電車の男ー社会人編ー番外編

月世

文字の大きさ
上 下
7 / 52

一方その頃

しおりを挟む
※「仕事始め」の加賀さん視点です


〈加賀編〉

 愛車のシフトノブを握った感覚が、いつもと違う。
 それでようやく、指輪を外し忘れていたことに気がついた。会社に着いたら外そうと思ったが、運転しているうちに考えが変わった。
 俺たちは結婚した。つまりこれは結婚指輪だ。
 厳密には、俺という人間の公的なデータベースにはなんの変更もない。式を挙げる前と後で何かが変わったかといえば、何も変わらない。
 結婚の定義からは外れているかもしれない。
 でも、とにかくこれを、外したくなかった。
 今頃倉知も指輪を外し忘れていることに気がついただろう。
 そして、きっと、外したくないと苦悶している。
 その光景が目に浮かび、笑ってしまった。
 指輪外せよ、といちいち連絡はしない。倉知は倉知の考えで、行動できる。
 職場に到着し、フロアに向かうまで数人の社員とあいさつを交わしたが、指輪には誰も気がつかなかった。当然だ。誰もいちいち他人の左手を気にしない。
 気づかれないならいい、というわけでもない。とりあえず部長に相談して、判断を仰ごう。外せと言われれば、外す。それだけだ。
「加賀君おはよう」
 営業フロアの入り口で待ち構えていたらしい後藤と前畑が、飛び出してきた。
「びっくりしたー。あけましておめでとう」
「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします」
 後藤が頭を下げて、丁寧に返してくる。
「あけおめ、今年もよろしくね。それより、おめでとう!」
 前畑が早口でまくし立てて、手のひらを向けた。
「ん?」
「写真ないの?」
「あー、ハワイの? あ、これ営業の皆さんにお土産」
 前畑の手のひらに、紙袋を握らせた。
「ありがとう。で、写真は?」
「うん、ちょっと待って」
 デスクに荷物を置いて、スマホを取り出した。覗き込んでくる前畑と後藤に、ハワイで撮った写真を見せびらかす。
「はい、ハワイの空。で、海。これは別荘のプール。肉食ってる倉知君、倉知君と夕焼け、倉知君とロコモコ」
「わあ、可愛い……、可愛いけど、いいんだけど、式の写真は? ツーショットは? タキシード、ないの?」
 前畑が足踏みを始めた。
「それは撮ってないわ。そもそも俺携帯で写真撮る習慣ないから。これでもめっちゃ撮ったほう」
 周囲の人々がよく撮るので、わざわざ自分が撮らなくてもいいというのもある。
 後藤が肩をすくめ、前畑が絶望的な顔になる。
「加賀君らしいと言えばらしいけど」
「挙式の写真が見られないなんて、嘘だと言って」
「あ、嘘。六花ちゃんが撮ったやつ、送ってもらったのあるわ」
「ナイス、六花ちゃんナイス」
 小躍りする前畑にスマホを託し、コートを脱ぐ。
 二人がフロアの隅に移動して、こそこそとスマホを見ながらワアキャア小さく悲鳴を上げている。始業前だからこそ、許される。
 とはいえ、今日はわりと気忙しい。全体朝礼があるし、得意先への挨拶回りもある。朝礼のあとすぐに出られるように名刺を準備し、パソコンを点けてメールチェックをしながら 後藤と前畑を見た。
 背後にもう一人、立っている。二人の隙間から覗き込んでいる人物は、営業部長だ。普段はもっと遅いが、全体朝礼のある日は早く出社する。
 腰を上げ、三人の後ろから声をかける。
「部長、あけましておめでとうございます」
「えっ」
「あっ」
 後藤と前畑が振り返り、至近距離の部長に驚いて声を上げる。前畑が慌ててスマホの画面を胸に当てて隠したが、確実に、手遅れだ。
「ごめん、見えちゃったけど、加賀君、結婚したの? ついに?」
 部長の顔は嬉しそうだった。
「はい、実は」
 営業部の人間は倉知との関係を知っている。年月をかけてじわじわと、もしかしてという噂が広まっていた。決定打は去年の運動会の借り物競争だった。あれで、社内で公認の仲になった。
 恋人かと問われれば、否定をせずに認めた。自分から改まって「男と付き合っています」と宣言する必要もなく、真実が知れ渡ってくれた。手間が省けてよかったと思っている。
 今のところ、嫌な思いはしていない。勤続十年を越えているし、上司や同僚との付き合いは浅いものじゃない。急に態度を変えたり、蔑んだ目で見たり、嫌悪をむき出しにする奴はいなかった。
 俺が特別鈍感だとしても、居心地の悪さを感じる瞬間は、一度もなかった。
 みんないい奴で、そもそも堂々としていれば、後ろ指をさされることもないのだ。
「おめでとう。どこでやったの? 海外?」
「ありがとうございます、ハワイです。でもほんと、式挙げただけなんで、何も変わらないんですよ。総務に出す書類もないし」
「ああ、籍とかそのままなんだ? あの子も働いてるんだよね。そしたら福利厚生のこととか、考えなくていいよね。自由でいいんじゃない? 愛さえあれば」
 部長が後藤と前畑に、「ねえ?」と同意を求めた。二人は深刻な表情で首を縦に振り続けている。うなずきながら、前畑が素早くスマホを返してくる。スマホを受け取ると、部長が声を上げた。
「おっ、指輪?」
「気づかなかった!」
 後藤と前畑の声がハモる。
「ちょっと見せて」
 後藤が俺の手首をつかんで持ち上げると、指輪を険しい顔で観察し始めた。
「これって、いつものペアリング?」
「うん、もうなんか、これ以外にいらないかなって。せっかく倉知君が買ってくれたのに、引き出しで永眠するの悲しいじゃん」
「ありがてえ」
 なぜか江戸っ子口調で言って、前畑が鼻をすする。
「あー、でも、部長、これ、やっぱり社内では外すべきですよね」
「なんで?」
 今度は三人の声がハモった。
「え、だって」
「だってじゃないよ、そんな、外すなんて、七世君が泣くよ?」
 前畑が涙目で訴えた。
「いや、多分あいつも今頃外してると思うけど」
「外してないよ」
 後藤が自信満々に言い切った。見てきたみたいに言うのが面白くて、笑った。
「ええ? めぐみさん、言い切るね」
「だって、結婚式で、お互いの指にはめた指輪でしょ? 七世君があっさり外すと思えない」
「営業でも、結婚指輪はオッケーですよね? 部長」
 前畑が訊くと、部長はとぼけた表情で「うん」と言った。
「それは知ってるんだけど、これ、結婚指輪になるのかなって」
「何言ってるの?」
 後藤と前畑が、本当にわからない、という顔をしている。
「加賀君が言いたいこと、わかるよ」
 部長が俺の腕をポンポンと叩いて言った。
「挙式のみで籍入れてなくても、夫婦やってる人だっているんだし。本人が結婚指輪だって言えば、通ってるよ。それはちゃんと、立派な結婚指輪だから。誰かに何か言われたら、さっきの写真、見せてあげたらいい。きっと納得するよ」
「部長……、ありがとうございます」
「どう、いいこと言うでしょ?」
 得意げになる部長に、後藤と前畑が拍手を浴びせた。
 そうか、そういうものかと目から鱗が落ちた。
 願わくは、倉知の職場もそうであって欲しい、寛大であって欲しい。とは思うものの、教師はなかなか難しいだろう。万が一許されるなら、めちゃくちゃ幸せではあるのだが、期待はできない。
 でも、充分だ。
 左手を見下ろして、微笑んだ。
 もう二度と外さなくていいと、倉知に報告するのが楽しみだ。
 喜ぶ顔が、早く見たい。

〈おわり〉
しおりを挟む
感想 107

あなたにおすすめの小説

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?

中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」 そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。 しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は―― ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。 (……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ) ところが、初めての商談でその評価は一変する。 榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。 (仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな) ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり―― なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。 そして気づく。 「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」 煙草をくゆらせる仕草。 ネクタイを緩める無防備な姿。 そのたびに、陽翔の理性は削られていく。 「俺、もう待てないんで……」 ついに陽翔は榊を追い詰めるが―― 「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」 攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。 じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。 【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】 主任補佐として、ちゃんとせなあかん── そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。 春のすこし手前、まだ肌寒い季節。 新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。 風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。 何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。 拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。 年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。 これはまだ、恋になる“少し前”の物語。 関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。 (5月14日より連載開始)

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

獣人将軍のヒモ

kouta
BL
巻き込まれて異世界移転した高校生が異世界でお金持ちの獣人に飼われて幸せになるお話 ※ムーンライトノベルにも投稿しています

男子高校生だった俺は異世界で幼児になり 訳あり筋肉ムキムキ集団に保護されました。

カヨワイさつき
ファンタジー
高校3年生の神野千明(かみの ちあき)。 今年のメインイベントは受験、 あとはたのしみにしている北海道への修学旅行。 だがそんな彼は飛行機が苦手だった。 電車バスはもちろん、ひどい乗り物酔いをするのだった。今回も飛行機で乗り物酔いをおこしトイレにこもっていたら、いつのまにか気を失った?そして、ちがう場所にいた?! あれ?身の危険?!でも、夢の中だよな? 急死に一生?と思ったら、筋肉ムキムキのワイルドなイケメンに拾われたチアキ。 さらに、何かがおかしいと思ったら3歳児になっていた?! 変なレアスキルや神具、 八百万(やおよろず)の神の加護。 レアチート盛りだくさん?! 半ばあたりシリアス 後半ざまぁ。 訳あり幼児と訳あり集団たちとの物語。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 北海道、アイヌ語、かっこ良さげな名前 お腹がすいた時に食べたい食べ物など 思いついた名前とかをもじり、 なんとか、名前決めてます。     *** お名前使用してもいいよ💕っていう 心優しい方、教えて下さい🥺 悪役には使わないようにします、たぶん。 ちょっとオネェだったり、 アレ…だったりする程度です😁 すでに、使用オッケーしてくださった心優しい 皆様ありがとうございます😘 読んでくださる方や応援してくださる全てに めっちゃ感謝を込めて💕 ありがとうございます💞

飼われる側って案外良いらしい。

なつ
BL
20XX年。人間と人外は共存することとなった。そう、僕は朝のニュースで見て知った。 向こうが地球の平和と引き換えに、僕達の中から選んで1匹につき1人、人間を飼うとかいう巫山戯た法を提案したようだけれど。 「まあ何も変わらない、はず…」 ちょっと視界に映る生き物の種類が増えるだけ。そう思ってた。 ほんとに。ほんとうに。 紫ヶ崎 那津(しがさき なつ)(22) ブラック企業で働く最下層の男。悪くない顔立ちをしているが、不摂生で見る影もない。 変化を嫌い、現状維持を好む。 タルア=ミース(347) 職業不詳の人外、Swis(スウィズ)。お金持ち。 最初は可愛いペットとしか見ていなかったものの…?

男子高校に入学したらハーレムでした!

はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。 ゆっくり書いていきます。 毎日19時更新です。 よろしくお願い致します。 2022.04.28 お気に入り、栞ありがとうございます。 とても励みになります。 引き続き宜しくお願いします。 2022.05.01 近々番外編SSをあげます。 よければ覗いてみてください。 2022.05.10 お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。 精一杯書いていきます。 2022.05.15 閲覧、お気に入り、ありがとうございます。 読んでいただけてとても嬉しいです。 近々番外編をあげます。 良ければ覗いてみてください。 2022.05.28 今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。 次作も頑張って書きます。 よろしくおねがいします。

見ぃつけた。

茉莉花 香乃
BL
小学生の時、意地悪されて転校した。高校一年生の途中までは穏やかな生活だったのに、全寮制の学校に転入しなければならなくなった。そこで、出会ったのは… 他サイトにも公開しています

処理中です...