電車の男ー社会人編ー番外編

月世

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第十七回高木印刷大運動会

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〈大地編〉

 我が家のカレンダーは、玄関にある。
 初めて見る友達は「なんで?」と面白がる。俺にはこれが普通の光景で、なんでなんて思ったことがなかった。みんなが絶対に見る場所だから便利だし、最後の週の土曜日に「母運動会」の文字を見つけたとき、ほらやっぱり、全人類がカレンダーを玄関に置くべきなのだと思った。
 バッグを放り投げ、急いでキッチンに駆け込んだ。唐揚げの匂いがする。
「母ちゃん」
「おかえり。靴下脱いだ?」
 母ちゃんが振り返って俺の足元を見た。
「来週運動会じゃん。なんで言ってくれないの?」
 靴下を脱ぎながら言うと、母ちゃんが肩をすくめた。
「来ないでしょ?」
「えっ、なんで」
「土曜は部活あるじゃない。残り少ないんだから、今年はそっちを優先したら?」
「イヤだ、行く、行きたい!」
 母ちゃんの職場の運動会に、毎年欠かさず行っている。雨で中止の年は別として、皆勤賞だ。親の運動会だから、もちろん俺には関係ない。正直つまらない時間のほうが長いし、行く必要はない。
 でも、小学生の頃からずっとリレーで走ってきた。大人を追い抜く瞬間が気持ちいいし、楽しみにしていたのに。
「可愛いねえ」
 母ちゃんがニヤニヤして言った。
「中三でも母ちゃんにくっついていたいなんて」
「は? ちげーし、加賀君に会いたいだけだし」
 母ちゃんが笑い声を上げて、てんこ盛りになった唐揚げの皿をテーブルに置いた。
「あんた本当に加賀君好きだね」
「あと、弁当、七世君の弁当! 七世君の唐揚げ、超うめえし」
「はいはい、母ちゃんのより美味しいよね」
「いえいえ、母ちゃんの唐揚げも普通に美味いです」
 ゴマすりのポーズで脱いだ靴下を両手でこねくり回すと、母ちゃんの眉毛と眉毛の間がシワだらけになった。
「ちょっと、靴下やめて。ほら、うがい手洗い、普通の唐揚げ食べるよ」
 普通に美味いと普通の唐揚げは意味が全然違うのに、何回説明してもなぜか母ちゃんはわかってくれない。いつもすねる。
「父ちゃんは?」
 手を洗って戻ってくると、二人分のご飯とみそ汁が湯気を上げていた。
「残業だから先食べてって」
「じゃあこれ全部俺の? やった」
 母ちゃんは黙って笑っている。
 椅子を引いて、座ると同時に箸を持って、「いただきます!」と吠えた。唐揚げを一個丸ごと口に入れる。口の中に、肉汁があふれ出す。揚げたては最高だ。白米との相性も抜群で、止まらない。山盛りの唐揚げは、秒で消え去った。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした。最近、学校はどう?」
 俺の前に麦茶のコップを置いて、母ちゃんが訊いた。定期的に、こうやって探ってくる。
「急かしたくはないけど、そろそろ高校決めた?」
「うん、一応決めた」
「どこ? 公立? 私立?」
 目が真剣だ。どこでも好きな学校を選びなさいとは言うものの、私立はお金がかかることは知っている。胸を張って答えた。
「大丈夫、第一志望は西高」
 母ちゃんが目の前の椅子に腰を下ろし、腕を組む。息を吸って、吐いてから、静かに言った。
「七世君がそこの先生だから? それが志望動機?」
「それだけじゃないよ。だって来年、七世君西高にいないかもしれないじゃん」
「じゃあなんで?」
 仲のいい友達がそこを受けるから。他には何も考えてない。なんて言ったら、きっと怒られる。
「いろいろあるよ、えーと、待って」
 まっすぐ俺を見てくる母ちゃんから目をそらして、指を折る。
「それなりに野球部強いし、校則ゆるめってうわさだし、わりと近いし、レベルに合ってるし、あと」
 どうしてもニヤリと口が笑ってしまう。母ちゃんも、ほんのり笑っている。
「七世君?」
「来年まだいるに一万ペリカ」
 母ちゃんが肩をゆすってクスクス笑う。
「やっぱさ、七世君が先生って面白いよね」
「まあね。私だって授業受けたい。いいなあ大地は」
「だろ? もし授業参観あったら見に来れるじゃん、俺のおかげで。感謝してよ」
 母ちゃんに手のひらを向けると、パチンと返ってくる。
「あ、加賀君には内緒ね。七世君をビックリさせたいし、それに、受からなかったら気まずいじゃん?」
「受かるように頑張りなさい。正直、志望動機なんてなんだっていいから。行きたい学校にちゃんと受かってね」
 うちの母親は、楽な人だ。宿題したかとかゲームやめてとか口を出すことはあっても、キレたりガミガミ怒ることはしない。一緒に漫画にハマって語り合ったりもする。親なのに、友達みたいなところが好きだった。
 隠し事もしないし、なんでも話す。たとえば、加賀君と七世君のこととか。
 二人がカップルで、一緒に住んでいると知らされたとき、別に驚かなかった。そうだと思った、と答えた。驚かない俺に、母ちゃんは「驚かないの?」と驚いていた。
 二人は男同士だし、驚かなきゃいけないのかもしれない。でも俺から見た二人は自然だし、加賀君はみんなに優しいけど、七世君に対するときはもっと優しくなる。それを知っていたから、驚かなかった。
 加賀君のように、変に隠さないほうが逆にいい場合もある、でも七世君は教師だからそういうわけにもいかないとかなんとか、母ちゃんが難しい顔でいろいろ言っていたのは去年のこと。
 真剣な母ちゃんにうなずきながら、大人の社会というのは大変だな、と思った。加賀君と七世君が結婚して、俺はやったーとしか思わないのに。好きな人が同じ性別だっただけで、大騒ぎになってしまう。
 俺は恋愛にはあまり興味もないし、好きな子もいない。だから偉そうには言えないけど、いいとか駄目とか、他人が決めることじゃないと思う。
 誰がなんと言おうと、めでたい。運動会で二人に会ったら、全力でお祝いしたい。
 そしてやってきた運動会当日。今年はすっきり晴れて、青空だ。
 家族席の場所取りをしていると、頭にポン、と手がのった。
「またでかくなったな」
「加賀君!」
 振り返るとジャージ姿の加賀君が立っていた。
「おう、おはよ」
 加賀君は父ちゃんにもおはようございます、と声をかけて丁寧に頭を下げた。飛びつきたかったけど我慢した。そう、俺はもうでかくなってしまった。身長だって、加賀君と変わらない。
「あっ、そうだ、言わなきゃ、加賀君」
「ん? 何?」
「ご結婚おめでとうございます!」
 周囲の視線も気にせずに、渾身の力を込めて拍手をすると加賀君がぶはっと吹き出した。
「なんだよ、なんで笑うの」
「いや、うん、可愛いなと思って。ありがとう」
 にこにこになった加賀君が、頭を撫でてくれる。安心した。俺は加賀君に可愛がられるのが好きだ。
「あれ、七世君は?」
「仕事。多分あとで来るよ。これ弁当。守っといて」
「やった、死守する」
 大きな保冷バッグを受け取って、抱きしめる。
 社員の席に戻っていく加賀君の後姿が遠くなると、後ろから「今の人、カッコイイね」と女の人の声が聞こえた。
 その通り、加賀君はカッコイイ。思わず胸を張る。
 俺が加賀君に初めて会ったのは多分三歳とか四歳とかそのくらいのときだ。記憶なんてほとんどないけど、リレーで走る姿がカッコよかったのを覚えている。
 足が速くて強くてなんでもできる。何をしていてもカッコイイ。見た目よりも他の部分がカッコイイんですよと後ろの女の人に教えてあげたくてソワソワした。
「おはようございます。今年もとなり、いいですか?」
 陣地を確保して一息ついたとき、七世君のお姉さんがやってきた。
「もちろん、確保しておきましたので座ってください」
 父ちゃんに勧められて、お姉さんが俺のとなりに腰を下ろす。
「あれ、加賀さん来てるのに七世はまだ?」
「仕事で遅れるって加賀君が言ってた、言ってました」
 敬語で言い直してから、残念な声を絞り出す。
「七世君に結婚式の写真見せてもらおうと思ってたのに」
「写真あるよ。見せてあげる」
「えっ、よろしくお願いします!」
「待ってね。一般向けのフォルダ開くから」
 お姉さんがスマホを操作しながら言った。一般向けの他に何があるのだろう。
「こっちにスワイプね」
「ありがとうございます、お借りします」
 両手でスマホを受け取って、画面を見た瞬間に「おーっ」と声が出た。二人がタキシードだ。
「かっけー、二人ともかっけー! これなんかの雑誌の表紙にしようぜ! 月刊タキシード作ろうぜ!」
 興奮する俺の左側からクスクス笑いが聞こえた。お姉さんが笑ってくれた。クールな印象のお姉さんにウケたことで、かなり舞い上がってしまった。なんだか体が、ふわふわする。
「幸せそうだねえ」
 父ちゃんが画面をのぞき込んで言った。
「な! 俺も幸せ!」
 ウキウキと指を滑らせていると、お姉さんの髪が、俺の肩に触れた。お姉さんの横顔がすぐそばにある。優しく笑って、スマホを見ている。
「ふふ、本当に。私も幸せ」
 衝撃だった。すごくいい匂いがした。それに、すごくきれいだった。
 七世君のお姉さんが美人だというのは、初めて会ったときからわかっていた。
 でも、去年よりもっとずっときれいだと感じた。
 この人、こんなだっけ? 妙に、ドキドキする。
 震えそうな指でスマホに触れていると、父ちゃんがしみじみと言った。
「大地もそろそろスマホデビューだなあ」
「まだスマホ持ってないんだ?」
「は、はい、来年高校受かったら買ってもらう約束です」
「そっか、受験生だ」
 髪を耳にかけながら、「がんばってね」とお姉さんがほほえんだ。何かがボン、と爆発した。
「がんばります。スマホ買ってもらったら、とりあえずLINEがしたいです。スタンプ欲しいのいっぱいあるし、自分の小遣いで、買おうと思います」
 何がなんだかわからなくなって、謎の自己紹介をしてしまった。お姉さんは、「だからなんだ、知らんがな」とは言わずに優しく同意してくれた。
「うん、LINEは必須だね」
「加賀君とLINEできるのが楽しみで」
「あー……、残念だけど加賀さん、七世としかLINEしないんだよね」
 残念と言いながら、声が嬉しそうに弾んでいる。
「え? なぜですか?」
「七世がやきもち妬くから」
 堪えようとしているのに、笑ってしまう、という様子でフフッ、フフフッと肩をゆすっている。
「大丈夫。加賀さん、メールはしてくれるから」
 メールはよくてLINEが駄目な理由がわからない。お姉さんは上機嫌に続けた。
「でも私はね、加賀さんに用があってもあえて七世にLINEするんだ。二人が一緒に過ごしてるであろう時間帯を狙うのがコツ。七世のスマホ経由で加賀さんから返信くるのが本当にありがたい」
 言っている意味があまりわからなかった。そうですね、と返事はしてみたものの、謎めいている。
 いつも無口でテンションも低いのに、加賀君と七世君の話をするときのお姉さんはたくさん喋る。それがなんだかミステリアスなのだ。
 お姉さんにスマホを返すと、そこからはスイッチが切り替わったみたいに何も喋らなくなった。すごい速さで両手の親指を動かして、スマホをいじっている。俺はその横で問題集を開いて勉強しているふりをしていた。なぜだか全然集中できない。
「六花さん、見ててくれた?」
 第一種目の大縄跳びが終わると、男の人が駆け寄ってきた。ムシキング、じゃなくて、モテキングだ。
「見てなかった。DMの返信が忙しくて」
 お姉さんがモテキングをチラッと見上げて言った。
「次も出るから今度はちゃんと見てて?」
「はいはい、全種目出るんでしょ? わかったから毎回こっち来ないでよね」
 冷たい言い方だったのに、モテキングはなぜか嬉しそうだ。「じゃあ見ててね」と繰り返して、スキップで運動場に戻っていった。
「子どもみたい」
 ぼそっとつぶやいたお姉さんを横目で見ると、呆れた感じで首を左右に振っていた。
 モテキングがお姉さんを好きなのは知っていた。相手にされていないのに必死で可哀想だなという目で見ていたのに、今日は様子が違う気がした。
 お姉さんが、ちゃんと応援している。ちゃんと、素直に、全部の種目を見届けてあげていた。
 二人は恋人同士なのかもしれない。
 いつからだろう。そんなことになるのが驚きだった。
 去年はどうだったか、よく覚えていない。二人の関係がどうかなんて、気にしたこともなかった。
 ただ、なんにも脈がなさそうだったのは、知っている。
 どうしてそうなった? なんで? Why?
「わからない……」
「受験勉強?」
 となりから七世君の声が聞こえた。慌てて顔を上げると、いつの間にかお姉さんが七世君に入れ替わっていた。
「七世君!」
 七世君の顔を見た途端、ものすごくホッとした。
「うわー、七世君だ、やっと来たー!」
 シートの上で正座している七世君の体に、横から飛びついた。
「遅いよ、もう昼だよ、待ってたよ、あっ、ご結婚おめでとうございます!」
「えっ、はい、ありがとうございます」
 七世君が照れた顔で頭を掻いた。
「ハワイの写真見た! めっちゃかっけー、月刊タキシードの表紙飾れるよって話しててさ」
「そんな雑誌あるの?」
「ないと思う」
 顔を見合わせて笑った。体から、力が抜ける。七世君がとなりに座ってくれて、助かった。
 七世君の向こう側から、お姉さんが笑ってこっちを見ていた。子どもすぎたかもしれない。なんとなく恥ずかしくて、七世君の陰に隠れた。
 俺は人見知りをしたことがないし、別にお姉さんが悪いとか苦手とかじゃない。ただ、落ち着かない。緊張して、ざわざわしてしまう。
 去年まではなんとも思わなかったのに。
 なんでだろう。と深くは考えない。
 とりあえず、弁当が美味い。
 いつものメンバーでわいわいと弁当を囲む。話題はほとんどが二人のハワイ挙式のことだった。弁当が空になった頃には、仕事の話とか芸能人の話とか、話題がごちゃ混ぜになり、俺は黙って問題集を開いた。
 ここぞとばかりに七世君に質問を浴びせた。七世君は数学の教師らしいのに、英語も国語も全部教えてくれた。なんて頭の良さだ。控えめに言って、カッコイイ。尊敬が止まらない。
「加賀さん」
 見知らぬ男の人が加賀君を呼ぶ声に顔を上げる。加賀君の背後から、何かをコソコソ伝言したあとで、男の人は忍者の小走りで去っていった。
「総務の人、なんだったの?」
 母ちゃんが加賀君に訊いた。
「社長がお呼びらしい。よし、倉知君、ちょっとついてきて」
「はい? お、俺もですか?」
 七世君が問題集から顔を上げて、訊き返した。みんなが会話をやめて、静かになった。
「あー、大丈夫。深刻な話じゃなくて。結婚のお祝い言いたいんだって。すぐ終わるから」
「……わかりました、行きましょう」
 本部のテントに向かう二人の後姿を、みんなが目で追った。社長さんは、お腹の大きな太ったおじさんだ。扇子を扇ぎながら、加賀君と七世君に何か言っている。七世君は、遠くから見ても軍人みたいな姿勢の良さだ。
「大丈夫かな、七世」
 お姉さんが心配そうだ。となりに座っているモテキングが、お姉さんの肩に手を置いた。
「心配ないよ。社長、全然怖くないし、いい人だから」
 社長さんが七世君と握手を交わしているのが見えた。テントにいる社員の人たちの拍手の音が、ここまで聞こえてきた。
「なんか、すごいよね、うちの会社。やっぱり社長の人柄のせいかな」
 前畑さんが言った。母ちゃんも激しくうなずいて続けた。
「ほんと。社員一人ひとりのケアが素晴らしいし、ふところ深くて偏見がないっていうか、もういっそあのお腹もカッコよく見える」
 確かに、男前だ。加賀君が指輪を着けて堂々としていられるのは、あの社長のおかげなのかもしれない。
「あの……、役職ついてない平社員の俺でも、社長直々に結婚のお祝いってしていただけるんでしょうか」
 モテキングが挙手をして言うと、みんなの目が集中した。
「は? ちょっと千葉、まさか結婚するの?」
 前畑さんが身を乗り出した。モテキングは得意そうに鼻をこすってからお姉さんを見た。お姉さんは無表情でモテキングを見つめていた。
「いや、もしもの話ですよ、結婚するとしたらの話です。あくまで仮定の話ですって、やだなあ」
「誰とよ、六花ちゃんと?」
「他にいませんから」
 胸を張るモテキングから目を逸らし、お姉さんはテントを眺めている。
「妄想じゃないよね?」
 前畑さんが呆れたように言った。
「なんでですか、ちゃんと付き合ってるし、妄想なんてそんな、ねえ六花さん。……六花さん?」
「次に結婚するのは僕だと思いますけどねえ」
 ゆでたトウモロコシを箸で持って、一粒ずつ丁寧にかじっていた高橋さんが急にそんなことを言った。
「へー、おめでとう」
 母ちゃんがニヤニヤして前畑さんの体を肘でついた。
「関係ないし」
 ツンとする前畑さんから視線を移動させて、お姉さんを見た。
 本当に、モテキングと結婚するのだろうか。胸が、チクっとする。
 納得できない。
 モテキングは、腕相撲で加賀君に負けた。二度と言い寄らないという約束だった。他人の俺が覚えているくらいだから、本人も忘れるはずがない。本当なら、付き合ってもらえないだろう。それなのに。
 なんだかむかついて、闘志みたいなものが、沸き起こった。
「モテキングさん」
 立ち上がって、モテキングを見下ろして言った。
「腕相撲、リベンジさせてください」
 モテキングはキョトンとした。ブハーッと吹き出したのは、前畑さんだ。
「モテキングさんって! 丁寧! 可愛い!」
「静かに勉強してると思ったら……、急になんなの」
 母ちゃんが不思議そうだ。
「負けっぱなしなのがイヤなだけだし。やるんですかやらないんですか」
 三年間、野球部で毎日体をいじめてきた。身長も伸びたし体重も増えた。あの頃の俺とは違う。
「いいよ、やろう」
 カッコつけたキメ顔を見て、絶対に、負けたくないと思った。
 弁当箱を片付けて、スペースを作ったブルーシートの上で、手を組み合わせた。
 勝てる。余裕だ。
 そう思ったのに、合図のあと簡単に体ごと倒されたのは俺のほうだった。
「よしっ、勝った」
「ちょっと……、本当に大人げないよね」
 お姉さんがモテキングを険しい目でにらんだ。その科白を聞いて、自分はまだまだ子どもなのだと思い知った。
「大地君、気にしちゃ駄目。加賀君に負けたから、どうせあのあとめちゃくちゃ研究したんだよ」
 前畑さんが励ましてくれる。だから負けても気にするなと言いたいらしい。そんなのは慰めにならなかった。
 うつむいた。
 泣きそうだ。
 次に誰かに励まされたら、俺は泣く。誰も何も言わないでくれ、と祈ったとき、ちょうど場内アナウンスが鳴った。昼休憩終了のお知らせだ。
 助かった。
「リレー、行ってくる」
 立ち上がり、靴をつっかけて、集合場所に走って逃げた。
 勝てると思ったのに。
 恥ずかしくて、消えてしまいたい。
 早く時間が進んで欲しい。帰って布団にくるまりたい。
 さっきの出来事が何度もよみがえってきて、責められているような居心地の悪さを感じる。走るおじさんが転がって、ワッと笑いが起こるのに、俺はまったく笑えなかった。
 みんな、忘れて欲しい。腕相撲のシーンだけ、みんなの記憶から抹消できたら。
 そればかり考えた。
 ようやく自分にバトンが渡り、一歩目を踏み出した瞬間、どうでもよくなった。走っているうちに、頭の中がからっぽになって、全身を覆っていた汚いものが、ぽろぽろ剥がれ落ちていくみたいな感覚。
 無心で、加速する。
 前を走る人たちが、止まって見える。
 一人抜く。二人抜く。三人抜いて、先頭を走る。
 七世君にバトンを渡すときには余裕を持ったトップで、営業部は今年も楽勝で優勝した。
 速い、すごいともてはやされて気分がいいし、悔しがるモテキングを見たら、心がスッとした。なんでこの人にむかついていたのかは謎のままだ。
 閉会式が終わると、加賀君と七世君に人が群がってしまった。社員の人たちに、おめでとうと祝福されている。その様子をお姉さんが遠巻きに見ていた。胸を押さえ、泣き顔だった。となりにいたモテキングが、お姉さんの肩を抱き寄せた。
 二人の体が隙間なくくっつくのを見て、俺は大きく息をついた。
 なんだ、ちゃんと好き同士らしい。
 寄り添う背の高い二人は、バランスがよくて、とてもお似合いだった。
 お幸せに、とつぶやいて、目を逸らす。
「母ちゃん」
 母ちゃんは、俺のとなりで涙を流していた。
「帰ろうよ」
 加賀君と七世君ともっと話したかったけど、多分もう無理だ。二人は埋もれてしまっている。まるでゾンビに襲われている人間のようだった。
 母ちゃんが涙をぬぐって俺の背中を撫でた。
「うん、帰ろうか」
 帰りの車の中で、両親は「腕相撲リベンジ事件」について、何も触れなかった。気遣っているというより、俺が負けたカッコ悪い姿を見ても、特に何も思わなかったのだろう。あの場にいたみんなが、きっとそうだ。気にしているのは俺だけ。子どもなのは、俺だけ。
「あーあ」
 なんとなく嘆くと、母ちゃんが「何、疲れた?」と訊いた。
「全然。あんなの散歩だよ」
「最近ずっと営業部がぶっちぎり一位だし、来年は大地、助っ人断られるかもね」
「そんな、これだけが楽しみで生きてんのに!」
 後部座席で頭を抱えて叫ぶと、父ちゃんと母ちゃんが同時に笑った。笑いごとじゃない。
「なんでそんなに走りたいの? 母ちゃんなんて、社員全員参加だから仕方なく走ってるのに。代わって欲しいよ」
 母ちゃんの科白で、ピンときた。そうだ、堂々と走る方法があるじゃないか。「助っ人」じゃなければいいのだ。
「まだ先の話だけどさ。就職するときの志望動機って、どんなのならいい? 面接で、リレーを走りたいので御社を希望しましたって言ったら落とされる?」
「何それ」
 母ちゃんが助手席から振り返って「まさか」と目を見開いた。
 俺はうなずいてみせた。
 プロ野球選手を目指すとか、海賊王に俺はなるとか、ユーチューバーがいいとか言い出すよりも、堅実な夢だと我ながら思う。
 将来のビジョンが、見えた。

〈おわり〉
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