電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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ある雪の日

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〈倉知編〉

 大雪にご注意ください、とテレビが何度も訴えていた。
 この地域はほとんど雪が降らないが、念のためホームセンターで雪かき用のスコップと長靴を買って備えておいた。
 予報は当たった。朝早くから雪が降り始め、昼過ぎにはあっという間に白くなった。こういうとき、雪に慣れない地域だと、すぐに交通が麻痺してしまう。早めに大学を出て帰路につくと、マンションの敷地が雪に埋もれていた。十センチか十五センチか、その程度の積雪だが、踏み荒らされた雪の絨毯はでこぼこで歩きにくかった。今は止んでいるが、またいつ降り出してもおかしくない。
 部屋に戻り、夕飯の準備を済ませてから、長靴に履き替え、スコップを持って玄関前の雪かきを開始する。
 さいわい、駐車場は地下にある。車が停められなくて困るということはないのだが、そこに辿り着くまでもおそらく大変だ。フェアレディはスタッドレスタイヤを装着して出勤したが、帰ってくるまでにこの辺一帯の雪を駆逐せねば。
 せっせと雪かきをしていると、「あっ」と声が上がった。
「倉知さん、偉い!」
 隣に住んでいる姉妹の妹のほうだ。芽唯(めい)という名前で、奇遇なことに姉は皐月(さつき)というらしい。俺の姉も「さつき」だと教えると、ものすごく喜んでいた。
 越してきた当初高校生だった芽唯さんは、ブライダル関係の専門学校に進学し、ウエディングプランナーを目指している。
「おかえり、お疲れ様」
「ただいま、ねえねえそれって自主的にやってるの?」
 住人がするべき作業じゃないのかもしれないが、できる人間がすれば済む。雪かきをして怒られることはないだろう。
「すごい、やっぱり倉知さんいい人!」
 そんなに褒められることだろうか、と思いつつ、頭を掻く。
「加賀さんが帰ってきたとき、車入れにくいだろうし」
「あ、のろけだ」
「え? なんで?」
 芽唯さんはなぜかニヤニヤして、「よし、私もする」と張り切って宣言すると、マンションに入って数分後にスコップを持って戻ってきた。
「じゃーん、お姉ちゃんが買っておいてくれたんだ」
 真新しいスコップを嬉しそうにかざすと、少量の雪を掬い、よたよたした足取りで敷地の隅に寄せた雪山へと運ぶ。
「これ、結構大変だね。腕痛い」
 二往復でハアハア息切れをしている。
「こう、腰落として、体全体で掬い上げるといいかな」
 言いながら雪を放り投げると彼女は目を輝かせた。
「倉知さんって雪国出身の人?」
「え、違うけど」
「なんか頼りになるよね。お姉ちゃんに報告しよ」
 よくわからないが、そんなことを言って、楽しそうに雪かきを再開する。数人のマンション住人が何度か出入りをしたが、彼女のように一緒にやろうという人はいなかった。
 二人でせっせと雪かきを続けていると、街灯が点き、日が落ちていることに気づいた。
「あとはもう俺一人で十分だから」
 そう言うと、彼女は汗を拭って首を横に振った。
「ここまできたら、最後まで、付き合うっ」
 ザク、とスコップを刺した音と、聞き慣れた車のエンジン音が重なった。車の音が近づいてくる。彼女の腕を取り、敷地の端に寄って待機すると、ヘッドライトを灯した黒いフェアレディZが姿を見せた。加賀さんだ。
「ただいま」
 俺を見つけて停車すると、ウインドウを下げて加賀さんが言った。
「おかえりなさい」
 二人の声がはもった。
「二人で雪かきしてんの? 偉いな」
 俺の隣で芽唯さんがえへっえへっと体を揺する。彼女は加賀さんが好きだ。彼氏がいるらしいし、好きといってもファンのような感情なのはわかっている。いつも「カッコイイ」「イケメン」「やばい」と身もだえている。
「もう暗いけど、まだやるの?」
 加賀さんが身を乗り出して駐車場を見渡した。
「もういいんじゃない?」
「この辺残ってるし、どうせならやっちゃいます」
「私も手伝う」
 芽唯さんが鼻息を荒くする。
「寒いから加賀さんは部屋で待っててください。俺もすぐ戻ります」
 ニコッと笑った加賀さんが、「了解」と言って手を振った。
 フェアレディが地下の駐車場に消えると、彼女が小さくため息をついた。
「いつ見ても美しい」
「うん」
 同意するとキャーと声を上げて体当たりをされた。
「倉知さんってホントに加賀さんのこと大好きだよね」
「うん、大好き」
 さっきより一段階高いキャーが、夜の闇に響く。
「いいな、いいな、ラブラブいいな」
 芽唯さんは人の恋路を見守るのが好きなのかもしれない。将来進む道を上手に決めた、と感心する。
 雪かきを再開していると、尻に何かが当たった。振り返ると、スーツにコートを羽織った加賀さんがいたずらっこの笑みで立っていた。
「よっしゃ、命中」
 尻を狙ったのは明白だ。呆れて肩をすくめる俺に、第二球を投げてくる。容赦のないスピードで飛んできた雪玉を、スコップの柄に当てると粉々に砕け散った。
「お、クリーンヒット」
「加賀さん、邪魔しに来たんですか?」
 スコップを雪山に突き立てて、加賀さんから目を逸らさずに手のひらの中で雪を握る。加賀さんが雪玉を作っている隙に、手の中のそれを振りかぶって投げた。身をひるがえして俺の雪玉を避けると、加賀さんが笑った。
「馬鹿、手加減しろよ。スーツに革靴のおっさんだぞ」
 言って、三球目を俺の顔面目がけて放つ。体を低くしてそれを避けて、両手で新たに生成していると、思わぬ方向から飛んできた雪玉が俺の頭にぶつかった。
「ごっ、ごめん、頭に当たると思わなくて」
 芽唯さんが口を抑えて自分自身が驚いた顔をしていた。
「やったな」
 彼女に雪玉を軽く投げると、キャアキャア言いながら大げさに飛び退る。楽しそうな彼女に満足していると、背中に雪玉が当たった。加賀さんだ。
「イエーイ」
「子どもですか?」
「おう、なんか楽しいな」
 そう、楽しい。こんなに積もることは滅多にない。数年に一度のことだ。俺たちはみんなそれなりに大人ではあるが、多分すごく、雪が珍しくて、嬉しいのだ。
 トライアングルのフォーメーションで雪を投げ合う大人の戯れを中断したのは、車のクラクションの音だった。
「あっ、お姉ちゃんだ」
 お姉さんが帰ってきたらしい。
「何してるの」
 下したウインドウから顔を覗かせたお姉さんがちら、と俺と加賀さんを見て「こんばんは」と頭を下げた。
「雪かきしてたんだ、偉いでしょ」
 芽唯さんが言うと、お姉さんが首をかしげる。
「雪合戦してるようにしか見えないけど」
「お姉ちゃんもする? 楽しいよ?」
「するわけないじゃない。風邪引くからもう入ったら?」
 そう言うと、もう一度俺たちに頭を下げて車を発進させた。駐車場に入っていくテールランプを見ながら「大人ぶっちゃって」と芽唯さんが鼻を鳴らす。いや、あれが正しい大人の姿だろう。
「いってえ……」
 加賀さんが声を漏らしたのを聞き逃さない。ハッとして振り返ると、手を抑えてうずくまっていた。
「どうしました」
 駆け寄って目の前に屈むと、加賀さんが低い声で「手がめっちゃ冷たい」とぼやいた。当たり前だ。俺は手袋をしているからダメージがないが、加賀さんは素手だ。
「貸してください」
 加賀さんの赤くなった手を取って、はあー、と息を吐きかける。
「もう部屋に戻りますか」
「待って、雪だるま作ってない」
「童心に返りすぎじゃないですか?」
 言いながら息を吐きかけていると、パシャ、と音がした。振り仰ぐと芽唯さんが俺たちにスマホを向けていた。
「あ、つい撮っちゃった」
「こらこら」
 加賀さんが苦笑する。
「だって、二人が可愛すぎて」
「芽唯」
 お姉さんの声が彼女を呼んだ。バッグを肩にかけて、滑らないように慎重な足取りでこっちに来る。
「風邪引くから入るよ」
 マフラーで口元まで覆った声は、くぐもっていた。
「でも、雪だるま作ってないし」
 芽唯さんが言うと、「は?」と眉間にシワを寄せる。
「何を子どもみたいなことを」
「私じゃなくて、加賀さんが作りたいって」
「え」
 お姉さんが加賀さんを見る。加賀さんが悔しそうに、顔を歪めた。
「もう俺の手は限界なんで、お姉さん手伝ってくれます?」
「あの……、雪だるま……? そんなに作りたいんですか?」
 ぶふふっと吹き出したのは芽唯さんだ。
「だってこんなに積もることないし、ねえ」
 作っとかないと、と何かの使命のように加賀さんが言った。芽唯さんとは違ってお姉さんは冷静で大人のイメージがある。馬鹿らしい、と冷たく吐き捨てて去っていくかと思ったが、肩のバッグを担ぎ直すと、身を屈めて雪を集め始めた。
「お姉ちゃんは頭ね。私が胴体」
 姉妹が仲良く雪を丸めている。加賀さんがそれを見ながらニコニコしている。
 サッカーボールより少し小さめの雪塊を二つくっつけると、植え込みの端に鎮座させる。四人で雪だるまを見下ろして、うーんとうなった。
「なんか足りなくない?」
 加賀さんが言った。
「目とか、口とか?」
 俺が言うと、芽唯さんが辺りを見回した。
「なんかないかな」
「石ころあるけど」
 お姉さんが拾い上げて、雪だるまの目に見立てた部分に大きさの異なる石を二つ、押しつけた。
「この木の枝、使えませんか?」
 折れた小さな枝をつまんでお姉さんに差し出すと、雪だるまの顔面に枝が装着された。これで目と鼻が完成した。
「だいぶ顔っぽくなってきた」
 加賀さんが楽しそうに声を弾ませる。
「口も欲しいな」
「欲しい欲しい」
 加賀さんに芽唯さんが同意する。
「じゃあ、この葉っぱかな」
 お姉さんが緑の葉っぱを押し込むと、ようやく顔が整った。
「できた」
 お姉さんがつぶやいた。
「可愛い」
 芽唯さんが言って、加賀さんがうなずいた。
「愛嬌がある」
 四人の大人がいびつな雪だるまを作って自画自賛している。この状況がおかしかったが、一体感と達成感を味わうことができた。
 雪という存在は、偉大だと思った。いつもあると困るが、たまになら歓迎したい。
「あー、すげえ、芯まで冷えた」
 二人と別れ、部屋に戻ると加賀さんが震えながら言った。雪かきをしていたおかげか、俺はむしろ暑いくらいだった。
「ご飯何?」
「鍋です」
「めっちゃ助かる」
「でも、先にお風呂入りましょう」
「え、なんで?」
「汗流したいし、加賀さんの手も温めたい」
 指先がまだ赤い。手を握り締めて、愕然とする。まるで氷だ。
 急いで風呂を沸かし、沸き上がると速攻でバスタブに飛び込んだ。
「体も冷たいですね」
 加賀さんの裸を後ろから抱きしめる。頬にすり寄ると、そこも冷たかった。どこもかしこも冷え切っている。
「だから部屋に入っててって言ったのに」
「遊びたかったんだもん」
「もんって……、ホントに子どもですか?」
 可愛くて、うきうきした声が出てしまった。
「倉知君」
「はい?」
「もっとギュッてして」
 言われるままに強く抱きしめた。俺の腕にすがりついて、ホッとしたように「温かい」と囁いた。色気を含んだ吐息が、湯気とともに浴室にふわりと広がった。
「加賀さん」
「ん」
「お腹空きました?」
「あー、うん、鍋食いたい」
「鍋の前に、ベッド行きませんか」
「え?」
「寒い日は裸で抱き合うのが一番ですよね」
 はは、と笑って俺を振り向いた。
「ここでする?」
 至近距離にある唇を触れ合わせてから、加賀さんが言った。体は相変わらず冷たかったが、俺を見るまなざしは、燃えるように、熱い。
 寒い夜でも二人でいれば、凍えることはない。

〈おわり〉
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