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三章 棘の迷宮
第27話 懲罰
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28
崩壊し切った部屋へ下りると、取りあえず直ぐに瓦礫から離れて、ジェイド達は隅へと身を寄せた。
複製されたような切り刻まれた部屋は、未だ僅かに照明の恩恵を受けているようで薄暗い。オリヴァンのような人間でも、自立出来る光度はあるようで、一人でどこかへ行こうとしているが、ヘルレアが面倒見の良さを案外に発揮して、彼は襟首をしっかりと掴まれている。
部屋は瓦礫が増えただけで同じ。そう上階から見渡して錯覚したものだが、ジェイドは直ぐに廊下へ続く出入り口が無いことに気付いていた。
部屋の瓦礫が再び動き出して、瞬時に中空でまとまると、朽ちた赤黒い獣が、斃れ伏す姿が現れた。一枚板となった瓦礫は、天井へと戻っていく。そして、前とは違い雨のような細片が、再浮上して天へと帰った。それは硝子片であり、天井へと見事な細工の帯を描いて戻る。そうして、抜き落とされなかった天井の、装飾硝子と融合して部屋全体を照らす豪奢な照明となったのだが、どこかしら欠けていて、全てが再生されてはいない。硝子の涙滴は両断され、帯は多くが断たれて壊れている。
部屋の胎動が終わると、照明が鮮やかに点って、本当に初めて入った部屋の様相を取り戻した――板戸が外され、開きっぱなしだった出入り口以外。
ヘルレアが頬を歪ませて笑む。
「始まり、始まり……ってことだな」
「戻って来た――そんな単純で、不可思議なわけはないか」
「まあな。もう壁や床を打ち抜くような荒業では、どこへも行けない」
「あらら、やっちゃったかな? 出してくれ、出してくれよう。いひひひ!」オリヴァンはまるで他人事のように、亡霊の声音を真似ている。
ヘルレアが壁へ鉄拳をめり込ませた。
珍しくオリヴァンが目を瞬いている。
「……これだとシバいたら、ひ弱なムー君なら直ぐ死んじゃうよね。かわいそう。なんだっけ? せーぼのしゅくふくが、なんたら、かんたら」教主であるオリヴァンが、〈聖母の盾〉その幸いを祈る言葉をなんたらで済ました。
「お前は少し恐がれってんだ、くそったれ」
ヘルレアはオリヴァンの胸ぐらを掴み、がくがく揺らしているが、当のオリヴァンは、いつものわけの判らない、気の抜けた声で“あ、あ、あ、あ”と嬉しそうにしている。
「ヘルレア、どう動く?」
「空間が殆ど、正しく人界に閉じているから危険は無い、散れ、考えろ。私に負ぶさってばかりいるな」
「正しく閉じている、とは」
「人界に近い、でも、力を行使し続ける異物がある。つまり、異物の存在で正攻法では出られないが、人界に近い分だけ出る機会もまた同様に存在している。この様子を見るに、〈蜂の巣〉を支配しているのは、人界の者ではないのは明らかだろう。私達に有利な現状の不安定さは、定められた覆せない、道理が原因と考えろ――人界には人界の掟がある。いかなる格を有する高位存在であろうと、人界の掟を全ては覆せない。得体の知れない場所から、お節介をしようというのだから……完璧なものなど存在し得ない」
「ある種の摩擦か……?」
「もうこの段階になると、摩擦とは言わないだろう――〈全ては定める者によりて〉、という……聞いたことはないか? これはもう世界の在り方の問題だ。私達がどうこう言ってもどうにもならない。だが、今回ばかりは、そのウザい掟に感謝でもしておくか。突破口は必ずある」
ヘルレアが手を払って、ジェイドへ行動を促した。この部屋から出て、主人の居る場所へと向かって行かなければならない。ジェイドはまず、何に着目すべきなのか、そもそも判らない。
主人の気配を少しでも追いたい。
だが、それは危険過ぎて、けして許される行為ではなかった。主人がどのような状態におかれているのか判らない以上、猟犬の身勝手な接触が、主人へ取り返しのつかない深刻な損傷を与えてしまう可能性がある。今は主人からの接触を待つしかない。そして、たとえ気配を追えなくとも、一刻も早くお側へ行かなくてはならならなかった。
――また、それも掟。
だが、掟と言われて主人を求めるのではないと、心が叫ぶ。たとえそれが、刷り込まれた偽りの感情であろうと、今のジェイドにはどちらでもいい事だった。
ただ、護らなければ――。
薄闇に佇む少年の、緑と潤む瞳。真っ直ぐに見つめられた時、そこに懲罰と赦しを見出した。
――奪わせはしない。
――その御手を払う者へ牙を剥こう。
――授けられた姿を失い、醜く朽ち果てようとも。
自然、部屋全体のありようが、ジェイドの意識へ一息に流れ込む。部屋全体に自身が具えた全能が行き渡っていた。部屋は乱れていて、凹凸の落差が激しく、谷のようにすら感じられる。そうして探っていても、瓦礫と塵芥ばかりで、気を引くものは無く、獣が放つ獣臭と血臭が、猟犬の本能を激しく煽り立てるばかりだった。
何をすればいい。どうすれば、お会い出来る。どうすれば、どうすれば……。
ヘルレアが舌打ちする震えが、痛みを感じる程強く伝わって来た。全能が莫大な感覚を絶ち、最適な刺激を選び取ると、王へと意識を戻した。
「力は増したし、折れないのはいいが、こうも悍ましいとは。一種のセクハラだよな」
「そんなに、酷く気に障るのか?」
「障る。ではなくて、触る。だよ、ボケ。全身撫で回されているようだ。今のお前だと余計にキモい。まあ、そもそもおっさんはキモいが」
「早く物事を処理する為だ。お前自身も負ぶさるな、と言っただろうが……カイムもあと十年も待たずに、俺とどっこいどっこいのおっさんになるかもしれないぞ」
「その頃はもう、私は死んでるからどうでもいい。というより、カイムがどうなろうと知ったことか」
「一日でも早く夫にしてやれば、あの坊っちゃん面を保てるものだが、保って何年か……純黒の礼装も、大分貫禄がついてしまうだろうな。初めて礼装をまとった時は、それは麗しくて純黒の天使と呼ばれたものだが」
「うるさい、何を呑気に喋ってる暇がある。先程まで焦っていたのは何だったんだ」
ジェイドは指摘されて、はた、と気付く。何故か主人の話しは彼を夢中にさせた。ジェイドは急いで感覚を広げたが、なるべくヘルレアを避けるように手を伸ばすと、まるでスープに油が浮くように、ぽつんと動くヘルレアを弾く。ついでにオリヴァンも……。
「部屋の中で、何かを探すのが正しいのか?」
「さあ、知らん」
「いい加減だな」
「前に言っただろう、こういうのは、虱潰しだと決まっているものさ」
「随分と歯痒いやり方だ」
ヘルレアが彷徨く中で、部屋を目的も無く浚う。部屋がこれ程に荒れていなければ、刺激も抑えられ、今ほど苦労はしないだろうと悩ましかった。既に調べている場所も往復していると、感覚がぶつりと闇に途絶えた。灯りが、と判断したが、それは明らかに間違っていて、全能が閉ざされかけているのだと気付く。
ジェイドは襲撃に備えたが、背中を優しく何かが押した。まるで今、顕現したかのような唐突さだった。
「……何が起こるか判らない。だから、何を見ても目を閉じるなよ、ジェイド。でも、今のお前なら、関係ないか……やはり、ここは地獄だったんだな」
ヘルレアが、ジェイドの背後で呟く。
ジェイドが何かを答えようとすると、感覚の遮断は始まりと同じように、何の前触れも無く終わった。部屋には何の変化も無い、そう思った。だが、思ってから時もおかずに、部屋へ薄ぼんやりと影が立つ。徐々にはっきりとはしてくるが、それでも、幻と感じる淡さ。粉微塵にされたはずの家具類が、うっすら部屋に現れた。ベッドにチェスト、また、切り裂かれたカーテンや、絨毯の隙間を埋めるように、荒れた部屋と影が重なって、幻として再生した。
部屋はかつての壮麗な姿を半分取り戻した。ジェイドには直ぐ理解出来た。
唖然と見回していると、半透明のカーテン裏から高い悲鳴が上がった。何かが、たっぷりとした透けるカーテンに絡み付かれ、藻掻くように動くと、半裸の女がカーテンから走り出てくる。黒いストレートの髪と、一般的には美しい容姿。
ジェイド達が見送った娼婦だった。
女は慌てているようで、部屋に居る人間は一切見えていないようだった。しかし、正確には彼女にとってジェイド達は存在していないようなのだと解る。ただ、部屋の中を走り回り、気が付いたように扉が有った壁を叩き始めた。
『働けます、働けますから……どうして、』
『赦して、お願いします。お願いします、お願い』
『ああ、私は……わた、し』
『そんなはずは、そんな』
脇腹から赤い霧が吹く。女が脇腹を不思議そうに撫でた。
『これは――死んだの、どうして』
『ど……うして?』
女が驚いたように胸を押さえた。
『いや、死にたくない』
『――殺さないで、殺さないで!』
女が泣きじゃくって、扉と壁が融合した、けして開かないであろう場所へ縋る。
『おうちに帰りたいよ、お母さん……』
『お母さん!』
ジェイドは感情が津波のように襲い来るのを、自らの失態と言う形で感じ捉えた。
――ああ、ヘルレアが、
消えて間に合わなくなる、その前に――。
たとえ、意味など無くても。
「もう見るな、ヘルレア!」
ジェイドは耐えられなかった。それは、膨大で複雑な感情の処理が間に合わなくて。映画のフィルムが焼き切れるように、消え行く感情の狭間で、窒息する苦しみに強く叫んだ。
全て消えて行く。消えてしまう――。
その言葉に価値がなくても、
慈む心だけは、誤ちではないと信じてほしくて、
どうか……
長い眠りから醒めたように、ジェイドは立ち尽くす。心は酷く静かで、思考すら手放していた。そうした自分を見付けてしまい、今度は激しい焦燥感が蘇ってきた。
この世界に色など無く、あの優しい緑の瞳だけが、ジェイドを呵責へと追い立てる。差し伸べられた手を、離してしまうのが恐ろしくて。
全てに背を向ける。
――ただ、あなたの為だけに、
苦悶する女の声が部屋を満たしていた。ジェイドは彼女を視界に収める。自身の開いた感覚へは、喚く女の存在が酷く神経に障った。
崩壊し切った部屋へ下りると、取りあえず直ぐに瓦礫から離れて、ジェイド達は隅へと身を寄せた。
複製されたような切り刻まれた部屋は、未だ僅かに照明の恩恵を受けているようで薄暗い。オリヴァンのような人間でも、自立出来る光度はあるようで、一人でどこかへ行こうとしているが、ヘルレアが面倒見の良さを案外に発揮して、彼は襟首をしっかりと掴まれている。
部屋は瓦礫が増えただけで同じ。そう上階から見渡して錯覚したものだが、ジェイドは直ぐに廊下へ続く出入り口が無いことに気付いていた。
部屋の瓦礫が再び動き出して、瞬時に中空でまとまると、朽ちた赤黒い獣が、斃れ伏す姿が現れた。一枚板となった瓦礫は、天井へと戻っていく。そして、前とは違い雨のような細片が、再浮上して天へと帰った。それは硝子片であり、天井へと見事な細工の帯を描いて戻る。そうして、抜き落とされなかった天井の、装飾硝子と融合して部屋全体を照らす豪奢な照明となったのだが、どこかしら欠けていて、全てが再生されてはいない。硝子の涙滴は両断され、帯は多くが断たれて壊れている。
部屋の胎動が終わると、照明が鮮やかに点って、本当に初めて入った部屋の様相を取り戻した――板戸が外され、開きっぱなしだった出入り口以外。
ヘルレアが頬を歪ませて笑む。
「始まり、始まり……ってことだな」
「戻って来た――そんな単純で、不可思議なわけはないか」
「まあな。もう壁や床を打ち抜くような荒業では、どこへも行けない」
「あらら、やっちゃったかな? 出してくれ、出してくれよう。いひひひ!」オリヴァンはまるで他人事のように、亡霊の声音を真似ている。
ヘルレアが壁へ鉄拳をめり込ませた。
珍しくオリヴァンが目を瞬いている。
「……これだとシバいたら、ひ弱なムー君なら直ぐ死んじゃうよね。かわいそう。なんだっけ? せーぼのしゅくふくが、なんたら、かんたら」教主であるオリヴァンが、〈聖母の盾〉その幸いを祈る言葉をなんたらで済ました。
「お前は少し恐がれってんだ、くそったれ」
ヘルレアはオリヴァンの胸ぐらを掴み、がくがく揺らしているが、当のオリヴァンは、いつものわけの判らない、気の抜けた声で“あ、あ、あ、あ”と嬉しそうにしている。
「ヘルレア、どう動く?」
「空間が殆ど、正しく人界に閉じているから危険は無い、散れ、考えろ。私に負ぶさってばかりいるな」
「正しく閉じている、とは」
「人界に近い、でも、力を行使し続ける異物がある。つまり、異物の存在で正攻法では出られないが、人界に近い分だけ出る機会もまた同様に存在している。この様子を見るに、〈蜂の巣〉を支配しているのは、人界の者ではないのは明らかだろう。私達に有利な現状の不安定さは、定められた覆せない、道理が原因と考えろ――人界には人界の掟がある。いかなる格を有する高位存在であろうと、人界の掟を全ては覆せない。得体の知れない場所から、お節介をしようというのだから……完璧なものなど存在し得ない」
「ある種の摩擦か……?」
「もうこの段階になると、摩擦とは言わないだろう――〈全ては定める者によりて〉、という……聞いたことはないか? これはもう世界の在り方の問題だ。私達がどうこう言ってもどうにもならない。だが、今回ばかりは、そのウザい掟に感謝でもしておくか。突破口は必ずある」
ヘルレアが手を払って、ジェイドへ行動を促した。この部屋から出て、主人の居る場所へと向かって行かなければならない。ジェイドはまず、何に着目すべきなのか、そもそも判らない。
主人の気配を少しでも追いたい。
だが、それは危険過ぎて、けして許される行為ではなかった。主人がどのような状態におかれているのか判らない以上、猟犬の身勝手な接触が、主人へ取り返しのつかない深刻な損傷を与えてしまう可能性がある。今は主人からの接触を待つしかない。そして、たとえ気配を追えなくとも、一刻も早くお側へ行かなくてはならならなかった。
――また、それも掟。
だが、掟と言われて主人を求めるのではないと、心が叫ぶ。たとえそれが、刷り込まれた偽りの感情であろうと、今のジェイドにはどちらでもいい事だった。
ただ、護らなければ――。
薄闇に佇む少年の、緑と潤む瞳。真っ直ぐに見つめられた時、そこに懲罰と赦しを見出した。
――奪わせはしない。
――その御手を払う者へ牙を剥こう。
――授けられた姿を失い、醜く朽ち果てようとも。
自然、部屋全体のありようが、ジェイドの意識へ一息に流れ込む。部屋全体に自身が具えた全能が行き渡っていた。部屋は乱れていて、凹凸の落差が激しく、谷のようにすら感じられる。そうして探っていても、瓦礫と塵芥ばかりで、気を引くものは無く、獣が放つ獣臭と血臭が、猟犬の本能を激しく煽り立てるばかりだった。
何をすればいい。どうすれば、お会い出来る。どうすれば、どうすれば……。
ヘルレアが舌打ちする震えが、痛みを感じる程強く伝わって来た。全能が莫大な感覚を絶ち、最適な刺激を選び取ると、王へと意識を戻した。
「力は増したし、折れないのはいいが、こうも悍ましいとは。一種のセクハラだよな」
「そんなに、酷く気に障るのか?」
「障る。ではなくて、触る。だよ、ボケ。全身撫で回されているようだ。今のお前だと余計にキモい。まあ、そもそもおっさんはキモいが」
「早く物事を処理する為だ。お前自身も負ぶさるな、と言っただろうが……カイムもあと十年も待たずに、俺とどっこいどっこいのおっさんになるかもしれないぞ」
「その頃はもう、私は死んでるからどうでもいい。というより、カイムがどうなろうと知ったことか」
「一日でも早く夫にしてやれば、あの坊っちゃん面を保てるものだが、保って何年か……純黒の礼装も、大分貫禄がついてしまうだろうな。初めて礼装をまとった時は、それは麗しくて純黒の天使と呼ばれたものだが」
「うるさい、何を呑気に喋ってる暇がある。先程まで焦っていたのは何だったんだ」
ジェイドは指摘されて、はた、と気付く。何故か主人の話しは彼を夢中にさせた。ジェイドは急いで感覚を広げたが、なるべくヘルレアを避けるように手を伸ばすと、まるでスープに油が浮くように、ぽつんと動くヘルレアを弾く。ついでにオリヴァンも……。
「部屋の中で、何かを探すのが正しいのか?」
「さあ、知らん」
「いい加減だな」
「前に言っただろう、こういうのは、虱潰しだと決まっているものさ」
「随分と歯痒いやり方だ」
ヘルレアが彷徨く中で、部屋を目的も無く浚う。部屋がこれ程に荒れていなければ、刺激も抑えられ、今ほど苦労はしないだろうと悩ましかった。既に調べている場所も往復していると、感覚がぶつりと闇に途絶えた。灯りが、と判断したが、それは明らかに間違っていて、全能が閉ざされかけているのだと気付く。
ジェイドは襲撃に備えたが、背中を優しく何かが押した。まるで今、顕現したかのような唐突さだった。
「……何が起こるか判らない。だから、何を見ても目を閉じるなよ、ジェイド。でも、今のお前なら、関係ないか……やはり、ここは地獄だったんだな」
ヘルレアが、ジェイドの背後で呟く。
ジェイドが何かを答えようとすると、感覚の遮断は始まりと同じように、何の前触れも無く終わった。部屋には何の変化も無い、そう思った。だが、思ってから時もおかずに、部屋へ薄ぼんやりと影が立つ。徐々にはっきりとはしてくるが、それでも、幻と感じる淡さ。粉微塵にされたはずの家具類が、うっすら部屋に現れた。ベッドにチェスト、また、切り裂かれたカーテンや、絨毯の隙間を埋めるように、荒れた部屋と影が重なって、幻として再生した。
部屋はかつての壮麗な姿を半分取り戻した。ジェイドには直ぐ理解出来た。
唖然と見回していると、半透明のカーテン裏から高い悲鳴が上がった。何かが、たっぷりとした透けるカーテンに絡み付かれ、藻掻くように動くと、半裸の女がカーテンから走り出てくる。黒いストレートの髪と、一般的には美しい容姿。
ジェイド達が見送った娼婦だった。
女は慌てているようで、部屋に居る人間は一切見えていないようだった。しかし、正確には彼女にとってジェイド達は存在していないようなのだと解る。ただ、部屋の中を走り回り、気が付いたように扉が有った壁を叩き始めた。
『働けます、働けますから……どうして、』
『赦して、お願いします。お願いします、お願い』
『ああ、私は……わた、し』
『そんなはずは、そんな』
脇腹から赤い霧が吹く。女が脇腹を不思議そうに撫でた。
『これは――死んだの、どうして』
『ど……うして?』
女が驚いたように胸を押さえた。
『いや、死にたくない』
『――殺さないで、殺さないで!』
女が泣きじゃくって、扉と壁が融合した、けして開かないであろう場所へ縋る。
『おうちに帰りたいよ、お母さん……』
『お母さん!』
ジェイドは感情が津波のように襲い来るのを、自らの失態と言う形で感じ捉えた。
――ああ、ヘルレアが、
消えて間に合わなくなる、その前に――。
たとえ、意味など無くても。
「もう見るな、ヘルレア!」
ジェイドは耐えられなかった。それは、膨大で複雑な感情の処理が間に合わなくて。映画のフィルムが焼き切れるように、消え行く感情の狭間で、窒息する苦しみに強く叫んだ。
全て消えて行く。消えてしまう――。
その言葉に価値がなくても、
慈む心だけは、誤ちではないと信じてほしくて、
どうか……
長い眠りから醒めたように、ジェイドは立ち尽くす。心は酷く静かで、思考すら手放していた。そうした自分を見付けてしまい、今度は激しい焦燥感が蘇ってきた。
この世界に色など無く、あの優しい緑の瞳だけが、ジェイドを呵責へと追い立てる。差し伸べられた手を、離してしまうのが恐ろしくて。
全てに背を向ける。
――ただ、あなたの為だけに、
苦悶する女の声が部屋を満たしていた。ジェイドは彼女を視界に収める。自身の開いた感覚へは、喚く女の存在が酷く神経に障った。
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