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再びの加賀邸にて
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〈ハル編〉
加賀光太郎という人を一言で表すなら、「ユニーク」だ。
彼との出会いは、十数年前にさかのぼる。
その日はとても寒く、テラス席には彼以外の客はいなかった。薄曇りの十二月。しかも早朝。フィレンツェのオープンテラスで、カプチーノを傾ける眼光鋭い男性。コート姿で脚を組み、寒くなんてないぞという顔で遠くを見つめ、カップに口をつける姿がおそろしく絵になっていた。出来心だ。ついシャッターを切っていた。
音に反応した彼がこちらを見る。レンズ越しに目が合った。
彼は私にまず「チャオ」と語りかけた。それから完璧な英語で、他人を無断で撮影するのは駄目だと言った。私は青くなった。冷静になって改めて彼の風貌を見直すと、マフィアの可能性が頭をよぎったのだ。
慌てて謝り、フィルムを破棄しようとする私を遮って、彼は再び英語で言った。
「可愛らしいお嬢さん、そのフィルムは私からプレゼントするよ」
カップを目の上の高さまで掲げてみせてから、にこりと微笑んだ彼に、私は心を奪われた。惚れたという意味ではない。ただひたすらに面白いと思ったのだ。
イタリア人の科白なら、特に気にも留めない。でも東洋人で、見るからに観光客。恥ずかしげもなく真顔を貫き通す彼に、興味を持った。
私は彼について回り、数日間を共に過ごした。面白かった。いちいち気取った科白が楽しくて、ちょっとしたことを褒められるのが気持ちよかった。綺麗な髪だとか、美しい瞳だとか。口説いているのともちょっと違う。おそらく無自覚に、思ったままを口にしているのだと気づき、ますます愉快な気持ちになった。
ずっとお互いに英語で、名前も聞かなかった。どこの誰かはどうでもよかったのだ。数日後、彼が「日本に帰る」と言ったときに、日本人なのだと初めて知った。
「もし日本に来ることがあれば、訪ねておいで」
彼は私に名刺を手渡して、言った。彼と名刺を見比べてから、日本語でこう答えた。
「じゃあ、一緒に帰ってもいい?」
この時点で恋愛感情は抱いていなかった。ただ、一緒にいると面白いからついていっただけ。と私は言うのだが、「レンズ越しに目が合った瞬間、ハルは私に惚れたのだ」と彼は言い張っている。
離婚していて、大きな息子と二人暮らしだと聞いたときは、ワクワクした。父親ほども歳が離れ、バツイチで、子持ち。恋愛対象として見ると、「ない」と言う人がほとんどだろう。私も「ない」と思っていた。それに、彼は金持ちだった。友人などは面白おかしく玉の輿という単語を口にした。それに乗るのが逆に癪だったため、私は当初、本当に彼とどうにかなるとは思っていなかった。日本に滞在するつもりもなかった。私には家族がなく、だからこそ気ままで、何にも縛られずに身一つで世界を旅して回るのが何よりも幸せだと思っていた。
でも現在、彼は私の夫で、私たちは幸せだ。私の旅は、終わったのだ。
穏やかな日曜の午後。
夫はとても忙しい人で、あまり家にいない。暇があったとしても、家でのんびりすることはない。まとまった休みができたときには、県外や海外に飛んでいき、じっとしていない。私はいつでも連れ出されたし、娯楽は外に見出す人だった。
それなのに。
ガレージの前にバスケットゴールを設置して、満足げに見上げている。
どうしてこんなものを買ったのだ、とは野暮だ。
今日、息子とその彼が、遊びにくる。だから、浮かれている。少しでも彼らを喜ばせようと、不器用なりに頑張っている。
夫の放ったシュートが、ボードに当たってリングに吸い込まれていく。ボールがネットを揺らし、すとんと地面に落下した。跳ねるボールを手のひらで掬い上げ、ゴール下から軽く放り投げると、リングに当たり再びネットが揺れた。
「やるじゃない」
カメラを構え、彼を撮る。夫はもう五十代だが、そうは思えない身のこなしだ。この人は自分を磨くことを怠らない。老いを感じさせない強さがある。
「え、何これ」
ボールが跳ねる音に、訪問者の声が重なった。レンズを覗いたまま、声のするほうにカメラを向け、「いらっしゃい」とシャッターを切る。
「いつの間にこんなの買ったの」
呆れる声で肩をすくめる息子に、夫がボールをパスする。
「昨日だ」
「昨日? 張り切ってらっしゃる」
苦笑して、遠い位置から投げたボールはリングに当たり、大きく放物線を描く。
「いけ、倉知君、ダンク」
「えっ」
背中を叩かれ、戸惑いつつ駆けだした大きな体が飛んだ。落ちてくるボールを空中でつかみ、片手でふわっとリングに運ぶ。こんなに優しいシュートがあるのか、と感心した。
「なんだよ、ダンクしろよ」
「壊しちゃいますよ」
「二人とも」
バスケットボールを拾い上げ、夫が言った。
「よく来た」
その一言に、二人の背筋がすっと伸びた。上官が部下を労う図に見えて、笑い声を上げた。三人がこっちを見る。それを激写した。
「せっかくだからちょっと遊んだら? 大の男が三人でバスケしてるの面白い」
レンズを覗きながら言った。夫が腕時計を見て「ハル」と私を呼ぶ。
「カレーを作らなくてもいいのか?」
「えー……、作るけどさぁ」
今日、二人は単に遊びに来たのではない。七世君のカレーが美味しいらしいという話になり、夫が食べてみたいと言い出し、どうせなら作り方を教えて貰おうという流れになった。
私は料理が得意ではない。苦手というかむしろ嫌いだ。センスがない。包丁の扱いもいまだに慣れない。
「料理は二人に任せよう。私は定光と遊ぶことにする」
「はは、うん、遊ぼう」
脱いだコートを、七世君が当然のように受け取った。奥さんみたいで面白い。
「五点先取だ」
「うい」
五十代の父と三十代の息子がバスケをしている。とても微笑ましい。私と七世君は、並んでぼんやりと見惚れていたが、先に彼が我に返った。
「作りましょうか」
「あっ、うん。よろしくね」
二人を置いて家に入ると、七世君が上着を脱いで、担いでいたワンショルダーのバッグからカーキ色のエプロンを取り出した。エプロンが似合う男子選手権があったら優勝しそうなほどに、しっくりきている。
「一応、言われてた材料は全部揃えたけど」
クミンシードやらガラムマサラやらターメリックやら、人生で一度も手に取ったことすらないスパイスが並んでいる。こんなよくわからないものから本当にカレーができるのか疑わしい。
「はい、完璧です。じゃあ、始めましょうか」
七世君が腕まくりをして言った。
「はーい、お願いします」
頭を下げてから、あ、と思い出す。
「前に送ってあげたエプロン、どうしたの?」
ひらひらのフリルがついた乙女仕様のエプロンをいたずらで送ったことがあった。どっちが着ても可愛いし美味しいと思っていたが、あのときの電話の感じでは、おそらく七世君が着てくれたのだと想像している。
「着てくれてる?」
ニヤニヤを抑えつつ、訊いた。
「えっと……、一回だけ……、いえ、その、ちゃんと大切に保管してます」
ほんのり頬を染め、目を泳がせる。この子は嘘がつけない体質なのだ、と愛しくなる。もっと突っ込んで聞いてみたいと思わなくもなかったが、やめた。踏み込んでいい部分と悪い部分はわきまえなければ。
腕まくりをした七世君の長い腕は、綺麗だった。筋肉が綺麗だ。長身の童顔で、服の上からでもわかる、無駄のない鍛えられた体。横に立つと、なんだか若者特有の瑞々しい香りが漂ってくるようだ。もったいないので、鼻腔を膨らませ、体内に空気を取り込んだ。
七世君は私の変態行為にはまったく気づかずに、「まずは玉ねぎを切りましょう」と教師の口調で言った。
「みじん切りです」
別に、玉ねぎくらいは切れる。でも、嫌な緊張感があった。趣味でピアノを弾く人が、プロのピアニストの前で演奏しろと言われると、おそらく今の私と同じ心境になる。妙なプレッシャーを勝手に感じて、手のひらに汗がにじむ。
ええい、ままよ。
いつも以上にぎこちない動きで玉ねぎを切る。指だけは切らないように、神経を尖らせた。年長者として、失態は犯せない。
「包丁、すごくよく切れますね」
七世君が私の手元を覗き込んで言った。
「孫六ですね」
孫六か助六か知らないが、わざわざ岐阜県にまで足を運んで購入したものだ。夫は物に対するこだわりが強い。料理が上手いのも、道具にこだわっているのも、夫のほうだが、私はそれを気が引けるだとかは思わない。まったく気にしない。
「これね、光太郎さんが夜な夜な砥石で研いでるんだよ」
「夜な夜な……、砥石で……、夜な夜な……」
その光景を思い描いたのか、七世君が軽く身震いをした。
「さすがです」
「さすがだね」
うんうんと二人で首を上下させる。
そういえば、と思い至る。七世君と二人きりで会話をするのはこれが初めてではないだろうか。
手順を説明する彼は、楽しそうに見えた。本当に、料理が好きなのだ。メモを取りながら、上のほうにある彼の顔を見上げた。
この子は私にとって、確かに他人なのだが、そんな気がしないのはなぜだろう。頻繁に会っているわけでもなく、二人で話すのも初めてなのに。
私には子どもがいないし、特に欲しいとも思わないが、いたとしたらきっとこんな気持ちだろう。可愛いと思う。頭を撫でたくなる、抱きしめたくなる、そんなたぐいの、愛しさを抱いてしまう。
ああ、と気づいた。
この子の母の三穂さんだ。幼少期の彼を知りもしないのに、大きくなったね、と誇らしい思いが胸をかすめるのは、彼女からの伝聞のせいだろう。
血の繋がりのない息子の彼氏。ものすごく、遠い。完全な他人の位置にいるはずの彼を、家族のように思ってしまう。いい迷惑だろう、と苦笑したが、いや、と否定する。
この子なら、迷惑とは思わない。
外から、笑い声が聞こえてくる。七世君が言葉を切り、窓の外を見つめた。柔らかな顔で、笑っている。
「結構すごい光景だよね」
私が言うと、彼は、よくわからないという顔で少し首を傾げた。
「あの二人の関係性って不思議でね。お互いにすごく大好きなんだけど、馴れ合わないっていうか。うーん、上手く言えないけど、父と子はこうあるべきってのが明確に彼らの中にあって、その一線は越えなかったんだよね」
七世君は澄んだ瞳で私を見下ろしている。
「七世君と出会わなかったら、多分こんな光景見られなかった」
息子の誕生日を何よりも楽しみにしていた。まるでその日にしか会ってはいけないという法律でもあるかのように、かたくなに、息子の生活に、領域に、踏み込まないように自制していた。それが、夫が掲げる「父親像」だったのだ。
今その父親像は、あの頃と大きく変化した。倉知家の人々によって視野が広がり、「こうでもよかったのだ」という選択肢が、増えたからだ。
「七世君、ありがとうね」
向き直り、改まった口調で、頭を下げた。
「みっちゃんに出会ってくれてありがとう」
顔を上げると、彼はポカンとしていた。
「みっちゃん?」
「あ、みっちゃん。定光君のこと」
出会った当初高校生だった彼は、定光君と呼ぶといい顔をしなかった。だからいろんなあだ名で呼んでいたのだが、いつからか、みっちゃんが定着してしまった。
「定光だから、みっちゃん?」
七世君が面白そうに目をキラキラさせて言った。
「そそ、可愛いでしょ」
「可愛いです」
心からの共感が伝わってくる。彼のことが好きで好きで、可愛くて、堪らないのだ。
「あの、ハルさん……」
七世君が真剣な顔つきで姿勢を正し、腰を九十度に折り曲げた。
「俺、男なのに……。受け入れてくださって、本当にありがとうございます」
「え? あっ、そっか。そういえば男同士だったっけ」
「え、はい」
「そっかそっか、うんうん」
そんなことに言及しなくてもいいような世界に、きっとなっていく。大丈夫、と力強くうなずいて、七世君の肩をポンポンと叩いた。
「よし、作ろっか」
「はい、頑張りましょう」
私たちがカレー作りに奮闘する間、父と子は親子水入らずの時間をまったりと過ごしていた。三十分ほどでバスケを切り上げ、ソファでパソコンを覗き込み、何か話している。多分、株か何かの話だろう。時折漏れ聞こえてくる会話は、専門的すぎて意味不明だった。意味不明だが、二人が話しているのを見ているだけで嬉しくて、笑顔になってしまう。七世君も同じようにニコニコと二人を見守っているのに気づく。なんと尊い、幸せな時間だろう。
長い人生の中の、たった数時間の出来事。切り取って、宝箱に入れておきたい。
やがてカレーが完成した。人生初の、スパイスから作る本格カレーだ。正直期待はしていなかった。カレーはカレーだ、誰がどう作ろうが変わらない、と思っていた。でも、完成したものは、今まで食べたどんなカレーよりも美味しかった。世界中を旅して回っても、こんなにも、腹の底から絶賛した食べ物はない。
時間をかけて作ったのに、あっという間に鍋の中が空っぽになってしまった。
「また明日食べようと思ってたのに、なんで全部食べちゃうのよ」
「ハルだって二杯食べただろう」
「だって美味しかったんだもん」
肩を落として洗い物をする私の隣で、夫がコーヒー豆を挽いている。息子たちは庭でバスケだ。
「メモは取ったか?」
「一応ね。でも一人で作れるか自信ない」
難しいことなど何一つなかったのだが、私の料理に対する苦手意識は人一倍だ。作る気になるかも怪しい。
「次は一緒に作ろう」
ミルのハンドルを回しながら、夫が言った。手を止めて、振り仰ぐ。
「一緒に?」
「そう、一緒にだ」
夫も手を止めて、私を見る。
料理が嫌いな私を責めない彼が、好きだ。
インスタントコーヒーにお湯を注いで終わりの私と違って、豆を挽くところから始める彼が、好きだ。
何事も面倒くさがらずに、こだわり、きちんとしている。私とは正反対。でも彼は、一度も私を責めたことがない。
窓の外から聞こえてくる二人分の明るい笑い声と、ボールの音。挽きたての、コーヒー豆の香り。私の髪を撫でる武骨な指。頬に触れる唇の感触。
至福の時間が、ゆったりとほのぼのと、過ぎていく。
〈おわり〉
加賀光太郎という人を一言で表すなら、「ユニーク」だ。
彼との出会いは、十数年前にさかのぼる。
その日はとても寒く、テラス席には彼以外の客はいなかった。薄曇りの十二月。しかも早朝。フィレンツェのオープンテラスで、カプチーノを傾ける眼光鋭い男性。コート姿で脚を組み、寒くなんてないぞという顔で遠くを見つめ、カップに口をつける姿がおそろしく絵になっていた。出来心だ。ついシャッターを切っていた。
音に反応した彼がこちらを見る。レンズ越しに目が合った。
彼は私にまず「チャオ」と語りかけた。それから完璧な英語で、他人を無断で撮影するのは駄目だと言った。私は青くなった。冷静になって改めて彼の風貌を見直すと、マフィアの可能性が頭をよぎったのだ。
慌てて謝り、フィルムを破棄しようとする私を遮って、彼は再び英語で言った。
「可愛らしいお嬢さん、そのフィルムは私からプレゼントするよ」
カップを目の上の高さまで掲げてみせてから、にこりと微笑んだ彼に、私は心を奪われた。惚れたという意味ではない。ただひたすらに面白いと思ったのだ。
イタリア人の科白なら、特に気にも留めない。でも東洋人で、見るからに観光客。恥ずかしげもなく真顔を貫き通す彼に、興味を持った。
私は彼について回り、数日間を共に過ごした。面白かった。いちいち気取った科白が楽しくて、ちょっとしたことを褒められるのが気持ちよかった。綺麗な髪だとか、美しい瞳だとか。口説いているのともちょっと違う。おそらく無自覚に、思ったままを口にしているのだと気づき、ますます愉快な気持ちになった。
ずっとお互いに英語で、名前も聞かなかった。どこの誰かはどうでもよかったのだ。数日後、彼が「日本に帰る」と言ったときに、日本人なのだと初めて知った。
「もし日本に来ることがあれば、訪ねておいで」
彼は私に名刺を手渡して、言った。彼と名刺を見比べてから、日本語でこう答えた。
「じゃあ、一緒に帰ってもいい?」
この時点で恋愛感情は抱いていなかった。ただ、一緒にいると面白いからついていっただけ。と私は言うのだが、「レンズ越しに目が合った瞬間、ハルは私に惚れたのだ」と彼は言い張っている。
離婚していて、大きな息子と二人暮らしだと聞いたときは、ワクワクした。父親ほども歳が離れ、バツイチで、子持ち。恋愛対象として見ると、「ない」と言う人がほとんどだろう。私も「ない」と思っていた。それに、彼は金持ちだった。友人などは面白おかしく玉の輿という単語を口にした。それに乗るのが逆に癪だったため、私は当初、本当に彼とどうにかなるとは思っていなかった。日本に滞在するつもりもなかった。私には家族がなく、だからこそ気ままで、何にも縛られずに身一つで世界を旅して回るのが何よりも幸せだと思っていた。
でも現在、彼は私の夫で、私たちは幸せだ。私の旅は、終わったのだ。
穏やかな日曜の午後。
夫はとても忙しい人で、あまり家にいない。暇があったとしても、家でのんびりすることはない。まとまった休みができたときには、県外や海外に飛んでいき、じっとしていない。私はいつでも連れ出されたし、娯楽は外に見出す人だった。
それなのに。
ガレージの前にバスケットゴールを設置して、満足げに見上げている。
どうしてこんなものを買ったのだ、とは野暮だ。
今日、息子とその彼が、遊びにくる。だから、浮かれている。少しでも彼らを喜ばせようと、不器用なりに頑張っている。
夫の放ったシュートが、ボードに当たってリングに吸い込まれていく。ボールがネットを揺らし、すとんと地面に落下した。跳ねるボールを手のひらで掬い上げ、ゴール下から軽く放り投げると、リングに当たり再びネットが揺れた。
「やるじゃない」
カメラを構え、彼を撮る。夫はもう五十代だが、そうは思えない身のこなしだ。この人は自分を磨くことを怠らない。老いを感じさせない強さがある。
「え、何これ」
ボールが跳ねる音に、訪問者の声が重なった。レンズを覗いたまま、声のするほうにカメラを向け、「いらっしゃい」とシャッターを切る。
「いつの間にこんなの買ったの」
呆れる声で肩をすくめる息子に、夫がボールをパスする。
「昨日だ」
「昨日? 張り切ってらっしゃる」
苦笑して、遠い位置から投げたボールはリングに当たり、大きく放物線を描く。
「いけ、倉知君、ダンク」
「えっ」
背中を叩かれ、戸惑いつつ駆けだした大きな体が飛んだ。落ちてくるボールを空中でつかみ、片手でふわっとリングに運ぶ。こんなに優しいシュートがあるのか、と感心した。
「なんだよ、ダンクしろよ」
「壊しちゃいますよ」
「二人とも」
バスケットボールを拾い上げ、夫が言った。
「よく来た」
その一言に、二人の背筋がすっと伸びた。上官が部下を労う図に見えて、笑い声を上げた。三人がこっちを見る。それを激写した。
「せっかくだからちょっと遊んだら? 大の男が三人でバスケしてるの面白い」
レンズを覗きながら言った。夫が腕時計を見て「ハル」と私を呼ぶ。
「カレーを作らなくてもいいのか?」
「えー……、作るけどさぁ」
今日、二人は単に遊びに来たのではない。七世君のカレーが美味しいらしいという話になり、夫が食べてみたいと言い出し、どうせなら作り方を教えて貰おうという流れになった。
私は料理が得意ではない。苦手というかむしろ嫌いだ。センスがない。包丁の扱いもいまだに慣れない。
「料理は二人に任せよう。私は定光と遊ぶことにする」
「はは、うん、遊ぼう」
脱いだコートを、七世君が当然のように受け取った。奥さんみたいで面白い。
「五点先取だ」
「うい」
五十代の父と三十代の息子がバスケをしている。とても微笑ましい。私と七世君は、並んでぼんやりと見惚れていたが、先に彼が我に返った。
「作りましょうか」
「あっ、うん。よろしくね」
二人を置いて家に入ると、七世君が上着を脱いで、担いでいたワンショルダーのバッグからカーキ色のエプロンを取り出した。エプロンが似合う男子選手権があったら優勝しそうなほどに、しっくりきている。
「一応、言われてた材料は全部揃えたけど」
クミンシードやらガラムマサラやらターメリックやら、人生で一度も手に取ったことすらないスパイスが並んでいる。こんなよくわからないものから本当にカレーができるのか疑わしい。
「はい、完璧です。じゃあ、始めましょうか」
七世君が腕まくりをして言った。
「はーい、お願いします」
頭を下げてから、あ、と思い出す。
「前に送ってあげたエプロン、どうしたの?」
ひらひらのフリルがついた乙女仕様のエプロンをいたずらで送ったことがあった。どっちが着ても可愛いし美味しいと思っていたが、あのときの電話の感じでは、おそらく七世君が着てくれたのだと想像している。
「着てくれてる?」
ニヤニヤを抑えつつ、訊いた。
「えっと……、一回だけ……、いえ、その、ちゃんと大切に保管してます」
ほんのり頬を染め、目を泳がせる。この子は嘘がつけない体質なのだ、と愛しくなる。もっと突っ込んで聞いてみたいと思わなくもなかったが、やめた。踏み込んでいい部分と悪い部分はわきまえなければ。
腕まくりをした七世君の長い腕は、綺麗だった。筋肉が綺麗だ。長身の童顔で、服の上からでもわかる、無駄のない鍛えられた体。横に立つと、なんだか若者特有の瑞々しい香りが漂ってくるようだ。もったいないので、鼻腔を膨らませ、体内に空気を取り込んだ。
七世君は私の変態行為にはまったく気づかずに、「まずは玉ねぎを切りましょう」と教師の口調で言った。
「みじん切りです」
別に、玉ねぎくらいは切れる。でも、嫌な緊張感があった。趣味でピアノを弾く人が、プロのピアニストの前で演奏しろと言われると、おそらく今の私と同じ心境になる。妙なプレッシャーを勝手に感じて、手のひらに汗がにじむ。
ええい、ままよ。
いつも以上にぎこちない動きで玉ねぎを切る。指だけは切らないように、神経を尖らせた。年長者として、失態は犯せない。
「包丁、すごくよく切れますね」
七世君が私の手元を覗き込んで言った。
「孫六ですね」
孫六か助六か知らないが、わざわざ岐阜県にまで足を運んで購入したものだ。夫は物に対するこだわりが強い。料理が上手いのも、道具にこだわっているのも、夫のほうだが、私はそれを気が引けるだとかは思わない。まったく気にしない。
「これね、光太郎さんが夜な夜な砥石で研いでるんだよ」
「夜な夜な……、砥石で……、夜な夜な……」
その光景を思い描いたのか、七世君が軽く身震いをした。
「さすがです」
「さすがだね」
うんうんと二人で首を上下させる。
そういえば、と思い至る。七世君と二人きりで会話をするのはこれが初めてではないだろうか。
手順を説明する彼は、楽しそうに見えた。本当に、料理が好きなのだ。メモを取りながら、上のほうにある彼の顔を見上げた。
この子は私にとって、確かに他人なのだが、そんな気がしないのはなぜだろう。頻繁に会っているわけでもなく、二人で話すのも初めてなのに。
私には子どもがいないし、特に欲しいとも思わないが、いたとしたらきっとこんな気持ちだろう。可愛いと思う。頭を撫でたくなる、抱きしめたくなる、そんなたぐいの、愛しさを抱いてしまう。
ああ、と気づいた。
この子の母の三穂さんだ。幼少期の彼を知りもしないのに、大きくなったね、と誇らしい思いが胸をかすめるのは、彼女からの伝聞のせいだろう。
血の繋がりのない息子の彼氏。ものすごく、遠い。完全な他人の位置にいるはずの彼を、家族のように思ってしまう。いい迷惑だろう、と苦笑したが、いや、と否定する。
この子なら、迷惑とは思わない。
外から、笑い声が聞こえてくる。七世君が言葉を切り、窓の外を見つめた。柔らかな顔で、笑っている。
「結構すごい光景だよね」
私が言うと、彼は、よくわからないという顔で少し首を傾げた。
「あの二人の関係性って不思議でね。お互いにすごく大好きなんだけど、馴れ合わないっていうか。うーん、上手く言えないけど、父と子はこうあるべきってのが明確に彼らの中にあって、その一線は越えなかったんだよね」
七世君は澄んだ瞳で私を見下ろしている。
「七世君と出会わなかったら、多分こんな光景見られなかった」
息子の誕生日を何よりも楽しみにしていた。まるでその日にしか会ってはいけないという法律でもあるかのように、かたくなに、息子の生活に、領域に、踏み込まないように自制していた。それが、夫が掲げる「父親像」だったのだ。
今その父親像は、あの頃と大きく変化した。倉知家の人々によって視野が広がり、「こうでもよかったのだ」という選択肢が、増えたからだ。
「七世君、ありがとうね」
向き直り、改まった口調で、頭を下げた。
「みっちゃんに出会ってくれてありがとう」
顔を上げると、彼はポカンとしていた。
「みっちゃん?」
「あ、みっちゃん。定光君のこと」
出会った当初高校生だった彼は、定光君と呼ぶといい顔をしなかった。だからいろんなあだ名で呼んでいたのだが、いつからか、みっちゃんが定着してしまった。
「定光だから、みっちゃん?」
七世君が面白そうに目をキラキラさせて言った。
「そそ、可愛いでしょ」
「可愛いです」
心からの共感が伝わってくる。彼のことが好きで好きで、可愛くて、堪らないのだ。
「あの、ハルさん……」
七世君が真剣な顔つきで姿勢を正し、腰を九十度に折り曲げた。
「俺、男なのに……。受け入れてくださって、本当にありがとうございます」
「え? あっ、そっか。そういえば男同士だったっけ」
「え、はい」
「そっかそっか、うんうん」
そんなことに言及しなくてもいいような世界に、きっとなっていく。大丈夫、と力強くうなずいて、七世君の肩をポンポンと叩いた。
「よし、作ろっか」
「はい、頑張りましょう」
私たちがカレー作りに奮闘する間、父と子は親子水入らずの時間をまったりと過ごしていた。三十分ほどでバスケを切り上げ、ソファでパソコンを覗き込み、何か話している。多分、株か何かの話だろう。時折漏れ聞こえてくる会話は、専門的すぎて意味不明だった。意味不明だが、二人が話しているのを見ているだけで嬉しくて、笑顔になってしまう。七世君も同じようにニコニコと二人を見守っているのに気づく。なんと尊い、幸せな時間だろう。
長い人生の中の、たった数時間の出来事。切り取って、宝箱に入れておきたい。
やがてカレーが完成した。人生初の、スパイスから作る本格カレーだ。正直期待はしていなかった。カレーはカレーだ、誰がどう作ろうが変わらない、と思っていた。でも、完成したものは、今まで食べたどんなカレーよりも美味しかった。世界中を旅して回っても、こんなにも、腹の底から絶賛した食べ物はない。
時間をかけて作ったのに、あっという間に鍋の中が空っぽになってしまった。
「また明日食べようと思ってたのに、なんで全部食べちゃうのよ」
「ハルだって二杯食べただろう」
「だって美味しかったんだもん」
肩を落として洗い物をする私の隣で、夫がコーヒー豆を挽いている。息子たちは庭でバスケだ。
「メモは取ったか?」
「一応ね。でも一人で作れるか自信ない」
難しいことなど何一つなかったのだが、私の料理に対する苦手意識は人一倍だ。作る気になるかも怪しい。
「次は一緒に作ろう」
ミルのハンドルを回しながら、夫が言った。手を止めて、振り仰ぐ。
「一緒に?」
「そう、一緒にだ」
夫も手を止めて、私を見る。
料理が嫌いな私を責めない彼が、好きだ。
インスタントコーヒーにお湯を注いで終わりの私と違って、豆を挽くところから始める彼が、好きだ。
何事も面倒くさがらずに、こだわり、きちんとしている。私とは正反対。でも彼は、一度も私を責めたことがない。
窓の外から聞こえてくる二人分の明るい笑い声と、ボールの音。挽きたての、コーヒー豆の香り。私の髪を撫でる武骨な指。頬に触れる唇の感触。
至福の時間が、ゆったりとほのぼのと、過ぎていく。
〈おわり〉
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