天上の桜

乃平 悠鼓

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第二章

籠鳥残火《二》

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 静寂せいじゃく沈黙ちんもくが支配する、薄い薄い藍色あいいろの世界。昼間のまぶしいばりの暖かい光が大地に降り注ぐ時間帯とは違い、光はそのいろどりを落とし少しだけ冷たい朝の風が吹き抜ける。
 此処ここ、神々の住まう天上界には下界のような暗闇の夜は存在しない。天上界は、何時なんどきも光に満たされているのがつねだ。
 しかし、それでも天上界において夜とされる光景は、眩しい光が彩りを落とし空が薄い藍色に染め上げられ、少しだけ気温が下がった時間帯のことを言う。
 この時、天上人はこれを夜と認めつかの間の眠りにつく。人も動物も草木すらも、この淡い淡い藍色の空の下、つかの間の眠りにつくのだ。




 薄い藍色の空が、いま真昼の輝くばかりの光を取り戻そうとしていた。此処、天上界で言うところの夜明け、一人の女性が天都てんとの中心から離れた大きな離宮と呼ばれる場所で庭を見つめ静かに立ち尽くしている。
 天上界では、まだ朝の風がそっと吹き抜ける肌寒い早朝の時間帯だ。神々の間ですら、忘れ去られた存在であるはずのこの離宮。そこでまた、あの花が咲いた。
 その昔は、公務に追われる天帝のいこいの場であったはずの場所。天都の中心とは違い、静かにでるにふさわしい天上界一の大きな美しい桜の大木が植えられ、広い広い庭には小さな川も、湖かと見間違えてしまう程に澄み渡った池まである。
 そう、此処こそが一つの小さな村だと言っても過言かごんではない。離宮のいたる所には美しい花々が咲き乱れ、肌寒い時間帯であるにも関わらず、そっと花の息吹が満ち溢れていた。

「あなた…」

 堂室へやの窓をいっぱいに開け、早朝の冷たい風を中に通し、の人は庭の一角を見つめ呟いた。きっと夫が眠るあの場所にも、あの花が咲き乱れているに違いない。
 整った顔立ちに、風になびく長い灰簾石タンザナイト色の髪が美しく、開かれた双眸も同じく澄んだ深い海を思わせるようだった。天上界でも際立きわだつ美しさを持った彼の人の名は “聖宮せいぐう” と言い、この離宮のあるじである。その美しさはそのまま息子に受け継がれ、離宮でわずかな側使そばづかえの者達と暮らしていた。
 庭を見つめ続ける聖宮と共に、朝の光も今、真昼の彩りを取り戻そうとしている。









「お元気そうね」
「えぇ、貴女あなたも」

 懐かしい親友に会うのは、どれくらい振りだろうか。いや、この離宮に外の天人てんじんが足を踏み入れること事態、長い間なかった。
 あの日、鶯光帝おうこうていがたった一人の妹である聖宮を此処蒼宮そうきゅうに幽閉した時から、蒼宮は天都とは隔離かくりされ忘れされた場所なのだから。

「やっとお目にかかることができたわ。長い間、とても心配していましたの」
「ごめんなさい、心配をおかけして」
「いいの。貴女とは、幼い頃からの親友ですもの。下界から戻って来られた後、何度も鶯光帝に面会をとお願いしたのだけれど、“幽閉の身ゆえ会わせられぬ” と。そのうち、人づてに貴女が男の子を産んだと聞いて、この蒼宮で如何いかがお過ごしなのかと…」

 この広すぎる蒼宮に、人の気配はほとんどない。鶯光帝が聖宮を此処に幽閉する際、必要最小限の僅かな人々しか与えなかったからだ。
 天都から離れた、天帝と親しい者以外ほとんどの神の出入りが禁止された場所であったため、聖宮を幽閉するには最適だった。もはや鶯光帝にとって聖宮は、他人にその存在すらも知られたくない、不肖ふしょうの妹以外の何者でもない。

「貴女も、とても可愛らしい女の子を持たれて」
「えぇ、おかげ様で」

 親友の横でちょこんと座って堂室を見渡している幼子は、とても可愛い女の子だった。聖宮の息子より、少し年下と言ったところだろうか。

「実は、この度夫が下界への赴任ふにんを言い渡されましたの」
「そう」
「貴女の一件からこの方、鶯光帝は下界との接触を一切絶っておられた。それが、下界からたっての願いと要請が何度もあって、私達夫婦がくだることになりましまの」
「今の下界では、いらぬいくさが何度も繰り返されている場所もあると聞きます。上界からの手助けを望む声も、多いのでしょうね」
「私達の力が、お役にたてるのならいいのだけれど」
「きっと貴女のご主人は、兄上からの信頼があついのね」

 そう言って聖宮は、中庭を見つめた。自分を此処に幽閉した兄とは、もう随分ずいぶんと会ってはいない。 

「大変名誉なことだわ。古来、下界へ下るのは位の高い独身者と決まっていた。でも、貴女のことがあったから、鶯光帝は主人を任命されたのだと思うわ。家族みなで下界へおもむき、力を尽くせと。そのおかげで、貴女にお会いできた。下界へ下る前に、一目貴女にお会いしたいと言う私の願いを、鶯光帝は叶えて下さった」

 その言葉に聖宮は双眸を細め、何かを思い出したように穏やかな笑みを見せた。

「下界は良いところよ、生命の息吹が至るところにあふれとても美しい。永遠に近い時をただ無意味に生き続けている私達と違って、あちらこちらに生命の営みがある。“生きる” と言うことの本当の意味、本当の素晴らしさを教えてくれるわ。それは、貴女にとってもご主人にとっても、その小さなお嬢さんにとっても、きっと良いことになるわ」

 聖宮が下界で暮らしたのは僅か二年ほど。それでも、あの自然しかないような片田舎で、自らの手で食べ物を育て愛する人と暮らした思い出は、聖宮の中で何よりも大切な思い出になっていた。










********

何時→いつ。どのとき
常→いつでも変わることなく同じであること。いつもそうであること
憩い→からだや心を休めること。休息
過言→言いすぎ。大げさすぎる言い方
至る→広い範囲に及ぶ。行きわたる
息吹→生気や活気のあること
側仕え→主君のそば近くに仕えること。また、その人
幽閉→ある場所に閉じ込めて外に出さないこと
如何→物事の成り行きや状態。不明な内容などを示す表現。『いかが』は『ご機嫌如何』のように用いられる
不肖→父に、あるいは師に似ないで愚かなこと。また、そのさま
赴任→任地におもむくこと
赴く→その方向へゆく。向かって行くことを意味する語


次回投稿は23日24日が目標です。

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