかまっている暇はないのよ!!」
白骨夫人の掌から、蜘蛛の糸にも似た白く細い糸が次々と沙麼蘿と琉格泉に向かって繰り出されるのを、その右手を前に出すだけで止めた沙麼蘿が振り向いた時には、既に白骨夫人の姿はそこにはなかった。
『よかったのか』
「よい。本当に本人かいたのか、それを確かめたかっただけだ。玄奘はもう、美后の手におちている頃だろう。煮て喰うにせよ、焼いて喰うにせよ、時間はまだある」
沙麼蘿にとって白骨夫人など敵ではない。だが、あの日助けられなかった命、それだけが惜しいのだ。
「お前は、どうする。捲簾…」
その小さな呟きは、夜の闇に飲まれて消えた。
********
紛い物→本物と見分けがつかないほど、よく似せてつくっついる物。偽物
ぞんざい→言動が乱暴で礼を失しているさま。いいかげんに物事をするさま
泥犂→地獄。奈落
疑心暗鬼→疑いの心があると、なんでもないことでも怖いと思ったり、疑わしく感じることのたとえ
無垢→けがれがなく純真なこと
次回投稿は、10月1日か2日が目標です。
「そうだろうな」
そう呟きながら、誰もいない真っ暗な道を沙麼蘿と琉格泉は駆け抜ける。この村に正気の人間が一人でもいたなら、宿屋以外の建物と言う建物の全てから灯りが消えたこの状態を不気味に思うことだろう。まるであの宿屋以外には、生きた人間はいないようではないか。
『雨がやんだ』
「所詮は、天候が操れると言ってもこの程度」
そう、全ては女狐達が見せる夢幻でしかない。確かに女狐とやらは、多少は天候を操れるのだろう。だが、真に天候を操り長い間雨を降らせることができるのは、玉龍のような龍だけだ。
村人は、この村には水害はない。どんなに雨が降り続いても御狐様が守ってくれると、そう言っていた。だがご覧の通りと言うべきか、今は雨音だけが僅かに聞こえはするが雨は降っていない。
この村が片時雨なのも、村全体に雨を降らせられるだけの力がないからだ。とんだ紛い物ではないか、と沙麼蘿は思う。
「女狐が喰らったのは、堕ち龍だろう」
『罪を犯し、その力を封じられて下界に落とされた、嘗て龍だったものと言うことか』
それならば、片時雨くらいの雨は降らせられるだろう。あとは心を操れる者、幻を見せられる者がいれさえすれば、どうとでもなる。玄奘一行がこの村の宿屋に辿り着いた時、確かに雨は降っていた。だが、それも初めだけ。雨音だけは激しくなって行ったが、結局沙麼蘿と琉格泉が宿屋の窓から飛び出した時には雨はほとんど降ってはいなかった。
『どんなに長雨になろうとも、実際は雨音が聞こえるような気がするだけ、雨が降っているような幻が見えるだけで雨は降ってはいないのだから、水害が起こるはずもない』
「だがそれを、人間がわかるわけがない」
そう、天候を操る力と呪詛にも近い歌声で巧妙に仕組まれた世界。それを、ただの人間が気付ける筈もない。一つ一つ長い時をかけ女狐は、村人に現実と幻を交互に見せて有りもしない記憶をすり込み、この村を思いのままに操ってきたに違いなかった。
天人である李子ですら、全てを見通せていたわけではない。実際に外に出てみても、この雨の量に気付けたかどうか。そう思えば、李子一人で子供達を護れるのかはわからないが、女狐の出方がわかっている金角と銀角、それに玉龍がいれば何とかなるはずだ。
『女狐の狙いは玄奘か』
「喰って上仙になりたいのだろう、天界へ行くために」
一瞬、琉格泉の眉間にシワがよる。琉格泉にとっても沙麼蘿にとっても、仙と言えば皇と聖宮に献身を捧げ続けた花薔仙女が一番最初に思い浮かぶ。
その花薔仙女は沙麼蘿にも献身を尽くし、琉格泉と須格泉をとても大切にした。そして同じように、沙麼蘿と大神達も花薔仙女を大切に思っていたのだ。そんな花薔仙女ですら上仙ではなかったと言うのに、あの女狐ごときが仙の最上位である上仙になるなどと、考えただけでも許せるはずがないと沙麼蘿と琉格泉が思うのも、当然のことだろう。
『いたぞ!』
感じていた気配は三つ、だがそこには既に二つの気配しかなかった。
「誰!!」
沙麼蘿達が女狐と呼ぶ白骨夫人と呪詛のような歌声で幻を見せる美后は、まだ森の中にいた。
「気配くらいは感じられるか、たかだか女狐の分際でも」
「あら、誰かと思えば。えぇ、ワタクシは知っていてよ、玄奘三蔵が飼っている化け物と、犬ね」
沙麼蘿のぞんざいな言葉にも余裕の笑みを見せながら、女狐と呼ばれた白骨夫人は最後に馬鹿にするよるような言葉を投げかけ “ホホホ” と笑って見せた。
「この村は全てワタクシの領域、お前達が好きなようにできるかしら。見ものだと思わない、お行き美后!」
木の影からこちらを見ていた美后の姿が消えて行くのを、沙麼蘿は見ていただけで手は出さなかった。それをできなかったとでも勘違いしたのか、白骨夫人の笑い声がさらに大きくなる。
耳障りな声を聞きながら、沙麼蘿はそっと視線を移す。その場所にいたであろう、嘗ての見知った姿を思い出しながら。
『何も存じません! 私は無実でございます! 信じて下さいませ! 本当に私は、何も知りません!! 私は、私は…! 無実でございます! 公女様……、私は…無…実……』
そう言って、泥犂の入口ように口を開ける真っ暗な穴に落とされたのは…。
あの時の自分に、いったい何ができただろうか。視線を合わせて話を聞いてやることもできず、手を差し伸べて助けてやることもできなかった。沙麼蘿と視線が合っただけで、その手に触れられただけで普通の天人は消えてしまう。最後まで見えていた白い手が、真っ暗な穴に吸い込まれて行く瞬間を、沙麼蘿は今でもよく覚えている。
誰も、疑心暗鬼に陥り、全てを疑えるだけ疑い尽くし、その結果として沢山の命を奪い下界に落として行った鶯光帝の行動を、諌めることも止めることもできなかった。
もう少し早くあの場に辿り着けていれば、沙麼蘿なら助けられていたであろう無垢な命。罪など、何も犯してはいなかった。罪をきせられ下界に落された天人は、女狐の仲間になるしか生きて行く術を持たなかったのだろう。
「この村に入り込んだからには、三蔵はワタクシのもの! 化け物や犬にかまっている暇はないのよ!!」
白骨夫人の掌から、蜘蛛の糸にも似た白く細い糸が次々と沙麼蘿と琉格泉に向かって繰り出されるのを、その右手を前に出すだけで止めた沙麼蘿が振り向いた時には、既に白骨夫人の姿はそこにはなかった。
『よかったのか』
「よい。本当に本人かいたのか、それを確かめたかっただけだ。玄奘はもう、美后の手におちている頃だろう。煮て喰うにせよ、焼いて喰うにせよ、時間はまだある」
沙麼蘿にとって白骨夫人など敵ではない。だが、あの日助けられなかった命、それだけが惜しいのだ。
「お前は、どうする。捲簾…」
その小さな呟きは、夜の闇に飲まれて消えた。
********
紛い物→本物と見分けがつかないほど、よく似せてつくっついる物。偽物
ぞんざい→言動が乱暴で礼を失しているさま。いいかげんに物事をするさま
泥犂→地獄。奈落
疑心暗鬼→疑いの心があると、なんでもないことでも怖いと思ったり、疑わしく感じることのたとえ
無垢→けがれがなく純真なこと
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