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3章 物乞いの子
3章8話 リヒャルトの記憶
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【新帝国歴1125年8月3日 リヒャルト】
一方の、リヒャルトの記憶だ。
エックハルトに関してリヒャルトが一番記憶に残っているのは、幼年の頃からの槍術の稽古相手としてのエックハルトだ。
槍術の師匠は別にいた、だが、それよりずっと長い時間、練習相手になっているのがエックハルトだ。師匠は型を教え、動きについて指導して、時々は打ち込みの相手になる。だがエックハルトは攻撃してくる。深刻な怪我になるようなことはしない、だがリヒャルトに生傷を付けることぐらいだったらエックハルトは全く厭わない。
それも、ある訓練の日のことだった。エックハルトは幼いリヒャルトの構える槍を膂力と梃子の原理で軽々と打ち払い、反動で仰け反ったリヒャルトに足を掛けて尻餅をつかせ、槍の柄を使って組み敷いてから、リヒャルトの喉近くの床に、腰から抜いた小刀を突き刺していた。いつでも喉首を掻っ切れる、そう理解させるための示威行動だ。
そうしながら、冷然と見下ろしている金色の目が、リヒャルトの印象には強く残っている。
「……チェックメイト。あなたの負けです」
そう告げるエックハルトの語気には洒落にならない敵意、それどころか殺意すら籠もっているようにリヒャルトには聞こえていた。
「……やめろ!」
リヒャルトはエックハルトに、何度そう怒鳴っただろうか。
「やめろと言って、やめてくれると思いますか? 敵が」
そう言ってエックハルトは立ち上がり、得物を仕舞う。この「やめろ」が降参の合図で、そういうとエックハルトも攻撃をやめるのだが、嫌味を付け加えることは忘れない。
「まあ、人間であれば容赦してくれるかもしれませんね、跪いて命乞いして恭順を誓えば。でも、災厄なら?」
「……お前なんか嫌いだ」
それも何度言ったことか分からない。
「嫌いで結構。私の首ぐらい、簡単に落とせるようになって頂かなければ困ります」
そう言いながら何時間でも稽古の相手になる、それがエックハルトだ。
本気のエックハルトからリヒャルトがやっと一本取れたのは11歳の時だった。それからリヒャルトはずっと成長していて、今では戦績は五分に近い。それも、エックハルトがその生来の狡猾さで仕掛けてくるフェイントにも関わらず、だった。となると、これからの伸び代を考えてもリヒャルトの方に分がありそうだが、それはエックハルトの薫陶の成果とも言える。
幼い頃は、リヒャルトはエックハルトが嫌いだった。だが、ことに当たって一番頼りになるのもエックハルトだった。それは、現在に至るまで変わらない。
【新帝国歴1130年1月8日 リヒャルト】
「…………」
そんなことを思い返しながら、リヒャルトは一人、暗くなった執務室で考え事に耽っていた。
エックハルトの『持病』と、アリーシャの様子。アリーシャは泣いていた。
(何か、されたのか? ……アリーシャ)
そんな風に心の中で聞いてみるが、流石にそんなことは聞けない。決して言葉にすることはできない。
エックハルトは問題の多い人間だが、かけがえのない人間でもある、リヒャルトにとっては。アリーシャが大事なことと同じぐらい、エックハルトはリヒャルトにとっては大事な存在だ。と言うか、エックハルトと同じぐらいにアリーシャが大事な存在になっていることが大きな問題ですらある。だって、エックハルトの代わりはいないのだから。
何もされていない、それを信じる以外に、リヒャルトにできることはない。
「……私は君主。彼女は臣下。そして、エックハルトも」
リヒャルトは呟く。
君主と臣下だと、それを自分に言い聞かせなければならないほど、リヒャルトとエックハルトの関係は歪んでいる。
エックハルトの背負った運命、母親の境遇と生まれた場所が違っていれば、主君の座に座っているのはエックハルトで、リヒャルトが臣下であってもおかしくない、リヒャルト自身はそんな風に考えることもあった。現実的な物事の推移を考えると、赤子のエックハルトを連れてきたという女の主張が認められたとしても彼は末子であり庶子ということにはなるから、継承権を得られる可能性は相当に低い。それでも君主としての資質の一部において、特に果断さや冷徹さ、それでいて厄介な問題を奇抜な解決策で切り抜けていく創意工夫ではエックハルトはリヒャルトに勝っている、少なくとも現時点では太刀打ちできない。かと言って現在のエックハルトが君主という存在に相応しいかと言ったら、どうにも危ういし、何よりも人徳がなさすぎると言わざるを得ないが、その点ではリヒャルトも別に自信はなかった。
一方で、二人を隔てるもう一つの要素がある。エックハルトが曽祖父の隠し子ではない可能性だ。エックハルトを連れてきた女は、まだ20歳を越していないと思われる、痩せていてみすぼらしく、丈の合わない男物の服を着た娘だったという。一方で三代前の公爵であるインマヌエルは70はとうに越していたはずで、また謹厳実直で音に聞こえていた。その老公爵が、接点がほとんどない年端も行かぬ貧民の娘を孕ませるというのは不自然だ。さらに晩年には身体を壊して別邸で療養生活をしており、そんな中で誰にも知られず色事に情熱を傾けたというのは首を傾げざるをえない。もしかしたら女が物乞いではなく、メイドや看護婦の類だったらまだ状況としては理解できるが、その女の事を誰も見たことがなかったというし、それらしき人物の記録も残っていない。あるいは、その女はエックハルトの母親本人ではないのかもしれず、秘密裏に囲われていた愛人の家からその女が誘拐した可能性すらある。当時の宮廷ではそんな議論もされていたらしいが、証拠のない推測の域を出ることはなかった。
とにかく奇妙な話で、悪魔のいたずら、あるいは呪い、あるいは悪意のある運命の罠とでも思える話だった。
これら全てを考慮して、エックハルトを庶子と見做さない決定がされており、エックハルト自身もそれを承服している、はずだった。承服しているというのは建前で、内心は違うのかもしれない。エックハルトに不満がなかったらおそらくこんな『持病』などはありえない話で、エックハルトがこの件で誰をどれだけ恨んでいるのか、その恨みは自分に向いているのか、敢えて追求はしないというだけの話だった。
「……お前は、馬鹿だよ。エックハルト」
そう呟いて、リヒャルトは額を抱える。
エックハルトが十代の終わり頃は、新年を過ぎた頃だけしでかすという彼の不行跡は現在の比ではなかった。当てのない放浪の末に路地裏で見つかるなら良い方で、場末の若者との無意味な決闘で互いに命を散らす寸前に警邏隊に取り押さえられたり、悪ふざけのような、度胸試しのような手段を用いた、自殺未遂じみた示威行動すらあったとリヒャルトは聞いている。それはある意味では宮廷へのあてつけで、それでいてその熱病のような期間を過ぎるとしれっと優等生を演じているのだから厄介な話だった。
その性格的な欠点さえなければ、知的にも肉体的にも強靭と評価されるエックハルトが、なぜそこまでして自分を傷付けるのか、その心の裡をリヒャルトは理解できない。しかしリヒャルトはエックハルトではない。その苦しみを味わったことはないし、これからもきっと身に沁みて理解することは不可能だ。
エックハルトを連れてきたという女は、上等な赤い絹のストールを頭から被っていたらしい。それはこの世界では単に高級品というだけではなく、所有者の高い出自を証明するような品物だった。だが、内陸に位置するこの国の冬の寒さを凌ぐには全く役に立たない。その絹のストールが宮廷から持ち出されたものではないかという調査もされていたが、はかばかしい結果は得られていなかった。結局それはその係累の唯一の遺品としてエックハルトの手元に戻ってきていたが、しばらくそのことは忘れ去られていたらしい。実際に渡されたのはエックハルトが大人になった後のことだったという。
そんな正体不明の絹のストールのように、エックハルトはこの宮廷において、どこでもない場所から齎された、この上なく貴いそして同時に得体の知れない存在だった。
貴種であるのか、そうでないのか。自己の存在を貴いものとして未来に残していく価値があるのか。それはこの世界を自分の世界として生きる人間にとっては、魂に食い込んで、決して離れてくれない問題だった。貴種であるという決して否定できない属性について、リヒャルトにはリヒャルトなりの思い悩みがないことはなかったが、しかしエックハルトが舐めてきた苦杯とは比べ物にならない。
エックハルトを嫌っていた幼少の頃のリヒャルトは、これらの事情を理解していなかった。だが今は違う。今のリヒャルトが一つだけ言えることがあるとすれば、そんなエックハルトへの負い目、それでいて彼から受けてきた恩義を、リヒャルトは決して返せないということだった。
一方の、リヒャルトの記憶だ。
エックハルトに関してリヒャルトが一番記憶に残っているのは、幼年の頃からの槍術の稽古相手としてのエックハルトだ。
槍術の師匠は別にいた、だが、それよりずっと長い時間、練習相手になっているのがエックハルトだ。師匠は型を教え、動きについて指導して、時々は打ち込みの相手になる。だがエックハルトは攻撃してくる。深刻な怪我になるようなことはしない、だがリヒャルトに生傷を付けることぐらいだったらエックハルトは全く厭わない。
それも、ある訓練の日のことだった。エックハルトは幼いリヒャルトの構える槍を膂力と梃子の原理で軽々と打ち払い、反動で仰け反ったリヒャルトに足を掛けて尻餅をつかせ、槍の柄を使って組み敷いてから、リヒャルトの喉近くの床に、腰から抜いた小刀を突き刺していた。いつでも喉首を掻っ切れる、そう理解させるための示威行動だ。
そうしながら、冷然と見下ろしている金色の目が、リヒャルトの印象には強く残っている。
「……チェックメイト。あなたの負けです」
そう告げるエックハルトの語気には洒落にならない敵意、それどころか殺意すら籠もっているようにリヒャルトには聞こえていた。
「……やめろ!」
リヒャルトはエックハルトに、何度そう怒鳴っただろうか。
「やめろと言って、やめてくれると思いますか? 敵が」
そう言ってエックハルトは立ち上がり、得物を仕舞う。この「やめろ」が降参の合図で、そういうとエックハルトも攻撃をやめるのだが、嫌味を付け加えることは忘れない。
「まあ、人間であれば容赦してくれるかもしれませんね、跪いて命乞いして恭順を誓えば。でも、災厄なら?」
「……お前なんか嫌いだ」
それも何度言ったことか分からない。
「嫌いで結構。私の首ぐらい、簡単に落とせるようになって頂かなければ困ります」
そう言いながら何時間でも稽古の相手になる、それがエックハルトだ。
本気のエックハルトからリヒャルトがやっと一本取れたのは11歳の時だった。それからリヒャルトはずっと成長していて、今では戦績は五分に近い。それも、エックハルトがその生来の狡猾さで仕掛けてくるフェイントにも関わらず、だった。となると、これからの伸び代を考えてもリヒャルトの方に分がありそうだが、それはエックハルトの薫陶の成果とも言える。
幼い頃は、リヒャルトはエックハルトが嫌いだった。だが、ことに当たって一番頼りになるのもエックハルトだった。それは、現在に至るまで変わらない。
【新帝国歴1130年1月8日 リヒャルト】
「…………」
そんなことを思い返しながら、リヒャルトは一人、暗くなった執務室で考え事に耽っていた。
エックハルトの『持病』と、アリーシャの様子。アリーシャは泣いていた。
(何か、されたのか? ……アリーシャ)
そんな風に心の中で聞いてみるが、流石にそんなことは聞けない。決して言葉にすることはできない。
エックハルトは問題の多い人間だが、かけがえのない人間でもある、リヒャルトにとっては。アリーシャが大事なことと同じぐらい、エックハルトはリヒャルトにとっては大事な存在だ。と言うか、エックハルトと同じぐらいにアリーシャが大事な存在になっていることが大きな問題ですらある。だって、エックハルトの代わりはいないのだから。
何もされていない、それを信じる以外に、リヒャルトにできることはない。
「……私は君主。彼女は臣下。そして、エックハルトも」
リヒャルトは呟く。
君主と臣下だと、それを自分に言い聞かせなければならないほど、リヒャルトとエックハルトの関係は歪んでいる。
エックハルトの背負った運命、母親の境遇と生まれた場所が違っていれば、主君の座に座っているのはエックハルトで、リヒャルトが臣下であってもおかしくない、リヒャルト自身はそんな風に考えることもあった。現実的な物事の推移を考えると、赤子のエックハルトを連れてきたという女の主張が認められたとしても彼は末子であり庶子ということにはなるから、継承権を得られる可能性は相当に低い。それでも君主としての資質の一部において、特に果断さや冷徹さ、それでいて厄介な問題を奇抜な解決策で切り抜けていく創意工夫ではエックハルトはリヒャルトに勝っている、少なくとも現時点では太刀打ちできない。かと言って現在のエックハルトが君主という存在に相応しいかと言ったら、どうにも危ういし、何よりも人徳がなさすぎると言わざるを得ないが、その点ではリヒャルトも別に自信はなかった。
一方で、二人を隔てるもう一つの要素がある。エックハルトが曽祖父の隠し子ではない可能性だ。エックハルトを連れてきた女は、まだ20歳を越していないと思われる、痩せていてみすぼらしく、丈の合わない男物の服を着た娘だったという。一方で三代前の公爵であるインマヌエルは70はとうに越していたはずで、また謹厳実直で音に聞こえていた。その老公爵が、接点がほとんどない年端も行かぬ貧民の娘を孕ませるというのは不自然だ。さらに晩年には身体を壊して別邸で療養生活をしており、そんな中で誰にも知られず色事に情熱を傾けたというのは首を傾げざるをえない。もしかしたら女が物乞いではなく、メイドや看護婦の類だったらまだ状況としては理解できるが、その女の事を誰も見たことがなかったというし、それらしき人物の記録も残っていない。あるいは、その女はエックハルトの母親本人ではないのかもしれず、秘密裏に囲われていた愛人の家からその女が誘拐した可能性すらある。当時の宮廷ではそんな議論もされていたらしいが、証拠のない推測の域を出ることはなかった。
とにかく奇妙な話で、悪魔のいたずら、あるいは呪い、あるいは悪意のある運命の罠とでも思える話だった。
これら全てを考慮して、エックハルトを庶子と見做さない決定がされており、エックハルト自身もそれを承服している、はずだった。承服しているというのは建前で、内心は違うのかもしれない。エックハルトに不満がなかったらおそらくこんな『持病』などはありえない話で、エックハルトがこの件で誰をどれだけ恨んでいるのか、その恨みは自分に向いているのか、敢えて追求はしないというだけの話だった。
「……お前は、馬鹿だよ。エックハルト」
そう呟いて、リヒャルトは額を抱える。
エックハルトが十代の終わり頃は、新年を過ぎた頃だけしでかすという彼の不行跡は現在の比ではなかった。当てのない放浪の末に路地裏で見つかるなら良い方で、場末の若者との無意味な決闘で互いに命を散らす寸前に警邏隊に取り押さえられたり、悪ふざけのような、度胸試しのような手段を用いた、自殺未遂じみた示威行動すらあったとリヒャルトは聞いている。それはある意味では宮廷へのあてつけで、それでいてその熱病のような期間を過ぎるとしれっと優等生を演じているのだから厄介な話だった。
その性格的な欠点さえなければ、知的にも肉体的にも強靭と評価されるエックハルトが、なぜそこまでして自分を傷付けるのか、その心の裡をリヒャルトは理解できない。しかしリヒャルトはエックハルトではない。その苦しみを味わったことはないし、これからもきっと身に沁みて理解することは不可能だ。
エックハルトを連れてきたという女は、上等な赤い絹のストールを頭から被っていたらしい。それはこの世界では単に高級品というだけではなく、所有者の高い出自を証明するような品物だった。だが、内陸に位置するこの国の冬の寒さを凌ぐには全く役に立たない。その絹のストールが宮廷から持ち出されたものではないかという調査もされていたが、はかばかしい結果は得られていなかった。結局それはその係累の唯一の遺品としてエックハルトの手元に戻ってきていたが、しばらくそのことは忘れ去られていたらしい。実際に渡されたのはエックハルトが大人になった後のことだったという。
そんな正体不明の絹のストールのように、エックハルトはこの宮廷において、どこでもない場所から齎された、この上なく貴いそして同時に得体の知れない存在だった。
貴種であるのか、そうでないのか。自己の存在を貴いものとして未来に残していく価値があるのか。それはこの世界を自分の世界として生きる人間にとっては、魂に食い込んで、決して離れてくれない問題だった。貴種であるという決して否定できない属性について、リヒャルトにはリヒャルトなりの思い悩みがないことはなかったが、しかしエックハルトが舐めてきた苦杯とは比べ物にならない。
エックハルトを嫌っていた幼少の頃のリヒャルトは、これらの事情を理解していなかった。だが今は違う。今のリヒャルトが一つだけ言えることがあるとすれば、そんなエックハルトへの負い目、それでいて彼から受けてきた恩義を、リヒャルトは決して返せないということだった。
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