144 / 190
第二章
籠鳥残火《二》
しおりを挟む
静寂と沈黙が支配する、薄い薄い藍色の世界。昼間の眩しいばりの暖かい光が大地に降り注ぐ時間帯とは違い、光はその彩りを落とし少しだけ冷たい朝の風が吹き抜ける。
此処、神々の住まう天上界には下界のような暗闇の夜は存在しない。天上界は、何時も光に満たされているのが常だ。
しかし、それでも天上界において夜とされる光景は、眩しい光が彩りを落とし空が薄い藍色に染め上げられ、少しだけ気温が下がった時間帯のことを言う。
この時、天上人はこれを夜と認めつかの間の眠りにつく。人も動物も草木すらも、この淡い淡い藍色の空の下、つかの間の眠りにつくのだ。
薄い藍色の空が、いま真昼の輝くばかりの光を取り戻そうとしていた。此処、天上界で言うところの夜明け、一人の女性が天都の中心から離れた大きな離宮と呼ばれる場所で庭を見つめ静かに立ち尽くしている。
天上界では、まだ朝の風がそっと吹き抜ける肌寒い早朝の時間帯だ。神々の間ですら、忘れ去られた存在であるはずのこの離宮。そこでまた、あの花が咲いた。
その昔は、公務に追われる天帝の憩いの場であったはずの場所。天都の中心とは違い、静かに愛でるにふさわしい天上界一の大きな美しい桜の大木が植えられ、広い広い庭には小さな川も、湖かと見間違えてしまう程に澄み渡った池まである。
そう、此処こそが一つの小さな村だと言っても過言ではない。離宮の至る所には美しい花々が咲き乱れ、肌寒い時間帯であるにも関わらず、そっと花の息吹が満ち溢れていた。
「あなた…」
堂室の窓をいっぱいに開け、早朝の冷たい風を中に通し、彼の人は庭の一角を見つめ呟いた。きっと夫が眠るあの場所にも、あの花が咲き乱れているに違いない。
整った顔立ちに、風に靡く長い灰簾石色の髪が美しく、開かれた双眸も同じく澄んだ深い海を思わせるようだった。天上界でも際立つ美しさを持った彼の人の名は “聖宮” と言い、この離宮の主である。その美しさはそのまま息子に受け継がれ、離宮で僅かな側使えの者達と暮らしていた。
庭を見つめ続ける聖宮と共に、朝の光も今、真昼の彩りを取り戻そうとしている。
「お元気そうね」
「えぇ、貴女も」
懐かしい親友に会うのは、どれくらい振りだろうか。いや、この離宮に外の天人が足を踏み入れること事態、長い間なかった。
あの日、鶯光帝がたった一人の妹である聖宮を此処蒼宮に幽閉した時から、蒼宮は天都とは隔離され忘れされた場所なのだから。
「やっとお目にかかることができたわ。長い間、とても心配していましたの」
「ごめんなさい、心配をおかけして」
「いいの。貴女とは、幼い頃からの親友ですもの。下界から戻って来られた後、何度も鶯光帝に面会をとお願いしたのだけれど、“幽閉の身ゆえ会わせられぬ” と。そのうち、人づてに貴女が男の子を産んだと聞いて、この蒼宮で如何お過ごしなのかと…」
この広すぎる蒼宮に、人の気配はほとんどない。鶯光帝が聖宮を此処に幽閉する際、必要最小限の僅かな人々しか与えなかったからだ。
天都から離れた、天帝と親しい者以外ほとんどの神の出入りが禁止された場所であったため、聖宮を幽閉するには最適だった。もはや鶯光帝にとって聖宮は、他人にその存在すらも知られたくない、不肖の妹以外の何者でもない。
「貴女も、とても可愛らしい女の子を持たれて」
「えぇ、おかげ様で」
親友の横でちょこんと座って堂室を見渡している幼子は、とても可愛い女の子だった。聖宮の息子より、少し年下と言ったところだろうか。
「実は、この度夫が下界への赴任を言い渡されましたの」
「そう」
「貴女の一件からこの方、鶯光帝は下界との接触を一切絶っておられた。それが、下界からたっての願いと要請が何度もあって、私達夫婦が下ることになりましまの」
「今の下界では、いらぬ戦が何度も繰り返されている場所もあると聞きます。上界からの手助けを望む声も、多いのでしょうね」
「私達の力が、お役にたてるのならいいのだけれど」
「きっと貴女のご主人は、兄上からの信頼があついのね」
そう言って聖宮は、中庭を見つめた。自分を此処に幽閉した兄とは、もう随分と会ってはいない。
「大変名誉なことだわ。古来、下界へ下るのは位の高い独身者と決まっていた。でも、貴女のことがあったから、鶯光帝は主人を任命されたのだと思うわ。家族皆で下界へ赴き、力を尽くせと。そのおかげで、貴女にお会いできた。下界へ下る前に、一目貴女にお会いしたいと言う私の願いを、鶯光帝は叶えて下さった」
その言葉に聖宮は双眸を細め、何かを思い出したように穏やかな笑みを見せた。
「下界は良いところよ、生命の息吹が至るところにあふれとても美しい。永遠に近い時をただ無意味に生き続けている私達と違って、あちらこちらに生命の営みがある。“生きる” と言うことの本当の意味、本当の素晴らしさを教えてくれるわ。それは、貴女にとってもご主人にとっても、その小さなお嬢さんにとっても、きっと良いことになるわ」
聖宮が下界で暮らしたのは僅か二年ほど。それでも、あの自然しかないような片田舎で、自らの手で食べ物を育て愛する人と暮らした思い出は、聖宮の中で何よりも大切な思い出になっていた。
********
何時→いつ。どのとき
常→いつでも変わることなく同じであること。いつもそうであること
憩い→からだや心を休めること。休息
過言→言いすぎ。大げさすぎる言い方
至る→広い範囲に及ぶ。行きわたる
息吹→生気や活気のあること
側仕え→主君のそば近くに仕えること。また、その人
幽閉→ある場所に閉じ込めて外に出さないこと
如何→物事の成り行きや状態。不明な内容などを示す表現。『いかが』は『ご機嫌如何』のように用いられる
不肖→父に、あるいは師に似ないで愚かなこと。また、そのさま
赴任→任地におもむくこと
赴く→その方向へゆく。向かって行くことを意味する語
次回投稿は23日24日が目標です。
此処、神々の住まう天上界には下界のような暗闇の夜は存在しない。天上界は、何時も光に満たされているのが常だ。
しかし、それでも天上界において夜とされる光景は、眩しい光が彩りを落とし空が薄い藍色に染め上げられ、少しだけ気温が下がった時間帯のことを言う。
この時、天上人はこれを夜と認めつかの間の眠りにつく。人も動物も草木すらも、この淡い淡い藍色の空の下、つかの間の眠りにつくのだ。
薄い藍色の空が、いま真昼の輝くばかりの光を取り戻そうとしていた。此処、天上界で言うところの夜明け、一人の女性が天都の中心から離れた大きな離宮と呼ばれる場所で庭を見つめ静かに立ち尽くしている。
天上界では、まだ朝の風がそっと吹き抜ける肌寒い早朝の時間帯だ。神々の間ですら、忘れ去られた存在であるはずのこの離宮。そこでまた、あの花が咲いた。
その昔は、公務に追われる天帝の憩いの場であったはずの場所。天都の中心とは違い、静かに愛でるにふさわしい天上界一の大きな美しい桜の大木が植えられ、広い広い庭には小さな川も、湖かと見間違えてしまう程に澄み渡った池まである。
そう、此処こそが一つの小さな村だと言っても過言ではない。離宮の至る所には美しい花々が咲き乱れ、肌寒い時間帯であるにも関わらず、そっと花の息吹が満ち溢れていた。
「あなた…」
堂室の窓をいっぱいに開け、早朝の冷たい風を中に通し、彼の人は庭の一角を見つめ呟いた。きっと夫が眠るあの場所にも、あの花が咲き乱れているに違いない。
整った顔立ちに、風に靡く長い灰簾石色の髪が美しく、開かれた双眸も同じく澄んだ深い海を思わせるようだった。天上界でも際立つ美しさを持った彼の人の名は “聖宮” と言い、この離宮の主である。その美しさはそのまま息子に受け継がれ、離宮で僅かな側使えの者達と暮らしていた。
庭を見つめ続ける聖宮と共に、朝の光も今、真昼の彩りを取り戻そうとしている。
「お元気そうね」
「えぇ、貴女も」
懐かしい親友に会うのは、どれくらい振りだろうか。いや、この離宮に外の天人が足を踏み入れること事態、長い間なかった。
あの日、鶯光帝がたった一人の妹である聖宮を此処蒼宮に幽閉した時から、蒼宮は天都とは隔離され忘れされた場所なのだから。
「やっとお目にかかることができたわ。長い間、とても心配していましたの」
「ごめんなさい、心配をおかけして」
「いいの。貴女とは、幼い頃からの親友ですもの。下界から戻って来られた後、何度も鶯光帝に面会をとお願いしたのだけれど、“幽閉の身ゆえ会わせられぬ” と。そのうち、人づてに貴女が男の子を産んだと聞いて、この蒼宮で如何お過ごしなのかと…」
この広すぎる蒼宮に、人の気配はほとんどない。鶯光帝が聖宮を此処に幽閉する際、必要最小限の僅かな人々しか与えなかったからだ。
天都から離れた、天帝と親しい者以外ほとんどの神の出入りが禁止された場所であったため、聖宮を幽閉するには最適だった。もはや鶯光帝にとって聖宮は、他人にその存在すらも知られたくない、不肖の妹以外の何者でもない。
「貴女も、とても可愛らしい女の子を持たれて」
「えぇ、おかげ様で」
親友の横でちょこんと座って堂室を見渡している幼子は、とても可愛い女の子だった。聖宮の息子より、少し年下と言ったところだろうか。
「実は、この度夫が下界への赴任を言い渡されましたの」
「そう」
「貴女の一件からこの方、鶯光帝は下界との接触を一切絶っておられた。それが、下界からたっての願いと要請が何度もあって、私達夫婦が下ることになりましまの」
「今の下界では、いらぬ戦が何度も繰り返されている場所もあると聞きます。上界からの手助けを望む声も、多いのでしょうね」
「私達の力が、お役にたてるのならいいのだけれど」
「きっと貴女のご主人は、兄上からの信頼があついのね」
そう言って聖宮は、中庭を見つめた。自分を此処に幽閉した兄とは、もう随分と会ってはいない。
「大変名誉なことだわ。古来、下界へ下るのは位の高い独身者と決まっていた。でも、貴女のことがあったから、鶯光帝は主人を任命されたのだと思うわ。家族皆で下界へ赴き、力を尽くせと。そのおかげで、貴女にお会いできた。下界へ下る前に、一目貴女にお会いしたいと言う私の願いを、鶯光帝は叶えて下さった」
その言葉に聖宮は双眸を細め、何かを思い出したように穏やかな笑みを見せた。
「下界は良いところよ、生命の息吹が至るところにあふれとても美しい。永遠に近い時をただ無意味に生き続けている私達と違って、あちらこちらに生命の営みがある。“生きる” と言うことの本当の意味、本当の素晴らしさを教えてくれるわ。それは、貴女にとってもご主人にとっても、その小さなお嬢さんにとっても、きっと良いことになるわ」
聖宮が下界で暮らしたのは僅か二年ほど。それでも、あの自然しかないような片田舎で、自らの手で食べ物を育て愛する人と暮らした思い出は、聖宮の中で何よりも大切な思い出になっていた。
********
何時→いつ。どのとき
常→いつでも変わることなく同じであること。いつもそうであること
憩い→からだや心を休めること。休息
過言→言いすぎ。大げさすぎる言い方
至る→広い範囲に及ぶ。行きわたる
息吹→生気や活気のあること
側仕え→主君のそば近くに仕えること。また、その人
幽閉→ある場所に閉じ込めて外に出さないこと
如何→物事の成り行きや状態。不明な内容などを示す表現。『いかが』は『ご機嫌如何』のように用いられる
不肖→父に、あるいは師に似ないで愚かなこと。また、そのさま
赴任→任地におもむくこと
赴く→その方向へゆく。向かって行くことを意味する語
次回投稿は23日24日が目標です。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。
でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。
けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。
同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。
そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
出撃!特殊戦略潜水艦隊
ノデミチ
歴史・時代
海の狩人、潜水艦。
大国アメリカと短期決戦を挑む為に、連合艦隊司令山本五十六の肝入りで創設された秘匿潜水艦。
戦略潜水戦艦 伊号第500型潜水艦〜2隻。
潜水空母 伊号第400型潜水艦〜4隻。
広大な太平洋を舞台に大暴れする連合艦隊の秘密兵器。
一度書いてみたかったIF戦記物。
この機会に挑戦してみます。
武蔵要塞1945 ~ 戦艦武蔵あらため第34特別根拠地隊、沖縄の地で斯く戦えり
もろこし
歴史・時代
史実ではレイテ湾に向かう途上で沈んだ戦艦武蔵ですが、本作ではからくも生き残り、最終的に沖縄の海岸に座礁します。
海軍からは見捨てられた武蔵でしたが、戦力不足に悩む現地陸軍と手を握り沖縄防衛の中核となります。
無敵の要塞と化した武蔵は沖縄に来襲する連合軍を次々と撃破。その活躍は連合国の戦争計画を徐々に狂わせていきます。
日本が危機に?第二次日露戦争
杏
歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。
なろう、カクヨムでも連載しています。
浅井長政は織田信長に忠誠を誓う
ピコサイクス
歴史・時代
1570年5月24日、織田信長は朝倉義景を攻めるため越後に侵攻した。その時浅井長政は婚姻関係の織田家か古くから関係ある朝倉家どちらの味方をするか迷っていた。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる