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筋肉君と王子様
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小さな子どもというのは、瞬間移動をする生き物だ。
目を離したのが数秒であるにも関わらず、消えるのだ。
おつりの小銭を受け取り、財布に入れて、バッグに片付けて、目を上げたら姿がなかった。
「たっくん!」
グルグルと周囲を見回した。三百六十度、見回した。休日の公園。人は少なくない。家族連れが多く、息子と似たような背格好の子どもが目についた。
違う。この子も違う。いない。
視線を素早くあちこちに飛ばしたが、見つからなかった。
青くなり、もう一度叫んだ。
「たっくん!」
今日はどんな服を着ていたか。色だ、色を思い出せ。黄色だ。上が黄色で下が青。
その色の組み合わせをした小さな物体が、遠くを走っているのを見つけた。
「たっくん!」
息子が私の声に振り返った。でも、止まらない。首だけこっちを見て走っていく。
「たっくん、止まって! あ!」
進行方向に人がしゃがんでいるのが見えた。まずい、ぶつかる。思った瞬間に、息子が人に、ぶつかった。尻もちをつく。手に持っていたソフトクリームを落としたのが見えた。直後に、泣き声。
あわわわわわ。ひえええええ。
私の頭の中は、漫画のような文字が埋め尽くしていた。どうしようどうしようともたつく脚を奮い立たせて駆け寄った。
「すみません、ごめんなさい、うちの子です!」
泣きわめく息子を宥めていた高校生くらいの男子が、しゃがんだままで「いえ、こちらこそすいません」と頭を下げた。
「俺がこんなとこで靴紐直してたから、ぶつかっちゃったみたいで」
いい人だ。よかった、やくざじゃなくてよかった。相手がこの人で、助かった。ホッとしたのも束の間、彼の脇腹の辺りにべったりと、ソフトクリームがついているのが見えた。
「ホギャー!」
「ほぎゃあ?」
私の突飛な悲鳴に、彼がぽかんとした。
「すすすすすみませんっ、あのっ、服に! ソフトクリームがっ!」
「ああ、なんか冷たいと思った」
眉を下げて笑って、それからすまなそうに「ごめんね」と息子の頭を撫でた。
息子はずっと泣いている。尻もちをついたからではなく、ソフトクリームを食べられなかったから泣いているのだと気づいた。私の脚にしがみついて、あいしゅあいしゅと泣きじゃくっている。
「本当にごめんなさい、クリーニング代、お支払いいたしますので」
「こんなの、そこのトイレで洗えば」
いえ! と声を張り上げ、右手を高く上げて彼の科白を遮った。
「払わせてください、お願いします!」
素早くバッグから財布を出すと、一万円札を抜き取って、頭を下げると同時に両手で差し出した。
「それだけいただくと、この服、十四着も買えて、二百円のお釣りがきちゃいます」
というと。え、計算できない。どういうこと。どう計算したらいいんだっけ。
パニックに陥り、なんとなくで金額を当てにいってみた。
「え、えと、九百八十円?」
「税込み七百円です」
「や、安い」
「はい、半額狩りですけど」
「半額狩り」
オロオロする私を気遣ってか、元々愉快な人なのかわからないが、ずっと面白い。
ほだされて、落ち着いてきた頃、彼がすっくと立ち上がった。でかい。すごく、背の高い人だった。可愛い顔をしているから、高校生だろうと油断していた。よく見ると、立派な大人の男の人だった。
「じゃあ私、これから七百円の服を探しに」
「大丈夫です」
何が、と彼を見上げると、いきなりTシャツを脱いで、見事な肉体美を披露した。すごい。すごい体だ。こんな筋肉の綺麗な体を、間近で見るのは初めてだった。
こっそりと生唾を飲み込むと、彼が言った。
「筋肉という名の服を着てるんで、平気です」
そうか。筋肉という名の服を着てるから、平気なのか。
脳内で反復し、納得していると、彼の顔がじわじわと赤く染まっていく。
照れている。自分の科白に、照れている。
なんだこの可愛い人は。
「えーと、何これ」
背後で誰かの声がした。
振り返ると、ソフトクリームを両手に持った王子が立っていた。眩しさのあまり、目の前に手をかざし、目を細め、よろめいた。
なんか、すごい人が来た。
この人は何? ソフトクリーム王国から来日している王子様?
きっとそうだ。どう見ても、王子だ。
「なんで脱いでんの? そんなに暑い?」
「かくかくしかじかで」
「あー、なるほど、かくかくしかじかな。ってわかるかよ」
突然のコントを繰り広げる男たちに、思わず吹き出してしまった。
「あいしゅ、あいしゅ」
息子が、王子の持つソフトクリームに反応している。私の脚をバシバシと叩き、催促し始めた。
「わかったから、あとでもう一回買ってあげるから」
「実はこの子のソフトクリーム、俺が食べちゃったんですよ」
筋肉の彼が申し訳なさそうに言った。急に何を、と慌てたが、王子が地面に広がる溶けかけのソフトクリームに目を落とし、「ああ」と肩をすくめた。
「お前のTシャツが、この子のソフト、食ったんだな」
「そういうことです」
「うんうん、そっか」
王子が息子の目線にしゃがんで、ソフトクリームを顔の前に差し出した。
「はい、ごめんね」
「あいしゅ」
息子が彼の手からソフトクリームをひったくり、涙を流した顔のままで、嬉しそうに頬張った。
「あっ、あのっ、お金」
財布を取り出す私に、腰を上げた王子が爽やかに微笑んだ。
「いえいえ、いいですよ」
「でも、悪いです、一人分奪っちゃって……」
二人で仲良くソフトクリームを食べている光景を思い描き、その素晴らしさにほっこりしたが、息子がそれを台無しにしたのだという事実に戦慄し、慌てて叫ぶ。
「あの私、ダッシュで買ってきます!」
移動販売のワゴンを指差した。北海道牧場直送というのぼり旗が出ていて、そのフレーズに引き寄せられてか、混んでいた。私が買ったときよりも客が増えている。確実に待たせてしまう。そもそも、息子を抱えて行列を待つのは少し難しい。
どうしよう。
あわあわする私に、王子が「大丈夫」と励ますような、優しい声で言った。
「半分こするから気にしないでください」
「え」
「じゃあね、バイバイ」
息子の頭を撫でて、にこやかに手を振ると、筋肉君と王子様が並んで背を向ける。歩きながら、王子の差し出すソフトクリームを、半裸の男子が身を屈めて一口食べた。
「どう? 北海道?」
「牧場っぽい味がします」
「マジか、どれどれ」
本当に、一つのソフトクリームを二人で分け合って食べている。
すごいものを見た。迷惑をかけた相手に、救われて、癒された。
「よかったね、たっくん」
涙の痕跡を顔いっぱいに施した息子が、私を見上げ、満足そうに、笑う。
〈おわり〉
目を離したのが数秒であるにも関わらず、消えるのだ。
おつりの小銭を受け取り、財布に入れて、バッグに片付けて、目を上げたら姿がなかった。
「たっくん!」
グルグルと周囲を見回した。三百六十度、見回した。休日の公園。人は少なくない。家族連れが多く、息子と似たような背格好の子どもが目についた。
違う。この子も違う。いない。
視線を素早くあちこちに飛ばしたが、見つからなかった。
青くなり、もう一度叫んだ。
「たっくん!」
今日はどんな服を着ていたか。色だ、色を思い出せ。黄色だ。上が黄色で下が青。
その色の組み合わせをした小さな物体が、遠くを走っているのを見つけた。
「たっくん!」
息子が私の声に振り返った。でも、止まらない。首だけこっちを見て走っていく。
「たっくん、止まって! あ!」
進行方向に人がしゃがんでいるのが見えた。まずい、ぶつかる。思った瞬間に、息子が人に、ぶつかった。尻もちをつく。手に持っていたソフトクリームを落としたのが見えた。直後に、泣き声。
あわわわわわ。ひえええええ。
私の頭の中は、漫画のような文字が埋め尽くしていた。どうしようどうしようともたつく脚を奮い立たせて駆け寄った。
「すみません、ごめんなさい、うちの子です!」
泣きわめく息子を宥めていた高校生くらいの男子が、しゃがんだままで「いえ、こちらこそすいません」と頭を下げた。
「俺がこんなとこで靴紐直してたから、ぶつかっちゃったみたいで」
いい人だ。よかった、やくざじゃなくてよかった。相手がこの人で、助かった。ホッとしたのも束の間、彼の脇腹の辺りにべったりと、ソフトクリームがついているのが見えた。
「ホギャー!」
「ほぎゃあ?」
私の突飛な悲鳴に、彼がぽかんとした。
「すすすすすみませんっ、あのっ、服に! ソフトクリームがっ!」
「ああ、なんか冷たいと思った」
眉を下げて笑って、それからすまなそうに「ごめんね」と息子の頭を撫でた。
息子はずっと泣いている。尻もちをついたからではなく、ソフトクリームを食べられなかったから泣いているのだと気づいた。私の脚にしがみついて、あいしゅあいしゅと泣きじゃくっている。
「本当にごめんなさい、クリーニング代、お支払いいたしますので」
「こんなの、そこのトイレで洗えば」
いえ! と声を張り上げ、右手を高く上げて彼の科白を遮った。
「払わせてください、お願いします!」
素早くバッグから財布を出すと、一万円札を抜き取って、頭を下げると同時に両手で差し出した。
「それだけいただくと、この服、十四着も買えて、二百円のお釣りがきちゃいます」
というと。え、計算できない。どういうこと。どう計算したらいいんだっけ。
パニックに陥り、なんとなくで金額を当てにいってみた。
「え、えと、九百八十円?」
「税込み七百円です」
「や、安い」
「はい、半額狩りですけど」
「半額狩り」
オロオロする私を気遣ってか、元々愉快な人なのかわからないが、ずっと面白い。
ほだされて、落ち着いてきた頃、彼がすっくと立ち上がった。でかい。すごく、背の高い人だった。可愛い顔をしているから、高校生だろうと油断していた。よく見ると、立派な大人の男の人だった。
「じゃあ私、これから七百円の服を探しに」
「大丈夫です」
何が、と彼を見上げると、いきなりTシャツを脱いで、見事な肉体美を披露した。すごい。すごい体だ。こんな筋肉の綺麗な体を、間近で見るのは初めてだった。
こっそりと生唾を飲み込むと、彼が言った。
「筋肉という名の服を着てるんで、平気です」
そうか。筋肉という名の服を着てるから、平気なのか。
脳内で反復し、納得していると、彼の顔がじわじわと赤く染まっていく。
照れている。自分の科白に、照れている。
なんだこの可愛い人は。
「えーと、何これ」
背後で誰かの声がした。
振り返ると、ソフトクリームを両手に持った王子が立っていた。眩しさのあまり、目の前に手をかざし、目を細め、よろめいた。
なんか、すごい人が来た。
この人は何? ソフトクリーム王国から来日している王子様?
きっとそうだ。どう見ても、王子だ。
「なんで脱いでんの? そんなに暑い?」
「かくかくしかじかで」
「あー、なるほど、かくかくしかじかな。ってわかるかよ」
突然のコントを繰り広げる男たちに、思わず吹き出してしまった。
「あいしゅ、あいしゅ」
息子が、王子の持つソフトクリームに反応している。私の脚をバシバシと叩き、催促し始めた。
「わかったから、あとでもう一回買ってあげるから」
「実はこの子のソフトクリーム、俺が食べちゃったんですよ」
筋肉の彼が申し訳なさそうに言った。急に何を、と慌てたが、王子が地面に広がる溶けかけのソフトクリームに目を落とし、「ああ」と肩をすくめた。
「お前のTシャツが、この子のソフト、食ったんだな」
「そういうことです」
「うんうん、そっか」
王子が息子の目線にしゃがんで、ソフトクリームを顔の前に差し出した。
「はい、ごめんね」
「あいしゅ」
息子が彼の手からソフトクリームをひったくり、涙を流した顔のままで、嬉しそうに頬張った。
「あっ、あのっ、お金」
財布を取り出す私に、腰を上げた王子が爽やかに微笑んだ。
「いえいえ、いいですよ」
「でも、悪いです、一人分奪っちゃって……」
二人で仲良くソフトクリームを食べている光景を思い描き、その素晴らしさにほっこりしたが、息子がそれを台無しにしたのだという事実に戦慄し、慌てて叫ぶ。
「あの私、ダッシュで買ってきます!」
移動販売のワゴンを指差した。北海道牧場直送というのぼり旗が出ていて、そのフレーズに引き寄せられてか、混んでいた。私が買ったときよりも客が増えている。確実に待たせてしまう。そもそも、息子を抱えて行列を待つのは少し難しい。
どうしよう。
あわあわする私に、王子が「大丈夫」と励ますような、優しい声で言った。
「半分こするから気にしないでください」
「え」
「じゃあね、バイバイ」
息子の頭を撫でて、にこやかに手を振ると、筋肉君と王子様が並んで背を向ける。歩きながら、王子の差し出すソフトクリームを、半裸の男子が身を屈めて一口食べた。
「どう? 北海道?」
「牧場っぽい味がします」
「マジか、どれどれ」
本当に、一つのソフトクリームを二人で分け合って食べている。
すごいものを見た。迷惑をかけた相手に、救われて、癒された。
「よかったね、たっくん」
涙の痕跡を顔いっぱいに施した息子が、私を見上げ、満足そうに、笑う。
〈おわり〉
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