雨の烙印

月世

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第七話 解明

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 煙草を灰皿に押しつけて、ソファの背もたれに後頭部を預け、先輩は目を閉じた。
「殺したかも、か」
 目を閉じたままで、先輩が独り言のように言った。
 先輩は、隼人の事情を何も知らない。
 唐突に「殺したかも」なんて、脈絡のないことを聞かされても困るだろう。
 俺がこの人に話したのは、両親が亡くなっていることと、家が火事に遭ったこと。それだけだ。父親が半年前の火事で死んだことも知らない。もちろん、遺体が首のない状態で焼け焦げていたことも、知らない。
 事件の詳細は他に漏らすなと父から言いつけられていることを思い出し、もうやめよう、と思った。口を滑らせかねない。
「すいません、いきなり変なこと言って。あの、気にしないでください、ほんと」
 先輩が、少しだけ首を動かして、俺を見る。
「隼人、うちを出るんです」
 視線を逸らして、うつむいた。
「迷惑かけたくないって、思ってるんです。多重人格のこと、気にしてて、もし俺に何かしたらって、気に病んで、だから手を縛ったりして……、混乱してるだけなんですよ」
 必死で言い訳をすると、先輩が大きなため息をついた。
「隼人君が父親を殺したことはわかってる。ただ、自白するとは思わなかった」
「……え?」
「悪いな。全部調べさせてもらった」
「な、何? どういうこと?」
 意味がわからない。口を開けたまま先輩を見る。
「六歳のときに母親が事故死、それ以来父親に虐待を受けていた。解離が起きる要因としては充分すぎる」
「待って、なんで? 調べたって、どうやって?」
「ネット検索?」
 いくら俺が馬鹿でも、その嘘はわかる。無言で首を横に振ると、先輩がジッポライターの蓋を開け、火を灯す。揺らぐ炎を見つめながら、噛みしめるように、言葉を紡ぎ出す。
「隼人君が、父親を殺し、首を落として、家に火を点けた。警察もその線で捜査をしたようだが、状況証拠はあっても物的証拠がない」
「……ちょ、えっ、なんで」
 遺体に首がないことは公表されていない。警察と、身内しか知らない情報だ。身震いが起きた。
「俺はサイキックなんだろ?」
 ジッポの蓋を閉めて先輩が俺を見る。
 そうか、そうだよな、と納得したくなる。
「でも隼人は、そんなことができるような奴じゃ」
「訂正する。隼人君の中の人格が、殺したんだよ」
「隼人は、殺したかもって、言ったんです、かもって」
「人格が交代しているときの記憶がないからだろう。それでも脳は一つだ。ちらつくことが、あるのかもな」
 ちらつく。自分の手で、父親を殺す場面が?
 隼人が人を殺した。親を、殺した。首を落とし、自分の家に、火を放った。
 違う、あいつはいい奴だ。
 どうにかして、隼人を擁護しなければ、と焦りが生まれた。
「もし、殺したとしても」
「殺したんだよ」
 先輩があっさりと肯定して、再びライターの蓋を開ける。開け閉めを繰り返しながら、投げやりな様子で言った。
「周囲とのトラブルは一切ない。動機があるのも死んで得するのも隼人君だけだ」
「でも、お父さんの死体は、首が」
「殺してから引きちぎるか、引きちぎってから殺したか。刃物を使った形跡がないのが興味深い」
 声が変わったり、筆跡が変わったり、話す言語が変わったり、普段は持ち上げられるはずのない重量のものを片手で放り投げたり、様々な症例がある。
 先輩が滔々と語るのを右から左へ聞き流し、語気を強くして迫った。
「逮捕されるような証拠はないすよね」
「俺が通報するとでも?」
「……しないんですか?」
「俺が正義の人に見えるか」
 見えない。とは答えられなかったが、安心した。とりあえず、隼人の身は安泰らしい。
 もし隼人自身が父親を殺したのなら、罪を償わなければならないのは当然で、自首を勧めていたと思う。
 でも隼人の知らないところで起きたことだ。
 両手の指を組み合わせ、祈るような格好で、震える息を吐いた。
「すいません……、ありがとうございます」
 なぜか礼を言っていた。先輩は黙ってジッポライターを手の中で転がしている。
「コーヒーは飲めるか?」
 先輩が唐突に言った。
「飲めます」
「ブラックでも?」
「う、飲みます」
 ふっと笑ってソファから腰を上げ、カウンターに立つ。背面の棚には酒瓶が並んでいる。バーみたいだ。車の運転はともかく、煙草も吸うし、酒も飲むとなれば、確実に成人しているな、と思った。
 謎が多い。というか謎しかない。怖い、と思う。でも、もっとたくさんいろんなことを話したいし、そばにいたい。
 この気持ちはなんだろう。
 先輩から目を背け、窓の外を見る。ここは何階なのだろうか。下界が、遠い。
「夜の緊縛プレイは無意味だぞ」
「きんばく?」
 なんだそれは、と聞き返すと、先輩が愉快そうに笑った。
「縛らなくてもいいって言ってんだよ」
「え、でも、隼人は多分、俺に危害を加えないようにって……」
「仮に奴がお前を殺そうと思ったら、縛ることには意味がない。首を引っこ抜くほどの怪力だからな」
 首を引っこ抜く、という表現に、胃が収縮した。口元を手で覆う。先輩はちら、と目を上げて俺を見ると、ニヤリとした。
「まあ、別の意味で襲われる心配は残るか」
 胃の辺りを撫でながら、訊いた。
「別の意味?」
「レイプされるかも、な」
 先輩が口笛を吹く。わからない。隼人もその心配をしたようだが、俺たちは男同士だし、そんなことにはなりえない。多重人格でも女の体に変化するはずもない。
 難しい顔をしていると、先輩が「おいおい」と眉を下げて両肩をすくめた。
「男同士じゃセックスできないと思ってるな?」
「だって、できませんよね?」
 コーヒーのいい香りが漂ってくる。先輩が軽く笑い声を漏らす。
「お前は面白いな」
「え? 何が?」
「無知で無学で穢れがない。まるで三歳児だ」
 すごく馬鹿にされているのかもしれない。でも先輩なので腹は立たない。ヘラヘラ笑っていると、先輩がテーブルに真っ白なコーヒーカップを置いた。
「あ、いただきます」
「どうぞ」
 砂糖もミルクも用意されていない。本当にブラックで飲めということらしい。一口すする。苦みが広がったが、悪くはない。飲める。おそらく高いコーヒー豆だ。俺が今まで飲んだどのコーヒーよりも、飲める。あくまで飲める、の範囲内で、イコール美味しいには結びつかない。コーヒーの、ドリップしているときの匂いは好きだが、飲むとどうして酸味や苦みがでしゃばるのだろう。解せない。
「味覚もお子様か?」
 窓の外を眺めつつ、カップを傾けて気取る俺を、隣に座った先輩が面白そうに見てくる。
「美味しいですよ。なんか高級そうな味がします」
「ふうん?」
 この人にはお世辞も通用しない。
 俺にコーヒーを飲ませておいて、自分はジッポライターを指先で回して遊んでいる。
「やってみるか」
 先輩が言った。
「え、何を?」
 先輩が俺の手からカップを取り上げると、テーブルに置いてから、距離を詰めて言った。
「男同士のセックス」
「……はっ?」
「お前の体で、教えてやろうか」
 俺の肩に手を回し、抱き寄せる。もう片方の手が内腿を撫で、脚の付け根のほうに上がってくる。先輩の顔が、近い。目が、離せない。体も、動かない。痺れたように小刻みに震えて、全身が熱くなる。
「いいのか?」
「え……?」
「本当に抱くぞ? 童貞より先に処女を捨ててもいいのか? もう少し抵抗しろ」
 童貞と言い当てられ、恥ずかしくて目を伏せる。
「心配になってきた」
 先輩が俺の頭を撫で、おでことおでこをくっつけて、言った。
「危機感を持て」
「あの、でも俺、男だし」
「できるんだよ、男同士でも。どっちかが女役をすれば済む」
「女役?」
「尻の穴を使う」
 もう少しふわっとした表現はなかったのだろうか。露骨で直接的な言い方に、絶句するしかない。嘘だろ、と頭を抱えると、先輩がテーブルの上の煙草に手を伸ばした。
「隼人君は経験済みだぞ」
「え……、え?」
「女の人格を用意して、やられてるのは自分じゃないと切り離すことで精神の均衡を保つしかなかった」
「なんの話……、ですか?」
 寒気がした。まさか、とおぞましさで体が震えた。
「父親から性的虐待を受けてたと考えるのが自然だ」
 俺が放心していても、先輩は容赦がない。
「おそらく母親の事故死から始まって、父親が死ぬまで続いた」
 幼い頃の性的、身体的虐待は、人格の形成に大いに影響を与える。先輩が説明していたが、俺は呆然としていた。全部先輩の憶測で、真実とは限らない。
 父親が、息子に、性的虐待を行っていた。
 簡単には信じられない。
 でも、きっと先輩の言う通りだ。
 怒りを感じた。隼人の父への、激しい憎悪。
「清水」
 先輩が俺を呼ぶ声で我に返る。
「お前は何も考えるな」
「え?」
「平和に、のんきに、笑っててくれ」
 これは先輩だろうか、というほど、柔らかい微笑みだった。
「コーヒーは?」
 先輩がカップの淵をつかんで俺の膝の上に置いた。両手で受け取り、「いただきます」ともう一度つぶやく。湯気が上っている。カップはまだ温かく、喉に流し込むと、落ち着いてきた。
「お前が隼人君に体を貸してるところを想像してみたんだが」
 コーヒーを吹き出すところだった。急いで飲み込んでから、軽く咳き込んだ。
「ちょっと、勝手に何を想像してんすか、やめてくださいよ」
 先輩が、うん、とうなずいて煙草を咥えた。
「あんまり楽しくなかった。だから、貞操にはせいぜい気をつけてくれ」
 この人が何を考えてこんなことを言っているのか。
 俺をどんなふうに思っているのか。
 このときはまだ、わからなかった。
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