電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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有限の時間

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〈加賀編〉

 今日は金曜日。カレーの日だ。
 ウキウキしながら定時で会社を出た。
 マンションの駐車場に到着し、エンジンを切って、シートベルトを外した直後に携帯が震えた。
 頼む、仕事の電話であってくれるな。
 祈りながらポケットから取り出し、画面を見た瞬間、頭を抱えたくなった。
 政宗からだ。
『相談したいことがあるんだ』
 深刻な声色。楽しい話題じゃないことだけは確かだ。そもそも、政宗からの電話がいいニュースだったことは少ない。
「なんでしょうか」
 か、と同時にシートに倒れ込み、ため息交じりに訊いた。
『困ったことになって』
「何?」
『光なんだけど』
「え、何、病気とか?」
『いやいや、元気だよ』
 一転してカラッと明るいトーンになった。後ろ頭をどつきたい。
「用件だけを述べよ。カレーが待ってるんだよ、カレーが」
『お、今日カレー? 倉知のカレー、美味いんだろうなあ』
「美味いよ。やらねえぞ。で、何?」
『ごめんごめん、あのさ、光がおいたんと結婚するって言い出してさ。最近の保育園児はませてるねー。そういうのが流行ってるんだって』
「はあ、え? それで?」
『そんで俺、つい、言っちゃったんだよ。おいたんは倉知君と結婚してるって』
 絶句すると、政宗が「大丈夫だよ」とあっけらかんとして言った。
『まだ何もわかってないからさ。そっからおいたんと遊びたいが始まって、今日も朝からずっと、おいたんはいつ来るのって騒いでてさあ』
「つまり」
 咳払いをしてから、車のドアを開けた。
「明日、遊びに来いってことだな?」
『倉知は? バイト?』
「もうやってない」
 大学がいよいよ忙しくなってきたのもあるが、二人の時間がない、働いている場合じゃないと、あるとき急に我に返ったらしい。
『一緒に来てよ。母ちゃんも敦子さんも仕事だし、倉知も気ぃ遣わないだろ?』
 早足で駐車場を歩く。靴音が向こうにも聞こえたらしく、「めっちゃ急いでる」と笑い始めた。
「カレーが食いたいんだよ」
『どんだけ』
「あと、早く倉知君の顔を見たい」
『どんだけ』
「明日行くけど、長居はしないからな。二人きりでいたい」
『どんだけ』
 どんだけしか言わなくなった電話を切った。
 大学の四年間なんてあっという間だ。教師になれば、今のような自由はなくなるし、部活動の顧問にでもなろうものなら休日はないも同然だろう。
 限られた二人の時間を大切に過ごしてきたつもりだが、足りない。全然足りない。
 もっと顔を見ていたいし、もっと話したいし、もっと触れたい。
 せっかくの休日に二人きりになれない、と愚痴ると、倉知は笑った。
「俺もついていっていいですか?」
「え、勿論連れてくよ?」
 ダイニングの椅子に腰かけ、背筋を伸ばして大人しくカレー待ちをしている。倉知が目を上げてチラリと俺を見た。口元が、微笑んでいる。
「俺、加賀さんが光ちゃんの相手してるの、見るの好きです」
 カレーの鍋を掻き回し、照れたように言った。
「楽しくて優しいお兄さんって感じで、すごく、なんていうか、こう、胸がギュってなるんです。だから、明日、そんな加賀さんが見られるから、嬉しいし、楽しみです」
 倉知はネガティブな性質なのだが、俺が後ろ向き発言をすると途端に前向きになる。「二人きりがいいのに」と、文句を言うのはいつもどちらか一人。我ながらバランスのいい素晴らしいカップルだと思う。
「倉知君」
「はい」
「愛してる」
「えっ、あっ、はい、あっ、あー、カレー、もう熱くなったかな」
 赤面してわたわたとカレーの鍋を覗き込んでいる。可愛い。触りたくなった。席を立ち、背後から抱きついて、服の上から腹筋を撫でる。
「加賀さん、カレー、食べませんか?」
「うん、もうちょっと熱くして」
「ぐつぐつしてますけど」
「ぐつぐつ可愛い」
「え? ぐつぐつ好きですか? ぐつぐつ見ます?」
「はは」
 何をしても可愛くて、何を言っても愛しい。離れたくない。好きだ。大好きだ。
 全力で甘えて、飽きるほど倉知を堪能した次の日、飽きたかと言えば飽きない。飽きるはずがない。
 サッと行ってパッと顔を出してとっとと帰ってこよう。
 そう思っていたが、久しぶりに姪に会うと、やはり可愛い。長居はしないと言ったのに、滞在時間がいよいよ二時間になる。
 絵本を読まされたり、おままごとに付き合わされたり、絵を描かされたり。その間、光はほぼ俺の膝の上だ。
「兄ちゃん、お昼食べてくだろ?」
 政宗が台所から顔を出して訊いた。
「いや、もう帰るよ」
 今だ。今帰らないとタイミングを失ってしまう。膝の上から光をどかし、急いで立ち上がったが、玉ねぎを持った小春が台所から飛び出してきて、「待った!」と叫んだ。
「オムライス作るから! 帰らないで!」
「オムライスだけは作れるようになったんだよ、俺ら。すごいだろ」
 政宗が得意げに言った。以前教えてやったことがあったな、と思い出したが、あれから随分経っているのに、作れるようになったのがオムライスだけとは。
「今から作るからさ、それまで光と遊んでてよ」
 こっちの返事を待たずに、戸が閉まる。倉知と顔を見合わせた。
「ひかるとあそんでてよ」
 俺の脚にしがみついて、光が言った。
「どうする?」
「光ちゃんと遊んでましょう」
「くらちくんも、こういってることだし。ね?」
 光が急に大人びた科白を吐き、倉知が小さく吹き出した。
「お、おう。じゃあ次何して遊ぶ?」
 諦めて腰を下ろす。光はあごに人差し指をあて、一丁前に悩んでいるポーズをとった。うーんうーんとうなった末に、閃いた、とばかりに拳を打つ。
「おまわりさんごっこ」
「何それ、どうすんの?」
「えっとね、じゃんけんでかったひとが、おまわりさんだよ」
「ああ、鬼ごっこ? え、室内で?」
「おまわりさん! おーまーわーりーさん!」
 聞き分けの悪い子どもに言い聞かせる口調で光が言った。
「おいたんたちは、ここでまってて。いまもってくるから。いい? わかった?」
 きっとこれは母親の真似だ。微笑ましい。
 リビングを飛び出し、ドアを開け放ったままで、バタバタと二階に上がっていく。
 光がいなくなると、異常なほど部屋が静かになった。子どもというのは常に喋っている生き物だ。十秒だって、黙っていない。
「大丈夫?」
 テーブルの上を整理していた倉知に、声を潜めて訊いた。
「何がですか?」
「疲れてない?」
「いえ、ご褒美です。加賀さんも光ちゃんも可愛いです」
「え、俺も? 三十過ぎのおっさんが?」
「可愛いです」
 どこがだろう。腑に落ちない。かわい子ぶりっ子しているつもりはない。
 散らばったクレヨンを、一本一本丁寧にケースに片付けている倉知の隣に膝をつくと、袖の辺りを軽く引っ張った。
「倉知君」
「はい?」
 目が合うと、すぐに俺の思惑を察してくれた。台所のほうを気にしながら、素早く顔を近づけてくる。唇が触れ合い、離すときにチュ、と音が漏れた。その音が部屋にやけに大きく響いたように感じて、二人で「音が」「でかい」と笑い合う。
「いまいくよー」
 どたんどたん、と独特なリズムの足音を鳴らし、光が階段を下りてくる。急いで距離を取り、知らん顔で「おかえり」と光の頭を撫でる。
「これがおまわりさんごっこだよ」
 ぶら下げているのは、おもちゃの手錠だ。
「なるほど、おまわりさんだな」
「むかし、ひゃっきんでかったの」
「はは、昔」
「じゃーんけーん」
 光が腕を振り回して唐突に合図を出す。ぽん、で俺がチョキを出し、倉知がパーを出し、二人が出そろったのを見届けて、光がパーを出した。
「後出しで負けてる」
 倉知が溶けそうな顔で言った。光はじゃんけんのルールを理解していないようだ。
「ひかるのかち?」
「いや、負け。てことは俺がおまわりさん?」
「しょうがないからおいたんがおまわりさんね」
 じゃんけんで勝ったのにしょうがないらしい。
「で? 何をどうするの? 鬼ごっことは別?」
 俺に手錠を託すと、逃げる様子もなく背中に飛び乗ってきた。
「おまわりさんは、はんにんをたいほするんだよ」
 幼児が口にするにはおよそ似つかわしくない単語だ。これは多分政宗か小春の入れ知恵だろう。
「じゃあ、とりあえず倉知君、お前を逮捕する」
 倉知の手首をつかんで、両手に手錠をかけた。ものすごくおもちゃっぽいし、鎖の部分を引きちぎるのは簡単だろう。百均の名に恥じないクオリティだが、なんとなく手錠というのは背徳感があっていい。これをかけたままSMプレイをするとどうだろうと妄想していると、「なにざい?」と光が訊いた。
「何座位ってお前」
 危うく背面座位と答えそうになるのを感じ取ったらしい倉知が「違います」と慌てて遮った。
「加賀さん、あの、罪です、罪の種類の話です」
「ああ、凶器準備集合罪とかそういうのか」
「え? はい、殺人罪とか詐欺罪とかそういうのです」
 難しい。倉知はいい子だし、どの罪も似合わない。大人しく手錠をかけられ、罪状を言い渡されるのを待っている。ほら見ろ、こんなに健気だ。可愛い。
「可愛い罪?」
「なんですかそれ」
「罪なほど可愛い」
「可愛くないです」
「可愛いよ。なあ、光」
 光に同意を求めると、わかっているのかいないのか、嬉しそうに乗ってきた。
「くらちくんはかわいいざい! たいほする、たいほする!」
 俺の背中から飛び降りると、かわいいざい、かわいいざい、と小躍りを始めた。可愛くないと言えば光を否定することになる。倉知が恥ずかしそうに可愛い罪を受け入れたところで、脈絡もなく光が「おしっこ」と真顔で訴えた。
「え、ちょ、トイレいっといで」
「一人でできる? ついてく?」
 手錠で拘束された男の科白ではない。
「ひとりでできるもん」
 光がドアを開け放したままで、飛ぶようにリビングを出て行った。
 再びの静寂。
 台所から二人の話し声とぎこちない包丁の音が漏れ聞こえてくる。もしかしなくてもまだ玉ねぎを切っているらしい。
「手錠ってなんかエロいよな」
 机に肘をついて、倉知をじろじろと観察する。拘束プレイを妄想するなというほうが無理だ。全裸に手錠。それもそそるが、どちらかと言えば着衣がいい。胸まで服を捲り上げ、乳首を責めたらきっと喜ぶだろうな、とニヤリと笑う。
「やめてください」
「ん? 何が?」
「加賀さんの考えてることくらいお見通しです」
「ほう? 教えて?」
 ほんのり頬を染め、倉知が黙り込む。
 間違いなくこいつは可愛い罪だ。
 無言でにじり寄り、膝頭をくっつけた。倉知の体がビクッと揺れた。
「何もしないよ」
「するときの科白ですよね」
「しないって」
 と言いながら、両手が塞がっている状態の倉知を見ていると、いたずら心がめきめきと育っていく。
 何かしたい。
 つん、と脇腹をつついてみた。
「あっ、ちょっと、何もしないって言ったのに」
 倉知が非難の声を上げる。俺の人差し指が乳首を捉えていることに気づき、急いで立ち上がった。
「近づかないでください」
 手錠を嵌めた両手の平を俺に向けて、後ろに下がっていく。
「逃げられると追いかけたくなるんだよな」
「じゃあ逃げません」
 屹然とした物腰で仁王立ちし、胸を張る倉知が眩しい。両手で目を覆い、うめく。
「駄目だ、何しても可愛い。お前はやっぱり可愛い罪だ。逮捕してよかった。罪深き可愛い子ちゃんめ」
「なんですか、それ……、ちょっと、ストップ、加賀さん、ホントにそれ以上近づかないで」
「ただいま!」
 光がリビングに飛び込んできた。対峙する俺たちに、何かを感じ取ったらしい。顔色が変わった。
「はんにん、にげたの?」
「光も捕まえるの手伝って」
「あいあいさー!」
 逃げる倉知を追う光。俺は笑ってそれを眺めていた。
 子どもの遊びに付き合うことは、なかなかに有意義だ。今日は来てよかった。次に光と会うときは、また少しだけ成長し、きっと新鮮な驚きと発見を与えてくれる。
「またきてね!」
 手を振る光に二人で手を振り返す。
「楽しかったですね」
 辻家を肩越しに振り返り、助手席の倉知が言った。
「めっちゃ長居したよな」
 午前中のうちに帰る予定が、外はすでに薄暗い。
「何か簡単に食べて帰ります?」
「んー、そうだな。せーの」
 二人で「マック」と声を揃えた。
「その前に寄りたいところあるんだけど。いい?」
「え、どこですか?」
「百均」
「何か欲しいものが」
 言いかけた倉知がハッとして、「て」と声を裏返らせた。
 ご明察。
 お前は今夜、再び俺に、逮捕される。

〈おわり〉
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