電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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スリーセブンの男

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 スーパーでバイトを始めた。
 時給は安かったが、家から歩いて三分で、何より他の店員がおばちゃんばかりで気が楽だった。
 以前のバイト先は飲食店で、同年代の若者が多く、カーストができたり、不本意な恋愛ごとに巻き込まれたり、学校の延長線上のような面倒くささがあった。
 私はただお金が欲しいだけなのに、もっと身なりに金をかけろ、化粧をしろ、男を作れとやかましい。
 ほっとけ、と常に思っていた。
 その点、今のスーパーは気楽だ。規模の小さなスーパーで、アットホームで派閥もない。まだ二十歳前の私はおばちゃんたちのアイドルになり、可愛がられている。
 仕事に不満はない。かといって、やりがいを感じているわけでもない。何か特別やりたいこともなく、ニートでいるには親の圧力がすさまじく、だからバイトをしている。それに私はオタクだ。オタクはお金がかかる。
 楽しくもない。でも苦痛でもない。時間がお金に変わる。それだけのこと。
 今日も私は無心でレジを打つ。
「七百七十七円です」
 合計金額を伝えると、客が「あっ」と言った。何かミスをしただろうかと目を上げると、予想以上に高い位置に顔があった。若い男だ。購入品がどう考えても主婦だったから油断していた。私はあまり、男性が得意じゃない。若い男の客に気づいてしまうと駄目だった。どうか別のレジに行ってくださいと気配を消して、うつむく癖がある。
「なんかこういうの、嬉しいですよね」
 身構える私に、彼が笑顔を見せた。
「え?」
 こういうの、とはどういうのだ。
「スリーセブン」
 ポカンとしていると、小銭を丁寧にトレイに置いてそう言った。言われて初めて、7が三つ揃っていることに気づき、ああ、とうなずいた。
「なんかいいことありそうですね」
 適当に合わせてみた。男は数字が揃ったこと自体が幸せであるかのように、ニコニコして「うん、やったー」と言った。すごくいい人そうだ。それに可愛い人だな、と私の身長の倍ほどはありそうな長身なのに、なぜだかそう思った。
 人というのはレジの金額一つでこんなふうに笑顔になれるものなのか、と妙に感心した。
 その日から、私は彼を「スリーセブンの男」と心の中で勝手に命名した。
 そして、今日は来ないかな、と待ちわびるようになった。
 恋愛感情とは違う。彼の存在自体が私のスリーセブンだと、漠然と感じていた。その日の些細な出来事が、尾を引いて幸福感を与えてくれたからだ。客とのちょっとした交流が、悪くないものだと感じられるようになったのだ。
「最近、楽しそうじゃない? 何かいいことあった?」
 休憩時間、おにぎりをほおばる私に煮物を押しつけながら、パートのおばちゃんが言った。
「いいこと……、ああ、この前レジの金額がスリーセブンで」
 そんなこと? と馬鹿にされるかなと思ったが、彼女は「わかるわ」と意外なことに同意してくれた。
「ゾロ目だったりすると、お客さんが喜んでくれるのよねぇ」
 そういうものらしい。今までも、もしかしたら私のレジで人知れず誰かがラッキーを感じてくれていたのかもしれない。他人と喜びを分かち合うのはいいことだ。
「あら、もしかして恋?」
 口元をニマニマさせていると、ナスの浅漬けのタッパーが机の上を滑ってきた。
「え、誰が? なんの話ですか?」
「だって、恋する乙女の顔だったから」
「恋はしてないですけど」
「そのスリーセブンのお客さん?」
 否定しているのに止まらない。いくつになっても恋愛の話をしたいものらしい。自分の母親より年上であろうおばちゃんが、女子の顔になっている。
「平日の夕方、大体同じ時間帯に来る、すごく背の高い常連さんいますよね。若い感じの」
「はいはい、いるいる、あの可愛い大学生。何? あの子が好きなの?」
「いえ、全然。スリーセブンの男なだけです」
「残念ねぇ、あの子、イケメンの彼氏がいるのよねぇ」
「イケメン?」
 聞き返すと、突然肩をどつかれた。
「土日はよく二人で買い物に来るのよぉ」
「それって単に家族とかじゃ」
「あれは同棲してるって、みんな言ってるわよぉ」
 興奮した様子で肩を連打してくる。
「もう何年になるかしら、三年? 四年? お揃いの指輪なんかしちゃって、ラブラブで可愛いったら!」
 まったくもって人の話を聞かないおばちゃんが妄想話を繰り広げるのを、私は黙って聞いていた。次第に興味が湧いた。どうやら付き合っている説は濃厚で、店員の間では有名な二人らしい。
 その相手を見てみたい。「スリーセブンの男の男」を、この目で見てみたい。ご利益がありそうだ。
「土日入ったら、会える確率高いんですか?」
「あらあら、あんたも好きねぇ」
 何が好きなのかはわからないが、シフト変更を申し立てようと決意して、力強く「はい」と同意した。
 土日も入れます、と言うと店長が喜んでいた。自分が誰かの役に立つことが誇らしい。
 だから、たとえ彼らに遭遇できなくても、それはそれでいいかと思った。
 そして初めての土曜日。品出しを頼まれ、レジを抜けていた。こうしている間にも、二人がレジに並んでいるかもしれないと思うとそわそわした。でもまあ、今日会えなくても、いつかは会える。
 せっせと食パンを補充していると、右手のほうから声がした。
「お米、買っていきましょうか」
 どき、とした。聞き覚えのある声だ。私は異様に耳がいい。声優の声を瞬時に言い当てられる特技を持っている。
 この声は、スリーセブンの男だ。
「え、今日? 歩きだけど」
「歩きだからですよ。最近鈍ってるんで、もう少し負荷をかけないと」
「毎日腕立て腹筋してんじゃん」
「あんなのは俺にとっては散歩です。なんなら右肩にお米、左肩に加賀さん担いで帰りましょうか?」
「めっちゃカッコイイ」
「それとも両脇に抱えます? どっちがいいですか?」
「すげえ迷うわ、その二択」
 うつむいて、食パンを補充しながら笑いを堪えた。二人が本当に恋人同士かはわからない。でも面白い人たちだというのは間違いない。
「あの、すいません」
 唐突に別方向から声をかけられ、慌てて振り仰ぐ。カートを押した女性客だ。
「は、はい」
「お餅探してるんですけど、どこにあります?」
「お餅……」
「四角い、個包装のがいっぱい入ったやつです」
「あ、わかります、個包装の……はい」
 切り餅はわかる。でもそれがどの通路のどの棚にあるのか、まだ覚えきれていない。
「えっと……、今ちょっとわかる人に訊いてきます」
 女性客の視線が、私の名札に注がれたのがわかった。名札にはでかでかと研修中と書かれていて、それに気づいたのか、仕方ないなという顔にはなったが、明らかにがっかりしたのがわかった。どうしよう、と軽くパニックに陥る私を救ってくれたのは、スリーセブンの男だった。
「あの、お餅、こっちにありますよ」
 十キロの米をまるで枕のように軽々と小脇に抱えた彼が、棚を指差している。ホットケーキミックスの隣に、個包装の切り餅が鎮座していた。
「あ、ほんとだ。ありがとうございます」
「いえ、よかったです」
 客同士で頭を下げ合っている。女性客が私にも軽く頭を下げた。
 遠ざかるカートを見送って、安堵した。不愉快とか、不機嫌とか、何かしこりが残っているようには見えなかった。私にとっては冷や汗の出る一大事だったが、彼女にとっては、探しているものがなかなか見つからなくてめんどくさい。きっとそれだけの出来事だったに違いない。
「なんか餅食いたくなったな」
 すぐ隣で声がして、ビクッと飛び上がってしまった。「スリーセブンの男」の恋人だ。イケメンと聞いてはいた。だから普通にイケメンなのだろうと予想はしていた。でも、想像していた種類のイケメンとは違っていた。
 怖い。
 美しすぎて怖い。
 私が関わってはいけない人種に思えて、急いで距離を置く。本当は、真っ先にスリーセブンにお礼を言いたかったのに、完全にタイミングを逃してしまった。口の中でもごもごと「あの、あの」と言葉を出せずにいた。
「じゃあお餅、つきましょうか」
「うん、え? 餅つきすんの?」
「明日日曜日だし、餅つき大会しましょうよ」
「餅つき大会? 杵と臼で? 正月に見るこれ?」
 イケメンが杵を振り下ろす仕草でエア餅つきをしている。すごい。イケメンなのに、こんなことをするのか、と息を呑む。見てはいけないものを見てしまった気分だ。
「すいません、冗談です。炊飯器ですよ」
 スリーセブンの顔が溶けかかっている。今きっと、この人を可愛い、と思ったのだろう。同感だった。
「お、おう、助かった」
「もち米って売ってるのかな」
 ハッとなった。もち米。そんなものがあるだろうか。レジを通したこともない。でもあるとしたら、米の近くだろう。素早く米の棚に目をやった。一回り小さな、それっぽいものを発見し、「あった!」と小さく叫ぶ。
「ありました!」
 もち米を鷲づかみにして、頭の上に掲げた。
 二人がキョトンとした顔で私を見ている。
 しまった、すごく恥ずかしい真似をしてしまった。海に潜って魚を捕まえて「とったどー!」と海面に浮上した人みたいだ。こんなのはなんの手柄にもならないのに。さっき、切り餅のありかを答えられなかったことが帳消しになるわけでもない。
 顔が熱くなる。もち米を頭上に掲げたまま、耐え切れずにうつむいた。
「ありがとうね、助かった」
 重みが消えた。顔を上げると目の前でイケメンが笑っていた。馬鹿にした笑いとかじゃなく、爽やかな、楽しげな笑顔だった。もち米の重みと一緒に、どんよりとした何かが吸い取られたようだった。
「初めて見るね。新入りさん?」
「あ……、はい、まだ一週間……です」
「そっか、覚えることたくさんで大変だね」
 漫画みたいな整った顔の男性が、私の目を見て、私に語りかけている。
 いつもなら、目を逸らして必死でうつむいている。
 でも、そんな必要はなかった。なぜか平気だった。変な緊張はなく、本来感じてもよさそうな苦手意識もなく、肩の力が綺麗に抜けている。
 優しい。優しさしか感じない。
「近所だし、しょっちゅう来るけどよろしくね」
「はい、あの、頑張ります」
 二人が私に手を振ってレジに向かう。二人の背中に何度も頭を下げた。
 本当だった。本当に、お揃いの指輪をしていた。
 いいなあ、と思った。また、彼らの優しい空気に触れたい。私のレジに、来てもらいたい。そんなふうに思う自分の変化が面白い。
 はあ、と息をついて、大きく吸う。そして、心の中で「よし」と気合を入れる。
 頑張りますと言った手前、手は抜けない。
 精一杯頑張ろう。店内のあらゆる商品の場所を答えられるほどに、成長したい。
 背筋を伸ばす。
 私はもう、うつむかない。

〈おわり〉
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