アリーシャ・ヴェーバー、あるいは新井若葉と、歴史の終わり

平沢ヌル

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6章 歴史の終わり

6章3話 4年間、そして前日 *

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【新帝国歴1132年7月29日 ヨハン】

 とにかく本題は、俺がこの4年間関わってきた、蒸気機関車開発のお披露目に関する話だ。

 この時代の女性としてそこそこの教育を受けていた、そのはずだった俺の姉が、技術相談役とやらに取り立てられ、この国の君主であるリヒャルト殿下に様々な技術提案をするようになった。そのお陰で俺も取り立てられて、公爵直属の工房で働きながら、高等教育の機会を授けて貰えることになった。
 それから姉はメイド時々技術相談役、俺は技師兼学生として働いていた。その間アリーシャには色々あったようだが、俺の方は取り立てて大きな出来事はなく、勤労と勉学に明け暮れていたというぐらいだ。技師として独り立ちするためには地道な努力が不可欠だから、これは自然な成り行きだった。また時々アリーシャのアイディアで妙な機械を作らされることもあったが、その話ならアリーシャの方が詳しいだろう。
 正直得体の知れない話ではある、だが、アリーシャの出処不明の知識、その有用性は本物だった。蒸気機関も、蓄音器も、ジャガイモの疫病とやらも。最後の話はまだ結論が出たとは言えなかったが、何とか無難な線で収まりそうだった。そうでなかったらこんな蒸気機関のお披露目なんてやっていられなかっただろうから。
 姉が突然天才になったかと言われると、そうではないような気がする。アリーシャは物事に取り組む速度が格別速いわけではない。例えば本の読み方だ。俺だったら、一冊読んで内容をだいたい把握したら、次の本に移りたい。アリーシャは違う、気に入った本を何度も読み返して、その内容の細部まで覚えている。昔からそんな感じだった。そして、その出処不明の知識だ。何と言ったらいいのだろうか、まるで一冊の本がばらけてしまって、そのバラバラのページを眺めているような感じだった。
 だが、俺だって偉そうな事が言えたわけじゃない。俺は言わば徒弟、それも最初は年の割に経験の少ない、ズブの素人に毛が生えた程度の存在でしかなかった。そんな俺の師匠と言えたのが、工房の長、ウワディスラフ・エミルだ。蒸気機関車の開発にあって一番力があったのは、明らかに彼だ。
 ウワディスラフは元がこの国の人間ではない。東方の国から旅をしてきて、厚遇を受けられるこの国に最終的に落ち着いた、とのことだ。俺が初めて会った時から50ぐらいに見えていたが、本当はもっと若かったらしい。人類の発展に供するような技術を手掛けることがウワディスラフの希望であったようだ。この小国の小さな工房では、できることは限られていたが、それでも俺たちは希望を持っていた。彼は頭の切れとは裏腹に穏やかな人で、いろんなことを教えてくれた。
 そんなこんなで、技師としての俺の人生の始まりは、比較的恵まれていたと言える。蒸気機関車の公開実験はそして、華々しい主舞台となるはずだった。
 
 いよいよ蒸気機関車の公開実験が迫った、その前日のことだった。夜中遅く、俺は工房にいた。もう暗いので何か作業ができるわけではないし、ランプの油を無駄にするのも申し訳ない。製図机の前に座って、俺はずっと考えていた。

「緊張してるのかい、ヨハン」
「……先生」
 ウワディスラフだ。俺は彼を、時々先生と呼んでいる。

 ウワディスラフの姿だけから、強い印象を受ける者は少ないかもしれない。背丈は小柄で、アリーシャなんかよりも確実に低いし、猫背で頭は半分禿げ上がっている。若い頃に鍛冶の仕事をしていたせいで視力をやられており、この時代では珍しくいつも丸眼鏡をかけていた。そのために、俺たちには溶接なんかの安全管理にはうるさい。丸眼鏡の奥の目は小さく、鋭い印象ではない。逆に、優しい目だとは言えたかもしれないが。

「俺は別に、ただの運用技士ですから」
 俺はそう言った。

 公開実験での俺の役目は、蒸気機関車の運用中、その燃焼火力を監視し、実験中に一定の速度が保てるように作業することだった。弁舌爽やかにその動作原理を説明する機会があったりとか、華々しく注目されるわけじゃない。むしろ、率先して埃と灰を被ることになる仕事で、上流階級である聴衆には特に覚えが悪いかもしれない。聴衆への蒸気機関の原理、それから実験内容についての説明はウワディスラフの役目だった。

「君がいなかったら実験は成り立たないよ。一番重要な役目かもしれない」
 そう言って、ウワディスラフは俺の隣に座るのだ。
「むしろ、私が代表みたいな顔をしているのが間違いなんだ。実際にこの計画を手掛けたのは君で、私は君を指導しただけだからね」
 俺は少し考えてみる。
「どうなんでしょうか。姉なのか、俺なのか」
 この蒸気機関はアイディアと根本原理をアリーシャが提供し、俺が中心になって技術開発を行ったものと言えた。それにしたところで、ウワディスラフの力がなければ到底実現はできなかったのだが。
「君たちは才能に恵まれているね。それぞれ、別の才能に」
「……才能、ですか」
 俺は繰り返す。

 アリーシャは幼少の頃は口下手だった、今よりもずっと。それに少し吃音があった。だから馬鹿だと思われていたのだ、実際よりもずっと。本人なりに苦労して直したのだが、今でも考えながら喋っている時には途切れ途切れになることがある、それが辿々しく聞こえたりもする。そうやって考えていること、その思慮深さの方を認めてくれる人間なんていない。それに、劣っている部分を直して、人から遅れを取らない努力をして、それに成功したところで、人からちゃんと認めてもらえることは意味しない。余人に優れた部分を理解させることができないのなら。
 その特異性、一見の理解の難しさをもってなお、天才と称えられる人間の才能は、傍目に見えているよりずっと凄まじい。アリーシャにあるのは中途半端な才能だけで、そんな才能は得てして本人が持て余すだけで終わる。俺は多分、持て余す中途半端な才能がなくて、自分の貧弱な能力を把握して、それを活かすことに全振りしていた。それが俺とアリーシャが、一見ではこんなに性格が違う、その理由になっていたんだろう。 
 だけど、もしそれが。もしその違いが、アリーシャが自分自身を評価できないとか、俺の才能を活かすためには自分が犠牲になっても良いとか、そんな風に彼女に思わせていたとしたら。

「……先生」
「なんだい」
 俺は口を開く。あれからずっと考えていた、俺の疑問について。
「先生、もし俺が……アリーシャが。アリーシャが、もし。もし彼女が、俺のために」
 それを表現しようとする俺だが、どうにも出てくる言葉が要領を得ない。ウワディスラフは、それを察したようだった。
「言ってごらん」
 ややあって、俺は覚悟を決める。
「……。もし、アリーシャが。俺のために、俺を技師として成功させるために、今の地位に就いたのだとしたら」
 俺に表現できるのは、これが精一杯のところだった。少しだけ考え込んでいたウワディスラフだったが、それから彼は口を開く。
「ヨハン。最初に一つ聞いてもいいかい?」
「何でしょうか」
「仮に、もしそうだとしたら。君は、何を選択する?」
「…………」
 この質問に、俺はすぐには答えることができない。もしそこに何か、俺に関係することが含まれているとしたら。俺はどうすればいいのか。何を選択すべきなのか。
「……やめる、とは言えないです。俺はきっと。……きっと先にあるであろう、答えの方を見たいと、そう。だから。だけど」
 やっぱり俺は、それについて上手いこと表現することができない。そんな俺に、ウワディスラフは言葉を掛けるのだ。
「人生はね、何かを選択することだ。そして何かを選択するということは、多かれ少なかれ、その何かに自分自身を捧げるということだ。例えば君が、この工房で働いていることも。例えば、母親が子を産み育てること。全部が同じだ」
 それからウワディスラフは少し黙って、眼鏡を外し、そして口を開く。その言葉は、俺が生涯を通じて記憶すべき一言になったのだ。

「人が人生において何かの選択をしたということ、それはそれだけで尊いことなんだ。それが本来どうあるべきなのか、どんな選択を取らなければならなかったのか、他の人が決めることはできない。そこにある全ての経緯、全ての動機、全ての感情が見通せない限りは」

「…………」
 俺はその言葉には答えられず、黙って俯く。ウワディスラフは今度は、穏やかな表情で俺に向かって笑ってみせる。
「だけど、心配することはないよ。僕は君よりはリヒャルト公のことを知っている。言葉の上での詐術を駆使するような人じゃない。僕に免じて、彼のことを信頼してやってはくれないか?」
 その笑顔で、俺は自分が今まで、奇妙な考え方をしていたことにやっと気がつく。
 誠実で高潔、確かにそうだ。あの公爵は、俺がこの国の臣民、技師として仕えている存在で、俺は立場上そのように考えなければならない。だけどそれだけじゃなく、工房についての差配について俺が知るところですら、彼はその通りだった。
 それにあのリヒャルト公は、富や地位だけじゃなく、美しさにも若さにも恵まれている、ごく公正に考えて。欲望を満たしたいだけの理由なら、わざわざあの女を選ぶことはない。
 俺はどうやら、アリーシャがこれから人から侮られる人生を送ることになるかもしれない心配のために、歪んだ考え方をしていたらしい。公爵には、それから姉にも、それぞれの事情があるのだ。その事情のために彼らはこの選択を取らざるを得なかった。そして俺には、その事情の一番細かい部分までは知ることはできない。
 それらを全て理解していて、ウワディスラフはわざわざ今みたいな言い方をしたのだろう。
「……信頼していない、わけでは。だけど。はい」
「君たちが羨ましいよ。そんなに大事に思う、家族がいるんだからね」

 ウワディスラフに家族はいなかった。彼はその家族を、正確にはその家族の墓を、その出身であった東方の国に残してきている。その地に起きた戦火で家も畑も家族も何もかも失って、その能力だけを頼りに西方の国へ流れてきた。
 
 この話は、ウワディスラフは自分の不幸な境遇を乗り越えて、その能力を存分に発揮することに成功したんじゃないかと、その悲しみこそが彼を強く、賢くしていたということじゃないかと、そんな風に響くかもしれない。でも俺には分からない。ウワディスラフが俺の目に見えている通りの人間だったのかも。それを確認することは、永久に不可能になってしまった。
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