電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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〈加賀編〉

 激しさはない。
 こういう落ち着いたセックスができるようになったのだ。
 甘ったるい快感を延々と与え続けてくる。体のどこもかもが性感帯になったように気持ちがいい。少し爪の先がかすめただけで、体は震え、息が上がった。
 時間をかけて、とろとろに溶かされた。
 体を揺さぶられたり、絶え間なく声を上げさせられたりも、しない。
 だから俺も、組み敷かれながら倉知を見る余裕があった。
 幸せだと思った。
 好きだと思い知った。
 優しいキスはくすぐったくて、つい、笑みが零れる。
 笑い合う。
 隅々まで入念に触れていく、大きな手。濡れているのは、俺の汗か、倉知の汗か。
 両手の指を、絡ませた。倉知が上から覗き込んでくる。
 何も言わない。
 ただ、見つめ合う。
 幾度となく視線を合わせてきたのに、なぜか今さら照れ臭い。視線を逸らし、倉知の顎に目が留まる。短い髭がまばらに生えている。夏休みで学校がないから、シェービングをさぼっているせいだ。俺ほどではないが、あまり毛深い体質ではない倉知は、無精髭でも目立たない。
 顎を、撫でる。ちくちくと尖った感触が面白い。遊んでいると、倉知が俺の頬に顎をすり寄せてきた。
「いて、ちょ、じょりって言ったぞ、じょりって」
「剃らなきゃ」
 自分の顎を撫でる仕草を見て、ドキッとした。
 俺は倉知がいつでも可愛くて、抱かれていても下手をすると可愛いと思う。
 でもこうやって、男なのだなと実感すると、俺の胸はときめくのだ。
 すっかり大人だ。カッコイイ、一人前の、大人の男。
 感慨が押し寄せる。
 早く大人にならねばと生き急いでいたいつかの少年は、もういない。
 落ち着いた大人の男の色香すら漂わせ、包み込む。
 めまいがしそうだ。
 小さく息を吸って、吐く。
「倉知君」
「はい。あ、セックス中は七世ですよ」
「細けえな」
「A型なんで」
 繋がったままで会話をしている。こんなに落ち着いたセックスも、できるようになったのだ。
「今日、どっか行く?」
 今日は倉知の誕生日だ。溢れ出す情欲を制御できずに悶え苦しんでいた頃は、文字通り一日中体を重ねていたこともあった。
 でも今の倉知なら。
 性欲が占める割合が小さくなって、たとえばどこかに行きたいとか、何かをしたいとか、もっと他のことに興味が逸れるのではないかと思ったのだ。
 なんせ、大学生活最後の誕生日だ。来年はどうなるかわからない。学生には夏休みがあるが、きっと教師に自由はない。
「誕生日です、俺」
「お、おう。知ってる。おめでとう」
「今日は加賀さんを堪能する日なんです。外に出たら触れないじゃないですか」
 俺の両方の手首を押さえつけて、上から覗き込むその目は、ギラギラと滾っていた。
「でも」
「加賀さん」
「ん? ……あ、ん……っ、あっ……」
 倉知が腰を振る。ギアを、変えてきた。意図的に、俺をイカせないようにコントロールしていたくせに、急に、「いい子」でいることをやめた。
 猛ったモノが、内部を犯す。俺は喋ることができなくなって、情けない喘ぎを漏らし、必死で、しがみつく。
「あっ、ああっ、や、ん……っ、んぅ」
 腰を激しく打ちつけながら、倉知が俺の口を封じた。舌が入ってくる。口中をでたらめに徘徊し、唾液が混ざり合う。喉に落ちていく甘い感覚。尖った舌先が、上顎をぬるぬると撫でてくる。
 口の中と、体内を蠢く欲望。
 脳が、痺れる。
 体が痙攣を始めた。
 イク、イキそうだ。
 倉知の下で、身をよじる。
「いいですよ、イッても」
 唇を軽く触れ合わせたまま、倉知が言った。
「あっ、あっ、イク、ななせ、イク……っ」
「イッて、もっと、たくさんイッてください」
 むせび泣く俺のペニスを大きな手のひらが握り締め、素早く上下に擦ってくる。何度も吐き出す感覚が気持ちよすぎて、俺は多分、ひどい声で絶叫していた。
「加賀さん、愛してます」
 俺は気を失ったようだ。
 目を覚ますと、シーツの上に一人だった。エアコンの効いた寝室で、薄手の掛布団をかぶせられ、体は綺麗に拭かれていて、服も着させられていた。さらりとした肌。汗の不快感はない。
 はあー、と大きく、声に出して息を吐く。
 気持ちよかった。
 最高のセックスだった。
 そのうえアフターケアまで完璧にされてしまった。
 ベッドの上で、膝を抱え、耳を塞ぐ。
 加賀さん、愛してます。
 倉知の声が、まだ残っている。耳を塞いだまま、余韻に浸る。
 愛してます、愛してます、愛してます……。
 はあ、とため息。幸福の、吐息だ。
「めっちゃ好き」
 胸が締めつけられる。何度ため息をついても、胸がぎゅうぎゅうと苦しい。どうしてか、泣きそうになって、慌てて顔を上げる。
 ベッドから飛び降りた。寝室のドアを開け、リビングを見回したが、いない。
「倉知君、どこ? おーい」
「ここです」
 声のしたほうに飛んでいく。パンツ一丁で、洗面台の鏡に向かっている後姿があった。シェーバーを動かす泡だらけの倉知の顔が、鏡に映っている。
「剃っちゃうの?」
 鏡の中の倉知が俺を見る。
「だって、加賀さんにスリスリできない」
「そんな理由?」
「思う存分、スリスリしたいんです」
 こいつは本当に、何よりも俺を優先するんだなと思うと、口元が自然とにやけてしまう。
「七世、好き」
「はっ、あっ、危ない」
 ビクン、と反応した倉知が泡まみれの顔で振り向いた。
「手が滑って眉毛を落とすところでした」
「ははっ」
 セックス中は「七世」を要求するくせに、日常で呼ぶと取り乱す。不思議な奴だ。
「今何時くらいだろ」
 あくびをして、洗面所の壁に背中を預けた。
「もうすぐお昼です」
 鏡を見ながら倉知が答えた。
「なんか食べにいく?」
 家から出なくてもいいように、食材は一応揃っている。冷凍の高い肉もスタンバイしているし、乾杯用のアルコールも準備済みだ。
 それにさっき明確に、外出を拒否された。しつこかったか、と反省したが、鏡越しに俺を見る倉知の目つきは優しかった。
「出かけましょう」
「え」
「せっかく髭も剃ったことだし」
「いいの? 俺を堪能しなくても」
「服を着た加賀さんも捨てがたいので」
 シェーバーを動かしながら、倉知が付け足した。
「俺の行きたい店でいいですか?」
「いいよ、何食いたい?」
「お好み焼き」
「まる?」
「はい、この前一人で行ったんですけど、丸井が加賀さんに会いたいって」
「なんで俺」
「好きなんですよ」
 倉知の背中を見つめた。倉知はいつも、他人が俺に寄せる好意に敏感で、毛嫌いしていた。今はそうでもないらしい。泰然自若とした背中は、やはり大人になったと言わざるを得ない。
「着替えてくるわ」
「はい」
 なんだろう。俺は少し、寂しいと感じている。倉知に、見境なく嫉妬されたい。相手が誰であろうと、恋愛の意味の好きじゃなかろうと、俺の前で両手を広げて立ち塞がって、「この人は俺のです」と視界を遮っていて欲しい。
「いやいやいや」
 身震いをする。自分の思考回路が恐ろしい。
「やべえ、完全にやべえ奴だよ、俺」
 着替えながらブツブツ言っていると、寝室のドアを開けた倉知が「あっ」と声を上げた。
「加賀さん、スーツですか?」
 ネクタイを締め上げて、倉知を振り返る。
「喜ぶと思って」
「喜びました」
「はは、だろ」
 上半身をさらけ出した、パンツの倉知が駆け寄って、俺を抱きすくめる。
「加賀さん、加賀さん、好き」
 おのれ。なんということだ。可愛い。どうしたって倉知が可愛くて仕方がない。力いっぱい、しがみつく。やわらかな筋肉から、石鹸の匂いがする。
 なんでもいい。という気になった。
 自分の気持ち悪い独占欲とか嫉妬心みたいなものは、どうにもならない。
 甘えて、甘やかして、依存している今の俺たちの関係が、正解か不正解か。
 どっちだっていい。ジャッジする必要はない。
 今、俺は、倉知が愛しくて、可愛くて、一緒にいたくて、そして、筋肉が気持ちいい。
「あー、やわらけえ。この弾力、たまんねえ」
 胸筋を揉みしだく。倉知が俺の後ろ頭を撫でて笑う。
「加賀さん」
「んー?」
「しばらく外だから、今のうちにたくさんキスしておきましょう」
 こんなことを言う倉知を、放っておけるわけがない。髭のなくなった、つるつるの肌を両手で引き寄せて、唇にかぶりつく。
 キスをした。もう当分しなくてもいいだろうというほどに。
 角度を変えて、深さを変えて、舐めたり、噛んだり。
 キスをたっぷり補充して、お好み焼き・まるへ向かった。
「あら! 二人揃っていらっしゃい」
 丸井の母が、店内の奥から小走りで駆けてくる。
「加賀さん、久しぶりねえ。相変わらずイケメンねえ」
「はは、どうも」
「お仕事中にななちゃんとランチなんて、本当に仲良しね」
 スーツなのは倉知を喜ばせるためなのだが、そこを訂正するとややこしいので黙って「はい」と笑っておいた。
 奥の席に向かい合って座ると、丸井の母が水の入ったコップを二つテーブルに置き、トレイを口元にあてて、囁くように言った。
「で、結婚式はいつ?」
「……え?」
「やらないの? パリッと純白のタキシード、絶対似合うのに」
 丸井の母は、返答に詰まる俺の左手首を捕らえると、強引にひねり上げて「まあ!」と叫んだ。
「お揃いの指輪してるなんて、気づかなかったわあ」
「おばさん、俺、イカ玉で。加賀さんは?」
 倉知が訊きながら、コップに口をつける。
「え、あ、同じので」
「イカ玉二つね、かしこまり」
 少々お待ちくださいませ、と歌うように言い置いて、丸井の母が奥に消えた。
 倉知を見た。砂漠で遭難した人がオアシスを見つけたような勢いで水を一気飲みすると、からになったコップをテーブルに置いて、おずおずと視線を合わせてくる。
「すいません、一人暮らしはどうだとか、いろいろ訊かれて、つい」
「いや、別に、お前がいいならいいよ」
 むしろよく今までバレなかったと思う。
「子どもの頃からすごく可愛がってくれたし、おばさんなら大丈夫だと思ったんです」
 何も、悪いことをしているわけじゃない。理解のある人に打ち明けるのはいいことだと思う。こうやって少しずつ、二人でいることを自然な姿として、騒ぎ立てずに受け止めてもらえたら最高だ。
「言ってよかったです」
「うん」
「怒られましたけどね」
「ええ? なんで?」
「もっと早く言いなさいって。水臭いって、代わりに丸井が頭叩かれてくれました」
「はは」
 その光景が目に浮かび、顔がほころんだ。
「そうそう、いまだに毎日責められてんだぞ、早く言って欲しかったって」
 唐突に現れたエプロン姿の丸井が、テーブルにイカ玉の具材が入った器を置いた。
「加賀さん、お久しぶりです」
 丸井が腰を九十度に折り曲げて頭を下げる。
「うん、こんにちは。なんかごめんね、とばっちりで」
「いえいえ。怒られるのは慣れてるし、父親には口の堅さを褒められましたから」
 チャラついた見た目の丸井が、これほど友情に厚く、用心深い性格だとは俺も意外だった。いい友人を持った、とつくづく思う。
「加賀さんも褒めてくださいよー」
 丸井がテーブルの横に腰を落として屈み込み、俺に頭を差し出してくる。撫でろ、ということらしい。まだ高校生だった頃にも一度頭を撫でさせられたな、と思い起こし、そのときからあまり成長していないことに苦笑しつつ、手を伸ばしかけた。先客があった。丸井の頭に、倉知の手がドスンと無遠慮にのしかかる。
「いい子、いい子」
 倉知が作り笑いで丸井の頭を撫で回す。
「うわああ、首がもげる!」
 じゃれ合う二人を見ながら、微笑ましそうにほのぼのと笑っているのは表向きで、内心の俺は、倉知の嫉妬が嬉しくて舞い上がっていた。他の奴を撫でるのは許さないとばかりに割り込んだ手が、愛しかった。
 目尻ににじんだ涙をぬぐう。
 好きだと告げられ、付き合うか、と答えて。
 あの日、この店で、俺は倉知との未来を、微塵も想像しなかった。
 こうなるなんて、思いもしない。
 どれだけキスをしても、飽きない。
 どれだけ抱き合っても、足りない。
 嫉妬が嬉しくて、泣けるほどに好きなんて。
 一緒に、一つずつ、歳を重ねていくなんて。
 あの日の俺は、知るよしもない。

〈おわり〉
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