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三章 棘の迷宮
第23話 家
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23
荒れた室内に、襤褸になった獣が朽ちている。ヘルレアはさっさと廊下へ出てしまい、ジェイドもそれを追いかけた。
ジェイドが指示をしたはずなのに、部屋付近の廊下でオリヴァンは体育座りをして、女の傷を布で圧えていた。布は鮮血を吸いきって真っ赤に染まり、血を滴らせていた。
「撃たれたような痕だった」
「女は、もうダメだ……あの化物、石を弾いて攻撃したんだ。無駄におりこうさんなバケモノだったな」
「やはり、外道か?」
「そうだろう……攻めて来たにしては、なんとも末端から襲ってきたものだ。相変わらず、それ以外、今は侵入の手が無いのか」
カイムの気配が近付いて来る。
【――ジェイド、落ち着いたようだな】
――女王蜂はなんと?
【――何も感知していらっしゃらない】
――危険だな。攻めて来られても、向かい打つ態勢を取れない。他の部屋でも同じ事が起こっている可能性が高い。
女が呻いて、ジェイドは目を引き付けられた。何かを喋っているようで、ヘルレアも視線を落としていた。
ジェイドには女が何を言っているのか聞き取れなかった。酷く苦しそうに呻いているが、何かを懸命に訴えているように感じられる。
ジェイドはジャケットを脱いで、半裸の女へ着せかけた。もう女にしてやれることは無いのだと、ヘルレアは言い切っていた。自然、オリヴァンも女への救命処置を止めて、手を離すと、当たり前かのように、ジェイドのジャケットで手を拭いていた。
娼館という場所で出会った女が、辿って来た道が、過酷でないわけは無いだろう、と、ジェイドは思わずにはいられない。最期がこれとは無惨に過ぎよう。ほとんど裸で床に寝かされ、血まみれで生涯を閉じていく。傍に人が居ようと、見知らぬ他人に囲まれることに、何の意味があろうか。
この場所は、惨事が起こり危険性が高まっている。今の状況だと、動くのは危険という判断はもう当てはまらない。直に動き出すべきであり、次なる対処を考えなくてはならない。
しかし、この死に際へ立たされた女を、独り残していかなければならなくなる。わざわざ女を抱えていこうとするのは、あまりに無意味で、そして動かそうとすれば、苦しめるだけだろう。
――孤独に死なせるのが最善なのか。
ジェイドはヘルレアが取りかねない行動を思う。
それは正しいのか。ジェイドには判断出来なかった。
すると、ジェイドの隣に居たヘルレアが、すっと離れて、女の側へ行き、膝を突いて腰を下ろす。
ジェイドは、ヘルレアが何をしようとしているのかと、考える間も必要としなかった。死を下そうとしているのだと当たり前に察し、どうするべきかも考えずに、身体を動かそうとした。
「……おかえりなさい」
ジェイドは穏やかなその言葉に目を見張った。ヘルレアの口から漏れた言葉が、いったい誰の声音か判らなかった。いつもの男女区別つかず、そしてどこか子供のような澄んだ声ではなかった。普段より更に複雑で、何重にも音が重なるよう。
いっそ厳かに歌われる、幾人もの声を乗せた、清らかな賛美歌にすら聴こえる声音だった。
ヘルレアは赤子を抱き上げるよりも軽い所作で、女の横から上体を持ち上げて、腕で頭を支える。王は身体を丸めて女と向き合った。
「お母さんは、あなたが帰って来てとても嬉しい」
ジェイドは混乱していた。だが、言っている内容は母の会話なのに、主人の――カイムの男性的な声音に聞こえ始めた。言葉遣いと内容は堅いし、不自然なところもかなり多いが、主人の声で、誰もがイメージ出来る母親像を演じていた。
その姿は今、少年のようだというのに――。
女は何を言っているのか判らなかったが、その手を懸命に動かしヘルレアを求め始めた。ヘルレアは未だ血肉に汚れる、女よりも小さな手を差し伸べて握る。
それは、血と汚穢に満ちた、年齢も性別も超えた聖母子像だった。
二人は手を握り合い、そしてヘルレアは優しく抱いた腕で揺籃のようにあやした。
「何もできなくて、ごめんなさい。あなたばかりに苦労させてしまって」
「お、かあさ……」
もう女は、力を使い切ってしまっていたようなのに、ジェイドにまで聞こえるような言葉を発した。
女にはいったいどう見えているのか。それとも、もうあまり見えていないのか――。
見えているとしたら、先程、悪魔と罵った小さなヘルレアへと手を伸ばすさまは、あまりにも矛盾していて奇妙だった。
だが、そのありようは、あまりにも無垢で美しい。これほどまでに、本質を純粋に見い出せる母子の姿ならば、穢れなどに犯されはしないのだと、そう気付く。
「さあ、もういいの。おやすみなさい……」
ジェイドは気付いてしまった。だが、動けなかった。動くべきか判らなかった。
ヘルレアは握っていた女の手を離すと、彼女の胸辺り――心臓――に一触れする。何の抵抗もなく彼女の身体は力を失くし、不思議と自然に瞼が落ちた。ヘルレアはそっと女の身体を手放すと、その手はもう何も恋う事はしなかった。その死を施す所作は、何の衝撃も感じさせず、人間程度には理解の難しい力が働いたように窺える。本当に眠るようだった。
――死の王。
それも残酷な死をもたらすのでは無く、安らかな最期を約束してくれる、慈悲深き死の具現。
ジェイドには伝わって来ていた。カイムの心が微かに乱れている。主人も別の誰かの声を、ヘルレアに聴いていたのだと、感じていた。
そして何よりも、ジェイドの意識を拒絶していたのだ――。
主人にはあの声が、誰の声に聞こえていたのかと考える。誰にも知られたくない。それは自分の猟犬へさえも、秘していたい相手。
そうしてジェイドも、これ程までに世界蛇が直接的な慈悲を施す姿を、見たくはなかった。身勝手な落胆と、苦悩。怒りや嫌悪の行き場を失くし、ヘルレアへと、人が乞い続けた真なる神の姿を見る。
――何度も感じていた。見ていた。だから、もう解っていたはずなのに。
――未だ、真実、受け入れるのが苦しくて。
虐待し踏み躙る姿を見る方が、どれほども傷付かないだろう。獣を狂喜して虐待するさまは、いかにジェイドへ不安を駆り立てても、痛みをもたらさない。
ヘルレアが人を虐げるならば、ジェイドは牙を剥いて襲いかかればいい。憤怒と、怨嗟で狂い、もう戻って来られなくても構わない。
しかし今、この王を誰が責められようものか。
ヘルレアは世界蛇として普通では無い。人倫に狂い、本能を失いかけ、己の命すら意志によって行く道を定めた。
これが殺戮と暴虐を繰り返す、ヨルムンガンドだといえるのだろうか。
――まるで、表裏のようだ。
ヘルレイアとアレクシエル。けして交わる事の無い光と闇。何故そこまで相反する者が生まれ得るのか。脆弱な人間が、どれ程の行いをすれば、神のあり方を捻じ曲げられるという。
廊下は静謐さに包まれていた。
ジェイドはヘルレアの不思議な声を何度も反芻して、王を見つめていた。世界蛇は自然に、その人間へとって好もしい存在に、自身を錯覚させる事が出来るという。だとしたら、先程の声はヘルレアが意識的に人間へと働きかけて、幸福な幻を施した。
この能力に接するのは初めてだろう。
ジェイドは猟犬だ。その幻がカイムの声である事は何ら不自然ではないし、受け入れるのに辛さも何も感じるものではない。だが、人間にとっては幸福だけで済むとは限らない。だから――。
姿の掴めない、薄ぼけた霧のような不安が心に満ちた。
ヘルレアが何気なく、膝の埃を払いながら立ち上がり、自分のジャケットで手を拭っている。珍しく疲れたような息をついて、ジェイドを見上げて来る。
「結構、クサかったけど、人間はあれがいいんだろう?」
「判らない」
「家って、そんなにまで帰りたい場所なのか?」
「女がそう言っていたのか?」
「ああ、ずっと言っていたよ――お家に帰りたいってな。お母さんに会いたい、か」
「家、か……さあ、な。俺は館ではなく、カイムの元へ帰るものだから、厳密には判らない」
ヘルレアは吹き出して笑うと、何やら止まらないらしくて、幼い可愛らしい表情で笑い声を上げていた。先程の母親のような雰囲気はまるでなくて別人のようだった。
「猟犬って、どうしようもないファザコンだよな」
荒れた室内に、襤褸になった獣が朽ちている。ヘルレアはさっさと廊下へ出てしまい、ジェイドもそれを追いかけた。
ジェイドが指示をしたはずなのに、部屋付近の廊下でオリヴァンは体育座りをして、女の傷を布で圧えていた。布は鮮血を吸いきって真っ赤に染まり、血を滴らせていた。
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「そうだろう……攻めて来たにしては、なんとも末端から襲ってきたものだ。相変わらず、それ以外、今は侵入の手が無いのか」
カイムの気配が近付いて来る。
【――ジェイド、落ち着いたようだな】
――女王蜂はなんと?
【――何も感知していらっしゃらない】
――危険だな。攻めて来られても、向かい打つ態勢を取れない。他の部屋でも同じ事が起こっている可能性が高い。
女が呻いて、ジェイドは目を引き付けられた。何かを喋っているようで、ヘルレアも視線を落としていた。
ジェイドには女が何を言っているのか聞き取れなかった。酷く苦しそうに呻いているが、何かを懸命に訴えているように感じられる。
ジェイドはジャケットを脱いで、半裸の女へ着せかけた。もう女にしてやれることは無いのだと、ヘルレアは言い切っていた。自然、オリヴァンも女への救命処置を止めて、手を離すと、当たり前かのように、ジェイドのジャケットで手を拭いていた。
娼館という場所で出会った女が、辿って来た道が、過酷でないわけは無いだろう、と、ジェイドは思わずにはいられない。最期がこれとは無惨に過ぎよう。ほとんど裸で床に寝かされ、血まみれで生涯を閉じていく。傍に人が居ようと、見知らぬ他人に囲まれることに、何の意味があろうか。
この場所は、惨事が起こり危険性が高まっている。今の状況だと、動くのは危険という判断はもう当てはまらない。直に動き出すべきであり、次なる対処を考えなくてはならない。
しかし、この死に際へ立たされた女を、独り残していかなければならなくなる。わざわざ女を抱えていこうとするのは、あまりに無意味で、そして動かそうとすれば、苦しめるだけだろう。
――孤独に死なせるのが最善なのか。
ジェイドはヘルレアが取りかねない行動を思う。
それは正しいのか。ジェイドには判断出来なかった。
すると、ジェイドの隣に居たヘルレアが、すっと離れて、女の側へ行き、膝を突いて腰を下ろす。
ジェイドは、ヘルレアが何をしようとしているのかと、考える間も必要としなかった。死を下そうとしているのだと当たり前に察し、どうするべきかも考えずに、身体を動かそうとした。
「……おかえりなさい」
ジェイドは穏やかなその言葉に目を見張った。ヘルレアの口から漏れた言葉が、いったい誰の声音か判らなかった。いつもの男女区別つかず、そしてどこか子供のような澄んだ声ではなかった。普段より更に複雑で、何重にも音が重なるよう。
いっそ厳かに歌われる、幾人もの声を乗せた、清らかな賛美歌にすら聴こえる声音だった。
ヘルレアは赤子を抱き上げるよりも軽い所作で、女の横から上体を持ち上げて、腕で頭を支える。王は身体を丸めて女と向き合った。
「お母さんは、あなたが帰って来てとても嬉しい」
ジェイドは混乱していた。だが、言っている内容は母の会話なのに、主人の――カイムの男性的な声音に聞こえ始めた。言葉遣いと内容は堅いし、不自然なところもかなり多いが、主人の声で、誰もがイメージ出来る母親像を演じていた。
その姿は今、少年のようだというのに――。
女は何を言っているのか判らなかったが、その手を懸命に動かしヘルレアを求め始めた。ヘルレアは未だ血肉に汚れる、女よりも小さな手を差し伸べて握る。
それは、血と汚穢に満ちた、年齢も性別も超えた聖母子像だった。
二人は手を握り合い、そしてヘルレアは優しく抱いた腕で揺籃のようにあやした。
「何もできなくて、ごめんなさい。あなたばかりに苦労させてしまって」
「お、かあさ……」
もう女は、力を使い切ってしまっていたようなのに、ジェイドにまで聞こえるような言葉を発した。
女にはいったいどう見えているのか。それとも、もうあまり見えていないのか――。
見えているとしたら、先程、悪魔と罵った小さなヘルレアへと手を伸ばすさまは、あまりにも矛盾していて奇妙だった。
だが、そのありようは、あまりにも無垢で美しい。これほどまでに、本質を純粋に見い出せる母子の姿ならば、穢れなどに犯されはしないのだと、そう気付く。
「さあ、もういいの。おやすみなさい……」
ジェイドは気付いてしまった。だが、動けなかった。動くべきか判らなかった。
ヘルレアは握っていた女の手を離すと、彼女の胸辺り――心臓――に一触れする。何の抵抗もなく彼女の身体は力を失くし、不思議と自然に瞼が落ちた。ヘルレアはそっと女の身体を手放すと、その手はもう何も恋う事はしなかった。その死を施す所作は、何の衝撃も感じさせず、人間程度には理解の難しい力が働いたように窺える。本当に眠るようだった。
――死の王。
それも残酷な死をもたらすのでは無く、安らかな最期を約束してくれる、慈悲深き死の具現。
ジェイドには伝わって来ていた。カイムの心が微かに乱れている。主人も別の誰かの声を、ヘルレアに聴いていたのだと、感じていた。
そして何よりも、ジェイドの意識を拒絶していたのだ――。
主人にはあの声が、誰の声に聞こえていたのかと考える。誰にも知られたくない。それは自分の猟犬へさえも、秘していたい相手。
そうしてジェイドも、これ程までに世界蛇が直接的な慈悲を施す姿を、見たくはなかった。身勝手な落胆と、苦悩。怒りや嫌悪の行き場を失くし、ヘルレアへと、人が乞い続けた真なる神の姿を見る。
――何度も感じていた。見ていた。だから、もう解っていたはずなのに。
――未だ、真実、受け入れるのが苦しくて。
虐待し踏み躙る姿を見る方が、どれほども傷付かないだろう。獣を狂喜して虐待するさまは、いかにジェイドへ不安を駆り立てても、痛みをもたらさない。
ヘルレアが人を虐げるならば、ジェイドは牙を剥いて襲いかかればいい。憤怒と、怨嗟で狂い、もう戻って来られなくても構わない。
しかし今、この王を誰が責められようものか。
ヘルレアは世界蛇として普通では無い。人倫に狂い、本能を失いかけ、己の命すら意志によって行く道を定めた。
これが殺戮と暴虐を繰り返す、ヨルムンガンドだといえるのだろうか。
――まるで、表裏のようだ。
ヘルレイアとアレクシエル。けして交わる事の無い光と闇。何故そこまで相反する者が生まれ得るのか。脆弱な人間が、どれ程の行いをすれば、神のあり方を捻じ曲げられるという。
廊下は静謐さに包まれていた。
ジェイドはヘルレアの不思議な声を何度も反芻して、王を見つめていた。世界蛇は自然に、その人間へとって好もしい存在に、自身を錯覚させる事が出来るという。だとしたら、先程の声はヘルレアが意識的に人間へと働きかけて、幸福な幻を施した。
この能力に接するのは初めてだろう。
ジェイドは猟犬だ。その幻がカイムの声である事は何ら不自然ではないし、受け入れるのに辛さも何も感じるものではない。だが、人間にとっては幸福だけで済むとは限らない。だから――。
姿の掴めない、薄ぼけた霧のような不安が心に満ちた。
ヘルレアが何気なく、膝の埃を払いながら立ち上がり、自分のジャケットで手を拭っている。珍しく疲れたような息をついて、ジェイドを見上げて来る。
「結構、クサかったけど、人間はあれがいいんだろう?」
「判らない」
「家って、そんなにまで帰りたい場所なのか?」
「女がそう言っていたのか?」
「ああ、ずっと言っていたよ――お家に帰りたいってな。お母さんに会いたい、か」
「家、か……さあ、な。俺は館ではなく、カイムの元へ帰るものだから、厳密には判らない」
ヘルレアは吹き出して笑うと、何やら止まらないらしくて、幼い可愛らしい表情で笑い声を上げていた。先程の母親のような雰囲気はまるでなくて別人のようだった。
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