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ヤサシイモノガタリの作り方
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※「タダシイヤオイ本の作り方」に登場した「佐藤弘子」ことろっこ先生のお話です。
〈佐藤弘子編〉
隣の部屋で、赤ちゃんが泣いている。
おむつを替えて、ミルクを飲んだばかり。ということは、眠いのだろうか。
赤ちゃんというのは、勝手に眠ってくれない。揺すってもらわないと眠れない生き物らしい。
「泣いてるけど」
アシスタントの森さんが、イラついた声で言った。
「待って、ここ、トーン貼ったら抱っこするから」
もう一人のアシスタントの安藤さんが、森さんに勝るとも劣らないイラつき声で返事をする。
赤ちゃんは、安藤さんの子どもだ。
猛烈な結婚願望を抱いていた彼女は、未婚の母になった。結婚できると思っていた相手に逃げられたと言っていた。詳しい事情は聞かなかったが、シングルマザーが大変なのは容易に想像できるし、乳飲み子を抱えてできる仕事は少ない。
安藤さんはデビュー当時からの付き合いだ。助けたい、と思った。迷惑はかけないから、と頭を下げられれば断れない。赤ちゃん連れでアシスタントを続けることを承諾した。
「ねえ、泣いてる」
「もう、わかってるってば。ちょっとは我慢してよ」
「我慢は十分してるから」
とげとげしいやり取りを見ていると心苦しくなってくる。宥めて雰囲気をよくできればいいのだが、余計なことを言わないように黙って手を動かし続けることしかできない。
ああ、私にこの場を和ませる話術があれば。
デスクの上でスマホがブブッと音を立てた。明るくなった画面に現れるメッセージ。横目で見ながら「あっ」と声を上げていた。
「なんですか」
森さんが喧嘩腰で訊いた。
「なんでもないよ」
取り繕い、スマホをデスクに置いたまま操作する。
六花さんからだ。ホッと息をついてメッセージを開く。
『先生、今日発売の新刊、たった今ゲットしました! ぜひサインをいただきたいのですが!』
カアッ、と顔が熱くなった。彼女は二年前のクラス会で再会した、同級生の加賀君を介して知り合った私のファンだ。ありがたいことに、あれからずっとファンでい続けてくれている。
照れながら、スマホを操作して返信を打つ。
『お買い上げいただき本当にありがとうございます。いつでもサインさせていただきます』
メッセージのあとに、土下座しているスタンプを送った。返事は秒速だった。
『では! 明日! 休みなので! いかがでしょうか!』
今日の六花さんはいつにも増してテンションが高い。
『OKです。ただ、〆切が近く仕事場から出られないので、ご足労いただけますか?』
『そういうことでしたらお手伝いします! なんでもできます! ベタもトーンも背景もいけます!』
スマホから顔を上げ、森さんと安藤さんの顔を見比べた。二人とも眉間にシワを寄せている。そして相変わらず赤ちゃんは泣いている。
六花さんがいれば、空気が良くなるかもしれない。
思いつきだった。
人手が欲しいので、戦力になってくれると助かるというむねを伝えると、「お任せください」と頼もしい言葉が返ってきた。食事の用意もするので好きなメニューをどうぞ、と送られてきた。
六花さんは美人で背が高くてスタイルが良くて絵も上手くてその上料理もできるのか、と感動した。
「二人とも、何か食べたいものない? 明日、アシスタントに来る子が作ってくれるって」
訊くと、競うように「肉」、「揚げ物」、「パスタ」、「寿司」、「中華」、「カレー」、「ラーメン」と反応した。ひどい。もうちょっとまとめて欲しい、と思ったが、追及してこれ以上機嫌を損なうのが怖かった。
二人のリクエストをそのまま伝えると、「了解です」と返ってくる。こんな無茶ぶりを了解するんだ、と感激した。
そして次の日の九時過ぎ。
「おはようございます!」
昨日のテンションのままの六花さんが訪れた。
「どうぞ、入ってください」
招き入れると、きょろきょろしながら、ほう、とため息をついた。
「ここが先生の仕事場かあ。あっ、おはようございます」
六花さんが森さんと安藤さんに頭を下げる。二人は死んだ目で「どうも」、「ざいます」と返事をした。昨日から険悪なままだ。
「ごちゃごちゃしててごめんね。あの、ここ、どうぞ、座ってください」
デスクが二脚ずつ向かい合わせに四脚ある。そのうちの空いている一つの椅子を引く。
「失礼します。早速ですけど、先生、新刊、読みました。すんごい語りたいんですけど、今は自重します。とにかくお仕事優先ですね。私にできることがあればなんなりと」
六花さんがテキパキと進めていく。気圧されながらも原稿を渡して指示すると、「夢みたい」と呟いた。
「先生の原稿に携われるなんて、光栄すぎて死にます」
「えっ、死なないでね」
「まだ死にませんよ、この作品が雑誌に載って、本になるまでは」
原稿用紙をデスクに置いて、手を合わせて頭を下げる。ただの紙切れを拝まれている。ありがたいが、こそばゆい。
「あっ、その前に、あの、お給料だけど」
慌てて話を逸らすと、六花さんが「無償で大丈夫です」と胸を張る。
「いえっ、そんなわけには」
「じゃあ時給八百円で」
「やすっ」
思わず声を上げると、「ふんっ」と森さんが鼻で笑った。馬鹿にしているとかではなく、森さんは本当に楽しいときにこんな笑い方をよくする。ホッとした。
ウフフ、と笑いながら幸せそうに手を動かす六花さんを、アシスタントの二人は特に気にするふうでもなく、淡々と仕事をこなしていた。その手を止めたのは、赤ちゃんの泣き声だった。
「え、もしかして、赤ちゃん? 先生、いつの間に産んだんですか?」
六花さんが隣室に続くドアを、首を伸ばして見た。
「私じゃなくて」
「私の子です。ちょっと見てくる」
どんよりとした空気をまとい、席を立った安藤さんが背中を丸めて去っていく。
「あ、そうだ、一応訊いてって言われてたんだった」
六花さんが突然声を上げた。
「こちら、もちろんキッチンありますよね?」
「キッチンはあるけど。訊いてって、誰に?」
「弟にです」
六花さんがスマホを触りながら言った。
「え? 弟君に? え? 何? どういうこと?」
「言い忘れてましたけど、ご飯、弟が作りに来ます」
「えっ」
「私、作れませんので」
そんな自信満々に言われても。でも確かに自分が作るとは言っていない。用意する、と言っただけだ。
「七世君は、作れるんだ」
意外な気がした。弟の七世君は見るからに体育会系だったし、料理とは無縁に見えた。
「作れますよ。もはや料理人です」
へえ、とうなずいてから、はたと気づいた。
「ちょっと待って、あの、まさかと思うけど、か、加賀君、来ないよね?」
ドキドキと鼓動が速くなってきた。
「残念ながら、土曜日だけど仕事らしいです。飲み会もあるそうだし、来ませんよ」
「そ、そっか」
胸をなでおろし、ホッと息を吐くと、視線を感じた。森さんが私を見つめていた。
「加賀君って、誰ですか?」
身を乗り出してくる。
「え、えっと、その」
「先生の口から男の人の名前が出るなんて……、怪しい」
「怪しいって何、何もないよ」
拗ねたように口を尖らせてみた。森さんは追及をやめない。元々細い目をさらに細くしている。透視でもしそうな雰囲気だ。
「お昼はチャーハンでいいですか?」
六花さんがスマホに目を落としたまま言った。助かった。
「うんっ、チャーハン、いいね、ねっ」
森さんに同意を求めた。まだ目は糸のように細いままだ。
「チャーハンよりも、加賀君です」
「あああ、もういいじゃない……」
顔を両手で隠してうなだれる。
「さてはこちらの方、ただのアシスタントじゃないですね? 紹介してくださいよ」
矛先が六花さんに向いた。六花さんは「ああ、失礼しました」とスマホを置いて、森さんに頭を下げる。
「倉知六花と申します。先生のファンです。今日は全力でお手伝いさせていただきます」
森です、と森さんが頭を下げ返し、「で?」と六花さんに詰め寄った。
「加賀君っていうのは? 先生の何?」
「森さん、仕事しよ? あー、忙しい忙しい、〆切があ」
自分のデスクに座ってペンを動かしてみたが、森さんは私を見ていない。
「加賀さんは、先生の高校時代の同級生ですよ」
六花さんが簡単に答えてしまった。同級生、と呟いた森さんの首がぐる、とホラー的な動きでこっちを向いた。ひい、と悲鳴が出てしまった。
「そういえば、何年か前にクラス会行きましたね」
「そっ、そんなこともあったかな?」
「イケメン」
森さんが真顔で私を見つめて言った。体が真上に跳ねてしまった。
「先生が好きだったイケメンの人?」
「ちょっ!」
デスクを叩いて立ち上がっていた。キャスター付きの椅子が滑って壁に激突する。六花さんが私を見ている。顔の前で両手を振って、「違うの!」とわめいた。
「好きなんて言ってないし、あのっ、加賀君は、そういうのじゃなくて」
「先生、大丈夫です」
六花さんが目顔でうなずいた。
「加賀さんが高校生の頃どんなだったか、想像できます。誰にでも優しくて気さくで、対等な感じ、ですか?」
「……はい」
「あの容姿でそれだったら、誰でも憧れちゃいますよ。あ、加賀さんには言いませんから安心してください」
「……はい」
顔から火が出そうだ。「好き」という言葉を「憧れ」に変換してくれた六花さんの優しさに救われる。
「それで、その彼とあなたの関係は? もしかして彼女とか?」
森さんが面白そうに訊いた。最近は仕事ばかりで潤いがない。こういう女子トークに飢えていたきらいがある。久しぶりに楽しそうな顔を見れてよかったとも思うが、ひやひやしてそれどころじゃない。
六花さんと顔を見合わせた。まさか、弟の彼氏です、と紹介するわけにもいかない。
「加賀さんと私は、まあ、家族みたいなもの? かな?」
「何それ? 夫婦?」
「いえ、むしろ兄弟です」
森さんはよくわからない、という顔で怪訝そうにしていたが、質問を変えた。
「え、で? その加賀君は、今日来ないのね?」
森さんが言った。六花さんが肩をすくめる。
「仕事ですから、来ませんよ。夜ご飯はどうします? 昨日のリクエスト、全部対応可能ですけど」
「なんでもいいからあったかいものがいい」
答えたのは安藤さんだった。赤ちゃんを抱っこしてゆらゆらと体を左右に揺らしながら立っていた。
「お二人は?」
「私もなんでも」
「私は昨日からずっとカレー」
恐縮する私の科白にかぶせるようにして森さんが言った。六花さんが「はーい」と明るく返事をしてスマホをデスクに置いた。
「買い物してから来るって言ってます」
「あっ、ちゃんとレシート貰ってね」
慌てて言うと、「あいつしっかりしてるんで平気ですよ」と姉らしい優しげな表情で笑った。
六花さんは弟の七世君が大好きで、二人の仲はすこぶる良い。私は一人っ子だが、七世君のような弟がいたら、きっと同じように可愛がるだろうなと思う。
「それじゃあ、仕事しましょうか」
六花さんが手を叩き合わせて言った。その一言で、森さんの顔つきも、私の頭の中も、一気に仕事モードに切り替わる。安藤さんの腕の中で、赤ちゃんも静かに眠ってくれた。
それからは無心で、全員黙々と仕事をこなした。
「あ、七世、来たみたいです」
六花さんが声を上げるまで、余計な無駄話を一切しなかった。
「チャイム鳴った?」
全然聞こえなかった、と思ったが、六花さんが首を振る。
「赤ちゃん寝てるから、着いたら携帯に連絡入れてって言ってあったんで」
ほう……、と感嘆のため息が漏れた。なんて気が利く子だろう。
「ちょっと玄関迎えに行きますね」
六花さんが部屋を出て行った。
息をするのも忘れていた気がする。一度大きく深呼吸をしてから、首をぐるぐると回し、体を伸ばしてもう一度息をつく。森さんと安藤さんは、集中していて顔を上げない。赤ちゃんが寝ている今のうちに、という感覚が身についてしまっている。
「おはようございます」
しばらくして、ウィスパーボイスとともに弟の七世君が身をかがめて現れた。バッグを背負い、両手に食材と思しき袋を提げている。
「おはようございます」
立ち上がって急いで頭を下げると、「今日はありがとう」と礼を言った。
「いえ、お役に立てれば嬉しいです」
爽やかに微笑む高身長の若い男の子。森さんと安藤さんの手が止まり、背筋が伸びている。ニコニコしながら「どうもー」、「こんにちはー」と高い声で何度も頭を下げている。ずいぶん愛想がいい。
六花さんのときと対応に差がありすぎる。女だな、としみじみ思った。
「キッチン、お借りしますね」
七世君がヒソヒソ声で言った。
「あっ、こっちです」
ヒソヒソ声で返して、彼をキッチンに案内する。このマンションは、住居兼職場にしていて、十五帖ほどのワークスペースの他に私自身の寝室とアシスタントの仮眠室がある。今赤ちゃんがいる部屋はアシスタントの仮眠室で、トイレやお風呂、キッチンなどの生活音から一番遠い場所だ。
「調味料とかろくにないけど、フライパンとかお鍋とか、好きに使ってね。あ、冷蔵庫も空っぽだから、適当に入れておいてください」
「ありがとうございます。もういい時間なんで、お昼取り掛かりますね」
そう言って手際よく食材を冷蔵庫に詰め始めた。なんだかこの子のこの無駄のない動作は六花さんに似ているな、と思った。
「じゃあ、ごめん、よろしくね」
言い置いてキッチンを去ろうとしてから、思いとどまって「あの」と七世君の背中に話しかけた。
「加賀君は元気?」
七世君が振り返る。不自然な質問ではないはず、と思ったが、変に緊張してしまう。
「元気です。ろっこ先生によろしくって言ってました」
「そっか」
えへへ、と謎の照れ笑いが出てしまった。先生と呼ばれるのも恥ずかしいが、加賀君がそんなふうに私を気にかけてくれたのが純粋に嬉しかった。
ニヤニヤしながらワークスペースに戻ると、いつの間にか打ち解けた三人が盛り上がっていた。
「へー、バスケかあ。だからおっきいんだ。でもなんか可愛いよね。好きな顔ー」
安藤さんが頬杖をついてうっとりとしている。
「大学生で料理上手って、すごくない? どうやったらそうなるの?」
森さんも興味津々だ。
二人が生き生きしている。六花さんは弟を誉められてまんざらでもない様子だ。
「あの子、同棲してるんですけど、家事全部しちゃってるみたいで。尽くし体質だからかな?」
「え、大学生で同棲してるの?」
「やだー、うらやましー」
同棲相手が男で加賀君だということがバレないか、ドキドキしながら聞いていた。森さんも安藤さんも、一応BL漫画家のアシスタントだから免疫も理解もある。でも実在する男カップルに関わったことはない。
どんな反応をするか、ちょっと怖い。
「みんな、もうちょっとでお昼だから、それまでにキリのいいとこまで仕上げようよ」
話題を逸らすためにそう言うと、三人が私を見て「はい」と返事をした。それぞれが手元に視線を落とし、おしゃべりは終了かと思われたが、安藤さんがうつむいたままで口を開いた。
「同棲相手ってどんな人なの?」
それを訊く? 頭を抱えたくなった。
「年上の社会人です」
「なんかちょっと、エロいねそれ」
森さんが余計なことを言った。じわじわと熱くなっていく顔を誰にも見られないように、精一杯身を低くした。
キャッキャと花が咲いたように笑い合う三人。
私は妄想が走り出さないように静かに呼吸を整えることしかできなかった。これが本当の修羅場なら、黙って仕事をしてください、と土下座しているところだ。
やおら食欲をそそるいい匂いがしてくると、完全にみんなの集中力が切れた。
「お腹空いたね」
「いい匂い」
美味しそうな匂いが漂ってくるキッチンのほうを、みんなが気にしている。
「ちょっと見てこようかな」
安藤さんが腰を上げた。
「私も行く」
森さんも後に続く。邪魔になるだけだと思ったが、私も料理をする七世君を見てみたかった。
キッチンのほうからひゃー、とかきゃーとか二人のよそ行きの女子っぽい声が漏れ聞こえてくる。
「いいの? 同棲してるなんて言っても……」
声を潜めて訊くと、六花さんがあっけらかんとして言った。
「先生、あの子の指輪、気づきませんでした?」
「え……、指輪?」
「左手の薬指にペアリングつけてるんです」
私は気づかなかったが、二人なら、遅かれ早かれ恋人の存在に気づいていただろう。
「ペアリング……、いいね」
私の科白に、六花さんがぬふっと奇妙な声を出した。
「いいですよね。加賀さんは職場につけていけないんですけど」
「それって、会社の規則で?」
結婚指輪以外は認めない会社は多いらしい。
「はい、でも、休日はお揃いのリング着けてるんですよ。それってすんごく萌えません?」
「うん、萌える」
「私、普段は眼鏡してないのに、授業中だけ眼鏡かけてる男子とか好きなんです」
「わかる」
二人でうなずき合っていると、「お待たせしました」と両手にそれぞれお皿を持った三人が現れた。
大急ぎでデスクの上を片付ける。いつも各自が適当にパンを齧ったりコンビニおにぎりを食べたりで、原稿中にこんなふうに本格的な料理を食べることはない。
「チャーハンだけじゃ足りないと思って、スープと餃子も作りました。今持ってきます」
七世君が言った。おおー、と歓声が上がる。
「ニンニク抜きだから安心してください」
「いたつくー」
安藤さんが拍手した。森さんがチャーハンの湯気を両手で扇ぎ寄せ、顔面に浴びながら言った。
「ああ、ありがたや」
確かに、すごくありがたい。温かい料理というのは、それだけでとても幸せになる。
「みんな、七世君にお礼を言おう」
私が提案すると、森さんと安藤さんが、ありがとうと言いながら七世君を拝む。
「いえ、どうぞ、お召し上がりください」
全員のデスクにチャーハンとスープと餃子のセットが置かれると、みんなが同時に手を合わせ、いただきます、と綺麗に声を揃えた。
スプーンが口に運ばれる寸前で、赤ちゃんの泣き声が耳に届く。全員の動きが止まる。安藤さんの手からスプーンが零れ落ち、がちゃん、と派手な音を立てた。
「行ってくる」
「待ってください」
立ち上がろうとする安藤さんを止めたのは、七世君だった。
「俺が見てきます」
「え……」
「赤ちゃんの名前、なんて言うんですか?」
「蓮太郎、です」
安藤さんはいつも「レン」と呼んでいるが、そういう長い名前だったな、と今さら思い出す。
「どうぞ、ゆっくり食べてください」
「あ、……うん、ありがとう……、ありがとう」
安藤さんが、椅子に座り直して脱力し、静かに鼻をすすった。
わかっていた。本当はとっくにわかっていた。安藤さんは、助けを必要としていた。
でも私にとって、生後五か月の赤ちゃんは未知の生物だった。私も森さんも出産の経験がなく、抱っこの仕方もわからないし、ミルクの作り方も知らないし、何かあったら責任はとれないし、と逃げてきた。
安藤さん自身も、自分一人で育てなければと肩肘を張っていた。子育てに対して神経質で完璧主義なせいもあるが、私も森さんも、一度も赤ちゃんに触れたことがなかった。
一分でもよかったのかもしれない。代わりに抱っこしてあげられれば、安藤さんの助けになれたのだ。
「七世、赤ちゃん抱っこしたことないと思うけど。大丈夫かな」
六花さんがポツリと言った。しん、と静まり返った。
「ちょっと、見てくる」
私が席を立つと、なぜかみんながついてくる。
隣室のドアを開けると、カーテンを引いた薄暗い部屋の真ん中で、七世君が立っていた。腕の中には赤ちゃんがいる。大きな男の人に抱かれていると、いつもより小さく見えた。
「泣き止んでる」
安藤さんが私の後ろから部屋の中を覗き込んでいる。七世君が体を左右に揺らしながら言った。
「おむつ替えてあげたいんですけど、やったことなくて。教えていただけますか?」
「えっ?」
私の肩をつかんでいた安藤さんの手に、力が入る。
「夕飯の準備までやることないし、子守りさせてください」
「え……、ええー? ホントに? いいの? 時給いくら?」
安藤さんの声は涙声だった。感動している。私もひそかに、感動していた。
「じゃあ、八百円で」
七世君が言うと、
「デジャブ!」
と、安藤さんが笑った。
「姉弟で八百円流行ってるの? 最低賃金以下だけど!」
私の背中を叩いて笑い続けている安藤さんに、七世君が少し首をかしげて「冗談です」と言った。
「お金は、いりません。今日バイトもなくて、一人で寂しかったんで、こうやって赤ちゃんの面倒見れるのはラッキーだったと思ってます。料理も好きだし、あ、それのお給料も結構です」
「えっ」
今度は私が声を上げる番だ。
「そんなわけには」
「本当に大丈夫です。みなさんのお役に立てるなら、嬉しいです」
部屋の中は暗かったが、七世君の体が発光しているような錯覚を覚えた。
聖母だ。聖母マリア様だ。
こんなに性格のいい男子大学生が、この世に存在するなんて。
そうだ、この子は加賀君の恋人だった。やっぱり、彼に愛されるのだから、いい子に決まっている。むしろこれくらいじゃないと彼とは釣り合わないかもしれない。
なんせ、加賀君自身も親切の塊だ。
パチパチパチ、と手を打つ音が聞こえた。振り向くと森さんが拍手をしていた。
「すごい、できた子。いいわ、こんな弟欲しい」
「ええ、本当に、自慢の弟です」
六花さんが満足そうにニコニコしている。
そして昼食後、安藤さんからおむつ替えとミルクの調合と、その他もろもろを伝授された七世君は、立派に子守り役を務めてくれた。
六花さんは弟の子守りぶりを動画に収めたり、写真を撮ったり、忙しそうだった。もちろん本来の仕事もきっちりこなしてくれた。一応プロである私よりはるかに絵が上手く、手も早い。最近はデジタル一本でアナログは久しぶりだと言っていたのに、ブランクを感じさせない。
作品を読んでわかってはいたが、とんでもないスキルの持ち主だ。この子に先生と呼ばれるなんておこがましい、と肩身が狭くなる思いだった。
「六花ちゃん、また手伝いに来ない?」
森さんが言った。
予定より早く脱稿し、あとは七世君のカレーを待つばかり。コーヒーでまったりと一息ついていた。
「そうだよ、来てよ。弟君も連れてきてね」
安藤さんが言った。膝の上に赤ん坊を座らせ、ぬいぐるみであやしている。少しでも赤ちゃんが泣くとピリピリしていたのに、今は別人のように穏やかだ。七世君のおかげかもしれない。
私も今度、おむつ替えを教えてもらわなければ。
それに、この部屋にマットを敷いて、ガードも付けて、遊べるようなスペースを作ってあげたい。いつまでも一人ぼっちで暗い部屋に寝かせてばかりいられない。
「ぜひ、またよろしくお願いします」
六花さんが私と二人に、合計三回頭を下げた。彼女はデザイン会社に勤めていて、決して暇じゃない。来てもらえると助かるが、そうそう頼めない。
コーヒーカップを傾けながらスマホを手に取った六花さんが、ちら、と私を見た。すぐに目を逸らし、またすぐに、こっちに目を向ける。すごく何か言いたそうだ。
なんだろう、と怪訝に思っていると、カップをデスクに置いて、んんっと咳ばらいをした。
「先生」
「はい?」
「このマンション、来客用の駐車場ってありますか?」
どうして今になって駐車場の話をするのか、と首をかしげながら答えた。六花さんも七世君もここには電車で来たはずだ。
「編集さん用に一台分借りてるけど」
「じゃあ今、空いてます?」
「ん?」
「加賀さん、飲み会キャンセルしたって連絡があって」
マグカップを落とすところだった。
「え、例のイケメン? 来るの?」
森さんが反応する。安藤さんが「イケメン? 誰?」と目を輝かせた。
「なんか、どうしても、かっ、カレーがっ、食べたいそうです」
六花さんが笑いを堪えながらなんとか答えると、最後はぶはっと吹き出して、デスクの上に倒れ込んだ。
「カレー食べたいから来るの?」
そんな理由? とポカンとしたが、やがて六花さんの笑いが伝染して、おかしくなってきた。私も加賀君も今年三十路。三十路のいい大人が、カレーが食べたいから飲み会をキャンセルしてやってくる。
何それ、可愛い。
一緒になって声を上げて笑っていると、七世君が顔を覗かせた。
「あの、カレー出来ましたけど」
その一言がさらにおかしくて大笑いした。こんなに笑ったのはどれだけぶりだろう。一年? いや、もっとかも。
「なんで笑ってるの?」
不思議そうにしている七世君に、六花さんが「内緒」と唇に人差し指を当てた。どうやら加賀君がカレー食べたさにここに来ることは彼には伝えないらしい。そのどっきりに私も乗っかることにした。
仕事場に加賀君が来ること自体は、そうイヤでもない。漫画を描いているところを見られたり、原稿を見られたり、そういうのが無理なだけで、加賀君には単純に会いたい。
あれから二年。私はただ老けただけだが、加賀君はきっとさらにいい男になっているだろう。
「えっと、食べますか?」
七世君が困った顔で訊いた。さっきからカレーのいい匂いが充満している。一仕事を終えて、お腹が空いていた。
「食べよう」
加賀君を待たずに、一足先にカレーパーティを始めることにした。
七世君がキッチンに向かうと、森さんと安藤さんには、「加賀君」が来ることを黙っているように念を押す。加賀君と七世君の関係性を問いただすこともなく、ドッキリに加担することを快く受け入れてくれた。
二人は、イケメンを見られるというだけで嬉しそうだった。
人数分のカレーが運ばれてくると、拍手と歓声が沸き起こる。一口食べると全員がうなった。そして、その味を確かめるように二口、三口と黙々と食べ進む。
「すごい、このカレー、異常においしくない?」
安藤さんも森さんも、当然私も、その完成度に度肝を抜かれた。驚いていないのは六花さんだけだ。
「お母さんのカレーと同じ味だよね」
「うん、伝統の味」
七世君が誇らしげに言った。母のレシピを息子が受け継いだらしい。なんだかいい話だ。
倉知家のカレーを食べ慣れている六花さんは、赤ちゃんを腕に抱いて、部屋の中を歩き回っていた。
日中たくさん眠った赤ちゃんは、機嫌がいい。大きな目を開けて、あーあー言いながら六花さんを見上げている。
「市販のルゥじゃないよね」
「何でできてんの、これ」
すごいすごいと褒めちぎりながらみんながおかわりしていく。
「ねえ、ちょっと、食べすぎじゃない? 残しておいてね?」
加賀君の分がなくなってしまう。私が言うと、七世君が笑った。
「たくさん作ったんで、まだありますよ」
「でも、えっと、一人分は確実に残しておきたくて」
加賀君が来るから、とは言えない。七世君は若干訝しげな顔をしていた。
ピンポーン、とチャイムが鳴った。ドキッとした。六花さんがスマホから顔を上げて、私を見てうなずく。加賀君だ。
「あ、俺が出ます」
「いってらっしゃい」
全員が黙って動きを止めて、耳を澄ます。はーい、と七世君の声のあとで、ガチャ、と玄関のドアを開く音。
「はっ、えっ、加賀さん!? なんで!?」
驚いた七世君の声。みんながくすくす笑う。
「カレー食べに来た」
加賀君の落ち着いた声が聞こえた。それ、言っちゃうんだ、とまたしてもツボに入り、吹き出しそうなのを一生懸命堪えた。六花さんも歯を食いしばってプルプル震えている。
森さんと安藤さんがソワソワした様子で腰を上げると、忍び足でドアに向かう。ドアに隙間を作り、玄関の様子をうかがっている。
「今日飲み会だったんじゃ」
「やめた。カレー食べたいし」
「ええー……、でも加賀さん、昨日食べたじゃないですか」
ぶふー、と六花さんが吹き出した。私はもう、耳を塞いだほうがいいかもしれない。加賀君のイメージが崩れてしまう。
加賀君のイメージ。
いや、加賀君という人は、昔からどこかひょうきんで、周囲を笑わせるのが上手な楽しい人だった。カッコつけない。飾らない。いつも自然体。そう、これが加賀君なのだ。
「お前のカレーを人に食べられて、俺が食べ損なうってのがイヤなんだよ。いいか、お前のカレーは俺のものだ」
「は、はあ」
面白いのでもう少し続けて欲しいとは思うが、いつまで玄関で話しているのだろう。
「他のメニューなら百歩譲って諦める。でもカレーって聞いたら」
加賀君がそこで言葉を切って、「こんばんは」と切り替えた。隙間から覗く二人に気づいたのだろう。森さんと安藤さんが軽く上に飛んでから、勢いよくドアを開け放った。
「こんっ、こんばんはっ」
「あ、あの、どうぞ、こんなところでなんですから、中、入ってください」
舞い上がる二人にうながされ、加賀君が「お邪魔します」と言いながら、ワークスペースに姿を見せた。
スーツだ。そうだ、仕事帰りだった。
すごい、大人だ、と当たり前のことなのに妙に感心してしまった。
「こんばんは」
立ち上がってお辞儀をすると、加賀君が顔をほころばせた。
「こんばんは、久しぶり。急にごめんね。あ、これ、ケーキ。よかったら皆さんで食べて」
持っていたケーキの箱を軽く持ち上げて、加賀君が言った。
「佐藤さん、甘いの好きだよね」
クラス会で馬鹿食いしていたのを見られたことを思い出し、頬を染める。
「あっ、ありがとう。あの……、カレー大好きなんだね」
ごまかすように私が言うと、六花さんが赤ちゃんを抱っこしたまま体を揺すって大笑いした。
「違う違う」
加賀君が肩をすくめて否定する。
「倉知君のカレーが好きなだけ」
「そっ……かあ」
これはノロケじゃなかろうか、と思ったが、赤面しつつ、ごまかすように笑うのが精いっぱいだった。
「それにカレーだけが目当てじゃないよ。久々に佐藤さんの顔見たいなって」
突然変なことを言われて全身が熱くなった。その場にへたりこみ、やめてー、とぼやいて頭を抱える。ほのぼのとした笑いに包まれた。
「あ、じゃあ、カレーよそってきますね。みなさん、ケーキ食べますか?」
七世君が言った。一斉に「食べるー」と合唱する。
加賀君の手から手土産を受け取ると、七世君が六花さんを手招いた。
「六花、手伝って」
「了解」
赤ちゃんを母親の手に返すと、二人で仲良く部屋を出て行った。
しん、となった。
加賀君が珍しそうに部屋の中を見まわしている。ワークスペースはそれなりに片付けてはいるが、見られるのは少し恥ずかしい。
「さすが佐藤さん。なんかきちっとしてるね」
加賀君に唐突に褒められて「ふぁっ」と気持ちが悪い声が出てしまった。森さんと安藤さんがニヤニヤしている。
それにしても不思議だ。加賀君が来ただけで、急に華やかになった気がする。いつもの自分の仕事場とは思えない。錯覚か、いい匂いがする気がする。森さんと安藤さんを見る。女の顔になっていて、怖い。
でも仕方がないかもしれない。加賀君だ。
スーツの男の人って、こんなにもカッコイイのか、と面食らっていた。さっきから手汗がすごい。加賀君なのに、加賀君じゃないみたいで緊張する。
「加賀君、ここ座って」
来客用のソファを勧めた。
「お、サンキュ」
加賀君がスーツの上着を脱ぐ。ドッ、と心臓が不自然な動きをした。喉元で、音が鳴っている。口から心臓が出そうなほど、動揺している。ただ上着を脱いだだけ。それだけなのに、カッコイイ。
「赤ちゃん、可愛いね」
ワイシャツの袖のボタンを外しながら、加賀君が言った。
あっ、と安藤さんが声を上げる。
「あの、あのっ、子ども好きですか? あっ、彼女いますか? 結婚してます? あの、どんなお仕事されてるんですか?」
「はは、どれに答えようかな?」
テンパる安藤さんに、加賀さんは落ち着いたトーンでなだめるように言うと、腕まくりをしてから、ネクタイを緩めた。その一連の仕草はまずい。私を含めたここにいる女たちは、そういうちょっとした動作に萌えを見出すようにできている。
はあああん、と鼻から抜けるようないやらしい溜息を漏らす安藤さん。森さんも、目が普段の三倍ほどの大きさになっている。
「加賀さん、飲み会って誰とだったんですか?」
七世君が戻ってくると、ガラステーブルにカレーを置いて訊いた。
「いつものメンバーだよ」
「ドタキャンして怒られませんでした?」
「カレー食うから帰るって言ったら爆笑してた」
「でしょうね」
「別に俺がいなくても酒が飲めりゃそれでいいんだよ。あ、食べていいの? みんな食べた?」
加賀君が手を合わせながら私たちに気を遣う。七世君が優しい声で応える。
「みんな食べましたから大丈夫です。おあがりなさい」
二人のやり取りを、息をつめて見ていた。なぜだろう、ゾクゾクする。
スプーンに山盛りのカレーをすくい、豪快に口に運ぶ加賀君を、みんなが注目している。
気品溢れる容姿をしているのに、食べ方は男らしい。
「うっま」
本当に、美味しそうに食べる。見ていて気持ちがいい。
「あ、倉知君、サイン貰った?」
思い出したように加賀君が言った。
「いえ、忙しくて」
「さ、サイン?」
恐る恐る訊くと、加賀君が言った。
「昨日出た新刊に、サイン貰っといてって頼んでたんだよ」
「ひいい、読んだ? 読んだの?」
悲鳴を上げる私を面白そうに見て、加賀君がうなずいた。
「めっちゃ感動した。読み終わってすぐにもう一回最初から読んじゃった」
「ああああ、恥ずかしい……」
「倉知君もすげえ泣いてたよね」
「う、それ言わないでください」
七世君が顔を赤らめた。
「七世ー、ちょっとー、ケーキ運ぶの手伝ってよー」
奥から六花さんの声が響く。七世君が、はーいと言いながら飛んでいく。
森さんと安藤さんが顔を見合わせているのが視界に入った。まずい、と危険を察知する。
「あの」
森さんが挙手をした。
「先生の作品、BLだけど……、その、読んでるんですか?」
「ああ、はい。全部読んでるし、ファンだよ」
加賀君が爽やかに答えた。
「本当に? 七世君も?」
「うん」
「二人で一緒に読んだんですか?」
「二人で一緒に?」
「え、だって、え?」
いよいよ疑問が沸いてきた頃だろう。
加賀君は私の高校時代の同級生。でも、加賀君と七世君がどういう関係なのかは、大いなる、謎。
「ああ、俺ら二人で住んでるんで」
加賀君があっさりと告げた。
「二人で住んでる」
森さんが復唱して、納得したようにうなずいていたが、あれっと声を上げた。
「七世君が同棲してる年上の人って」
「それ俺です」
一切のためらいがない。気持ちがいいくらいだった。
そうだ、別に、悪いことをしているわけじゃない。
森さんも安藤さんもポカンとしていたが、デスクに紅茶とケーキが運ばれてくると正気に戻った。
「なるほど」
森さんがフォークを握り締めて口元を手で覆い、力強くつぶやいた。
「えっ、そういうこと? じゃあ、この子のお父さんになってくれないんだね?」
安藤さんが意味不明なことを言い出した。
「それは急になんの話かな?」
加賀君が笑いながら首をかすかに傾けて、カレーを食べるのを再開する。
「あ、蓮太郎君、俺が抱っこしてるんで、ケーキ食べてください」
七世君が気を利かせて言うと、安藤さんは悲しそうに眉を下げて、赤ちゃんを手渡した。
「なんか様になってるな」
赤ちゃんを抱っこする七世君を見上げて、加賀君が言った。
「おむつ替えもマスターしたし、ミルクも飲ませました」
七世君が得意げに言った。
「マジでか。ちょっとそれ見たかった」
残念がる加賀さんの隣に、六花さんがふふふふと含み笑いをして腰かけた。
「見ます?」
「撮ったの? さすが、ぬかりないな」
仲良く頭を寄せ合い、一つのスマホを眺めている姉と恋人を、七世君は穏やかな表情で見守っている。
この人たちは、もうすでに家族だ、と思った。
同性と付き合うことを家族が受け入れて認めているのは心強い。この上ない味方になる。男同士で付き合っていることを、卑屈になったり隠そうとしたりしないのは、自信があるからだろう。
誰に何を言われても怖くない。揺るがない自信がある。
「なんか、びっくりしたけど騒げないもんですね」
三人が帰ったあとで、森さんが鞄を担いで言った。
「二人ともカッコイイし、男同士だし、ものすごく滾るんだけど、違和感なくカップルすぎて、騒ぐの失礼な気になっちゃいました」
「うん」
同意すると、森さんは大きくため息をついた。
「家に帰って静かに妄想に浸ることにします」
お疲れ様です、と言い置いて、出て行った。
「イケメンで仕事できそうでお金持ってそうで優しそうでめっちゃタイプだったのに、人の旦那だもんなー」
抱っこ紐を装着して、赤ちゃんを前に、後ろにリュックを背負った安藤さんが、悔しそうに嘆いている。彼らが帰ってからずっとこうだ。七世君の顔が好き、と言っていたくせに、切り替えが早い。
「おかしいと思ったんだよね。彼氏が作ったカレー、人に渡したくないってどんな独占欲? 聞いたことないし」
安藤さんの科白に、二人で声を出して笑った。笑い声に驚いた赤ちゃんが、ふわあ、と泣く気配がした。
「ごめんごめん、びっくりしたね」
安藤さんが柔らかい口調で言って、赤ちゃんの背中をポンポンしている。普段こんなふうに余裕はないし、いつも不幸を一身に背負った顔をしていた。ほんの少しの手助けが、こうも彼女を変えるとは。
「今度私にも、おむつ替え、教えてね」
「えっ」
安藤さんが大げさに仰け反った。
「先生、できるの?」
「わかんないけど、やるよ」
できるできないじゃない、やるのだ。
そんなふうに思えるようになれたのは、七世君のおかげだった。
気負わずに、まるで呼吸をするように、スムーズに人を助けることができる。
ほんの少しでもいい。近づきたい。私もそんなふうになってみたい。
優しい人に、なりたい。
そして、彼らのような、優しい物語が描きたい。
人を笑顔にする、温かくて幸せな、あの二人のような物語を、描こう。
一仕事終えたばかりなのに、描きたい気持ちが止まらなかった。
私はデスクに腰を下ろし、ペンを執る。
〈おわり〉
〈佐藤弘子編〉
隣の部屋で、赤ちゃんが泣いている。
おむつを替えて、ミルクを飲んだばかり。ということは、眠いのだろうか。
赤ちゃんというのは、勝手に眠ってくれない。揺すってもらわないと眠れない生き物らしい。
「泣いてるけど」
アシスタントの森さんが、イラついた声で言った。
「待って、ここ、トーン貼ったら抱っこするから」
もう一人のアシスタントの安藤さんが、森さんに勝るとも劣らないイラつき声で返事をする。
赤ちゃんは、安藤さんの子どもだ。
猛烈な結婚願望を抱いていた彼女は、未婚の母になった。結婚できると思っていた相手に逃げられたと言っていた。詳しい事情は聞かなかったが、シングルマザーが大変なのは容易に想像できるし、乳飲み子を抱えてできる仕事は少ない。
安藤さんはデビュー当時からの付き合いだ。助けたい、と思った。迷惑はかけないから、と頭を下げられれば断れない。赤ちゃん連れでアシスタントを続けることを承諾した。
「ねえ、泣いてる」
「もう、わかってるってば。ちょっとは我慢してよ」
「我慢は十分してるから」
とげとげしいやり取りを見ていると心苦しくなってくる。宥めて雰囲気をよくできればいいのだが、余計なことを言わないように黙って手を動かし続けることしかできない。
ああ、私にこの場を和ませる話術があれば。
デスクの上でスマホがブブッと音を立てた。明るくなった画面に現れるメッセージ。横目で見ながら「あっ」と声を上げていた。
「なんですか」
森さんが喧嘩腰で訊いた。
「なんでもないよ」
取り繕い、スマホをデスクに置いたまま操作する。
六花さんからだ。ホッと息をついてメッセージを開く。
『先生、今日発売の新刊、たった今ゲットしました! ぜひサインをいただきたいのですが!』
カアッ、と顔が熱くなった。彼女は二年前のクラス会で再会した、同級生の加賀君を介して知り合った私のファンだ。ありがたいことに、あれからずっとファンでい続けてくれている。
照れながら、スマホを操作して返信を打つ。
『お買い上げいただき本当にありがとうございます。いつでもサインさせていただきます』
メッセージのあとに、土下座しているスタンプを送った。返事は秒速だった。
『では! 明日! 休みなので! いかがでしょうか!』
今日の六花さんはいつにも増してテンションが高い。
『OKです。ただ、〆切が近く仕事場から出られないので、ご足労いただけますか?』
『そういうことでしたらお手伝いします! なんでもできます! ベタもトーンも背景もいけます!』
スマホから顔を上げ、森さんと安藤さんの顔を見比べた。二人とも眉間にシワを寄せている。そして相変わらず赤ちゃんは泣いている。
六花さんがいれば、空気が良くなるかもしれない。
思いつきだった。
人手が欲しいので、戦力になってくれると助かるというむねを伝えると、「お任せください」と頼もしい言葉が返ってきた。食事の用意もするので好きなメニューをどうぞ、と送られてきた。
六花さんは美人で背が高くてスタイルが良くて絵も上手くてその上料理もできるのか、と感動した。
「二人とも、何か食べたいものない? 明日、アシスタントに来る子が作ってくれるって」
訊くと、競うように「肉」、「揚げ物」、「パスタ」、「寿司」、「中華」、「カレー」、「ラーメン」と反応した。ひどい。もうちょっとまとめて欲しい、と思ったが、追及してこれ以上機嫌を損なうのが怖かった。
二人のリクエストをそのまま伝えると、「了解です」と返ってくる。こんな無茶ぶりを了解するんだ、と感激した。
そして次の日の九時過ぎ。
「おはようございます!」
昨日のテンションのままの六花さんが訪れた。
「どうぞ、入ってください」
招き入れると、きょろきょろしながら、ほう、とため息をついた。
「ここが先生の仕事場かあ。あっ、おはようございます」
六花さんが森さんと安藤さんに頭を下げる。二人は死んだ目で「どうも」、「ざいます」と返事をした。昨日から険悪なままだ。
「ごちゃごちゃしててごめんね。あの、ここ、どうぞ、座ってください」
デスクが二脚ずつ向かい合わせに四脚ある。そのうちの空いている一つの椅子を引く。
「失礼します。早速ですけど、先生、新刊、読みました。すんごい語りたいんですけど、今は自重します。とにかくお仕事優先ですね。私にできることがあればなんなりと」
六花さんがテキパキと進めていく。気圧されながらも原稿を渡して指示すると、「夢みたい」と呟いた。
「先生の原稿に携われるなんて、光栄すぎて死にます」
「えっ、死なないでね」
「まだ死にませんよ、この作品が雑誌に載って、本になるまでは」
原稿用紙をデスクに置いて、手を合わせて頭を下げる。ただの紙切れを拝まれている。ありがたいが、こそばゆい。
「あっ、その前に、あの、お給料だけど」
慌てて話を逸らすと、六花さんが「無償で大丈夫です」と胸を張る。
「いえっ、そんなわけには」
「じゃあ時給八百円で」
「やすっ」
思わず声を上げると、「ふんっ」と森さんが鼻で笑った。馬鹿にしているとかではなく、森さんは本当に楽しいときにこんな笑い方をよくする。ホッとした。
ウフフ、と笑いながら幸せそうに手を動かす六花さんを、アシスタントの二人は特に気にするふうでもなく、淡々と仕事をこなしていた。その手を止めたのは、赤ちゃんの泣き声だった。
「え、もしかして、赤ちゃん? 先生、いつの間に産んだんですか?」
六花さんが隣室に続くドアを、首を伸ばして見た。
「私じゃなくて」
「私の子です。ちょっと見てくる」
どんよりとした空気をまとい、席を立った安藤さんが背中を丸めて去っていく。
「あ、そうだ、一応訊いてって言われてたんだった」
六花さんが突然声を上げた。
「こちら、もちろんキッチンありますよね?」
「キッチンはあるけど。訊いてって、誰に?」
「弟にです」
六花さんがスマホを触りながら言った。
「え? 弟君に? え? 何? どういうこと?」
「言い忘れてましたけど、ご飯、弟が作りに来ます」
「えっ」
「私、作れませんので」
そんな自信満々に言われても。でも確かに自分が作るとは言っていない。用意する、と言っただけだ。
「七世君は、作れるんだ」
意外な気がした。弟の七世君は見るからに体育会系だったし、料理とは無縁に見えた。
「作れますよ。もはや料理人です」
へえ、とうなずいてから、はたと気づいた。
「ちょっと待って、あの、まさかと思うけど、か、加賀君、来ないよね?」
ドキドキと鼓動が速くなってきた。
「残念ながら、土曜日だけど仕事らしいです。飲み会もあるそうだし、来ませんよ」
「そ、そっか」
胸をなでおろし、ホッと息を吐くと、視線を感じた。森さんが私を見つめていた。
「加賀君って、誰ですか?」
身を乗り出してくる。
「え、えっと、その」
「先生の口から男の人の名前が出るなんて……、怪しい」
「怪しいって何、何もないよ」
拗ねたように口を尖らせてみた。森さんは追及をやめない。元々細い目をさらに細くしている。透視でもしそうな雰囲気だ。
「お昼はチャーハンでいいですか?」
六花さんがスマホに目を落としたまま言った。助かった。
「うんっ、チャーハン、いいね、ねっ」
森さんに同意を求めた。まだ目は糸のように細いままだ。
「チャーハンよりも、加賀君です」
「あああ、もういいじゃない……」
顔を両手で隠してうなだれる。
「さてはこちらの方、ただのアシスタントじゃないですね? 紹介してくださいよ」
矛先が六花さんに向いた。六花さんは「ああ、失礼しました」とスマホを置いて、森さんに頭を下げる。
「倉知六花と申します。先生のファンです。今日は全力でお手伝いさせていただきます」
森です、と森さんが頭を下げ返し、「で?」と六花さんに詰め寄った。
「加賀君っていうのは? 先生の何?」
「森さん、仕事しよ? あー、忙しい忙しい、〆切があ」
自分のデスクに座ってペンを動かしてみたが、森さんは私を見ていない。
「加賀さんは、先生の高校時代の同級生ですよ」
六花さんが簡単に答えてしまった。同級生、と呟いた森さんの首がぐる、とホラー的な動きでこっちを向いた。ひい、と悲鳴が出てしまった。
「そういえば、何年か前にクラス会行きましたね」
「そっ、そんなこともあったかな?」
「イケメン」
森さんが真顔で私を見つめて言った。体が真上に跳ねてしまった。
「先生が好きだったイケメンの人?」
「ちょっ!」
デスクを叩いて立ち上がっていた。キャスター付きの椅子が滑って壁に激突する。六花さんが私を見ている。顔の前で両手を振って、「違うの!」とわめいた。
「好きなんて言ってないし、あのっ、加賀君は、そういうのじゃなくて」
「先生、大丈夫です」
六花さんが目顔でうなずいた。
「加賀さんが高校生の頃どんなだったか、想像できます。誰にでも優しくて気さくで、対等な感じ、ですか?」
「……はい」
「あの容姿でそれだったら、誰でも憧れちゃいますよ。あ、加賀さんには言いませんから安心してください」
「……はい」
顔から火が出そうだ。「好き」という言葉を「憧れ」に変換してくれた六花さんの優しさに救われる。
「それで、その彼とあなたの関係は? もしかして彼女とか?」
森さんが面白そうに訊いた。最近は仕事ばかりで潤いがない。こういう女子トークに飢えていたきらいがある。久しぶりに楽しそうな顔を見れてよかったとも思うが、ひやひやしてそれどころじゃない。
六花さんと顔を見合わせた。まさか、弟の彼氏です、と紹介するわけにもいかない。
「加賀さんと私は、まあ、家族みたいなもの? かな?」
「何それ? 夫婦?」
「いえ、むしろ兄弟です」
森さんはよくわからない、という顔で怪訝そうにしていたが、質問を変えた。
「え、で? その加賀君は、今日来ないのね?」
森さんが言った。六花さんが肩をすくめる。
「仕事ですから、来ませんよ。夜ご飯はどうします? 昨日のリクエスト、全部対応可能ですけど」
「なんでもいいからあったかいものがいい」
答えたのは安藤さんだった。赤ちゃんを抱っこしてゆらゆらと体を左右に揺らしながら立っていた。
「お二人は?」
「私もなんでも」
「私は昨日からずっとカレー」
恐縮する私の科白にかぶせるようにして森さんが言った。六花さんが「はーい」と明るく返事をしてスマホをデスクに置いた。
「買い物してから来るって言ってます」
「あっ、ちゃんとレシート貰ってね」
慌てて言うと、「あいつしっかりしてるんで平気ですよ」と姉らしい優しげな表情で笑った。
六花さんは弟の七世君が大好きで、二人の仲はすこぶる良い。私は一人っ子だが、七世君のような弟がいたら、きっと同じように可愛がるだろうなと思う。
「それじゃあ、仕事しましょうか」
六花さんが手を叩き合わせて言った。その一言で、森さんの顔つきも、私の頭の中も、一気に仕事モードに切り替わる。安藤さんの腕の中で、赤ちゃんも静かに眠ってくれた。
それからは無心で、全員黙々と仕事をこなした。
「あ、七世、来たみたいです」
六花さんが声を上げるまで、余計な無駄話を一切しなかった。
「チャイム鳴った?」
全然聞こえなかった、と思ったが、六花さんが首を振る。
「赤ちゃん寝てるから、着いたら携帯に連絡入れてって言ってあったんで」
ほう……、と感嘆のため息が漏れた。なんて気が利く子だろう。
「ちょっと玄関迎えに行きますね」
六花さんが部屋を出て行った。
息をするのも忘れていた気がする。一度大きく深呼吸をしてから、首をぐるぐると回し、体を伸ばしてもう一度息をつく。森さんと安藤さんは、集中していて顔を上げない。赤ちゃんが寝ている今のうちに、という感覚が身についてしまっている。
「おはようございます」
しばらくして、ウィスパーボイスとともに弟の七世君が身をかがめて現れた。バッグを背負い、両手に食材と思しき袋を提げている。
「おはようございます」
立ち上がって急いで頭を下げると、「今日はありがとう」と礼を言った。
「いえ、お役に立てれば嬉しいです」
爽やかに微笑む高身長の若い男の子。森さんと安藤さんの手が止まり、背筋が伸びている。ニコニコしながら「どうもー」、「こんにちはー」と高い声で何度も頭を下げている。ずいぶん愛想がいい。
六花さんのときと対応に差がありすぎる。女だな、としみじみ思った。
「キッチン、お借りしますね」
七世君がヒソヒソ声で言った。
「あっ、こっちです」
ヒソヒソ声で返して、彼をキッチンに案内する。このマンションは、住居兼職場にしていて、十五帖ほどのワークスペースの他に私自身の寝室とアシスタントの仮眠室がある。今赤ちゃんがいる部屋はアシスタントの仮眠室で、トイレやお風呂、キッチンなどの生活音から一番遠い場所だ。
「調味料とかろくにないけど、フライパンとかお鍋とか、好きに使ってね。あ、冷蔵庫も空っぽだから、適当に入れておいてください」
「ありがとうございます。もういい時間なんで、お昼取り掛かりますね」
そう言って手際よく食材を冷蔵庫に詰め始めた。なんだかこの子のこの無駄のない動作は六花さんに似ているな、と思った。
「じゃあ、ごめん、よろしくね」
言い置いてキッチンを去ろうとしてから、思いとどまって「あの」と七世君の背中に話しかけた。
「加賀君は元気?」
七世君が振り返る。不自然な質問ではないはず、と思ったが、変に緊張してしまう。
「元気です。ろっこ先生によろしくって言ってました」
「そっか」
えへへ、と謎の照れ笑いが出てしまった。先生と呼ばれるのも恥ずかしいが、加賀君がそんなふうに私を気にかけてくれたのが純粋に嬉しかった。
ニヤニヤしながらワークスペースに戻ると、いつの間にか打ち解けた三人が盛り上がっていた。
「へー、バスケかあ。だからおっきいんだ。でもなんか可愛いよね。好きな顔ー」
安藤さんが頬杖をついてうっとりとしている。
「大学生で料理上手って、すごくない? どうやったらそうなるの?」
森さんも興味津々だ。
二人が生き生きしている。六花さんは弟を誉められてまんざらでもない様子だ。
「あの子、同棲してるんですけど、家事全部しちゃってるみたいで。尽くし体質だからかな?」
「え、大学生で同棲してるの?」
「やだー、うらやましー」
同棲相手が男で加賀君だということがバレないか、ドキドキしながら聞いていた。森さんも安藤さんも、一応BL漫画家のアシスタントだから免疫も理解もある。でも実在する男カップルに関わったことはない。
どんな反応をするか、ちょっと怖い。
「みんな、もうちょっとでお昼だから、それまでにキリのいいとこまで仕上げようよ」
話題を逸らすためにそう言うと、三人が私を見て「はい」と返事をした。それぞれが手元に視線を落とし、おしゃべりは終了かと思われたが、安藤さんがうつむいたままで口を開いた。
「同棲相手ってどんな人なの?」
それを訊く? 頭を抱えたくなった。
「年上の社会人です」
「なんかちょっと、エロいねそれ」
森さんが余計なことを言った。じわじわと熱くなっていく顔を誰にも見られないように、精一杯身を低くした。
キャッキャと花が咲いたように笑い合う三人。
私は妄想が走り出さないように静かに呼吸を整えることしかできなかった。これが本当の修羅場なら、黙って仕事をしてください、と土下座しているところだ。
やおら食欲をそそるいい匂いがしてくると、完全にみんなの集中力が切れた。
「お腹空いたね」
「いい匂い」
美味しそうな匂いが漂ってくるキッチンのほうを、みんなが気にしている。
「ちょっと見てこようかな」
安藤さんが腰を上げた。
「私も行く」
森さんも後に続く。邪魔になるだけだと思ったが、私も料理をする七世君を見てみたかった。
キッチンのほうからひゃー、とかきゃーとか二人のよそ行きの女子っぽい声が漏れ聞こえてくる。
「いいの? 同棲してるなんて言っても……」
声を潜めて訊くと、六花さんがあっけらかんとして言った。
「先生、あの子の指輪、気づきませんでした?」
「え……、指輪?」
「左手の薬指にペアリングつけてるんです」
私は気づかなかったが、二人なら、遅かれ早かれ恋人の存在に気づいていただろう。
「ペアリング……、いいね」
私の科白に、六花さんがぬふっと奇妙な声を出した。
「いいですよね。加賀さんは職場につけていけないんですけど」
「それって、会社の規則で?」
結婚指輪以外は認めない会社は多いらしい。
「はい、でも、休日はお揃いのリング着けてるんですよ。それってすんごく萌えません?」
「うん、萌える」
「私、普段は眼鏡してないのに、授業中だけ眼鏡かけてる男子とか好きなんです」
「わかる」
二人でうなずき合っていると、「お待たせしました」と両手にそれぞれお皿を持った三人が現れた。
大急ぎでデスクの上を片付ける。いつも各自が適当にパンを齧ったりコンビニおにぎりを食べたりで、原稿中にこんなふうに本格的な料理を食べることはない。
「チャーハンだけじゃ足りないと思って、スープと餃子も作りました。今持ってきます」
七世君が言った。おおー、と歓声が上がる。
「ニンニク抜きだから安心してください」
「いたつくー」
安藤さんが拍手した。森さんがチャーハンの湯気を両手で扇ぎ寄せ、顔面に浴びながら言った。
「ああ、ありがたや」
確かに、すごくありがたい。温かい料理というのは、それだけでとても幸せになる。
「みんな、七世君にお礼を言おう」
私が提案すると、森さんと安藤さんが、ありがとうと言いながら七世君を拝む。
「いえ、どうぞ、お召し上がりください」
全員のデスクにチャーハンとスープと餃子のセットが置かれると、みんなが同時に手を合わせ、いただきます、と綺麗に声を揃えた。
スプーンが口に運ばれる寸前で、赤ちゃんの泣き声が耳に届く。全員の動きが止まる。安藤さんの手からスプーンが零れ落ち、がちゃん、と派手な音を立てた。
「行ってくる」
「待ってください」
立ち上がろうとする安藤さんを止めたのは、七世君だった。
「俺が見てきます」
「え……」
「赤ちゃんの名前、なんて言うんですか?」
「蓮太郎、です」
安藤さんはいつも「レン」と呼んでいるが、そういう長い名前だったな、と今さら思い出す。
「どうぞ、ゆっくり食べてください」
「あ、……うん、ありがとう……、ありがとう」
安藤さんが、椅子に座り直して脱力し、静かに鼻をすすった。
わかっていた。本当はとっくにわかっていた。安藤さんは、助けを必要としていた。
でも私にとって、生後五か月の赤ちゃんは未知の生物だった。私も森さんも出産の経験がなく、抱っこの仕方もわからないし、ミルクの作り方も知らないし、何かあったら責任はとれないし、と逃げてきた。
安藤さん自身も、自分一人で育てなければと肩肘を張っていた。子育てに対して神経質で完璧主義なせいもあるが、私も森さんも、一度も赤ちゃんに触れたことがなかった。
一分でもよかったのかもしれない。代わりに抱っこしてあげられれば、安藤さんの助けになれたのだ。
「七世、赤ちゃん抱っこしたことないと思うけど。大丈夫かな」
六花さんがポツリと言った。しん、と静まり返った。
「ちょっと、見てくる」
私が席を立つと、なぜかみんながついてくる。
隣室のドアを開けると、カーテンを引いた薄暗い部屋の真ん中で、七世君が立っていた。腕の中には赤ちゃんがいる。大きな男の人に抱かれていると、いつもより小さく見えた。
「泣き止んでる」
安藤さんが私の後ろから部屋の中を覗き込んでいる。七世君が体を左右に揺らしながら言った。
「おむつ替えてあげたいんですけど、やったことなくて。教えていただけますか?」
「えっ?」
私の肩をつかんでいた安藤さんの手に、力が入る。
「夕飯の準備までやることないし、子守りさせてください」
「え……、ええー? ホントに? いいの? 時給いくら?」
安藤さんの声は涙声だった。感動している。私もひそかに、感動していた。
「じゃあ、八百円で」
七世君が言うと、
「デジャブ!」
と、安藤さんが笑った。
「姉弟で八百円流行ってるの? 最低賃金以下だけど!」
私の背中を叩いて笑い続けている安藤さんに、七世君が少し首をかしげて「冗談です」と言った。
「お金は、いりません。今日バイトもなくて、一人で寂しかったんで、こうやって赤ちゃんの面倒見れるのはラッキーだったと思ってます。料理も好きだし、あ、それのお給料も結構です」
「えっ」
今度は私が声を上げる番だ。
「そんなわけには」
「本当に大丈夫です。みなさんのお役に立てるなら、嬉しいです」
部屋の中は暗かったが、七世君の体が発光しているような錯覚を覚えた。
聖母だ。聖母マリア様だ。
こんなに性格のいい男子大学生が、この世に存在するなんて。
そうだ、この子は加賀君の恋人だった。やっぱり、彼に愛されるのだから、いい子に決まっている。むしろこれくらいじゃないと彼とは釣り合わないかもしれない。
なんせ、加賀君自身も親切の塊だ。
パチパチパチ、と手を打つ音が聞こえた。振り向くと森さんが拍手をしていた。
「すごい、できた子。いいわ、こんな弟欲しい」
「ええ、本当に、自慢の弟です」
六花さんが満足そうにニコニコしている。
そして昼食後、安藤さんからおむつ替えとミルクの調合と、その他もろもろを伝授された七世君は、立派に子守り役を務めてくれた。
六花さんは弟の子守りぶりを動画に収めたり、写真を撮ったり、忙しそうだった。もちろん本来の仕事もきっちりこなしてくれた。一応プロである私よりはるかに絵が上手く、手も早い。最近はデジタル一本でアナログは久しぶりだと言っていたのに、ブランクを感じさせない。
作品を読んでわかってはいたが、とんでもないスキルの持ち主だ。この子に先生と呼ばれるなんておこがましい、と肩身が狭くなる思いだった。
「六花ちゃん、また手伝いに来ない?」
森さんが言った。
予定より早く脱稿し、あとは七世君のカレーを待つばかり。コーヒーでまったりと一息ついていた。
「そうだよ、来てよ。弟君も連れてきてね」
安藤さんが言った。膝の上に赤ん坊を座らせ、ぬいぐるみであやしている。少しでも赤ちゃんが泣くとピリピリしていたのに、今は別人のように穏やかだ。七世君のおかげかもしれない。
私も今度、おむつ替えを教えてもらわなければ。
それに、この部屋にマットを敷いて、ガードも付けて、遊べるようなスペースを作ってあげたい。いつまでも一人ぼっちで暗い部屋に寝かせてばかりいられない。
「ぜひ、またよろしくお願いします」
六花さんが私と二人に、合計三回頭を下げた。彼女はデザイン会社に勤めていて、決して暇じゃない。来てもらえると助かるが、そうそう頼めない。
コーヒーカップを傾けながらスマホを手に取った六花さんが、ちら、と私を見た。すぐに目を逸らし、またすぐに、こっちに目を向ける。すごく何か言いたそうだ。
なんだろう、と怪訝に思っていると、カップをデスクに置いて、んんっと咳ばらいをした。
「先生」
「はい?」
「このマンション、来客用の駐車場ってありますか?」
どうして今になって駐車場の話をするのか、と首をかしげながら答えた。六花さんも七世君もここには電車で来たはずだ。
「編集さん用に一台分借りてるけど」
「じゃあ今、空いてます?」
「ん?」
「加賀さん、飲み会キャンセルしたって連絡があって」
マグカップを落とすところだった。
「え、例のイケメン? 来るの?」
森さんが反応する。安藤さんが「イケメン? 誰?」と目を輝かせた。
「なんか、どうしても、かっ、カレーがっ、食べたいそうです」
六花さんが笑いを堪えながらなんとか答えると、最後はぶはっと吹き出して、デスクの上に倒れ込んだ。
「カレー食べたいから来るの?」
そんな理由? とポカンとしたが、やがて六花さんの笑いが伝染して、おかしくなってきた。私も加賀君も今年三十路。三十路のいい大人が、カレーが食べたいから飲み会をキャンセルしてやってくる。
何それ、可愛い。
一緒になって声を上げて笑っていると、七世君が顔を覗かせた。
「あの、カレー出来ましたけど」
その一言がさらにおかしくて大笑いした。こんなに笑ったのはどれだけぶりだろう。一年? いや、もっとかも。
「なんで笑ってるの?」
不思議そうにしている七世君に、六花さんが「内緒」と唇に人差し指を当てた。どうやら加賀君がカレー食べたさにここに来ることは彼には伝えないらしい。そのどっきりに私も乗っかることにした。
仕事場に加賀君が来ること自体は、そうイヤでもない。漫画を描いているところを見られたり、原稿を見られたり、そういうのが無理なだけで、加賀君には単純に会いたい。
あれから二年。私はただ老けただけだが、加賀君はきっとさらにいい男になっているだろう。
「えっと、食べますか?」
七世君が困った顔で訊いた。さっきからカレーのいい匂いが充満している。一仕事を終えて、お腹が空いていた。
「食べよう」
加賀君を待たずに、一足先にカレーパーティを始めることにした。
七世君がキッチンに向かうと、森さんと安藤さんには、「加賀君」が来ることを黙っているように念を押す。加賀君と七世君の関係性を問いただすこともなく、ドッキリに加担することを快く受け入れてくれた。
二人は、イケメンを見られるというだけで嬉しそうだった。
人数分のカレーが運ばれてくると、拍手と歓声が沸き起こる。一口食べると全員がうなった。そして、その味を確かめるように二口、三口と黙々と食べ進む。
「すごい、このカレー、異常においしくない?」
安藤さんも森さんも、当然私も、その完成度に度肝を抜かれた。驚いていないのは六花さんだけだ。
「お母さんのカレーと同じ味だよね」
「うん、伝統の味」
七世君が誇らしげに言った。母のレシピを息子が受け継いだらしい。なんだかいい話だ。
倉知家のカレーを食べ慣れている六花さんは、赤ちゃんを腕に抱いて、部屋の中を歩き回っていた。
日中たくさん眠った赤ちゃんは、機嫌がいい。大きな目を開けて、あーあー言いながら六花さんを見上げている。
「市販のルゥじゃないよね」
「何でできてんの、これ」
すごいすごいと褒めちぎりながらみんながおかわりしていく。
「ねえ、ちょっと、食べすぎじゃない? 残しておいてね?」
加賀君の分がなくなってしまう。私が言うと、七世君が笑った。
「たくさん作ったんで、まだありますよ」
「でも、えっと、一人分は確実に残しておきたくて」
加賀君が来るから、とは言えない。七世君は若干訝しげな顔をしていた。
ピンポーン、とチャイムが鳴った。ドキッとした。六花さんがスマホから顔を上げて、私を見てうなずく。加賀君だ。
「あ、俺が出ます」
「いってらっしゃい」
全員が黙って動きを止めて、耳を澄ます。はーい、と七世君の声のあとで、ガチャ、と玄関のドアを開く音。
「はっ、えっ、加賀さん!? なんで!?」
驚いた七世君の声。みんながくすくす笑う。
「カレー食べに来た」
加賀君の落ち着いた声が聞こえた。それ、言っちゃうんだ、とまたしてもツボに入り、吹き出しそうなのを一生懸命堪えた。六花さんも歯を食いしばってプルプル震えている。
森さんと安藤さんがソワソワした様子で腰を上げると、忍び足でドアに向かう。ドアに隙間を作り、玄関の様子をうかがっている。
「今日飲み会だったんじゃ」
「やめた。カレー食べたいし」
「ええー……、でも加賀さん、昨日食べたじゃないですか」
ぶふー、と六花さんが吹き出した。私はもう、耳を塞いだほうがいいかもしれない。加賀君のイメージが崩れてしまう。
加賀君のイメージ。
いや、加賀君という人は、昔からどこかひょうきんで、周囲を笑わせるのが上手な楽しい人だった。カッコつけない。飾らない。いつも自然体。そう、これが加賀君なのだ。
「お前のカレーを人に食べられて、俺が食べ損なうってのがイヤなんだよ。いいか、お前のカレーは俺のものだ」
「は、はあ」
面白いのでもう少し続けて欲しいとは思うが、いつまで玄関で話しているのだろう。
「他のメニューなら百歩譲って諦める。でもカレーって聞いたら」
加賀君がそこで言葉を切って、「こんばんは」と切り替えた。隙間から覗く二人に気づいたのだろう。森さんと安藤さんが軽く上に飛んでから、勢いよくドアを開け放った。
「こんっ、こんばんはっ」
「あ、あの、どうぞ、こんなところでなんですから、中、入ってください」
舞い上がる二人にうながされ、加賀君が「お邪魔します」と言いながら、ワークスペースに姿を見せた。
スーツだ。そうだ、仕事帰りだった。
すごい、大人だ、と当たり前のことなのに妙に感心してしまった。
「こんばんは」
立ち上がってお辞儀をすると、加賀君が顔をほころばせた。
「こんばんは、久しぶり。急にごめんね。あ、これ、ケーキ。よかったら皆さんで食べて」
持っていたケーキの箱を軽く持ち上げて、加賀君が言った。
「佐藤さん、甘いの好きだよね」
クラス会で馬鹿食いしていたのを見られたことを思い出し、頬を染める。
「あっ、ありがとう。あの……、カレー大好きなんだね」
ごまかすように私が言うと、六花さんが赤ちゃんを抱っこしたまま体を揺すって大笑いした。
「違う違う」
加賀君が肩をすくめて否定する。
「倉知君のカレーが好きなだけ」
「そっ……かあ」
これはノロケじゃなかろうか、と思ったが、赤面しつつ、ごまかすように笑うのが精いっぱいだった。
「それにカレーだけが目当てじゃないよ。久々に佐藤さんの顔見たいなって」
突然変なことを言われて全身が熱くなった。その場にへたりこみ、やめてー、とぼやいて頭を抱える。ほのぼのとした笑いに包まれた。
「あ、じゃあ、カレーよそってきますね。みなさん、ケーキ食べますか?」
七世君が言った。一斉に「食べるー」と合唱する。
加賀君の手から手土産を受け取ると、七世君が六花さんを手招いた。
「六花、手伝って」
「了解」
赤ちゃんを母親の手に返すと、二人で仲良く部屋を出て行った。
しん、となった。
加賀君が珍しそうに部屋の中を見まわしている。ワークスペースはそれなりに片付けてはいるが、見られるのは少し恥ずかしい。
「さすが佐藤さん。なんかきちっとしてるね」
加賀君に唐突に褒められて「ふぁっ」と気持ちが悪い声が出てしまった。森さんと安藤さんがニヤニヤしている。
それにしても不思議だ。加賀君が来ただけで、急に華やかになった気がする。いつもの自分の仕事場とは思えない。錯覚か、いい匂いがする気がする。森さんと安藤さんを見る。女の顔になっていて、怖い。
でも仕方がないかもしれない。加賀君だ。
スーツの男の人って、こんなにもカッコイイのか、と面食らっていた。さっきから手汗がすごい。加賀君なのに、加賀君じゃないみたいで緊張する。
「加賀君、ここ座って」
来客用のソファを勧めた。
「お、サンキュ」
加賀君がスーツの上着を脱ぐ。ドッ、と心臓が不自然な動きをした。喉元で、音が鳴っている。口から心臓が出そうなほど、動揺している。ただ上着を脱いだだけ。それだけなのに、カッコイイ。
「赤ちゃん、可愛いね」
ワイシャツの袖のボタンを外しながら、加賀君が言った。
あっ、と安藤さんが声を上げる。
「あの、あのっ、子ども好きですか? あっ、彼女いますか? 結婚してます? あの、どんなお仕事されてるんですか?」
「はは、どれに答えようかな?」
テンパる安藤さんに、加賀さんは落ち着いたトーンでなだめるように言うと、腕まくりをしてから、ネクタイを緩めた。その一連の仕草はまずい。私を含めたここにいる女たちは、そういうちょっとした動作に萌えを見出すようにできている。
はあああん、と鼻から抜けるようないやらしい溜息を漏らす安藤さん。森さんも、目が普段の三倍ほどの大きさになっている。
「加賀さん、飲み会って誰とだったんですか?」
七世君が戻ってくると、ガラステーブルにカレーを置いて訊いた。
「いつものメンバーだよ」
「ドタキャンして怒られませんでした?」
「カレー食うから帰るって言ったら爆笑してた」
「でしょうね」
「別に俺がいなくても酒が飲めりゃそれでいいんだよ。あ、食べていいの? みんな食べた?」
加賀君が手を合わせながら私たちに気を遣う。七世君が優しい声で応える。
「みんな食べましたから大丈夫です。おあがりなさい」
二人のやり取りを、息をつめて見ていた。なぜだろう、ゾクゾクする。
スプーンに山盛りのカレーをすくい、豪快に口に運ぶ加賀君を、みんなが注目している。
気品溢れる容姿をしているのに、食べ方は男らしい。
「うっま」
本当に、美味しそうに食べる。見ていて気持ちがいい。
「あ、倉知君、サイン貰った?」
思い出したように加賀君が言った。
「いえ、忙しくて」
「さ、サイン?」
恐る恐る訊くと、加賀君が言った。
「昨日出た新刊に、サイン貰っといてって頼んでたんだよ」
「ひいい、読んだ? 読んだの?」
悲鳴を上げる私を面白そうに見て、加賀君がうなずいた。
「めっちゃ感動した。読み終わってすぐにもう一回最初から読んじゃった」
「ああああ、恥ずかしい……」
「倉知君もすげえ泣いてたよね」
「う、それ言わないでください」
七世君が顔を赤らめた。
「七世ー、ちょっとー、ケーキ運ぶの手伝ってよー」
奥から六花さんの声が響く。七世君が、はーいと言いながら飛んでいく。
森さんと安藤さんが顔を見合わせているのが視界に入った。まずい、と危険を察知する。
「あの」
森さんが挙手をした。
「先生の作品、BLだけど……、その、読んでるんですか?」
「ああ、はい。全部読んでるし、ファンだよ」
加賀君が爽やかに答えた。
「本当に? 七世君も?」
「うん」
「二人で一緒に読んだんですか?」
「二人で一緒に?」
「え、だって、え?」
いよいよ疑問が沸いてきた頃だろう。
加賀君は私の高校時代の同級生。でも、加賀君と七世君がどういう関係なのかは、大いなる、謎。
「ああ、俺ら二人で住んでるんで」
加賀君があっさりと告げた。
「二人で住んでる」
森さんが復唱して、納得したようにうなずいていたが、あれっと声を上げた。
「七世君が同棲してる年上の人って」
「それ俺です」
一切のためらいがない。気持ちがいいくらいだった。
そうだ、別に、悪いことをしているわけじゃない。
森さんも安藤さんもポカンとしていたが、デスクに紅茶とケーキが運ばれてくると正気に戻った。
「なるほど」
森さんがフォークを握り締めて口元を手で覆い、力強くつぶやいた。
「えっ、そういうこと? じゃあ、この子のお父さんになってくれないんだね?」
安藤さんが意味不明なことを言い出した。
「それは急になんの話かな?」
加賀君が笑いながら首をかすかに傾けて、カレーを食べるのを再開する。
「あ、蓮太郎君、俺が抱っこしてるんで、ケーキ食べてください」
七世君が気を利かせて言うと、安藤さんは悲しそうに眉を下げて、赤ちゃんを手渡した。
「なんか様になってるな」
赤ちゃんを抱っこする七世君を見上げて、加賀君が言った。
「おむつ替えもマスターしたし、ミルクも飲ませました」
七世君が得意げに言った。
「マジでか。ちょっとそれ見たかった」
残念がる加賀さんの隣に、六花さんがふふふふと含み笑いをして腰かけた。
「見ます?」
「撮ったの? さすが、ぬかりないな」
仲良く頭を寄せ合い、一つのスマホを眺めている姉と恋人を、七世君は穏やかな表情で見守っている。
この人たちは、もうすでに家族だ、と思った。
同性と付き合うことを家族が受け入れて認めているのは心強い。この上ない味方になる。男同士で付き合っていることを、卑屈になったり隠そうとしたりしないのは、自信があるからだろう。
誰に何を言われても怖くない。揺るがない自信がある。
「なんか、びっくりしたけど騒げないもんですね」
三人が帰ったあとで、森さんが鞄を担いで言った。
「二人ともカッコイイし、男同士だし、ものすごく滾るんだけど、違和感なくカップルすぎて、騒ぐの失礼な気になっちゃいました」
「うん」
同意すると、森さんは大きくため息をついた。
「家に帰って静かに妄想に浸ることにします」
お疲れ様です、と言い置いて、出て行った。
「イケメンで仕事できそうでお金持ってそうで優しそうでめっちゃタイプだったのに、人の旦那だもんなー」
抱っこ紐を装着して、赤ちゃんを前に、後ろにリュックを背負った安藤さんが、悔しそうに嘆いている。彼らが帰ってからずっとこうだ。七世君の顔が好き、と言っていたくせに、切り替えが早い。
「おかしいと思ったんだよね。彼氏が作ったカレー、人に渡したくないってどんな独占欲? 聞いたことないし」
安藤さんの科白に、二人で声を出して笑った。笑い声に驚いた赤ちゃんが、ふわあ、と泣く気配がした。
「ごめんごめん、びっくりしたね」
安藤さんが柔らかい口調で言って、赤ちゃんの背中をポンポンしている。普段こんなふうに余裕はないし、いつも不幸を一身に背負った顔をしていた。ほんの少しの手助けが、こうも彼女を変えるとは。
「今度私にも、おむつ替え、教えてね」
「えっ」
安藤さんが大げさに仰け反った。
「先生、できるの?」
「わかんないけど、やるよ」
できるできないじゃない、やるのだ。
そんなふうに思えるようになれたのは、七世君のおかげだった。
気負わずに、まるで呼吸をするように、スムーズに人を助けることができる。
ほんの少しでもいい。近づきたい。私もそんなふうになってみたい。
優しい人に、なりたい。
そして、彼らのような、優しい物語が描きたい。
人を笑顔にする、温かくて幸せな、あの二人のような物語を、描こう。
一仕事終えたばかりなのに、描きたい気持ちが止まらなかった。
私はデスクに腰を下ろし、ペンを執る。
〈おわり〉
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