電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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telepathy

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※このお話はパラレルです。「たとえば」「もしも」設定です。彼らの現実で起こったお話ではありませんので、ご了承ください。



〈倉知編〉

「……ち、くらち、おい、起きろ」
 揺り起こされて目を開けた。ハッとして、急いで体を起こす。
 遠くに黒板が見えた。大学の教室だ。
 教壇にはすでに教授の姿はなく、人もまばらだ。
「珍しいな、倉知が居眠りなんて」
 橋場が言った。いつの間に寝たのか、記憶にない。
「寝不足?」
「え? いや、そんなことは」
――どうせ寝ないでイチャついてたとかだろ
「えっ」
 驚いて声が出た。橋場が怪訝そうに俺を見下ろす。
「今、なんて」
 橋場は普段、冗談でもこんな科白は言わない。
「何」
「何って、今、寝ないでイチャついてたって」
 橋場が黙った。怒ったような顔に見えたが、次の瞬間、橋場の声が直接脳内に響いてきた。
――おかしいな、声に出てた?
「え? ええ? 何、何これ」
 慌てて椅子から腰を上げた。今、橋場は口を真一文字に引き結んでいた。腹話術の名手でもなければ、声を出せるはずがない。
 というよりも、明らかに、耳ではなく、頭の中に声が広がった。
「今日はもう講義もおしまいだし、帰って寝たら?」
――今夜はイチャついてないでちゃんと寝ろよ
 またしても聞こえてくる、橋場らしからぬ軽口。
 硬直する俺を置いて、橋場が去っていく。
 おかしい、どうなっているのだろう。
 寝ぼけているのだろうか。
 頭を掻いて、教室を出た。
 廊下を歩く。今日はやけに騒がしい。人の数に見合わない、やかましさだ。
「カラオケ行かない?」
「ごめんね、今日バイトだからパス」
――バイトなんてないけどね。こいつ、いつになったら音痴に気づくんだろ
 俺の横を通り抜けた二人の会話がおかしい。
 耳を塞いでみる。
 すぐに意味がないと気づいた。
 声は、やはり頭の中に直接流れ込んできている。
――おっぱいおっぱい。揉みたい、挟まりたいいい
――エロい目で見てんなよ、バレバレなんだよ、金玉蹴り上げるぞコラ
――あー、エッチしてえ
――今日は素人ナンパものか、人妻ものか、どっちにするかな
――あ、いい男。どんなチンコしてんのかな
 耳を塞いだままで、絶句した。
 脳内に侵入してくる独り言が、男女問わずほぼすべて下ネタだ。
 俺は、走り出した。全力で大学の構内を脱出して、大急ぎで電車に乗り込んだ。
 車内は混んでいた。満員というほどではなかったが、座れそうにない。手すりにつかまって、息をつく。
――なんであの子のほうがモテるの? あたしのほうが絶対可愛いのに
――テストだりい、学校燃えてなくならないかな
――五千兆円欲しい。そしたら今すぐ仕事辞めてやる
 ネガティブなつぶやきが、あちこちから湧いてくる
 口を閉ざしながら好き勝手わめく人たちの中で、電車に揺られ、耐えた。
 マンションに着いた頃にはぐったりしていた。スーパーに寄るのを忘れるくらいに疲弊していて、冷蔵庫を覗いてみても、頭が回らない。何か作れる気はしなかった。
 さっきから心臓がドキドキしている。
 どうしてこうなったかはわからないが、多分、俺は、突然超能力に目覚めたのだ。
 冷蔵庫を閉じて、後ずさる。そして、両手を突き出して、開け、と念じた。
 冷蔵庫はビクともしない。
 咳払いをして、手を下ろす。
 物を動かしたりはできないにしても、人の心を読めるのは確かだ。
「加賀さん」
 つぶやいた。
 そうだ、当然、加賀さんの考えていることも、わかってしまう。
 それはとても怖いことに思えた。
 もし、加賀さんが変なことを考えていたら?
 加賀さんの口から仕事の愚痴は聞いたことがない。仕事が楽しいし、好きだと言っている。でも、もし、違ったら? 加賀さんが愚痴るところなんて見たくない。
 俺たちの間には、秘密がない。でも、何か重大なことを隠していたら。
 本当は、俺のことを好きじゃなかったら。別れたいと考えていたら。
 首を横に振る。
 ない、ありえない。
 ため息をついた。ソファに腰を下ろし、頭を抱える。
 加賀さんの頭の中。
 覗いてみたい気もする。でも、エロいことで溢れていたら、どうしよう。
 ……別に、どうもしない。
 加賀さんがエロいことを考えていても、びっくりしないしがっかりしない。常日頃から下ネタも言うし、親父ギャグも言うし、エロいことを隠さないし我慢しない人だ。
 じゃあいいか、と割り切ることにした。
 前向きに気持ちを切り替え、とりあえず何かあるもので夕飯の用意をすることにした。
 パスタくらいなら作れそうだ。冷凍のエビもあるし、常備野菜もある。簡単なサラダと、オニオンスープも準備した。一日くらい買い物しなくてもなんとかなるものだ。
「ただいま」
 加賀さんが帰ってきた。洗い物をしながら、「おかえりなさい、お疲れ様です」と笑顔を向けた。
「あー、腹減った。すげえいい匂い、何?」
「エビのトマトクリームパスタです」
「うわ、美味そう」
 答えてから、もし、と考えた。嫌いなものがないと言っている加賀さんが、実は好き嫌いがあったら?
「エビとかトマトとか、大丈夫ですか?」
「え? 何? 今さら?」
「加賀さん、嫌いな食べ物ないって言ってますけど、実は何かあるんじゃないですか?」
「どうした急に」
 少し首をかしげて、加賀さんが笑った。
――なんかわかんねえけど、嫌いなものがあったほうがいいのか?
 加賀さんの声が頭に響く。
――嫌いなもの? あったか?
 考えている。すごく考えている。口がニヤニヤしてしまう。
――なんだ? にんじんとかピーマンって言えば可愛いのか?
 ちょっとだけ吹き出してしまった。加賀さんが顔を上げる。そして俺をじっと見る。
――なんかあったな
「何もないです、あの、着替えてきてください。パスタ茹でますね」
「ん、おう」
――まあいっか
 加賀さんは真から楽天家かもしれない。
 着替えて戻ってきた加賀さんが、「あと何分?」と訊いた。
「あと五分くらいです」
 答えると、加賀さんの声が頭の中に飛んできた。
――よし、ラッキー。五分間めっちゃ甘えよう
「え」
 がし、と背中に抱きつかれた。すりすりとすり寄られているのがわかる。
「あの、あと五分かかるんで、ソファでゆっくりしてていいですよ」
「んー、このほうが落ち着くし安らぐんだよ」
――あー、すげえ癒される。倉知君大好き
「加賀さん」
 俺の声は鼻声で、揺らいでいた。慌てて目元を拭う。
 よかった、すごく、好かれている。
 わかっている。疑うなんて失礼だった。でも、心の声を直接聞けて、本当にホッとした。
「あ、もしかして俺邪魔?」
「邪魔じゃないです、そこにいてください。ずっとくっついててください」
「はは」
――ほんと、ずっとこうしてたい。すっげえ好き
 優しい本音がふわりと俺を包み込む。全身で、力いっぱいしがみついてくる、愛しい人。涙が堪えられなくなった。嬉しくて、幸せで、むせび泣く。
「え? なんで? どうした?」
――やっぱりなんかあったな
「すいません、俺、なんか、おかしくて、頭が、おかしいんです」
「よしよし、わかった。とにかく食おう」
 加賀さんが俺の背中を撫でさすると、タイマーがパスタの茹で上がりを告げた。
 温めなおしたソースをかけて、テーブルに置くと、向かい合って腰を下ろす。いただきますと手を合わせると、加賀さんがフォークにパスタを巻きつけながら、じっと俺を見てくる。
――ネガティブ、とは違うな
「はい、そうです」
「ん?」
「あ、いえ、なんでもないです」
 つい、心の声に返事をしてしまった。目を落とし、パスタを口に運ぶ。
――頭がおかしいってどういう意味だ?
「あの、加賀さん、俺」
 人の心が読めるようになったんです、とそのまま正直に言おうとして、ためらった。
 種明かしする前に、試したいことがある。
「いえ、あの、美味しいですか?」
「うん、美味い」
――お前の料理はいつも美味いよ
「へへ」
 にやける俺を、加賀さんが探るように見ている。
――なんか変だな
 どうやら俺はわかりやすいらしい。
 なるべくうつむいて、変なことを言わないように、妙な反応をしないように、無心で夕食を胃に詰め込んだ。その間の加賀さんの脳内はと言えば、「美味い」という誉め言葉と、「なんだ?」という疑問。それになぜかちょいちょい「可愛い」と「好き」を挟んでくるから、そのたびに顔が熱くなり、指が震えそうになった。
「加賀さん、お願いが」
 食べ終わった食器をシンクに運ぶと、洗い物を開始しようとする加賀さんを止めた。
「何?」
「それは後回しにして、抱かせてくれませんか?」
「……はい?」
――いきなりどうした
「食後の軽い運動です」
「お、おう」
――本当に軽いのかよ
「大丈夫です、軽いです」
 加賀さんの腰を抱き寄せて、首筋にキスをした。吸う。舐める。噛みつく。舌で耳たぶを転がしてから、耳を口中に含みながら、髪の中に指を差し入れた。
「ん……」
――やべえ、チンコ勃つ
 勃ってもいいじゃないですか、と笑いそうになる。
「ちょっと、なあ、本当に今する?」
――食ったばっかだぞ。中身出たらどうすんだよ
 ぐっ、と笑いを噛み殺す。笑ったら怪しまれる。堪えろ俺。
「今です。寝室行きます? それともここで?」
「寝室で」
 即答した加賀さんの体を抱え上げて、寝室に飛び込んだ。ベッドに押し倒し、上から覗き込む。服の裾をめくり、手を入れる。丁寧に服を脱がせ、全裸にする。
「倉知君も脱いでよ」
――体、見たい
「わかりました」
 勢いよく服を脱ぎ捨てた。加賀さんが、ふう、と短く息を吐く。
――めっちゃしたくなってきた
 加賀さんの股間を確認した。すごく興奮してくれているのがわかる。愛しさが胸の内で倍増する。
「加賀さん、愛してます」
「うん、俺も」
――めちゃくちゃ愛してる
「抱いてもいいですか?」
「え? 今さら?」
「俺に抱かれたい?」
 加賀さんが黙った。
――抱かれたいに決まってんだろ。なんでいちいち訊くんだ?
「よかった」
「何?」
「いえ、抱きます」
 いつも以上に、優しく丁寧に扱った。
 加賀さんの本音が聞きたくて、セックスを試したかった。
 本当は嫌なんじゃないか。
 本当は気持ちよくないんじゃないか。
 俺に気を遣って、フリをしているんじゃないか。
 馬鹿なことを考えた。
 気持ちいい。
 好き。
 もっと。
 七世、七世。
 終わってみると、なんのことはない。嫌悪の瞬間など一度もなかった。本気で気持ちよくて、俺を好きでいてくれるのが痛いほど伝わった。
「加賀さん、俺、人の心が読めるようになったんです」
 俺の上にまたがって、胸に頬をくっつけて体重を預けていた加賀さんが、「へえ」と気のない返事をした。
「疑ってますね?」
「え、超能力的な? 何、本気で言ってんの?」
「本気です。今から加賀さんが考えてること当ててみますから、なんでもいいから考えてください」
「なんでもいいの?」
「なんでもいいです。丸わかりですから。はい、どうぞ」
 沈黙が落ちる。
 静かだ。何も聞こえない。
 おかしい。
 もしやこれは、無の境地というやつか。
 俺に心を読ませまいとして、無になっているに違いない。
「加賀さん、ちゃんと考えて」
「考えたよ?」
「え、本当に? 何も聞こえませんでしたよ」
「そりゃそうだよ、声に出してないからね」
「違うんです、俺、心が読めるから、言わなくても思うだけで」
「今めっちゃ心の中で叫んでるよ」
「えっ、嘘、何も聞こえない」
 うろたえる俺の上で、加賀さんが笑い出した。
「信じてませんね?」
「いや、信じるよ。お前さっき、変だったもんな」
 加賀さんはすごい。こんな馬鹿な話を簡単に信じてくれる。
「なんでいきなり聞こえなくなったんだろう」
「なんでいきなり聞こえるようになったんだろう、じゃない?」
 加賀さんはおかしそうだ。
「あっ、セックスしたからかな?」
「ああ、射精したから? はは、うける」
「やっぱり信じてませんよね?」
「ていうかお前、俺が考えてることわかってたんだよな?」
「はい、帰ってきてからの頭の中、筒抜けでした」
 そうだ、ちゃんと証明する方法があるじゃないか。
「嫌いな食べ物訊いたら、にんじんとかピーマンって言えば可愛いのかなって悩んでましたね」
「え」
「中身出たらどうするんだって、面白かったです」
「ちょ、待って、マジか」
 加賀さんがようやく本気になってくれた。わたわたと、俺の上で体を起こす。
「えっ、あれ、待って、俺、なんか変なこと考えてなかった? やべえ、嘘だろ、なあ俺、恥ずかしいこと考えてなかった? 大丈夫?」
 ものすごく可愛かったです。そしてうろたえる今の加賀さんも可愛いです。
 ニヤニヤしながらあえて返事をしないでいると、加賀さんが殊勝な顔になり、俺を上目遣いで見て訊いた。
「エッチのとき、何考えてるか知りたかったとか?」
「そうですね、ちゃんと気持ちいいかなって。苦痛じゃないかなとか、嫌なことしてないかなって、確認です」
 加賀さんが顔を覆う。
「すいません、なんか、あの、誘惑に勝てなくて」
「いいけど、あー、俺の頭ん中、ひどくなかった? ……幻滅した?」
 俺の腹を指でつついてくる。
「すごく幸せでした。加賀さん、俺のこと大好きですよね」
 加賀さんがホッとした様子で、肩で息をつく。
「当たり前だろ」
 心が読めなくたって、わかる。
 愛してる。
 加賀さんが、優しく微笑んだ。

〈おわり〉
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