雨の烙印

月世

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第十二話 狂気

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 日が落ちるのが早くなった。すぐそこに冬が来ている。
 部活を終え、先輩のマンションに寄り、帰宅する。このリズムにも慣れてきたが、家に着くと家族は夕飯を終えているパターンが多い。
 帰宅時間が遅くなった俺を、両親は特に咎めなかった。門限さえ守れば文句はないらしい。
「兄貴、彼女できただろ」
 虹子にからかわれ、違うと首を振ったが、母は赤飯を用意し、父は生真面目な顔で「避妊はしなさい」とだけ言った。
 家族には本当のことを言えない。恋人だと紹介することも、絶対に、できない。
 俺は嘘がつくのが下手だ。友人関係だと、嘘をつき通す自信がない。だから先輩の存在自体を知られてはいけない。
 車で送って貰っても、見られることがないように、家から離れた場所で降りる。俺がそうするように頼んだのではなく、最初からこうだった。先輩も、気を遣っている。
 不毛な関係、なのだろうか。そうだとしても、離れられない。離れたくない。いつか来るだろう別れの予感を見て見ぬふりでごまかしていた。
 毎日思っていた。「今日」が続けばいいのに。「今日」が終わっても、また「今日」が来れば。そうすればずっと一緒にいられる。
 病んでいる、と自覚する。病むほどに、彼を、好きになっていた。
 ある日、帰宅すると、母が廊下に顔を出した。「遅い」と文句を言いながら、ビニール袋に入った何かを突きつけてきた。
「何?」
「隼人君に持ってってあげて」
「何? 食べ物?」
 覗き込むと、タッパーが見えた。
「肉じゃがだよ。あの子、好きだったでしょ」
「でももう八時だし、あいつだってとっくに夕飯食べてるよ」
 今日は雨が降っている。正直、寒い。やっと帰ってきてもう外に出たくないというのが本音だったが、母はお構いなしだ。
「あんたがもう少し早く帰ってきてくれればねえ」
「虹子がいるじゃん」
「受験生なのに、こんな雨の夜に外に出して風邪でも引いたらどうするの」
 俺が風邪を引く分にはいいらしい。
 隼人が大好きな母は、学校が終わって帰宅する頃合いを見計らい、アパートに料理を届けている。毎日ではないが、頻繁に、やっているらしいことを虹子から聞いた。今日はおそらく、雨で億劫だったのだろう。特に夜になって雨足が強まり、今は土砂降りだ。誰でも出たくない。肉じゃがなんて、どうでもいいじゃないか、とは言えない。母は沸点が低い。怒らせないことにした。
「……行ってきます」
「隼人君によろしくね」
 ウインドブレイカーのファスナーを一番上まで上げて、傘を差し、タッパーの肉じゃがをぶら下げて、雨の中を歩く。
 雨。そうだ、雨だ。
 隼人はきっと、苦しんでいる。もしかしたら寝込んでいるかもしれない。
 傘を差したまま、小走りに駆けた。アパートは歩いて五分強の距離。走ればすぐだ。住宅街の細い路地を、雨音を立てながら、駆け抜ける。息が上がる暇もなく、アパートが見えた。
 隼人の部屋は一階で、すぐに異変に気づいた。
 玄関のドアが、開いている。
「え……?」
 脚が止まり、身がすくむ。嫌な予感が、背筋を這い上がってくる。
 そろそろとドアに近づき、「隼人?」と声をかける。部屋の明かりは点いていて、外に漏れ出ていた。中に、いるのだろうか。
 それとも。
 ドアに触れると、ぎい、と嫌な音が鳴った。中は静かだ。覗き込み、もう一度呼んだ。
「隼人」
 返事がない。靴はあるし、中にいるはずだ。無断で上がり込む。肉じゃがの入ったビニール袋を床に置いて、部屋を見回した。ワンルームの狭い部屋。人の気配もなく、なんの音もしない。
「隼人」
 呼びながら、トイレをノックし、開ける。いない。風呂場にも、いない。ベッドはふくらみがない。
 部屋の隅にテーブルが置かれていて、教科書とノートが開いたままになっていた。マグカップに触れた。湯気は消えているが、まだ温かい。少し前まで、ここにいた形跡がある。
「どうしよう……」
 誘拐、とか。隼人は男だが、美人だし、変質者が攫っていったのではないか。
 慌ててスマホを取り出したとき、キャアッという、甲高い子どものような声が外から聞こえてきた。バシャバシャと、水たまりに飛び込むような、水音。
 外に出て声の正体を目の当たりにし、言葉を失った。
 街路灯の照明が、点滅している。点いたり消えたりする灯りの下で、隼人がずぶ濡れで走り回っていた。傘も差さずに、薄着の格好で、飛び跳ねている。
 両手を広げ、大声を上げて笑い、楽しそうに、嬉しそうに全身を雨で浸していた。空を見上げ、顔に雨粒を浴びて、クルクルと回転している。
 あはは、ははっ、キャアーッ、はははははっ。
 雨音に重なる、狂人のような叫び。
 水たまりの上でジャンプする隼人の脚は、裸足だ。ゾッとした。唇が、震える。
「はや、と……?」
 傘に雨が落ちる音。その音よりも弱々しい俺のつぶやきに、隼人が動きを止め、ぐるりと首を回してこっちを振り返る。
「ひっ……」
 小さく悲鳴を上げて、後ずさる。
「あーっ、知ってる」
 隼人が俺を指さして、駆け寄ってきた。濡れそぼった隼人が、俺の傘を持つ手を握る。
「知ってる人だ」
「え、う、うん」
 様子がおかしい。これは、完全に別人格だ。しかも、今までに出てきたことのない人格だ。無邪気な笑顔は幼児のようで、身構える必要はなさそうだ。
「これは、いらない」
 俺の傘をもぎ取って、放り投げた。頭からバケツの水をぶっかけられたように、あっという間に全身がびしょ濡れになる。
「ちょ、何……」
「ねえっ」
 俺の抗議を遮って、隼人が体を揺さぶってくる。
「僕ね、あの人に会いたいの」
「あの人?」
 濡れた顔を手のひらで拭って、訊いた。
「ナイフをね、こんな、ひゅんひゅんってしてて、強そうな人」
 手を左右に振る仕草。屋上で初めて先輩と出会ったときのことを言っているのだ。
「……それ、先輩?」
「先輩!」
 嬉しそうに飛び上がり、俺の顔を下から覗く。
「ねえ、呼んでよ。仲良しなんでしょ?」
「え?」
「電話して。先輩に」
「でも、もう夜だし、さっき送って貰ったばっかりなのに」
「早く、もたもたするなよ」
 俺の腕をつかむ手の力が、異常に強い。顔をしかめ、「痛い」と訴えると、隼人が笑顔を咲かせた。
「呼ばないともっと痛い目に遭うよ」
「な、何?」
「十数えるから、その間に電話してね。そうしないと、殺すからね。本当だよ? わかった?」
 ニコニコしながら言った。科白と表情が、噛み合っていないのが怖い。不気味さに拍車をかけている。
 じゅーう、きゅーう、と体を前後に揺する隼人。
 この人格は、変だ。
 一見、悪意のない、子どものように見えるが、違う。
 殺す、と言ったのは脅しでも冗談でもない。多分、本当に、殺す。悪びれずに、俺をこの場で殺す。
 もしかして、と仮定が過る。
 隼人の父親を殺したのは、こいつじゃないのか。
 もしそうなら、先輩に会わせるのは、まずい。
 点滅する照明を背に、隼人のカウントダウンは進んでいく。震える指で、ズボンの尻ポケットからスマホを出した。瞬く間に画面が水滴まみれなる。電源ボタンを押すと、バックライトが灯った。履歴を開けばすぐに先輩の名前が出てくる。
 躊躇して、隼人の顔を確認する。目が合うと、少年のようなあどけない笑顔を向けた。
「さーん、にーい、いーち、かけた?」
 殺される。急いで発信ボタンに触れた。呼び出し音が、聞こえる。
『どうした、忘れ物か?』
 先輩の声。泣きそうになる。堪えて、耳にスマホを当てた。
「先輩」
 気丈でいたいのに、俺の声は空しくかすれてカサカサだった。先輩が少しの間を空けて、「外か?」と訊いた。
「ごめんなさい」
『何があった』
「隼人に、肉じゃがを」
 違う、そんなことはどうでもいい。どうやってこの状況を説明すればいいのかわからない。頭が働かない。
『隼人君は一緒か?』
「違うんです、隼人じゃなくて、こいつは」
 スマホをひったくられた。隼人が耳にスマホを当て、「はじめまして」と快活に言った。
「僕ね、あなたをずっと見てたんだ。ずっとね、ずーっと、見てたんだ」
 スマホを両手で持って、うっとりとした表情をする、隼人。
 恐怖が体を包み込んでいる。歯の根が合わない。
 ずっと、見ていた? そんなはずはない。前に、「庇護者」の人格が言っていた。
 気配がない。この中には、いない。
 でも実際は、ずっと隼人の中にいて、隼人の目を通して、全部見ていた?
「やっと出てこれた。やっと、会えるね」
 ウキウキした表情だ。笑顔のままそこで言葉を切り、うん、と相槌を打った。先輩が喋っているらしいが、電話の声は雨音に掻き消され、まったく聞こえない。
 うん、うん、わかる、うん、とうなずく隼人。
「うん、わかった。じゃあ、待っててね」
 スマホを俺に突きつけてくる。画面を見ると、通話は終了されていた。
「待っててねって、どこに行くんだよ?」
 降りやまない雨は、シャワーのように降り注ぐ。
 目の前にいる隼人は、危険人物だ。今すぐ、有無を言わさず、殺されるかもしれない。
 怖い。とにかく、怖い。
 恐怖が勝り、寒いという感覚が麻痺しつつある。
「あのね、なんでもいいから歌をゆっくり唄うんだって」
「う、歌?」
「歌が終わったら、学校においでって。よくわかんないけど、一緒に歌おうよ」
 あめあめふれふれかあさんが、じゃのめでおむかえうれしいな。
 俺の両手を取って、上下に振り回し、歌を歌い出す。
 ここは住宅密集地。雨の中で男が二人、手を繋いで童謡を歌っている。
 通報されかねない案件だが、雨の音が歌声を遮断してくれているのかもしれない。誰かが様子を見に来るとか、窓から顔を出すとかは、なかった。いや、仮に気づいたとしても、誰も関わりたくはないだろう。
 ぼくならいいんだ、かあさんの、おおきなじゃのめにはいってく、ピッチピッチチャップチャップランランラン。
 聞いたことのない歌詞まで完璧に歌い終えた。なぜこの歌なのか。歌詞を聞きながら、思い出した。
 隼人の母は、交通事故で亡くなった。隼人の学校に、傘を届けに行く途中だった。傘、雨、母、というフレーズの一致に、悲しんでいいのか怖がっていいのか、わからなくなった。
 隼人が俺の手を投げ出して、「よーし」と大きく伸びをする。そして、走り出した。
 速い。異様に速い。雨の夜道を、裸足のまま疾走する隼人の後姿。追いかけた。もし先輩に何かするつもりなら、身を挺して守らなければ。
 体力にも走力にも自信がある。勉強では絶対に勝てないが、運動なら負けないと思っていた。でも、一向に差は縮まらない。水たまりにわざと足を突っ込みながら、学校に向かう隼人。
 先輩に会いたいと言った。
 どういう感情でそんなことを言ったのか。
 この子どものような人格が、何を考えているのか、想像もできない。
 学校が見えてきた。いつもなら夜は閉まっている校門が、開いている。隼人は俺を無視して、一人で校門の向こう側に消えた。
 警報システムのたぐいがあるはずだが、おそらく先輩が手を打ったのだ。あの人なら、セキュリティを解除することくらい、簡単だろう。隼人に歌わせたのは、時間稼ぎだったのかもしれない。
 校門を抜けて、隼人の姿を探す。ぴしゃぴしゃという足音が聞こえた。後を追う。どうやら第一体育館を目指しているようだ。
 体育館の窓から、明かりが漏れている。きっとここだ。ボールをつく音が聞こえた。ドアを開ける。先輩がドリブルをしていた。レッグスルーからの、ジャンプシュート。ボールは放物線を描き、リングに触れずにネットをくぐり抜け、俺の目の前を通り過ぎ、床に落下した。
「お前も来たのか」
 先輩が言った。
「傘はどうした。風邪引くぞ」
 のんきな科白に呆れたが、顔を見てホッとした。先輩は、黒一色だ。さっき会ったときと同じ格好をしている。黒いジャケットに黒いジーンズに、黒い靴。体育館に外履きのまま上がるなんて、と思ったが、そういう俺も靴を履いたままだった。
 跳ねるボールを片手で拾い上げ、体育館の中を見まわした。隼人は濡れた体のままで体育座りをして、体育館の壁に寄りかかっていた。
 肩透かしを食らった気分だった。てっきり、先輩を殺すつもりかと思っていた。
 なんだ、そうだよな。きっとこの人格は、先輩のファンで、純粋に、一緒に遊びたかっただけなのだろう。さっき俺を殺すと言ったのも、精神年齢が低い人格だと思えば納得できる。
 隼人が手を叩きながら腰を上げた。
「カッコイイね」
 ほのぼのとした、平和な空気が漂っている。
 気が抜けた。一気に安堵が押し寄せ、床に膝をつく。全身が、重い。疲労もあるが、服が雨を吸って重くなっている。
「やっぱりいいなあ、欲しいなあ」
 隼人が俺の手からボールを奪うと、ダン、と一度大きくバウンドさせた。
「ねえ、ちょうだい」
 ギリ、とゴムの擦れるような音がした。次の瞬間、隼人の手の中で、ボールが破裂した。ものすごい音がして、体が飛び上がる。先輩は両手をポケットに突っ込んで、平然としていた。
「あなたの脳みそを、僕に、ちょうだい」
 意味のわからないことを言い出した。さっきから欲しいとかちょうだいとか、なんのことかと思ったら、脳みそ? わけがわからなくて、ははっ、と笑いが漏れた。
「そうか、カニバリズムか」
 先輩がポケットに手を突っ込んだまま、肩をすくめる。
「脳が欲しくて人を殺したのか?」
「違うよ」
 破裂したバスケットボールを放り投げて隼人が両手で髪を掻きむしる。
「あのね、一つになるんだ。食べたら、一つになれる。殺すんじゃないよ、僕の中で生きるんだ」
 隼人が、一歩、踏み出した。
「それってすごく、素敵なことだと思わない? あなたも僕の中で、一緒に生きようよ」
 やかましい。さっきから、耳元で太鼓を乱打したように、音が鳴り続けている。それが自分の心臓の音だと気づいたときには、隼人は先輩に向かって突進していた。
 紙一重で隼人の体を躱し、ここでようやくポケットから両手を出した。
「親父の首を、素手で引きちぎったな?」
 先輩が訊いた。隼人が鼻から息を吐き出して、体勢を立て直す。
「そうだよ、だって、そのほうが食べやすいじゃない」
 舌なめずりをする、隼人。
 食べる、というのは比喩か何かだと思ったが、どうやらそのままの意味だとにわかに悟る。
 隼人は、いや、こいつは、隼人の体で隼人の父親を殺し、その脳を、食べたのだ。
 強烈な吐き気がした。口を抑え、目をつぶって、堪える。
 ひどい。
 いくら冷たく接していたといっても、親子だ。自分の手で親を殺されたばかりか、脳を食べさせられたなんて、ひどすぎる。
 涙が出た。口を抑えた手のひらから、嗚咽が漏れた。
「家に火を点けたのもお前か」
「血だらけになっちゃったし、掃除が面倒だから、燃やしちゃえって」
 そんな理由で? 頭がおかしいとしか思えない。
「清水」
 先輩が俺を呼ぶ。顔を上げると、目を細めて俺を見ていた。
「お前は家に帰ってろ」
 静かに首を横に振る。
 俺がこいつを先輩に会わせたようなものだ。俺には責任がある。泣くのを堪え、先輩を見つめて、首を横に振り続けた。先輩がため息をつく。
「わかった」
 すう、と息を吸うと、隼人に向き直り、右手の手首を回転させながら言った。
「俺も、お前が欲しかった」
 隼人の顔が、嬉しそうに輝いた。
「ほんとに?」
「お前のその残忍性と常人離れした腕力は魅力的だ」
 うんうんとうなずく隼人が両手を広げる。
「両想いだねっ」
「そうなるな」
 二人が対峙する。雨の音と、俺の呼吸する音だけが、体育館にこだましている。二人は見つめ合ったまま、動かない。先に動いたのは隼人だった。
 床を踏み鳴らし、右手を突き出す。先輩は体を逸らし、その手をやり過ごすと肘で隼人の後頭部を打った。ガツン、と大きな音が響く。倒れかかった隼人は床に右手をついて体を支えると、素早く右足を繰り出した。
 その足を脇で受け止めて抱え込むと、隼人の体を勢いよく床に叩きつけた。頭を強く打ちつけたのが見えた。普通なら、脳震盪で起き上がれない。でも隼人は何ごともなかったかのように、首を左右に動かして立ち上がった。
 先輩が後ろに飛びのいて、隼人から距離を取る。
「痛みも感じないってわけか」
「そう、痛くないよ。僕はね」
 笑って答える隼人の科白にハッとなる。隼人の体だ。いくらこいつが痛みを感じなくても、隼人の体はダメージを受けている。
「……っ、先輩!」
 やめてくださいという懇願が、喉に引っかかって出てこない。攻撃を止めれば、先輩が、殺される。
「ゾンビと戦ってるみたいだな」
 独り言ち、口の端を持ち上げると、不意に耳元に手をやって「うるせえ」とぼやいた。
「手を出すな。俺がやる」
 まさか、俺に言ったわけではない。誰かと会話をしている様子だが、当然ここには俺たち以外に誰もいない。
 ふう、と先輩が息を吐き、腰を低く構えた。それを見て、走り出す隼人。先輩の首元に伸びた手が、そこに届く寸前で払いのけられる。先輩の右の拳が隼人の腹部に深くめり込んだのが見えた。すごい音がして、隼人の体が真上に大きく跳ね上がる。
 俺は悲鳴を上げた。頭を抱え、「もうやめてください!」と叫んでいた。
 二人の動きが止まった。先輩の体がじりじりと押されている。壁際に、追い詰められている。腹を殴った手首をつかまれたのだ、と気づいた。
「捕まえた」
「先輩!」
 殺される。直感的にそう思った。
 ところが、瞬きをしたほんの一瞬の間に、形勢は逆転した。
 先輩が素早く壁を蹴り上げて、空中を舞った。隼人の体がひっくり返り、二人の体が激しくぶつかり合う。先輩の膝が、隼人の胸に激突したように見えた。
 先輩が隼人の上で起き上がる。隼人は動かない。
「先輩、隼人は」
 俺の声はしわがれていて、自分でも聞き取れないほどだった。先輩は、黙って隼人の瞼に触れてから首元に指を当てる。腰を上げて「クリア」と言った。
 体育館のドアが開いた。男が二人、唐突に乱入してきた。あっけに取られていると、二人が隼人のかたわらに屈み込み、そのうちの一人が腕に注射器で何かを打った。
「何、なんで、誰? 何が、どうして? は、隼人は?」
 混乱して上手く喋れない。
「大丈夫、死んでない」
「本当に? その注射は?」
「目が覚めないように薬を打っただけだ。おい、何分かかった」
 最後は俺への言葉じゃない。立ち上がった男が「三分半です」と答えた。男の腰に、見慣れないものがある。銃だ、と気がついて、急いで先輩を見る。
「お怪我は」
「ない。本当に三分半か?」
「残念ながら」
「ぬるま湯に浸かりすぎた」
 先輩が手首を撫でさすり、俺を見る。目の奥が揺らいだように見えたが、すっと表情を消した。
 ポケットに手を突っ込んで、煙草とライターを取り出した。その間に、隼人が男たち二人の手によって、運び出されていく。
「ちょっと待って、隼人をどこに」
「清水」
 追いかけようとする俺を、先輩が呼び止めた。振り返る。先輩が煙草を咥え、火を点けてから、煙を吐くと同時に言った。
「真実を話してやる」
 雨の音が、いつの間にか止んでいた。
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