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第二章
始まりの終わり《六》
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「あ…ッ!!」
それは、ほんの一瞬のことだった。いつ何時も初夏のような陽射しが降り注ぐ穏やかな天上界とは違い、下界には様々な天候があるのだと聞いてはいた。
天女達が居た天上界には、曇り空や嵐などはない。雨すらも、天人達が寝静まっている夜と呼ばれる時間帯に龍神達がそっと降らすので、殆どの天人達は見たこともなかった。
それでも好奇心旺盛な天女達は、一度は夜中に起きて雨を見てはその中に飛び出して行き、びしょ濡れになるまで外で舞を踊るように飛び跳ね、雨を楽しむのだった。
『よく聞いておいて。下界では突然、風が吹くことがあるから気をつけて。私達天女が天衣をなくしてしまう一番の原因は、風なのよ。特に突風と呼ばれる強い風は厄介よ、私達が知っている風とは全く違うの』
先に生まれ、何度か下界に降りたことのある天女達は、いつもそう言っていた。天女の持つ天衣は羽よりも軽く、少しの風にも舞い上げられ飛んで行く。
今まで、幾人もの天女達が風に天衣を奪われ、この天上界に戻って来れなくなったことか。それは天女達が誰よりも一番よく知っていることで、下界に降りることが決まると、先輩天女達が皆そう言って来るのだ。
その日、天帝の使いとして数人の天女達が浜辺に降り立った。初めて下界に降りる天女には、見たこともない広い広い水溜りのような海は、太陽の陽射しを浴びてキラキラと輝いて見え、浜辺に列をなす緑の木々も美しかった。
何度も聞いた “風には気をつけて”、その言葉を忘れていた訳ではない。ただそれよりも、天上界とは違う下界の美しさに、その光景についつい心を奪われてしまったのだ。
足元に感じる初めての浜辺の感覚は、身体を得て緑の大地に降り立った時とはまた違う。もちろん、天上界の石畳とも違ったし、燦燦と降り注ぐ陽の光や海の青と松の緑、それら全てが天女にとっては初めて目にする珍しい光景だった。
身体を得て自分の足で大地を踏みしめ空を眺めた時も、“なんて美しいの” と思った。だが、下界の光景はそれ以上だった。一瞬にして心を奪われ、思わず気を抜いてしまったのも仕方がないことだったのかも知れない。
そんな中、激しい突風が天女を襲う。軽い天衣はいとも簡単に天女の手をすり抜け、天高く舞い上がる。“あ…ッ” と声を上げ手を伸ばした時にはもう、天衣は指先も届かぬ高さに飛んでいて、スッーと山の方へ高く高く飛んで消えて行ってしまった。
「待って!!」
天衣を持ったまま蹲る天女や、なれたように避難していた天女達から離れ、ただ一人天衣を飛ばされた天女が駆け出して行く。
「天衣を見つけたら、そのまま天上界に戻るのよ!!」
背後から聞こえる声すら耳に入らぬように、天女は天衣が飛んで行った山の方向へと視線を向け、一人走り去って行った。
天女は、見たこともない風景の中を、ただ一人歩く。元々、陽の氣だけを受けて生まれた天女は優しく陽気で朗らかで楽天的だ。
だから天衣を無くした悲愴感よりも、初めて足を踏み入れた山の風景に心を躍らせてしまったのも、仕方がないことかも知れない。
「綺麗…」
天女が今まで見てきた風景は、何処までも続く青い空や緑の大地、そして石畳だけだった。それがどうだろう、目の前には茶色の大地があり、沢山の木々で溢れかえっている。
そして目の前には、小さな花が沢山咲いている場所があり、かすかに花の香りがしていた。そこには、時折小さな動物たちも顔を出す。
「まぁ!」
人間ではない天女は、いくら歩いていても疲れることはない。天衣がなければ天上界には帰れないと言うのに、綺麗な風景や山の香り、生き物たちの行動に好奇心がうずき、山歩きをしながらこの状況を楽しんでいるようにしか見えない。
「寒い…わ…」
シトシトと降り続く雨。初めて見た雨はとても魅力的で、美しいと思った。今だって、まだ雨は珍しいし、思わず手を出して触ってみたくなる。でも…。
天衣を捜して一人山に入って、もう三日が経つ。だが未だに天衣は見つからず、もう天衣が何処にあるのかもわからない。
最初の一日目はすぐに夜になってしまい、仕方なく大きな木を見つけ、その木に登り僅かばかりの睡眠をとった。天女は人間よりは丈夫で、見かけによらず体力もある。一日中歩き詰めでも構わないが、流石に野生の熊や獣に襲われれば無事ではすまない。真っ暗な森の夜を、一人木の上で危機をやり過ごしたのだ。
だが、三日目になっても天衣は見つからなかった。その日はお昼過ぎから雨も振り出して、泥濘んだ地面に足を取られ転んでしまった。
天上界の上等な布地で作られた衣は汚れ、降り続く雨は冷たく天女の体温を奪って行く。幾ら陽気で楽天的な天女だったとしても、たった一人誰もいない雨が降り続く山の中を歩き回るのは気落ちしてしまう。
「寒…い」
雨宿りの為に身を寄せた木の幹に背中を預け、真っ暗な空を見上げる。葉が生い茂るこの木の下なら、一時的な雨宿りはできる。だが、雨は一向に止む気配はない。
これが他の天女と一緒だったら、楽しかったかも知れない。でも、一人ぼっちの天女には、寒くて暗い山と雨音しかない。
“寂しい”、天女は汚れて濡れた衣の上から “大丈夫” と自分を励ますように、その手で肩を擦った。天女には人間ほどの体温はないし、寒さ暑さもそれほど感じない。それでも指先がかじかんで、感覚がなくなって行くのがわかる。
「皆の所に…、帰り…たい…」
ポツリとそう呟いた時
「誰か、いるのか?」
と声がして、身体の大きな男が現れた。これが、天女と鬼の出会いである。
********
幾人も→ある程度まとまった人数。何人
燦燦→太陽などが明るく光り輝くさま。彩りなどの鮮やかで美しいさま
いとも簡単→ものすごく簡単。ひじょうに簡単
蹲る→からだを丸くしてしゃがみ込む
悲愴感→つらく悲しいこと、またはそれを感じている
歩き詰め→休まずに歩きつづけること
泥濘み→雨や雪解けなどで地面がぬかっている所
生い茂る→草木が枝葉を広げて生え重なる
擦る→手のひらなどでからだや物の表面を、くりかえし軽くこする
次回投稿は16日か17日が目標です。
それは、ほんの一瞬のことだった。いつ何時も初夏のような陽射しが降り注ぐ穏やかな天上界とは違い、下界には様々な天候があるのだと聞いてはいた。
天女達が居た天上界には、曇り空や嵐などはない。雨すらも、天人達が寝静まっている夜と呼ばれる時間帯に龍神達がそっと降らすので、殆どの天人達は見たこともなかった。
それでも好奇心旺盛な天女達は、一度は夜中に起きて雨を見てはその中に飛び出して行き、びしょ濡れになるまで外で舞を踊るように飛び跳ね、雨を楽しむのだった。
『よく聞いておいて。下界では突然、風が吹くことがあるから気をつけて。私達天女が天衣をなくしてしまう一番の原因は、風なのよ。特に突風と呼ばれる強い風は厄介よ、私達が知っている風とは全く違うの』
先に生まれ、何度か下界に降りたことのある天女達は、いつもそう言っていた。天女の持つ天衣は羽よりも軽く、少しの風にも舞い上げられ飛んで行く。
今まで、幾人もの天女達が風に天衣を奪われ、この天上界に戻って来れなくなったことか。それは天女達が誰よりも一番よく知っていることで、下界に降りることが決まると、先輩天女達が皆そう言って来るのだ。
その日、天帝の使いとして数人の天女達が浜辺に降り立った。初めて下界に降りる天女には、見たこともない広い広い水溜りのような海は、太陽の陽射しを浴びてキラキラと輝いて見え、浜辺に列をなす緑の木々も美しかった。
何度も聞いた “風には気をつけて”、その言葉を忘れていた訳ではない。ただそれよりも、天上界とは違う下界の美しさに、その光景についつい心を奪われてしまったのだ。
足元に感じる初めての浜辺の感覚は、身体を得て緑の大地に降り立った時とはまた違う。もちろん、天上界の石畳とも違ったし、燦燦と降り注ぐ陽の光や海の青と松の緑、それら全てが天女にとっては初めて目にする珍しい光景だった。
身体を得て自分の足で大地を踏みしめ空を眺めた時も、“なんて美しいの” と思った。だが、下界の光景はそれ以上だった。一瞬にして心を奪われ、思わず気を抜いてしまったのも仕方がないことだったのかも知れない。
そんな中、激しい突風が天女を襲う。軽い天衣はいとも簡単に天女の手をすり抜け、天高く舞い上がる。“あ…ッ” と声を上げ手を伸ばした時にはもう、天衣は指先も届かぬ高さに飛んでいて、スッーと山の方へ高く高く飛んで消えて行ってしまった。
「待って!!」
天衣を持ったまま蹲る天女や、なれたように避難していた天女達から離れ、ただ一人天衣を飛ばされた天女が駆け出して行く。
「天衣を見つけたら、そのまま天上界に戻るのよ!!」
背後から聞こえる声すら耳に入らぬように、天女は天衣が飛んで行った山の方向へと視線を向け、一人走り去って行った。
天女は、見たこともない風景の中を、ただ一人歩く。元々、陽の氣だけを受けて生まれた天女は優しく陽気で朗らかで楽天的だ。
だから天衣を無くした悲愴感よりも、初めて足を踏み入れた山の風景に心を躍らせてしまったのも、仕方がないことかも知れない。
「綺麗…」
天女が今まで見てきた風景は、何処までも続く青い空や緑の大地、そして石畳だけだった。それがどうだろう、目の前には茶色の大地があり、沢山の木々で溢れかえっている。
そして目の前には、小さな花が沢山咲いている場所があり、かすかに花の香りがしていた。そこには、時折小さな動物たちも顔を出す。
「まぁ!」
人間ではない天女は、いくら歩いていても疲れることはない。天衣がなければ天上界には帰れないと言うのに、綺麗な風景や山の香り、生き物たちの行動に好奇心がうずき、山歩きをしながらこの状況を楽しんでいるようにしか見えない。
「寒い…わ…」
シトシトと降り続く雨。初めて見た雨はとても魅力的で、美しいと思った。今だって、まだ雨は珍しいし、思わず手を出して触ってみたくなる。でも…。
天衣を捜して一人山に入って、もう三日が経つ。だが未だに天衣は見つからず、もう天衣が何処にあるのかもわからない。
最初の一日目はすぐに夜になってしまい、仕方なく大きな木を見つけ、その木に登り僅かばかりの睡眠をとった。天女は人間よりは丈夫で、見かけによらず体力もある。一日中歩き詰めでも構わないが、流石に野生の熊や獣に襲われれば無事ではすまない。真っ暗な森の夜を、一人木の上で危機をやり過ごしたのだ。
だが、三日目になっても天衣は見つからなかった。その日はお昼過ぎから雨も振り出して、泥濘んだ地面に足を取られ転んでしまった。
天上界の上等な布地で作られた衣は汚れ、降り続く雨は冷たく天女の体温を奪って行く。幾ら陽気で楽天的な天女だったとしても、たった一人誰もいない雨が降り続く山の中を歩き回るのは気落ちしてしまう。
「寒…い」
雨宿りの為に身を寄せた木の幹に背中を預け、真っ暗な空を見上げる。葉が生い茂るこの木の下なら、一時的な雨宿りはできる。だが、雨は一向に止む気配はない。
これが他の天女と一緒だったら、楽しかったかも知れない。でも、一人ぼっちの天女には、寒くて暗い山と雨音しかない。
“寂しい”、天女は汚れて濡れた衣の上から “大丈夫” と自分を励ますように、その手で肩を擦った。天女には人間ほどの体温はないし、寒さ暑さもそれほど感じない。それでも指先がかじかんで、感覚がなくなって行くのがわかる。
「皆の所に…、帰り…たい…」
ポツリとそう呟いた時
「誰か、いるのか?」
と声がして、身体の大きな男が現れた。これが、天女と鬼の出会いである。
********
幾人も→ある程度まとまった人数。何人
燦燦→太陽などが明るく光り輝くさま。彩りなどの鮮やかで美しいさま
いとも簡単→ものすごく簡単。ひじょうに簡単
蹲る→からだを丸くしてしゃがみ込む
悲愴感→つらく悲しいこと、またはそれを感じている
歩き詰め→休まずに歩きつづけること
泥濘み→雨や雪解けなどで地面がぬかっている所
生い茂る→草木が枝葉を広げて生え重なる
擦る→手のひらなどでからだや物の表面を、くりかえし軽くこする
次回投稿は16日か17日が目標です。
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