猫の夢

鈴木あみこ

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入院

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 耳障りな喧騒で目が覚めた。
 瞼がゆっくりと開くと、見覚えのある白い天上。

 ああ…入院したっけ…。

 昨日の診察で「検査入院しましょう」って言われて、ベッドが空いていたのでそのまま入院した。そして、その日のうちにお母さんが簡単な入院セットを持ってきてくれた。
 サイドボードの上に置いたはずの眼鏡を指先でさぐり、時計を見ると、15時を少し過ぎていた。
 どうりで騒がしいと思った…。面会時間が始まっていたんだ…。

 この病院は15時~19時までが決められた面会時間で、人が増えて騒がしくなる。でも、家族であればいつ来ても黙認される部分も多く、けっこうアバウトだ。
 お母さんは今日の朝も必要な物を持って来てくれて、少し話す事ができた。
 今日はもう来られないから、明日由香を連れて午後から来るって言ってたな…。インフルエンザも心配だし、由香は病院には連れてこない方がいいのに…。

 暇潰し用に用意してある、編みぐるみのセットの入った紙袋から鍵棒を出してみる…。裁縫は糸くずとか出るから病院では向かないんだよね。だから入院中はだいたい編み物だ。
 本を読むか毛糸で編みものをするか考えてみたけど、とりあえずトイレに行こうと思いベッドを下りると、隣と仕切られているアイボリーのカーテンが揺れて、お隣さんから声をかけられた。
「直ちゃん。これ、娘が持ってきたの。食べない?」
 小さな青いみかんを2つ渡された。
 冷たいみかんは片手で二つ持てるくらい小さかったけど、柑橘系のおいしそうな香りが鼻腔をくすぐり、自然と顔がにんまりする。
 飲食物の交換は禁止って言われてるけど、小さなものは時々こっそりやりとりしたりする。幸い今の病室には食事制限されている人はいないから、気を使わなくてすむんだよね。
「ありがとうございます。みかん、大好きなんです」
 お礼を言って、サイドボードの上にみかんをころんと、置いた。
 隣の関さんはお母さんより少し年上の人で、小さくて細い。
 本当は一昨日退院する予定だったのに、原因不明の発熱で退院が伸びちゃったんだって言ってた。
 私より5歳年上の娘さんがいて、娘さんと私の歳が近いことから、色々気にしてくれてすぐに仲良くなる事がてきた。
 病室は4人部屋で、私以外は全て年配の女性。私がこの病室に来てまだ2日目だけど、みんな気さくですぐに仲良くなった。
 退屈な入院生活。同室の人達と仲良くなって、少しでも楽しく過ごせたら良いよね。幸い今回の同室の人達はみんな症状が軽くほがらかで優しい。なので、昼間は自然とお喋りに花が咲く。私も検査入院だから元気だしね。

 以前入院した時は、一人だけカーテンを閉め切って、挨拶しても返事が返ってこない人がいたから、随分と気を使った。気持ちは十分理解できるから、退院するまで静かに過ごした。こんな時はお互い様。私も誰とも話したくない時もあるもんね。

 窓際は自然と入院期間が長い人になるから、私は今回は通路側のベッドになった。
 面会時間になると騒がしくなって具合が悪い時はイライラしたりするけれど、知らない人達の会話を聞くことができたりする楽しみ方を見つけてからは通路側が好きになった。
 まぁ…集団生活、色々あるのは仕方ない事なのです。

 一度トイレの側の部屋でまいった事もあった。トイレが近いと人の話し声が四六時中聞こえて結構耳障りだし、稀に夜中に話し声で目が覚めたりして何かと騒がしい。清掃さんのお喋りも頻繁に聞こえるしね。

 少し歩きたくなって、院内を散策しながら併設されているコンビニに来た。
 病棟内だったら帽子は被らないけど、病棟から出るなら帽子は必要。じろじろ見られるのは気分いいものではない。
 時々、頭が痒くなるから嫌なんだけど、仕方ない…これが私だから。
 外来が終った後は暫く閑散とするけど、面会時間が始まると又騒がしくなるコンビニで、目当てのお菓子と雑誌、お茶を買って出た所で、私の担当看護師の西脇さんを見つけた。

 今回の担当看護師の西脇さん。若くて身長も高く、すらりとしている。ストレートの長い髪がよく似合う美人さん。看護師になってまだ数年目らしい。少しでも快適に過ごす為には担当さんとの関係も大切だからと思って色々話しかけてみたけど、ちょっと返事が怖い感じがするんだよね…「話しかけないで」って言われてるようなオーラがビシビシ感じる。
 仕事はてきぱきしていて早いし正確だけど、取っ付きにくいというか…。怖いというか…で、ちょっと苦手かな? メイクもきつそうな、眉がキリリと上がっているメイクで更に怖さが増してるような気がする。

 会計前で誰かと話してる…? 眼鏡をかけた人当たり良さそうな年輩の女性。私服だから外来患者かな? いや、時間的にお見舞いか?
 一瞥して通り過ぎようとしたら…二人の手が胸のあたりでせわしなく動いている様子が見えて、つい立ち止まって見つめてしまった。
 なんだろう? なんだか不思議な光景に視線が釘付けになった。

 あ…あれは、たぶん手話だ。
 聴覚障害者の言語。手話。

 以前、テレビで見た事があって、知識としては持っていたが、実際見たのは初めてだった。
(ありがとう)(おねがい)(ごめんなさい)(おはよう)くらいはその時覚えた。
「手話は言語です」て、言葉が暫く頭に残ってたっけ。どういう意味なんだろう? 日本語と手話って何が違うのかな?
 失礼かな? とも思ったけれど、どうしても視線が外せないでいたら……いつもはむすっとした感じの表情の西脇さんが柔らかく笑っていた。…かと思ったら唇を突き出して困ってるような顔をしたり…。
 ころころと変わる表情に合わせて西脇さんの手や指が動く。
 患者さんらしき女性も楽しそうに笑ってみたり、眉を吊り上げたりしながら、腕や体…全身を使って言葉を紡ぎだしている事が分かった。

 まるで…立っている2人の間に別世界が広がっているようだった。

 暫くして2人は手を振り合って分かれた。女性が(ありがとう)と繰り返し。西脇さんは大きく手を振り踵を返した。
 手話という物は知識としては持っていた。でも自分にはまったく関係ないものだと思っていた。
 時々テレビで見かける程度の物だと思ってた。

 びっくりした。テレビで見た手話とはまったく違う。生の手話は、あんなにも全身を使って感情をしっかり出すものだったのか…。
 初めて見た光景は私の中に印象的に残った。

 ***

 病院の体に良さそうな夕食を食べ、検温を終えて消灯までテレビを見て過ごし、寝る前にトイレへ行く。
 トイレの横にはスタッフステーションがあり、その向かいには談話室とエレベーターがある。
 談話室にはテーブルとソファ、小さなカウンターテーブル、自動販売機、無料の給茶機が設置されていて、窓際には大きなユッカが暖かい室内でぬくぬくと育っていた。
 寝る前に暖かいココアが飲みたかったけど、お金を持ってきてないので給茶機のホットレモン水を押した。
 消灯時間前という事もあり、誰もいない談話室は眠っているように静まり返っている。向かいにあるスタッフステーションからもれ聞こえる騒がしさに耳を傾けながら窓際に座り、窓の向こうの暗闇の中に輝くネオンを見下ろしながら紙コップのレモン水を冷ましながらすすった。

 私はこの空間が結構好きだ。
 静かだけど騒がしい。一人だけど一人じゃない。不思議な空間のような気がする。

「直ちゃん」

 呼ばれて振り向いたら、何年か前に入院した時に仲良くなった看護師の大牧さんが笑顔で立っていた。歳は私より10歳ほど年上。チビの私より少し目線が高く、卵形の愛嬌のある顔はいつもベースとリップのみのほぼスッピン。肩までの癖のある髪はいつもきっちりと後ろでまとまっている。
 昔、担当になったその日にサイドボードに置いていたマンガに食いついてきて、それから本の貸し借りをしたりするようになり、あっという間に意気投合した。それから目が合うと手を振ってくれたり、時間があると話しかけてくれるお姉さん的存在。
 はつらつとした元気のいい看護師さんだ。

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