上 下
90 / 105
8章 未来への布石

8章7話 大公殿下と出奔令嬢

しおりを挟む
【新帝国歴1140年5月2日 ヴィルヘルミーナ】

「お口に会いますでしょうか」
 その声は少年のもので、でもどこかしら静かで冷たい、ひんやりとした空気を感じる。

 ヴィルヘルミーナが向かい合っているのはヴォルハイム大公国君主、アルトゥル・エルツェルツォーク・フォン・ヴォルハイムその人だ。藍色の地に金色の帯で縁取りされたヴォルハイム家の礼装を纏う、御歳14歳となられた大公。その金茶色の髪は短めで、背は華奢なヴィルヘルミーナよりもすでに高く、成長したら精悍な男性となることを予感させる。
 しかしその表情はどこかひんやりとして陰が宿っているようにも、ヴィルヘルミーナには感じられてしまう。少年ながら底が知れない、それがアルトゥルに対するヴィルヘルミーナの印象だった。

「ええ、とても」

 テーブル越しに大公と対峙するヴィルヘルミーナは、料理に視線を落とす。皿は東洋からの輸入品のようで、牛乳よりも白く、女性の肌よりも滑らかで、そして金色で縁取りがされている。

 ヴィルヘルミーナはヴォルハイム大公国でも事業を展開しており、それにはヴォルハイム大公も支援をしてくれている。そして、ヴォルハイム大公から招きを受けると、ヴィルヘルミーナとしては断るわけにはいかない。それで今晩の会食となったわけだが、ヴィルヘルミーナは胃に刺さるような奇妙な緊張感を覚えている。
 ヴィルヘルミーナはこんな風なかしこまった場で、個人的な会話に興じることが得意ではないと感じている。その理由は色々と考えられたが、合理的な理由というよりも、どこかしら本能で感じ取った、嗅ぎ分けたある危機の感覚のようなものだった。
 ヴィルヘルミーナが昔全力で逃げ出した、人間を捕らえる、蜘蛛の巣のような政略の網。この少年からは、その匂いが漂ってきている。

「今晩は、ツィツェーリア様はいらっしゃらないのですか?」

 ヴィルヘルミーナはキョロキョロと、落ち着かなげに周りを見渡してしまう。会食に興じるのはこの二人だけで、他に給仕のための召使が控えているが、微動だにせず、まるで家具ででもあるかのように振る舞っている。アルトゥルの叔母であるツィツェーリアは、ヴォルハイム大公国では摂政のような立場にあって、公的な場面ではアルトゥルの傍に立っているのをヴィルヘルミーナはよく見かける。

 ヴィルヘルミーナの言葉に、アルトゥルは少し笑う。
「あれは、あなたのことを気に入っていますからね。ですが、彼女がいてはやりにくい。そんな話があるのです」
「なんでしょうか?」
「何から話しましょうか。……単刀直入に、私の結婚について」
「へ?」
 ヴィルヘルミーナはつい、素っ頓狂な声を挙げてしまう。それにアルトゥルは少し笑う。
「おそらく、あなたが考えることとは、少し違っていると思います」
 それから、アルトゥルはヴィルヘルミーナに話してくれる。

「……ランデフェルト公爵息女との婚約を進めたいと、叔母としては考えているようです。ですが、私には分からない」
「何をですか?」
「ランデフェルトが信頼に足る存在かどうか。公爵も、それからその妃という女性も」
「素晴らしい方ですわ、アリーシャ様は」
「それを聞いて良かった、ですが」
 いつの間にか、アルトゥルは席を立ち、ヴィルヘルミーナの側まで歩いてきていた。釣られてヴィルヘルミーナは立ち上がる。
「その息女と、私が結婚していいのか? その結婚が、良い結果を招くのだろうか。彼女自身がどんな人間なのかも、私には分からない」
「お子様……ベアトリクス様は、まだ1歳でいらっしゃいますから」
「その通りです。それは人として、正しい道なんでしょうか」

 自分は彼の立場に理解を示すべきなんだろうか、政略結婚から逃げ出した経験者、先輩として。だが、その前に立つと、圧倒的な、飲み込まれるような恐怖感を覚える。今のヴィルヘルミーナは、昔のヴィルヘルミーナではない。傍目には大人として振る舞えるだけの分別を得て、逆にその分だけは自由を失ってしまった。だから、権力の下にあって屈しない、そんな昔と同じ選択が、今でもできるかは分からない。

「……分かり、ません。わたくしはそういうことは、何も」
 そう、正直に答えるしかない。
「ヴィルヘルミーナ様。あなたはランデフェルト公リヒャルトとの婚約を解消されていますね。それは、なぜですか?」
「なぜって……」
 ヴィルヘルミーナは言葉を失う。

 リヒャルトと自分は相性が悪かったから。リヒャルトには好きな人がいたから。そんなことを答えたらどうなる? その結果の責任は引き受けられない。何が起きるか分かったもんじゃない。

「わたくしには政治は務まりません、それで良いのではないですか?」
「そうは思えません。あなたは聡明でいらっしゃいますから」
「それでも駄目なのです。人には適性というものがありますわ、アルトゥル様」
 断固とした口調でヴィルヘルミーナは告げる。個人的な理由、のような答え方すらするわけにはいかない。
「分かりました。ご無礼をいたしました」
 そう言ってアルトゥルは引き下がり、ヴィルヘルミーナは少しだけ安堵する。
「これからもお会いできますか。お話を伺いたいのです」
 ヴィルヘルミーナは歯を食いしばる。
「…………間諜、のようなことは、わたくしには。本当に、向いていないのです」
「そんなお願いはいたしません」
 それから、アルトゥルはその言葉を口にする。
「あなたには、私の理解者になっていただきたいのです」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

未来に住む一般人が、リアルな異世界に転移したらどうなるか。

kaizi
SF
主人公の設定は、30年後の日本に住む一般人です。 異世界描写はひたすらリアル(現実の中世ヨーロッパ)に寄せたので、リアル描写がメインになります。 魔法、魔物、テンプレ異世界描写に飽きている方、SFが好きな方はお読みいただければ幸いです。 なお、完結している作品を毎日投稿していきますので、未完結で終わることはありません。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

ミネルヴァ大陸戦記

一条 千種
ファンタジー
遠き異世界、ミネルヴァ大陸の歴史に忽然と現れた偉大なる術者の一族。 その力は自然の摂理をも凌駕するほどに強力で、世界の安定と均衡を保つため、決して邪心を持つ人間に授けてはならないものとされていた。 しかし、術者の心の素直さにつけこんだ一人の野心家の手で、その能力は拡散してしまう。 世界は術者の力を恐れ、次第に彼らは自らの異能を隠し、術者の存在はおとぎ話として語られるのみとなった。 時代は移り、大陸西南に位置するロンバルディア教国。 美しき王女・エスメラルダが戴冠を迎えようとする日に、術者の末裔は再び世界に現れる。 ほぼ同時期、別の国では邪悪な術者が大国の支配権を手に入れようとしていた。 術者の再臨とともに大きく波乱へと動き出す世界の歴史を、主要な人物にスポットを当て群像劇として描いていく。 ※作中に一部差別用語を用いていますが、あくまで文学的意図での使用であり、当事者を差別する意図は一切ありません ※作中の舞台は、科学的には史実世界と同等の進行速度ですが、文化的あるいは政治思想的には架空の設定を用いています。そのため近代民主主義国家と封建制国家が同じ科学レベルで共存している等の設定があります ※表現は控えめを意識していますが、一部残酷描写や性的描写があります

巡り巡って風車 前世の罪は誰のもの

あべ鈴峰
ファンタジー
母が死に高校に進学もできず。父親の顔色を見て暮らす生活。今日も父親のせっかんを受けていた。気を失い目を覚ますと待っていとのは更なる地獄。 しかし、それは人違いによるものだった。

処理中です...