死を恋う神に花束を 白百合を携える純黒なる死の天使【アルファポリス版】

高坂 八尋

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二章 猟犬の掟

第18話 テディベアとワルツを

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 ミラが二階自宅アパートの扉を開けて、チェスカルを引き込んだ。チェスカルの首に巻き付いて来て、積極的にキスを始める。チェスカルは相手に違和感を与えないくらいの強さで、ミラを求めた。

 チェスカルは自分を興奮しているように見せかける事は、難しくなかった。乱れているさま、夢中になっているさまを、大げさに見せてやればいい。

 欲望というものからかけ離れた心は、酷く冷めていて、これからやるべき仕事の段取りを反芻していた。

 ミラはまるで食いついて来るかのように、激しくチェスカルへ口付けを繰返す。唾液が混ざり合う淫猥な音がする。

 ――少し気を入れなければ、相手の調子に呑まれそうだ。

 ミラに手を引かれ部屋へ入ると、随分と焦ったように彼女自らシャツを脱ぎ始める。すると、純白のブラジャーに包まれた胸が、こぼれるように出て来た。

 ――これも仕事か、仕方がない。

 内心で息をつく。それは気合を入れたのか、それとも諦めのため息か。

 猟犬というのは、元来血気盛んで何事に置いても激しい性分なのだが、チェスカルという男は色欲の方面で言えば消極的だ。というか、対人工作を得意としながらも、どちらかというと苦手であまり好まない。仕事と私事では勿論まったく事情は異なるものだが、それでも雄猟犬では珍しい質なのは彼自身も自覚している。なので、現在パートナーの居ないチェスカルは公私双方においても、女を抱くのは久方ぶりだった。

 しかし、別に清らかな乙女というわけでもないのだから。

 純情無垢とは程遠い、擦れた心は機械化でもされているかのようだ。僅かな下心さえ抱けない自分に、些かの面倒臭さを覚えてしまう。仕事といえど、欲が少しでも混ざってくれれば、いっそ勢いでやり遂げられるのならば楽だろうに。

 その交渉は、より親密になる為に。睦言でもいい。言葉を多く交わして情報を。

 チェスカルも服に手をかけ――。

 ――こういう時、鍛え過ぎているのも違和感を催すものか。

 遊興でつく筋肉とはまた違う、自分の実用一辺倒な獣の如き肉体は、相手にどう思われるのか。

 チェスカルはなんとはなしに考えると、ミラは固まっていた。

 一瞬、考え事をし過ぎてミスしたかと、――しかし、思考する間もなく、チェスカルは部屋一杯に後退して壁を背にする。全身に鳥肌が立っていた。護身用と嘘をつける範囲の銃を身につけていたが、既に手にしている。

 ミラはブラジャー姿のまま俯いている。表情もなく微かな挙動もない。チェスカルの奇妙な行動も気にした様子がなかった。

 チェスカルはミラを見るのではなく、部屋全体を見渡していた。

 何もない。彼女にも、部屋にも、異常はない。だが、気配がする。

 ミラが小さく頭を震わせ始める。

「……オズワルド、オズワルド、オズワルド――」

 ミラはチェスカルの偽名を連呼し始めた。そして、しばらく偽名を唱え続けると、何かを諦めたように突如としてそれを止める。すると、ヤケを起こしたかのように、チェスカルの方へ走って来た。だが、なんと隙だらけで拙いことか。

 本来ならば直ぐにでも拘束するべきだが、得体のしれない相手を下手に触る事も出来ない。チェスカルはポケットに手を突っ込むと、細工していた返しから、極小の薬液針を取り出して、首元付近へ投げる。それは呆気あっけなく、首へ命中した。針は対象物へ刺さると、自動で薬液を送り込み、意識を朧気にする――はずなのだが、幾ら時が経ってもミラは全く意に返していない。自分の意思で動いているのではないよう。

 操られている――。

 ブドウちゃんの絵が、脳裏に明滅する。

 ――人の絵。

 ――黒い線。

 ――そして、ぬいぐるみのダンス。

 チェスカルはほとんど感で、再びミラ周辺の虚空を見た。何かがあるはず。ブドウちゃんは何かを見た。黒い何か。何か――。

 部屋を見ているうちに、無意識のまま鏡台に眼がつまづいた。集中して見ると鏡台の鏡に幾本もの亀裂が走っているのが見え、鏡が割れているようだった。しかし、よく観察すると、それは違う。鏡へ幾本も細長い何かが写り込んでいるのだ。鏡越しに見ると、ミラを中心にして扇を描くように糸は広がっている。チェスカルは鏡と実物を見比べてみたが、糸は肉眼では見えない。

 試しに、忍ばせていた細身のナイフを、叩き付けるように投げた。糸は何一つ掠めずに壁の上部に突き立った。

 チェスカルの腕が悪いのではない。あの糸には実態が無い。眼で見えないように、触れられもしないのだ。

 世の中には人へわざわいをもたらす四凶というものがある。外法外道げほうげどう丿血気天客けっきてんかくと呼ばれる人外四凶。を手引きしているのは、四凶の血気ではなく、おそらく外法の類い。人間が係わっている可能性がある。

 放置するのは危険か。

 殺めるのも一つの手。

 何が起こるか分からないが、このまま放置して、被害を拡大させるわけにはいかない。銃を構える動作をしかけると、ミラが接近を不意に止めてしまう。チェスカルは無意識に攻撃の手を止めていた。

 ミラは顔を上げる。彼女は泣いているのに、その顔は満面の笑みだ。

「……私の愛しい、愛しいオズワルド。嘘の上手い、あなたの為に、素敵なダンスパーティーを開いたわ。さあ、外へ行ってごらんなさい」

 ミラは何かを振り切るように目を閉じる。そして、涙を搾り切るかのように、顔を目一杯しかめる。

「たす……たすけ、て。ず、わるど、おず、わる」

 チェスカルは銃の焦点をミラの額に合わせる。引き金を引く、その一手を。

「わたしちょ、と――すきだっ、た……よ。うそつ、き、おずわ、るど」ミラが大粒の涙をこぼした。

 ――弦を爪弾く音。

 チェスカルは一瞬、注意を引かれる。

 間もなく鏡台に置いてある、化粧道具を入れるカップから独りでに鋏が飛び出して来た。チェスカルはかわす体勢を取ったが、その鋏はミラの手に収まる。チェスカルは考える事も忘れて、咄嗟に鋏へ手を伸ばしていた。

 しかし、既に鋏はチェスカルが捉えようとした先にはなく――。

 鼻歌が聞える。それはテンポのよい、明るい曲調。チェスカルが視線を上げると、自らの手で鋏を眼窩へ埋める、ミラの姿があった。彼女の力だけでは不可能な程、鋏は根元より深く深く咥え込まれている。

 ミラは微笑む。血が涙のように伝った。鋏を乱暴に捩じ込む動作で、血が飛沫を上げる。チェスカルは血を浴びるように吹き付けられて、顔を拭う。血に対する忌避や恐れはなく、既に鈍麻していて、ただ自分の判断を呪う。

 チェスカルの思惑がミラを死へ追いやった。利用しようと近付いて、手を誤った挙げ句、苦しめた。

 このような事になるならば、いっそ――。

 自分が殺してやればよかった。

 さぞや、恐ろしい思いをしただろう。

 ミラの身体が急に体重を取り戻したようになると、チェスカルへ倒れかかって来た。

 チェスカルは避ける事が出来なかった。

 二人は抱き合うようにして、立ち尽くしている。

 ミラはどこに力が残っているのか、それ以上身を崩す事もなく、鼻歌を止める様子もなかった。

 ――ワルツ。

 チェスカルの頭にその言葉が過ぎった。

 まるでワルツを踊っているようだと、ミラを思わず抱きしめる。

 それはあまりにも、愚かな行為と分かっていながら――。

 鼻歌がぷっつりと切れると、唐突にミラがチェスカルへ、完全に体重を預けて崩折れる。彼はミラを抱えたままで支えると、自然と肩が視界に入る形になった。チェスカルは違和感を覚えて、意識を集中すると、肩口にあったはずの百足ムカデと名前を図案にした入墨がない事に気が付いた。入墨などそう簡単に消えるものではない。ステッカー型だとしても、チェスカルとミラはシャワーも浴びず抱き合おうとしていたのだから、消える可能性も格段に低くなる。

 敵の手が徐々に見え始めた。

 ミラをベッドに寝かせると、開いている片眼を閉ざしてやる。毛布を掛けてやると、踵を返す。

 チェスカルは水道を使いミラの血を流すと、上着を捨てて、最低限外を歩ける姿へ身繕いする。殺人に際する工作というのは必要としない。ステルスハウンドにはそういった些末な処理を行う部隊がいるので、チェスカルのようなゴーストは現状に対処して手早く退散すればいいだけだ。

 玄関から出ると、霧の烟る駐車場が視界に広がる。

「ハルヒコ、女は何者かに操られていた」

 隠れていたハルヒコが直ぐに顔を出した。

「加勢します」

「女は殺された」

「自分の手駒を捨てたんですかね」

「宣戦布告をされた上で、殺された。お前の為にパーティーを催す、外にでて見るように、と――外法系統の臭いがする。エルドと連絡を取りたいものだが、通信機器まで狂わされるとは」

 エルド・シュライフはゴーストで唯一の外界術専門の兵士だ。外界術は分類方法によっては、外法外道とも言われているが細分化すると、呪術、魔術、召喚等のいわゆる人界に本来存在しない力をいう。エルドはそういった術の分析、解呪、あるいは自らも術式を組むなどといった能力がある。

 チェスカルは二階の通路から飛び下りる。

「外法ですって? 妖魔ではないのですか」

「名前を唱えられた上、呪縛の媒介らしいものも確認した。捕縛術関連だと思われる――ブドウちゃんが見たのは糸だ。それで人間を操っているように見受けられた。ぬいぐるみのダンスはそういう事だろう。しかもその糸は鏡を通さなければ見えない。肉眼では見えず、触れられない」

「ブドウちゃんは、そんな事をよく気付いたものですね」

「子供は大人とは違うものを見ているのかもしれないな――女は自律型か、操作型かはこうと断言し辛いが、自律型と考えるには動作が緻密過ぎる。私に言語的接触をして来たところを見ると、あの女に限っては操作型の可能性が高い」

 チェスカルはハルヒコから装備類を受け取り、普段通りの使徒特化型の態勢へ整える。

 二人はアパートの敷地を出ると公道へ歩いて行く。相変わらず、霧が酷い。

 霧の中に、黒い人影がぽつんと立っている。普通の人間のようで、気配は愚鈍だ。チェスカル達は意識を満遍なく広げて、注意深く進む。影へ向かって歩いていると、視界に点々と棒立ちになっている人影が増えて来た。チェスカルとハルヒコは、その人影の多さに足を止め身じろぎをする。それはまるで妖樹の森に生える木々のように道を埋め尽くしていた。しかも人々は何をするでもなく、身動き一つしない。

「……始まったな」

「なんて、茫漠としているんでしょう」

 傍近くにいる男女同士が接近する。挨拶を丁寧に交わすと、抱き合うように身体を寄せる。

 耳をろうするような、明るいテンポの曲が空気を震わせ始める。耳を塞ぎそうになるが、感覚を一つとして閉じる愚挙はしなかった。

 ――これは、ミラの鼻歌。

 音楽を合図として、数え切れない程の人々が男女組になって、舞踏する気配がする。その所作はあまりにも優雅で見事だ。誰一人として舞を乱す者はなかった。

 チェスカルとハルヒコは、知らず知らずのうちに、舞踏する人々の中に紛れ込んでいる。チェスカルは霧の中から二人が近寄ってくる度に、視線で追いかけ、共に周るような挙動を取らざる負えなかった。視界が悪過ぎて相手のいいように追いやられてしまう。

「この人々は皆、間違いなく人間だ」

「銃撃するには数も多い上、人の質が強過ぎます。この状態では殺せません」

 踊り狂うペアを避けながら、異常な舞踏会を抜け出そうとした途端、弦楽器を弾く音が耳に触る。頬がじんわりと熱くなった。チェスカルは頬を拭ってみると、血が手に擦れて滲む。ミラの血を浴びたが、明らかに違う、これはチェスカル自身の負傷による出血だ。

「動くな。何らかの攻撃を受けた。思うに糸が実体化している」

 ハルヒコは周囲を凝視している。

 また、弦楽器のようなものの糸を爪弾いた音がすると、ハルヒコの袖がすっぱりと切れて、彼は腕を抑える。

「どこから攻撃して来るのか、一切分かりません」

 踊る男女を避けながら、動こうとする度に、段々と周辺から爪弾く音が増えていく。傷はおそるべき速度で増え始めるが、一切致命傷になりうるものがなかった。

「とんでもなく趣味の悪い奴ですね」ハルヒコが腕からうっすらと伝う血を拭う。

 相手は明白に楽しんでいる。

 女の笑い声がどこからともなく上がってくる。下卑た耳に刺さる不快な声。

「……死ぬ前に抱いておけばよかったのではと、後悔しているのでない?」高い女の声が投げかける。

 チェスカルは思わず足を止めた。

「副隊長、いけません。駄目だ」

 女の高い笑い声は止まない。

「あの女の身体を開いて、埋もれたら、さぞ暖かくて気持ちがよかったろう」

「下郎が……」ハルヒコが声の出どころを探している。

 チェスカルは静かに耳を傾ける。

「よく女をなかす手管はあるか。モノがお粗末ではどうにもなるまい」

 女が何人も笑い合う声が聞こえる。そこに猥雑な嬌声が混ざり、集中力を搔き乱そうとしている。

「それとも抱けぬか? 男としての力など、とうに無くしたか」

 チェスカルはただ言葉を心へ収め続けた。拒絶するでもなく、思考するでもない、差し出された真のままに受け取る。

「あの女を犯せば、お前の冷めきった心も、温もりを取り戻せたはず。血塗れのけだものが」

 チェスカルの周りから音が遠のいていく。すると、ミラの鼻歌が耳元で囁かれるように流れてくる。

「たす……たすけ、て。ず、わるど、おず、わる」

 チェスカルは耳を澄ます。一語一句忘れないように。

「わたしちょ、と――すきだっ、た……よ。うそつ、き、おずわ、るど」

 瞬間チェスカルは接近した一組の手を捕らえた。

「お喋りが過ぎるぞ、化物が」

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