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9章 スワンプマン

9章3話 エックハルト伯父様について *

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【新帝国暦1155年7月23日 ベアトリクスの手記より】

 それは、私、ランデフェルト公国公女ベアトリクスと、ヴォルハイム太公アルトゥル様との婚姻の儀を一週間後に控えた、ある夜のことでございました。
 婚姻の儀を前にして、最近はずっと宮廷はばたばたしていました。婚姻の儀ですが、まずヴォルハイム大公の使者が我が国を訪問し、正式な文書を調印します。それから私はヴォルハイムの使者と共に、この国を巣立つのです。数名の家臣、侍女たちが私には随行してくれますが、それでも私は自分の家の者ではなくなり、別の家に入ることになるのです。

 またその婚姻の儀は、私の16歳の誕生日でもありました。私は、自分自身の意思でもって、婚姻の契約書に署名することになっています。
 これは王侯貴族の子女としては異例でした。この時代の王侯貴族は、赤子のうちに結婚が決まり、婚姻の儀も大抵は若年のうちに行われます。王侯貴族にとっての結婚とは、国家間の契約だからです。
 とはいえそれらは形式上のことで、私は決められている通りに動くだけなのだ、そんな風に私は考えておりました。と言って、この婚姻に不満があるとか、そういうこともなかったのですが。アルトゥル様はその才気と武勇を以て諸国に知れ渡る御方で、また13も離れた私にも、言葉少なながら礼儀正しく振る舞ってくださいましたから。それ以上のことは、私には判断しようがなかったのです。

 昼間の間は私も何らかの用事にずっと忙殺されており、宮殿内を見て回る暇はなかったのです。ランデフェルト公宮は宮殿としてはやや小ぶりで、庭も室内も、いつも綺麗に整えられていました。私にとっては庭木の一つ、そしてベンチの一つも、慣れ親しんだ家でしたから、婚姻で家を出る前にそれら一つ一つに別れを告げておきたいと、私はそう考えていました。

 私はバルコニーのある区画へと向かっていました。真夜中が近づいていましたが、幸い満月が近く、明るさに不自由はありませんでした。このバルコニーは南に面しており、この時間であれば月がよく見えるだろうと、そう思ったのです。
「…………?」
 バルコニーにたどり着いた私は、首を傾げます。
 そこには、先客がおりました。バルコニーの方を向いており、こちらには背中を向けています。男性でした。
 月を見るでもなく、バルコニーの手すりに身を持たせかけ、虚空に目を凝らしている、そんな風情でした。
 また、長い、白い髪が夜風に舞って、月光にきらきらと輝いています。

「……あなたでしたの」
 私は、そんな風に声を掛けました。最初はそれが、彼とは分からなかったのです。
 エックハルトおじさま。私は彼を、ずっとそう呼んでおりました。
 ランデフェルト公国の宰相を数年間勤めておられた方で、我が父、ランデフェルト公にとっては遠縁にあたるそうです。本当の伯父ではないのですが、縁者の少ないランデフェルト公爵家にとっては家族も同然の方でもありました。また当時としては奇妙なことではありますが、ランデフェルト公爵家の伝統である槍術、それを女である私も嗜んでいたのです。その手ほどきをしてくれたのがエックハルトおじさまでした。槍術の師匠としては厳しかったのですが、普段は私をとても可愛がってくれておりました。

 そんなエックハルトおじさまと私の関係ですが、最初それと分からなかったのには理由がありました。
 元々は黒かった彼の髪は、今では真っ白になっていたのです。2年前におじさまは公務を全て引退し、療養に努めることになりました。原因は当時流行していた肺病です。私は一度ぐらいはお見舞いに行きたかったのですが、それはならないと、父母から厳命されておりました。病が軽快し、どうやら伝染の危険がなくなって初めて、彼は宮廷に戻って来れたのです。私はその様子を遠くから拝見するだけで、だから会話を交わしたのも2年間でこれが初めてでした。近くで見ると、おじさまは前より痩せてしまってもいるようでした。今は確か54歳とのことでした。元々は年齢にそぐわないほど美しい方でしたが、今はむしろ、その年齢よりも老け込んでしまっているように、私には感じられました。ただ、背筋だけは昔と変わらず、ぴんと伸びた立ち姿で、月光の下に立っていらっしゃいました。

『ご無沙汰しております、ベアトリクス様』
 おじさまのそんな返事を、私は期待していたのです。かくも年若い私にも、丁寧な言葉遣いと、慇懃な態度を崩さない、エックハルトおじさまはそんなお方でした。ですが、その返事は違っていたのです。

「あ……」
 振り返ったエックハルトおじさまは、小さく声を上げられました。困惑したような、幽霊にでも出会ったような、そして、信じられないものを見るかのような目で私を見るのです。
「……?」
 首を傾げる私に、おじさまは身を起こすと、背筋を伸ばし、私の方に向き直りました。
「……ずっと待っていたんだ。……あなたがどこにもいなくなってしまったなんて、本当には信じられなかった」
 それから、おじさまは私に向かって、微笑みかけるのです。
「僕はもう年老いてしまったから、あなたが見つけられないかもしれない、そう思っていたけど」
 その微笑みは、どこか弱々しくて、傷つきやすそうですらあって。いつも丁寧で慇懃で、でも淡々として冷静なおじさまには、なんだかとても似つかわしくなかったのです。

「……おじさま?」
 ふらふらと歩み寄ってきたおじさまに、私は声を掛けます。その言葉で、おじさまは気がついたようでした。私が誰なのか、そのことに。
「…………すみません。私も耄碌したものですね。見間違えるなんてなかったのに、昔は」
 片手で頭を抱え、おじさまはそんな風に、私に謝られます。
「いえ。申し訳ありませんでした、驚かせてしまって」
 私も、おじさまに謝りました。


「それにしても、こんな風にしていていいのですか。婚姻の儀まで、時間がないのでしょう」
「時間がないから、です。もうこの家ともお別れになってしまいます。ですから」
「それは、昼間でも良いのでは?」
 訝しむような口調のおじさま。普段は慇懃なのに、変なところで妙に冷淡で。それもこの方らしかったのです。今はもう、私が知っている通りのおじさまでした。
「人とのお別れは言葉を交わせますけれど、ものとのお別れには、言葉を交わせませんから。静けさと、一人になることが必要ですわ」
 私の言葉におじさまはふっと笑います。
「実に、あなたらしいですね。よく似ていらっしゃる、お母様にも」

 それから、バルコニーのベンチの方へと、おじさまは私を導いてくださいます。
 もう真夜中を過ぎていましたが、私は少し、そこでおじさまと、話をすることにしました。そこで、私の抱えている悩みを、おじさまに話すことにしたのです。

「……私、少し考えないこともないのです」
「と言うと?」
「もちろん、婚姻のことです。私が、自分の意思で契約書に署名することになっています。でも、それでいいのかと」
「それでいい、とは」
 そんな会話を、私たちはしていました。私とは気心の知れたおじさま相手ですが、それでも私は慎重に、言葉を選びます。
「結婚は本来、自由意志でなされるもの。でも、これは政略結婚です。こんな風に決められた相手と、結婚することを選んで良いのかと。それを、自分の意志として良いのかと」
 おじさまは黙って、私の話に耳を傾けていました。それから、口を開きます。
「……アルトゥル様との結婚に、不満がありますか?」
「不安はありますが、不満……ではないと思います」
 おじさまの単刀直入な質問に、私も正直に答えますが、おじさまは畳み掛けるのでした。
「建前を言わなくてもいいのですよ。この場では」
「建前ではありません。でも、大恋愛だったのでしょう?」
「何が?」
「お父様とお母様です」
 私の父と母、現在ではランデフェルト公爵と公妃は、身分違いの出会いから、紆余曲折、そして運命の変転を経て大恋愛を実らせたと、私はそのように聞いていました。おじさまは、笑みを浮かべて答えます。
「ええ、実に。私も骨折りましたよ。……ベアトリクス様」
「なんでしょうか」
 私に向き合い、真正面から私を見据えるおじさま。私は、少したじろぎます。
「好きですか。アルトゥル様のことを」
「好き…………。うーん、ええと。嫌いではないです」
 私は、そう答えます。
「嫌いではない。その真意をお聞きしましょうか」
 私は、少し考え込みます。そして、私から見たアルトゥル様のご様子について、口にしてみることにしたのです。

「……今まで、アルトゥル様とのお目通りは何度もありました。ですが、二人きりになれたことはほとんどありません。その時も、打ち解けた会話とはいかなくて」
「どんな様子でした?」
「同じソファに座っていても、アルトゥル様は黙って、じっと私の様子を観察しているのです。あの鋭い目で。あのように男振りの良い方ですから、決して不快ではないのですが、なんだかどぎまぎしてしまって」

「それで、どうされますか。あなたは」
 低い声でおじさまは、私に質問されます。

「なんとか私は、気の利いた話題を出そうと試みるのですが、なんだか空回りしてしまって。それで、いつも自分から謝ることになるのです」
「何と言って謝るんです?」
「『あ、すみませんでした……。つまらないですよね、こんな小娘のお話は。アルトゥル様のような大人の方には、特に』と」
「アルトゥル様は、何とお答えになりますか」
「『つまらないなどと、そのようなことは。それより、あなたこそ。私のような年寄りに付き合わせてしまって申し訳ないと、そう思っているのです』と。ですから私は、『そんな、年寄りなんて! アルトゥル様は麗しく、また賢く、強いお方です! そんな風に仰ることなんて、何一つございません!』と、慌てて取りなすのです。でもその後は、会話がぎくしゃくしてしまって」

「……ふっ」
 おじさまは、そこで吹き出します。堪えきれない、というご様子でした。それから、声を上げてお笑いになります。それは、今まで聞いたことがなかったような、おじさまの朗らかな笑い声でした。
「……すみません。いや、しかし実に。よく似ていらっしゃる」
「どういうことです?」
「公妃殿下の、お若い頃に。それから、あの方も」
 そう言って、それから目を細めておじさまは、私の方を見ています。それから、再び口を開くのでした。

「私からの見立てを、お伝えしてもいいでしょうか?」
「お願いします」
「ヴォルハイム太公アルトゥルは、聞きしに勝る堅物だ。私の調べでは、公妾などはおらず、決まった愛人もいらっしゃらないようです。軽い恋愛沙汰程度は分かりかねますが」
「はい」
 綺麗事だけでは成り立たない世界、他国の宮廷に、私は嫁ぐことになるのですから。最後に付け加えた言葉に、その現実を私は感じ取っていました。
「この婚姻の話が出た際です。公爵殿下は、一つ、条件を付けられました。あなたもご承知の通りでしょう」
「ええ」
 私は頷きます。

『二人は婚約するが、正式な結婚の合意は、ベアトリクスが十六歳になるまで持ち越される。その後、結婚当事者であるアルトゥルとベアトリクス、二者の合意を以て婚姻の成立とする』

 そのように、この婚姻では取り決めがなされていました。
「あなたのお父様とお母様は、確かに大恋愛でした。しかし、あれだけの武勇、名声、才覚、智慧を持たれて、またご自分らのことはご自分らお決めになったお二人であっても、それ以降は政治遊戯の盤上に自らを、そしてお身内を置かざるを得なかった。それだけ微妙な力の均衡の上で、この国も、国家間の関係も成り立っているということです」
「はい」
「婚姻の取り決めは苦肉の策とも言えます。ですが、一番大事なことでもあります。人は、自身の意志による決定であれば、その結果を大事にする。理由が何であっても」
「はい。……でも」
 頷いてから、私は首を傾げます。
「でも、とは?」
「ちょうど、今おっしゃったようなことです。理由が何であっても、それは、その理由が愛ではないということではないでしょうか。愛ゆえではない結婚をしても、許されるのでしょうか、人は」
 おじさまは、少し考え込みます。
「許される、の定義によりますが。しかし、許されないはずだと責め立てるような人もいないのではないでしょうか」
「だってアルトゥル様は、私を愛してはおられないでしょう? 13も年の離れた子供を愛することなど、できないのではないでしょうか」
 おじさまは、そこで首を振ります。
「そのご意見にはまあ、同意しかねますね。アルトゥル様が今のあなた相手にことさらに恋愛ごっこに走らないのは、あなたがこれから成される決定を尊重しているから、そんな風に考えることもできます。いかがでしょうか?」
「うーん、どうでしょう……」
 私は答えを出しかねていました。そんな私に、エックハルトおじさまは笑うのでした。
「あなただって、アルトゥル様のことは決して憎からず思っているのでしょう。男振りが良いとか、麗しいとか、そう仰っているのですから」
「…………!」
 図星を突かれた気がして、私は黙り込みます。

「恋の始まりなど、それで十分です。問題はその後だ。愛情を、また尊敬を保つことができるか。お父様もお母様も、あなたをこの歳まで、誰もが尊敬して余りある女性となるよう、教育には骨折って来られました」
「……ええ」
 私は頷きます。
「そして、この決定が意味を持つのです。強く賢く、判断力を備えたあなたがご自身で、この婚姻を選ぶこと。周囲に決められたという形ではなく。だからヴォルハイムは、あなたを無下にすることはできない」
 それからエックハルトおじさまは、私の足元に跪くのです。
「ベアトリクス様。どうか、賢く、そして強く。そのようにあってください。あなたにはそれができると、私も皆も、そう考えています。それでも、どうしても嫌だったら。耐えられないことがあったら。今も、それからこの先も」
 そうしておじさまは、その言葉を口にするのでした。
「全てぶっ壊して、思いのままに生きてください。どうか」

 エックハルトおじさまと言葉を交わしたのは、それが最後になりました。
 その後私は婚姻の契約に署名し、それからヴォルハイム太公の元に嫁いで、華やかな結婚式が執り行われました。それからもいろいろと大変なことはあったのですが、それを語るのは、また別の機会になると思っています。
 おじさまは結婚式には参加されませんでした。まだ体調が思わしくないからとのことでした。しばらくは別れ別れになってしまいますが、それでもまたお話をする機会はあると、そのように私は考えていたのです。

 それでも、それは叶いませんでした。
 それから3年後、エックハルトおじさまは一人で街に出た際、馬車に轢かれそうになった子供を救おうとして身を投げ出し、車輪の下敷きになってしまったのです。医者が駆けつけた時には手の施しようがなく、そのまま見送ったと、そのように私は聞いております。

 だから、私はおじさまに、聞きそびれてしまったのです。
 おじさまは私を、誰と見間違えたのか。
 どこにもいなくなってしまったというその人は、一体誰だったのか。
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