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電車の男の日
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〈倉知編〉
睫毛が長い。
文庫本の文字を追う、伏せた目が瞬く瞬間が、ぞくぞくするほどに美しい。
懐かしい、と思った。
俺は、電車で本を読むスーツの加賀さんを見るのが大好きだった。
触れたい、と思った。
白い頬を撫でたい。首筋を指先でなぞりたい。絹のような髪の感触を味わいたい。
ワイシャツの、首回りのわずかな隙間を上から覗く。すごく、狭い。目を凝らす。この中にある素晴らしいものを、俺はよく知っている。思い浮かべて妄想に耽ることは簡単だったが、じかに見たいし、触れたい。今、ここで。
加賀さんが、フッと小さく声を漏らして笑った。目が合う。ずっとポーカーフェイスを装っていたのに、きっと俺の思考を読んで堪え切れなくなったのだ。
加賀さんの唇が動く。上目遣いで、声には出さずに、「エッチ」と言ったのがわかった。
笑い返して、かすかにうなずいてみせた。
自覚はある。俺はどうしようもなくエッチだ。
スーツの加賀さんに欲情して、脱がすことばかり考えている。
朝なのに。電車なのに。
意図せず密着する体。抱きしめたい欲求が、むらむらと膨れ上がった。
近い。
電車というのは、こんなにも近かっただろうか。高校生の俺は、毎朝この距離で我慢していたのか。すごい精神力だと思う。負けそうだ。あの頃の自分に。
手が、加賀さんの腰に伸びかけたとき、電車が大きく揺れた。たたらを踏む。バランスを崩した乗客が波のように押し寄せてくる。車体の壁に手をついて、加賀さんが潰されないように、壁になる。
「大丈夫ですか?」
顔を覗き込んで訊くと、にこ、と笑って首をすくめる。
満員電車に何もいい要素なんてないのに、加賀さんはこういうときポジティブだ。この状況を、楽しむことができる。
「近いな」
潜めた声が、嬉しそうだった。くっついていても許される公共の場は、満員電車くらいだろう。
目の前に、加賀さんの頭がある。ほんの少し顔を寄せれば、唇が、ひたいに触れる距離だ。
しても、いいかな。
思った瞬間、後ろから押され、唇が前髪にぶつかった。
「すいません、今のはわざとじゃなくて」
「うん」
加賀さんがうつむいて、俺の鎖骨の辺りに頭を押しつけてきた。甘えるように一度、すり寄せて、それきり動かなくなる。
加賀さんが可愛い。
耳の先が、赤い。照れているのだとわかって、顔が見たくてうずうずした。
「加賀さん、照れてる顔、見たい」
堂々と言い放つ自分の声は大きかったが、乗客は無反応で、誰もこっちを見ない。
「可愛い顔、見せて」
もう一度言った。
馬鹿、とくぐもった声で返事をして、加賀さんが顔を上げる。
可愛い。
堪らずに、抱きしめる。
キスをする。一心不乱にキスをする。
そこでやっと、これは夢だと気がついた。気づいた途端、目が、覚める。
頬をくすぐる、シャンプーの香り。腕の中に加賀さんがいる。俺にしがみついて、眠っている。寝息がいとしい。呼吸に合わせて静かに上下する体が、無性に愛くるしい。
おでこに唇を押し当ててから、抱きしめる。
夢の中でも、現実でも、加賀さんを抱きしめていられる。
尽きることのない、幸福。
〈おわり〉
睫毛が長い。
文庫本の文字を追う、伏せた目が瞬く瞬間が、ぞくぞくするほどに美しい。
懐かしい、と思った。
俺は、電車で本を読むスーツの加賀さんを見るのが大好きだった。
触れたい、と思った。
白い頬を撫でたい。首筋を指先でなぞりたい。絹のような髪の感触を味わいたい。
ワイシャツの、首回りのわずかな隙間を上から覗く。すごく、狭い。目を凝らす。この中にある素晴らしいものを、俺はよく知っている。思い浮かべて妄想に耽ることは簡単だったが、じかに見たいし、触れたい。今、ここで。
加賀さんが、フッと小さく声を漏らして笑った。目が合う。ずっとポーカーフェイスを装っていたのに、きっと俺の思考を読んで堪え切れなくなったのだ。
加賀さんの唇が動く。上目遣いで、声には出さずに、「エッチ」と言ったのがわかった。
笑い返して、かすかにうなずいてみせた。
自覚はある。俺はどうしようもなくエッチだ。
スーツの加賀さんに欲情して、脱がすことばかり考えている。
朝なのに。電車なのに。
意図せず密着する体。抱きしめたい欲求が、むらむらと膨れ上がった。
近い。
電車というのは、こんなにも近かっただろうか。高校生の俺は、毎朝この距離で我慢していたのか。すごい精神力だと思う。負けそうだ。あの頃の自分に。
手が、加賀さんの腰に伸びかけたとき、電車が大きく揺れた。たたらを踏む。バランスを崩した乗客が波のように押し寄せてくる。車体の壁に手をついて、加賀さんが潰されないように、壁になる。
「大丈夫ですか?」
顔を覗き込んで訊くと、にこ、と笑って首をすくめる。
満員電車に何もいい要素なんてないのに、加賀さんはこういうときポジティブだ。この状況を、楽しむことができる。
「近いな」
潜めた声が、嬉しそうだった。くっついていても許される公共の場は、満員電車くらいだろう。
目の前に、加賀さんの頭がある。ほんの少し顔を寄せれば、唇が、ひたいに触れる距離だ。
しても、いいかな。
思った瞬間、後ろから押され、唇が前髪にぶつかった。
「すいません、今のはわざとじゃなくて」
「うん」
加賀さんがうつむいて、俺の鎖骨の辺りに頭を押しつけてきた。甘えるように一度、すり寄せて、それきり動かなくなる。
加賀さんが可愛い。
耳の先が、赤い。照れているのだとわかって、顔が見たくてうずうずした。
「加賀さん、照れてる顔、見たい」
堂々と言い放つ自分の声は大きかったが、乗客は無反応で、誰もこっちを見ない。
「可愛い顔、見せて」
もう一度言った。
馬鹿、とくぐもった声で返事をして、加賀さんが顔を上げる。
可愛い。
堪らずに、抱きしめる。
キスをする。一心不乱にキスをする。
そこでやっと、これは夢だと気がついた。気づいた途端、目が、覚める。
頬をくすぐる、シャンプーの香り。腕の中に加賀さんがいる。俺にしがみついて、眠っている。寝息がいとしい。呼吸に合わせて静かに上下する体が、無性に愛くるしい。
おでこに唇を押し当ててから、抱きしめる。
夢の中でも、現実でも、加賀さんを抱きしめていられる。
尽きることのない、幸福。
〈おわり〉
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