電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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2月3日

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〈加賀編〉

 太巻きを切らずにそのままかぶりつき、食べ終えるまで一言も喋ってはいけない。
 その不可思議な風習を知ったのは何年前だっただろうか。
 まさか自分がそれをやるとは思わなかった。
「南南東はこっちです」
 ダイニングテーブルの向かい側に座った倉知が、スマホを見ながら壁を指さした。
「加賀さんもあっち向いて」
「お、おう、こっち?」
「もうちょっと右、そうです、その方向です」
 方角がわかるアプリをこのためだけにインストールしたというのだから、もうやるしかない。
 倉知が作った恵方巻は、具がぎっしりと詰まっていて太い。ネギトロ、トロサーモン、ほたてに甘エビ、玉子に……、とにかく美味そうだ。できるなら普通に食べたかったが、倉知はどうしてだか儀式をやりたがっている。
「一言も喋っちゃダメですからね。口から離してもダメですよ」
 ウキウキした感じが可愛い。つられて楽しくなってくる。倉知が恵方巻を縦笛のように両手で持ち、笑顔で言った。
「どっちが早いかな。よーいドン」
 合図のあとに、倉知が恵方巻を口に咥えた。
「えっ、ちょ、待って、競争すんの?」
 訊くと、驚いた顔で硬直し、咥えたままで首を横に振る。
 すいません、間違えました、競争じゃないです、加賀さんのペースでどうぞ、と目が語っている。
 それにしても、この光景。太くて黒い棒を、黙々と。思った通りのシュールさだ。
「あ、ちょっとエロい」
 口を滑らせると、倉知がぎょっとした様子で目だけを動かして俺を見た。徐々に頬が赤らんでいく。
「はは、ごめん、でもやっぱエロい」
 喉からくぐもった声を出して抗議してくる倉知を無視して、テーブルに肘をついて、ニヤニヤと観察する。
「ほらほら、ちゃんと口、動かして」
「んーっ」
 口から外すわけにも向きを変えるわけにもいかず、咥えたままで、俺を警戒するように横目で見ている。
「うわ、えっろ。写真撮ろうかな」
 倉知がびくっとなって、一瞬泣きそうに目尻を下げた。
「冗談だよ。さて、俺も食うかな」
 恵方巻を握って、確かめるように軽くこすりながら、「うーん、太い」とうなる。
「倉知君のとどっちが太いかな」
 倉知が顔を赤くして、ぐっと喉を詰まらせた。
「いただきます」
 視線を感じる。口を開けて、わざとゆっくりと咥え込む。ちら、と隣を見る。目が合った。倉知の喉仏が上下する。目を合わせながら、笑いそうになるのを堪えて、食べ進む。多分、文句なしに美味いのだが、こんな食べ方をすると何がなんだかわからない。
 とにかく先に、食べきってしまおうと思った。
 そして、おそらく南南東を指して屹立しているであろう倉知の恵方巻をおかわりしてやるのだ。

〈おわり〉
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