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第一章
川辺の水落鬼 《一》
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ここ数日は、翡翠観の離れにて休養をとりつつ、西への旅に向け準備が進められていた。
此処を出て七年、玄奘は一日たりとも気を抜くことなどできなかったし、悟空や悟浄や八戒とて、故郷を出てからは気を張ってばかりだった。
だが、此処は玄奘が育った場所であり、この三扇地区の西側では最大を誇る大きな道観だ。
緑松はたくさんの弟子をかかえており、少し離れた所には孤児院もある。道観の下の方には小さな村もあり、必要な物は手に入る。
こんな穏やかな地で、肩の力を抜いて過ごすのは何年ぶりのことか。西への道は長く険しい。今はただ、この穏やかな地で 英気を養うのだ。
「ほら、この人参裏の畑で育ててるんだ。旨いぞ」
そう言って山茶は、人参を差し出した。朝の掃除を終えた山茶は、此処へくる途中に裏の畑から一本の人参を抜き、離れの水場で洗い輪切りにして皿に乗せて持ってきた。こう見えて、動物や子供の面倒見はよい方なのだ。
大神は神の使いゆえ子供には優しいが、大人にはプライドが高く素っ気ない。初めは大神にも世話をやいていた山茶だが、今はもっぱら玉龍の世話だけをせっせとやいている。
ハムスターは、短い小さな手で人参の輪切りを持ち、ガジガジと美味しそうに人参を食べる。
「お前、本当に旨そうに食べるな。持ってきたかいがあるよ」
ハムスターを見ながら山茶が呟けば、“ぴゅ” と答えるようにハムスターは鳴く。
「可愛いな、お前」
山茶の言葉に、“当然!” とばかりに鳴いた玉龍だが、“何処が、お前龍王の息子だろうが!” と、そこにいた全員が心の中で突っ込みを入れていた。
「なぁ、皆はどうやって知り合ったんだ」
この道観の中で、一番に皆と仲よくなった山茶は、旅の話をよく聞いてくる。山茶は、此処三扇地区から出たことはない。よその見たこともない世界は、山茶にとっては夢の世界のようだ。そんな外の世界で、いかにして皆は出会ったのか。興味津々だ。
「あぁ、あれかー」
「あれな、思い出したくもねぇ」
「まぁ、今となってはいい思い出ではありませんか」
悟空は天井を見上げ、悟浄は窓の外を見つめ、八戒は手に持つ書物から目を離すことなく、三者三様の態度を見せた。
「そんなに聞きたいのか、あの時の話が」
玄奘の言葉に、“聞きたい!” と、山茶は言った。
玄奘達の出逢いは、そんな昔のことではない。あれから、まだ一ヶ月もたっていないのだから。
あの日は曇り空だった。南側から西側に渡る川の渡し船。南側の川上から、西側の川下に行くのだ。その日の最終便である船には、十六人ほどが乗っていた。
商人らしき男や親子連れ、武人のような男もいれば優男もいる。皆が思い思いに座り、西側に着くまで時間を過ごすのだ。この日も、何時もと変わらず穏やかな川の流れの中、船は進んでいた。
ただ、その川が普通の川と違うと言われるのは、雨の日の夜には “水落鬼” と言う水中に棲む妖怪が出現することだ。
水落鬼は、溺死人の成れの果てと言われ、目撃した人の話では緑色の眼玉を持ち水獺に似ていると言われている。また、水落鬼は火や熱いものが苦手だと伝えられている。
その日は曇り空ではあったが、雨は降っていなかった。そして夜ではなく、まだ夕方にもなっていなかった。
だが、やつは現れた。穏やかな川の流れを遮るように音をたて、川底からその姿を現したのだ。
「キャー!!」
「よ、妖怪だー!!」
「逃げろー!!」
人々は毛皮を被ったような水落鬼の姿を目にし、慌てふためいた。船の中を、水落鬼が現れた方の反対側へと逃げ惑う。そのため、船のバランスが崩れる。
「落ち着け!」
黒色の唐装長袖の上下に、同じ形の丈の長い上着を着た男が言った。初めて妖怪を見て、あまりの恐ろしさに泣き出す小さな女の子。まだ大人になりきっていない外套を頭からすっぽりとかぶった男の子が
「大丈夫、怖くないぞ」
そう言って、女の子の頭を撫でた。するとその男の子は立ち上がり、左手で自らの右耳につけられていた耳墜を掴みとった。
「伸びろー! 如意金箍棒!!」
突然、男の子の掌から茜色の棒が現れて伸びた。片方が、対岸にあった巨大な岩を貫く。次の瞬間には
「縮め、如意金箍棒!!」
と叫ぶと、男の子が握り締めている棒がシュルシュルと縮み、対岸の巨大な岩を貫く棒はそのままに、男の子が持つ方の棒が対岸の岩へ向かって縮んで行った。男の子は
「おりゃーーー!!」
と叫びながら、棒を離さぬようしっかりと握り締める。川中の水落鬼から船は少しずつ離れ、対岸に近づいて行く。だが船の後を追うように、水落鬼もノソノソと川の中を歩いてくる。その様子に
「水落鬼は、水からは出られないはずだが……」
黒色の唐装上下の男が言った。
「持ちこたえろー! 岩ーーー!!」
できるだけ巨大な岩を選んだつもりだったが、岩が如意金箍棒の重さに耐えきれずひび割れが入って行く。座っていた男達の中から武人の姿をした男が立ち上がり、男の子の側にきて如意金箍棒を掴んだ。
「もっと早く縮められるか、俺も手伝う」
何十人も乗った船だ、男の子の力だけではそう早くには動かせられない。だが、加勢してくれる力があるなら
「できる! 如意金箍棒!!」
男の子の声に答えるように、棒は速さをまし縮む。そして、対岸が間近に迫ってきた。
「皆さん、船を降りる準備を!」
深衣を着た男が叫ぶ。男の声に荷物を持つ者、幼子の手を握る者と、人々が恐怖を胸に動く。
船を対岸につけるには、棒が突き刺さる岩の少し先まで行かなければならない。深衣の男は立ち上がると、左手を前に差し出す。すると、その掌から弓が現れた。ついで弓の弦に右手を添える と、右手の掌に箭が現れる。その箭には長い紐がついており、男は対岸の岩の先にある森の木めがけて、その箭を放った。
箭は、弧を描き森の木に巻きつく。そして船が対岸に近づいた瞬間、バリバリとおとを立てて巨大な岩が崩れ落ちる。
「此方を、長くはもたない!」
所詮は紐だ。一刻も早く、紐が切れる前に対岸に船を寄せ、全員を船から降ろさなければ。
「オレが手伝う!」
男が持つ紐を、男の子が掴んだ。船の船頭と武人の姿の男が協力して無理やり対岸に船を寄せ、乗客達を降ろして行った。
最後に、黒色唐装上下の男が船を降りたが
「走れ! この水落鬼は陸に上がって来るぞ!」
と、叫んだ。
********
深衣 → 上下一体の一重の着物
箭 → 矢
此処を出て七年、玄奘は一日たりとも気を抜くことなどできなかったし、悟空や悟浄や八戒とて、故郷を出てからは気を張ってばかりだった。
だが、此処は玄奘が育った場所であり、この三扇地区の西側では最大を誇る大きな道観だ。
緑松はたくさんの弟子をかかえており、少し離れた所には孤児院もある。道観の下の方には小さな村もあり、必要な物は手に入る。
こんな穏やかな地で、肩の力を抜いて過ごすのは何年ぶりのことか。西への道は長く険しい。今はただ、この穏やかな地で 英気を養うのだ。
「ほら、この人参裏の畑で育ててるんだ。旨いぞ」
そう言って山茶は、人参を差し出した。朝の掃除を終えた山茶は、此処へくる途中に裏の畑から一本の人参を抜き、離れの水場で洗い輪切りにして皿に乗せて持ってきた。こう見えて、動物や子供の面倒見はよい方なのだ。
大神は神の使いゆえ子供には優しいが、大人にはプライドが高く素っ気ない。初めは大神にも世話をやいていた山茶だが、今はもっぱら玉龍の世話だけをせっせとやいている。
ハムスターは、短い小さな手で人参の輪切りを持ち、ガジガジと美味しそうに人参を食べる。
「お前、本当に旨そうに食べるな。持ってきたかいがあるよ」
ハムスターを見ながら山茶が呟けば、“ぴゅ” と答えるようにハムスターは鳴く。
「可愛いな、お前」
山茶の言葉に、“当然!” とばかりに鳴いた玉龍だが、“何処が、お前龍王の息子だろうが!” と、そこにいた全員が心の中で突っ込みを入れていた。
「なぁ、皆はどうやって知り合ったんだ」
この道観の中で、一番に皆と仲よくなった山茶は、旅の話をよく聞いてくる。山茶は、此処三扇地区から出たことはない。よその見たこともない世界は、山茶にとっては夢の世界のようだ。そんな外の世界で、いかにして皆は出会ったのか。興味津々だ。
「あぁ、あれかー」
「あれな、思い出したくもねぇ」
「まぁ、今となってはいい思い出ではありませんか」
悟空は天井を見上げ、悟浄は窓の外を見つめ、八戒は手に持つ書物から目を離すことなく、三者三様の態度を見せた。
「そんなに聞きたいのか、あの時の話が」
玄奘の言葉に、“聞きたい!” と、山茶は言った。
玄奘達の出逢いは、そんな昔のことではない。あれから、まだ一ヶ月もたっていないのだから。
あの日は曇り空だった。南側から西側に渡る川の渡し船。南側の川上から、西側の川下に行くのだ。その日の最終便である船には、十六人ほどが乗っていた。
商人らしき男や親子連れ、武人のような男もいれば優男もいる。皆が思い思いに座り、西側に着くまで時間を過ごすのだ。この日も、何時もと変わらず穏やかな川の流れの中、船は進んでいた。
ただ、その川が普通の川と違うと言われるのは、雨の日の夜には “水落鬼” と言う水中に棲む妖怪が出現することだ。
水落鬼は、溺死人の成れの果てと言われ、目撃した人の話では緑色の眼玉を持ち水獺に似ていると言われている。また、水落鬼は火や熱いものが苦手だと伝えられている。
その日は曇り空ではあったが、雨は降っていなかった。そして夜ではなく、まだ夕方にもなっていなかった。
だが、やつは現れた。穏やかな川の流れを遮るように音をたて、川底からその姿を現したのだ。
「キャー!!」
「よ、妖怪だー!!」
「逃げろー!!」
人々は毛皮を被ったような水落鬼の姿を目にし、慌てふためいた。船の中を、水落鬼が現れた方の反対側へと逃げ惑う。そのため、船のバランスが崩れる。
「落ち着け!」
黒色の唐装長袖の上下に、同じ形の丈の長い上着を着た男が言った。初めて妖怪を見て、あまりの恐ろしさに泣き出す小さな女の子。まだ大人になりきっていない外套を頭からすっぽりとかぶった男の子が
「大丈夫、怖くないぞ」
そう言って、女の子の頭を撫でた。するとその男の子は立ち上がり、左手で自らの右耳につけられていた耳墜を掴みとった。
「伸びろー! 如意金箍棒!!」
突然、男の子の掌から茜色の棒が現れて伸びた。片方が、対岸にあった巨大な岩を貫く。次の瞬間には
「縮め、如意金箍棒!!」
と叫ぶと、男の子が握り締めている棒がシュルシュルと縮み、対岸の巨大な岩を貫く棒はそのままに、男の子が持つ方の棒が対岸の岩へ向かって縮んで行った。男の子は
「おりゃーーー!!」
と叫びながら、棒を離さぬようしっかりと握り締める。川中の水落鬼から船は少しずつ離れ、対岸に近づいて行く。だが船の後を追うように、水落鬼もノソノソと川の中を歩いてくる。その様子に
「水落鬼は、水からは出られないはずだが……」
黒色の唐装上下の男が言った。
「持ちこたえろー! 岩ーーー!!」
できるだけ巨大な岩を選んだつもりだったが、岩が如意金箍棒の重さに耐えきれずひび割れが入って行く。座っていた男達の中から武人の姿をした男が立ち上がり、男の子の側にきて如意金箍棒を掴んだ。
「もっと早く縮められるか、俺も手伝う」
何十人も乗った船だ、男の子の力だけではそう早くには動かせられない。だが、加勢してくれる力があるなら
「できる! 如意金箍棒!!」
男の子の声に答えるように、棒は速さをまし縮む。そして、対岸が間近に迫ってきた。
「皆さん、船を降りる準備を!」
深衣を着た男が叫ぶ。男の声に荷物を持つ者、幼子の手を握る者と、人々が恐怖を胸に動く。
船を対岸につけるには、棒が突き刺さる岩の少し先まで行かなければならない。深衣の男は立ち上がると、左手を前に差し出す。すると、その掌から弓が現れた。ついで弓の弦に右手を添える と、右手の掌に箭が現れる。その箭には長い紐がついており、男は対岸の岩の先にある森の木めがけて、その箭を放った。
箭は、弧を描き森の木に巻きつく。そして船が対岸に近づいた瞬間、バリバリとおとを立てて巨大な岩が崩れ落ちる。
「此方を、長くはもたない!」
所詮は紐だ。一刻も早く、紐が切れる前に対岸に船を寄せ、全員を船から降ろさなければ。
「オレが手伝う!」
男が持つ紐を、男の子が掴んだ。船の船頭と武人の姿の男が協力して無理やり対岸に船を寄せ、乗客達を降ろして行った。
最後に、黒色唐装上下の男が船を降りたが
「走れ! この水落鬼は陸に上がって来るぞ!」
と、叫んだ。
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深衣 → 上下一体の一重の着物
箭 → 矢
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