アリーシャ・ヴェーバー、あるいは新井若葉と、歴史の終わり

平沢ヌル

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4章 システム

4章3話 仮面の男と大人の女 *

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【新帝国歴1130年4月5日 アリーシャ】

「…………はあ」
 私は溜息を吐く。

 例によって、参加しなくてもいいポジション取りに立って、私は階段の上の方から舞踏会を眺めていた。あくまで軍事作戦を話し合うための会合として開かれた今回の七人委員会だが、余興として参加者が踊りに興じるのは恒例のものであるらしい。
 リンスブルック侯国の時と違うのは、その会場の雰囲気だった。リンスブルック侯国の舞踏場は女性的な華やかさの印象があったけれど、ここは雰囲気が違っていて、重厚、の一言だった。建物自体が大きく、天井が高い。巨大なシャンデリアの明かりも天井の隅々までは照らせない。ダンスに興じているのは参加者のうち一握りで、周囲で何やら談判している人の方が多い。年配者の割合も多かった。どうやら、半分は政治家同士の情報交換の場であるらしい。
 そしてリヒャルト様がいないことも、前とは違っていた。リヒャルト様は何か仕事があるらしく、あてがわれた居室に籠っているという。

「…………はあ」
 私は今日、何度目かの溜息を吐く。

 どことなく複雑な気分に陥っているのは、会議中とその後の出来事、そこでのリヒャルト様の様子を目にしたせい、それからもう一つ理由があった。
 これから始まる軍事作戦に、明らかにリヒャルト様は気乗りがしていない。それに、今日になって私に告げていたことがあった。
『今回の作戦には、お前は同行しなくていい。自分の安全を最優先し、帰国してくれていい』
 私はその言葉には従わなかった。命令であれば従うしかない、でも命令ではなかった。戦えないのだから、最前線には立てないだろう。だけど、どこかが引っかかる。
 一番引っかかるのはリヒャルト様の言い方だ。しなくていいとか、してくれていいとか、普段のリヒャルト様だったらこういう場面でそんな言い方はしないだろうと思う。

 そんな、華やかなシチュエーションにはおよそ似つかわしくない思考に嵌っていた時のことだった。
「こんばんは」
 それは、聞き慣れた声だった。



【新帝国歴1130年4月5日 若葉】

 私は素早く思考を切り替える。頭を働かせなければならない。
 だって彼は、アリーシャの天敵だし。それに、私にとっても、ある意味ではとても厄介な男だったのだから。

「何なんですか。その……それ」
 私は低い声を出そうと努める。

 挨拶の主は果たして、エックハルト・フォン・ウルリッヒ、我らが廷臣閣下その人だった。彼は普段の衣装ではなくて、舞踏会用の仮装だ。黒を基調としているせいで、遠目にはそんなに派手な印象ではない。だけど近くでよく見ると、いつもよりは大仰な、舞台衣装のような格好だった。マントはまるで鳥の羽のようだし、全体的にこの地域の人が考える異国情緒に溢れた形をしていた。それにもう一つ、いつもと違っている特徴があった。彼は黒い鳥の羽があしらわれた、装飾的な仮面を付けていたのだ。
 そう言えばヴォルハイムに来てから、リヒャルト様だけではなくて、エックハルトも社交の場では見かけていなかった。いたのかもしれないけど、遠目では分からなかった。この格好をしていたから見かけなかったのか、それともずっとこの場にはいなくて、今夜、この時間になって初めて現れたのか。

「おかしいですか?」
 首を傾げて、そんな風に彼は聞き返す。
「いや……まあ。似合ってますけど。……ていうか、なんでなんです?」
「何がですか?」
「なんでそんな……仮面なんて」
 人が仮面を付ける一番の理由は、素性を隠すためだ。目の周囲だけ隠したところで隠せる素性なんてたかが知れている気が私にはするのだが。また、この辺りの大きな都市では、紳士淑女が秘密で集う舞踏会もあるという。彼が付けている仮面もそんないかがわしい舞踏会で必要になるものかもしれない。または、彼はそんないかがわしい舞踏会に出席してきた後なのかもしれない。私の考えは、そんな思考を辿っていく。
「まあ、いろいろありますから。私も」
 そう言ってエックハルトは、唇に指を当てる。その仕草はいかにも色っぽかったけど、それでも私はその様子をうさんくさげに眺めることにする。その私に向かって、エックハルトは手を差し出すのだ。
「えっ……なんですか、それ」
「一曲付き合っていただこうかと」
「えっ……。いや、その。私ダンスが得意じゃないの、分かってますよね?」
 私は彼のことをジト目で睨む。クールにさりげなく、と思ったけど、恨みがましさが混じっていることは否定できない。

 リンスブルック公国の舞踏会の時は私は、というかアリーシャは、ダンスが踊れなかった。その後、リヒャルト様に何度かダンスの手ほどきを受けていたが、当初は惨憺たる有様だった。そして、その場面を何度かエックハルトは目撃しているし、そういう時にはエックハルトは何も言わずただ観察していて、アリーシャとしてはとても気まずい。結局リヒャルト様に抗議して、個人的なダンスレッスンの場面ではエックハルトを締め出したのだけど。アリーシャの扱いは宮仕えし始めた頃と今とは違っていて、リヒャルト様と短い時間二人きりにしたところで問題ないということになってはいたようだった。

 だけどエックハルトは私の言葉に、余裕のある微笑みを浮かべるのだ。
「筋は悪くないと、そう伺っております」
「筋ってさぁ……」
 私は何か言おうとするが、二の句が継げずに黙ってしまう。
 リヒャルト様との特訓でアリーシャのダンスの技術は急速に向上していると言ってもいい。だけどそれを、ダンスを踊るために生まれたみたいな生活をこれまでずっと続けてきたお貴族様方と比較すればお恥ずかしいレベルでしかない。私にもダンスのことはよくわからないけど、多分そうだろうと思う。それに、アリーシャの立場からすれば、エックハルトという天敵の男に弱味を見せてやることにもなりかねないし、私のせいでそんなことになってしまったら、アリーシャが可哀想だ。
「……それに、きっと言うんでしょ。かかしみたいな踊り方だって」
「それは、あいつの言い草でしょう」
「!!」
 思わずぼそっと出た私の一言に、そんな言葉を返すエックハルト。どうにも独り言、それも恨みがましい独り言に反応されてしまうと、なかなか気恥ずかしいものがある。
 というか、だ。
「……あいつ?」
「何か?」
「今あいつ呼ばわりしなかった? 仮にも主君を」
「失礼。……殿下のお言葉でしょう」
 失言なのか意図的なのか、笑みを浮かべて言い直すエックハルト。
「それは、私が言いつけてもいいってこと? リヒャルト様に」
「ご自由に」
 相変わらずエックハルトは余裕のある笑みを崩さない。考えてみると、「エックハルト様がリヒャルト様をあいつ呼ばわりしてました!」なんて間抜けな告げ口、どちらかと言うとお笑い草かもしれない。リヒャルト様に私が、というかアリーシャがそう告げた場合の、彼の渋い顔と気まずい空気を私はついつい想像してしまう。
「我らが敬愛してやまない公爵殿下のことは、今はいいです。それとも、あなたも気になりますか? 彼のことが」
 私の反応を受けて今度はエックハルトは、そんな持って回った言い方をしてみせるのだ。
「くっ…………。あのさ。なんというか。エックハルトさん」
「何でしょうか」
「あなたはちょっと……アレすぎる」

 ここに来て、私は頭を抱えている。だって考えてもみてほしい、この状況を。エックハルトだって、もう少し考えてくれてもいいはずだ。

 私は今、『アリーシャ・ヴェーバー』として喋っていない。『新井若葉』として喋っている。冷静に考えてみてほしい、この男はアリーシャに手を出しかけたのだ。それがヤク中からの前後不覚ゆえとは言え、そうそう看過できる話ではない。私が29歳の女でもあって、また彼の特殊な事情を鑑みて、見逃してやっている、それだけの話だ。
 そう、エックハルトはアリーシャには近づけさせられない。あの一件をアリーシャ、身分制度に縛られた世界を生きるメイドの女の子が受け止めるにはちょっと重すぎるし、エックハルトがまたあの状態に陥った時に対処するのも難しい。だから私は、エックハルトには『若葉』として接することにした。いつもじゃないけど、この男の厄介な個性に個人的に対応しなければならない場合には。
 若葉である私だって男性経験はほとんどなくて、それはその、あまり認めたくない事実ではある。ただ、大人としてはいろんな種類の人間との関わりはあって、男性だから、あるいはイケメンだからという理由で物怖じしたり忖度したりする理由にはならない。それに、エックハルトは一見瀟洒でしたたかな大人の男性だけど、自暴自棄な衝動性や頑なさ、それからあんな風な脆さも垣間見える。その危うさを考えた時に、なけなしの大人としての責任感と度量を発揮できるのは、アリーシャよりは若葉だ。

 一方のエックハルトは、あの一件を自分から持ち出すような様子はなかった。リヒャルト様との謁見なんかでは、慎重で丁寧、でも微妙に関心が薄そうな雰囲気。二人になった場面では少し違っていて、時々こんな感じの会話を投げかけてくることもあった。
 エックハルトは何というか、アレなのだ。アレに入る言葉が何なのか、私にもよく分からない。百戦錬磨とか、危険な男とか、女誑しとか、どれもあんまりしっくりとは来ない。

 となると、だ。
 この場で、実態はあまり誇れるものではないとはいえ、大人の女である新井若葉が言える言葉ってなんだろうか。私はそれを考える。この男に振り回されないで、主導権を握り、状況をコントロールするために私は何を言えばいいのか。

「……元気になって何よりですけれど、少し軽率なんじゃございませんこと? エックハルトさん」
「……それは」
 エックハルトは、初めて言い淀む。もしかしたらこれが正しい方向かもしれない。私は畳み掛ける。
「こっちは心配したんですからね? それをさ……二、三日したらケロッとして、アリーシャをからかい始めるし」
「心配した……? 誰を」
 一方のエックハルトは怪訝そうだ。
「あなただよ。決まってるでしょ」
「殿下やアリーシャ殿ではなく」
「なんでリヒャルト様が出てくるの。一番危なっかしいのは、どう考えてもさ」
 そう言って私は、軽く手の甲でエックハルトの胸の辺りを小突く。あまり追及して言い合いにもなりたくないし、エックハルトが私の立場を尊重してくれれば、私はそれで構わない。
「感謝してね、私が大人の女だってことに。だからこれは紳士協定。あなたの事情や、揺らぎを私は尊重するけど、代わりにあなたは私の立場を尊重すること。いいかしら?」
 本当に正確なところを言うならば、大人の女ごっこってところだろう。小心者で子供っぽい新井若葉の素を見せれば、瞬く間に手玉に取られても不思議はない。
「…………」
 一方のエックハルトは、黙り込むと、顔の下半分を片手で覆っている。何か考え込んでいる風情だが、目元と口元を隠すと傍目の印象は完全に謎の男だ。
「ほら、舞踏会が待ってるんじゃないの? 色男さん」
 私は階下を指し示す。舞踏会の華やかな様子は、私には似合わないとしても、この男にはとても似つかわしいだろう。
 しかし、この後のエックハルトの様子は、私にとっては少し奇妙だった。
「……その前に。私も一つ伺っていいですか?」

 サイコパス、あるいはソシオパス。私はエックハルトが、そんな人間だと思っていた。自分の目的に対しては、石が落ちるように最短距離で達成しようとするし、そこに巻き込まれる人間の気持ちなんかはあまり考えない。それでも最低限の倫理観はあるというのは普段の行動言動を評価しただけの話で、本当の内心はどうなのかはよく分からない。
 だけどこの瞬間のエックハルトは、妙に真剣だった。慇懃で丁重で、でもいつも斜に構えたようなエックハルト、そんな彼に私がこうであってほしいと期待するよりも、少しだけ。

 エックハルトは私の手首を掴むと、自分の方に引き寄せる。それから、私の方に顔を近づけて、低い声で告げるのだ。
「私はあなたの反応を見ていた。あなたがアリーシャ・ヴェーバーなのか、それとも、もう一人なのか」
「は?」
「アリーシャ、あなたはそう呼んでいますよね。『私』ではなくて。あなたは『誰』なんですか? 今」
 エックハルトの金色の目は、至近距離で私の目を覗き込む。それは、一切迷いの無い視線。私は内心で怯んでしまう。この男、エックハルトは、やっぱり妙に鋭いらしい。

 と、そんな私たちの会話は、投げかけられた不意の言葉で中断された。
「……これはこれは。ランデフェルトの女衒ぜげん殿ではないか」
 それはあの女騎士、大公マクシミリアン殿下の双子の妹、ツィツェーリア様だった。
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