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4章 システム
4章8話 熱い血が流れる歓び
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【新帝国歴1130年4月27日 エックハルト】
アリーシャが退出した後も、座り心地の悪い椅子を並べた上で、長いことリヒャルトは身動きしなかった。エックハルトはずっと、渋い顔でそれを眺めている。こういう話をつぶさに耳に入れるのは趣味が良いものではないが、相手が君主では仕方ない。
「エック、ハルト」
リヒャルトはその名前を呼ぶ。まるで、助けを求めるかのように。だが、そうは問屋が卸さない。
「…………」
椅子の上で俯くリヒャルトを冷然と、無言でエックハルトは見おろす。そして、その頬を平手で打った。
乾いた音が響く。
「…………エック、ハルト」
リヒャルトは再び、彼の名を呟く。呆然としているかのような、それでも、なぜ頬を打たれたのか理解しているような、そんな口調で。
「みっともない駄々を捏ねるのはおやめください。自分が一番傷付いているような顔をするのも。本気でそうされているのであれば、君主の器ではありません」
流石に少し傷付いたように、リヒャルトは顔を顰める。だが、これで容赦する気はなかった。
「目下の者にあれだけご機嫌取られて、呆けたように座り込んでいるだけですか? あなたの仕事はまだ終わったわけではない、この状態から体制を立て直すことを考えなければならない」
伝えるべきことは、これで十分だったはずだった。だが、まだ言い足りていない。
「災厄は人間より強い。そもそも勝てない戦いを挑んでいることは、最初から分かっていたでしょう。彼女がその兵器を知っていたら、ですか? もしそうだとすれば、この盤面を覆せる鍵はそこにしかない。その鍵を前にしても癇癪を起こして泣き喚くような甘ったれの坊やは馬鹿にするに値しますよ、正直ね」
流石にエックハルトは、自分の辛辣さが度を超えていることを意識せざるを得ない。だが言い止めることができなかった。
「愛され、敬意を持たれることが当たり前だと思っていないか? 自分が向けることのない愛を常日頃向けられるのが当然だと思っているのか。いつもいつも冷然とふんぞり返っていられるのが羨ましいですよ。だが人間の心は無限ではない。相手の事情を理解しろ」
リヒャルトは黙り込む。また、いつものだんまりか、エックハルトはそう思った。だが、やがて口を開いたリヒャルトの声は、いつもとは打って変わった、心細そうな声だった。
「……違う。当然だなんて、……思ってない」
リヒャルトは片手で目を覆っている。泣いてはいない。だが、心の傷に耐えかねているかのような、掠れて弱々しい声だった。
「私は生来の名君じゃない、慈愛と自己犠牲の精神に溢れているような。この家では無理もないが。……思慮と決断力でそれを補うには、私は経験が不足しすぎている。……経験だけじゃない、何もかも、だ。…エックハルト。気が付かなかったかな、私がずっと、怯えていたことに。私が、不適格者だと、証明されることに」
リヒャルトは訥々と言葉を続け、エックハルトはそれを鋭い目でただ見つめている。
「……やっぱり、私は不適格者だな。否定されるのが怖かったんだ、彼女に。たとえ嘘だとしても、理想の君主でいたかった」
自嘲的に笑うリヒャルトに、しかしエックハルトは追い討ちをかける。
「……それだけですか?」
「え……」
「理想の君主でいたかったから、それだけの理由であんな八つ当たりをしたのか。そう伺っています」
冷たく聞こえるエックハルトの言葉。だが、リヒャルトはその意図を理解した。傍目から見える以上に、二人はよく似ている。
「……こんな剣呑な自分でも、好き、でいてくれるのが嬉しかった。それが、どういう意味だとしても。尊敬される自分でいたかった。……それなのに。……私は、怖いんだ。……あんな風に焼かれるのが。それであんな、ことを」
「……それを、彼女に直接言った方がいいですね。私ではなく」
そんな言葉とともに主君の前から辞したエックハルトだが、無言のまま、言葉にならない思考を反芻し、その形を見極めようと努める。
リヒャルトは道理が分かっている、これ位言ったところで覚えを悪くするようなことはないはずだ。あるいは、この程度のことでエックハルトの方をどうにかするなんて気を起こしたら、暗君の気配が出てきたと言わざるを得ない。そうすればその行く末など知ったことではない。だが、ここまで追い詰めることはなかったはずだった。
『エックハルト。気が付かなかったかな、私がずっと、怯えていたことに。私が、不適格者だと、証明されることに』
エックハルトはリヒャルトの言葉を思い出す。当然、気がついていないわけがない。リヒャルトの赤ん坊の頃からの付き合いなので、その考えていることは手に取るようにわかる。
では何故あんな辛辣な言葉を浴びせたのか。結局、エックハルトはリヒャルトに嫉妬しているということだ。リヒャルトが煮え切らない態度を見せるたび、あるいは人を人とも思わないような冷たさの片鱗を見せるたび、エックハルトは苛立ちを覚える。理不尽だと思っていてもそれを止めることはできない。不平等な愛についてエックハルトが説教した云々も、その実は大人げない嫉妬心ゆえと言えた。
それにしても、そんなのは分かりきった話のはずだ。なぜ今になってエックハルトが、こんなことで冷静さを失っているのか? その答えは、本人にとってすらはっきりしてはいない。違う、はっきりしている。だがそれを形容する言葉が見つからない。
ここで、エックハルトが、アリーシャ・ヴェーバーのことを、それから彼女の語る『前世』のことをどう思っていたのか述べておきたい。
その外貌は、もしかしたら平凡ではないのかもしれない。印象的な灰緑の目に鼻筋は通っており、骨格は秀でていて、背も高い。しかしそれを覆い隠すような悪い髪質と雀斑のせいで、社交界ではまず美人とは評価されない。また女性としては肩幅は広く、痩せていて、豪奢なコルセットドレスに似つかわしい体型ではない。平凡ではない、だが美しいとも言い切れない。それでも彼女を見ると、喉に小骨が突き刺さるような感じを覚える。そのアンバランスな外貌が、貞節さと裏腹に、背後からの短剣の一撃のような蠱惑性を生み出している。淫蕩には倦み疲れた風情のエックハルトすらそう思わないこともない。所詮は十五歳の坊やでしかないリヒャルトがあれだけご執心なのも、大方その辺りが理由だろう。
だが、そんなことはもう、エックハルトにとってはどうでも良かった。どのみち、『アリーシャ・ヴェーバー』には、エックハルトは執着していない。リヒャルトがアリーシャにご執心とか、あるいはアリーシャがリヒャルトにご執心とか、そこに個人的感情を交えるつもりはないし、アリーシャのような、人当たりの上では良くも悪くも普通の女と理解し合うには、エックハルトは異常すぎる人間だ。
エックハルトが執着するのは、アリーシャ・ヴェーバーの持つ知識の源である世界、その世界で生まれて死んだ方の彼女の方だ。
「……あなたは、一体誰なんですか」
以前にも発した疑問を、エックハルトは再び呟く。最初にその言葉を発したときには、エックハルト自身にとってそれが重要な意味を持ってくるとは思ってもみなかったのだが。その女のこと、おそらくはアリーシャすら理解していない前世の在り方、その世界のことを知りたい。それがこの時のエックハルトを突き動かしていた原初的な動機だった。
だがリヒャルトは、自分が知らないことをアリーシャが知っていることを責めている。それこそ、地面に叩きつける位の勢いで。下手をすると、その世界のことを知る機会は永久に失われるかもしれなかった。泣き虫坊やのご機嫌取り程度の理由で、これを逃したら永遠に得られないかもしれないその知識を、失うわけにはいかない。
『地獄の釜の蓋が閉じたような』ランデフェルトの気性、それはリヒャルトにも、エックハルトにも流れている血だった。熱い血が流れる幸せ、あるいは歓び。エックハルトのそれは、リヒャルトのそれとは違っているだろう。だがその衝動のどちらがより真実であるかは、誰にも言えないはずだ。
アリーシャが退出した後も、座り心地の悪い椅子を並べた上で、長いことリヒャルトは身動きしなかった。エックハルトはずっと、渋い顔でそれを眺めている。こういう話をつぶさに耳に入れるのは趣味が良いものではないが、相手が君主では仕方ない。
「エック、ハルト」
リヒャルトはその名前を呼ぶ。まるで、助けを求めるかのように。だが、そうは問屋が卸さない。
「…………」
椅子の上で俯くリヒャルトを冷然と、無言でエックハルトは見おろす。そして、その頬を平手で打った。
乾いた音が響く。
「…………エック、ハルト」
リヒャルトは再び、彼の名を呟く。呆然としているかのような、それでも、なぜ頬を打たれたのか理解しているような、そんな口調で。
「みっともない駄々を捏ねるのはおやめください。自分が一番傷付いているような顔をするのも。本気でそうされているのであれば、君主の器ではありません」
流石に少し傷付いたように、リヒャルトは顔を顰める。だが、これで容赦する気はなかった。
「目下の者にあれだけご機嫌取られて、呆けたように座り込んでいるだけですか? あなたの仕事はまだ終わったわけではない、この状態から体制を立て直すことを考えなければならない」
伝えるべきことは、これで十分だったはずだった。だが、まだ言い足りていない。
「災厄は人間より強い。そもそも勝てない戦いを挑んでいることは、最初から分かっていたでしょう。彼女がその兵器を知っていたら、ですか? もしそうだとすれば、この盤面を覆せる鍵はそこにしかない。その鍵を前にしても癇癪を起こして泣き喚くような甘ったれの坊やは馬鹿にするに値しますよ、正直ね」
流石にエックハルトは、自分の辛辣さが度を超えていることを意識せざるを得ない。だが言い止めることができなかった。
「愛され、敬意を持たれることが当たり前だと思っていないか? 自分が向けることのない愛を常日頃向けられるのが当然だと思っているのか。いつもいつも冷然とふんぞり返っていられるのが羨ましいですよ。だが人間の心は無限ではない。相手の事情を理解しろ」
リヒャルトは黙り込む。また、いつものだんまりか、エックハルトはそう思った。だが、やがて口を開いたリヒャルトの声は、いつもとは打って変わった、心細そうな声だった。
「……違う。当然だなんて、……思ってない」
リヒャルトは片手で目を覆っている。泣いてはいない。だが、心の傷に耐えかねているかのような、掠れて弱々しい声だった。
「私は生来の名君じゃない、慈愛と自己犠牲の精神に溢れているような。この家では無理もないが。……思慮と決断力でそれを補うには、私は経験が不足しすぎている。……経験だけじゃない、何もかも、だ。…エックハルト。気が付かなかったかな、私がずっと、怯えていたことに。私が、不適格者だと、証明されることに」
リヒャルトは訥々と言葉を続け、エックハルトはそれを鋭い目でただ見つめている。
「……やっぱり、私は不適格者だな。否定されるのが怖かったんだ、彼女に。たとえ嘘だとしても、理想の君主でいたかった」
自嘲的に笑うリヒャルトに、しかしエックハルトは追い討ちをかける。
「……それだけですか?」
「え……」
「理想の君主でいたかったから、それだけの理由であんな八つ当たりをしたのか。そう伺っています」
冷たく聞こえるエックハルトの言葉。だが、リヒャルトはその意図を理解した。傍目から見える以上に、二人はよく似ている。
「……こんな剣呑な自分でも、好き、でいてくれるのが嬉しかった。それが、どういう意味だとしても。尊敬される自分でいたかった。……それなのに。……私は、怖いんだ。……あんな風に焼かれるのが。それであんな、ことを」
「……それを、彼女に直接言った方がいいですね。私ではなく」
そんな言葉とともに主君の前から辞したエックハルトだが、無言のまま、言葉にならない思考を反芻し、その形を見極めようと努める。
リヒャルトは道理が分かっている、これ位言ったところで覚えを悪くするようなことはないはずだ。あるいは、この程度のことでエックハルトの方をどうにかするなんて気を起こしたら、暗君の気配が出てきたと言わざるを得ない。そうすればその行く末など知ったことではない。だが、ここまで追い詰めることはなかったはずだった。
『エックハルト。気が付かなかったかな、私がずっと、怯えていたことに。私が、不適格者だと、証明されることに』
エックハルトはリヒャルトの言葉を思い出す。当然、気がついていないわけがない。リヒャルトの赤ん坊の頃からの付き合いなので、その考えていることは手に取るようにわかる。
では何故あんな辛辣な言葉を浴びせたのか。結局、エックハルトはリヒャルトに嫉妬しているということだ。リヒャルトが煮え切らない態度を見せるたび、あるいは人を人とも思わないような冷たさの片鱗を見せるたび、エックハルトは苛立ちを覚える。理不尽だと思っていてもそれを止めることはできない。不平等な愛についてエックハルトが説教した云々も、その実は大人げない嫉妬心ゆえと言えた。
それにしても、そんなのは分かりきった話のはずだ。なぜ今になってエックハルトが、こんなことで冷静さを失っているのか? その答えは、本人にとってすらはっきりしてはいない。違う、はっきりしている。だがそれを形容する言葉が見つからない。
ここで、エックハルトが、アリーシャ・ヴェーバーのことを、それから彼女の語る『前世』のことをどう思っていたのか述べておきたい。
その外貌は、もしかしたら平凡ではないのかもしれない。印象的な灰緑の目に鼻筋は通っており、骨格は秀でていて、背も高い。しかしそれを覆い隠すような悪い髪質と雀斑のせいで、社交界ではまず美人とは評価されない。また女性としては肩幅は広く、痩せていて、豪奢なコルセットドレスに似つかわしい体型ではない。平凡ではない、だが美しいとも言い切れない。それでも彼女を見ると、喉に小骨が突き刺さるような感じを覚える。そのアンバランスな外貌が、貞節さと裏腹に、背後からの短剣の一撃のような蠱惑性を生み出している。淫蕩には倦み疲れた風情のエックハルトすらそう思わないこともない。所詮は十五歳の坊やでしかないリヒャルトがあれだけご執心なのも、大方その辺りが理由だろう。
だが、そんなことはもう、エックハルトにとってはどうでも良かった。どのみち、『アリーシャ・ヴェーバー』には、エックハルトは執着していない。リヒャルトがアリーシャにご執心とか、あるいはアリーシャがリヒャルトにご執心とか、そこに個人的感情を交えるつもりはないし、アリーシャのような、人当たりの上では良くも悪くも普通の女と理解し合うには、エックハルトは異常すぎる人間だ。
エックハルトが執着するのは、アリーシャ・ヴェーバーの持つ知識の源である世界、その世界で生まれて死んだ方の彼女の方だ。
「……あなたは、一体誰なんですか」
以前にも発した疑問を、エックハルトは再び呟く。最初にその言葉を発したときには、エックハルト自身にとってそれが重要な意味を持ってくるとは思ってもみなかったのだが。その女のこと、おそらくはアリーシャすら理解していない前世の在り方、その世界のことを知りたい。それがこの時のエックハルトを突き動かしていた原初的な動機だった。
だがリヒャルトは、自分が知らないことをアリーシャが知っていることを責めている。それこそ、地面に叩きつける位の勢いで。下手をすると、その世界のことを知る機会は永久に失われるかもしれなかった。泣き虫坊やのご機嫌取り程度の理由で、これを逃したら永遠に得られないかもしれないその知識を、失うわけにはいかない。
『地獄の釜の蓋が閉じたような』ランデフェルトの気性、それはリヒャルトにも、エックハルトにも流れている血だった。熱い血が流れる幸せ、あるいは歓び。エックハルトのそれは、リヒャルトのそれとは違っているだろう。だがその衝動のどちらがより真実であるかは、誰にも言えないはずだ。
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