電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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二人の時間

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〈加賀編〉

 政宗は図々しい奴だった。
 独り暮らしの俺の部屋にずかずかと上がり込み、当然のように夕飯を食べていったり、泊まっていったり、遠慮がなかった。
 それが倉知と付き合いだしてからはめっきり大人しくなった。
 遠慮ができるようになったのか、父親業が忙しいのか、とにかく静かになった。
 小春もだ。俺への執着を断ち切り、前向きに自分の人生を歩んでいる。
 弟と妹、ではあるが、こちらから特に連絡をすることはなかった。マンションに引っ越したときも、部屋を見せろとは言われていたが、はぐらかしながらなんだかんだで一年が経過していた。
 そしてある日、痺れを切らした政宗から「遊びに行っていい?」と電話があった。
 正直、来られても困るというのが本音だったが、断るわけにもいかず、どうぞと答えたら今から行く、と本来の政宗らしい空気の読めない図々しさを見せてくれた。
「こんにちはー」
 玄関を開けると、政宗と小春が、光を真ん中にして手を繋いで立っていた。光は俺を見ると、一瞬警戒したように身を固くしたが、すぐに「おいたん」と正しく認識し、ニカッと子どもらしい無邪気な笑顔を見せた。
「いらっしゃい」
 部屋に迎え入れると、靴を脱いだ光がひゃーと奇声を上げながらリビングを駆け回り、ソファにダイブした。小さな体で隅から隅まで転げ回ってはしゃいでいる。
「あれ? 倉知は?」
「バイト」
「えー、マジで? せっかく遊びに来たのに」
「急に来るからだよな」
「ですよね。ごめんなさい」
 小春が部屋の中を見回して、はあ、とため息をついた。
「すごい広いね。いいな、カッコイイ部屋。私もこういうとこに彼氏と住みたいなあ」
「彼氏? できたの?」
 意外に思って訊くと、拗ねたような顔で口をとがらせた。
「できたら住みたいってこと」
 高校生のくせに同棲願望があるとは。末恐ろしい。
「あ、兄ちゃんこれ、おみやげ。飲み物はなんでもいいよ」
 リビングのテーブルにドーナツの箱を置くと、政宗がしゃあしゃあと言った。チッと舌打ちをしてコーヒーを淹れる準備をしていると、小春が隣に並んで立ち、手元を覗き込んできた。
「コーヒー豆ってこんないい匂いなんだ」
「お前コーヒー飲めるの?」
「飲む。ブラックでいいよ。大人の階段上る」
 得意げに鼻を鳴らしている。大げさな奴だ。
 二人分のコーヒーを淹れてテーブルに置くと、光が顔を近づけて匂いを嗅いだ。
「くろいしる、いいにおーい」
「え、光、コーヒー飲めるの?」
 まさか、と思ったが訊いてみた。政宗が顔の前で手を横に振って「ないない」と笑った。
「こいつなんでもいい匂いって言うの」
「ジュースとかないけどお茶ならあるよ。お茶でいい?」
 ドーナツの箱を覗き込みながら、光が「おちゃでもいいよ」とませた口調で答えた。政宗に訊いたつもりがまさか光が答えるとは。子どもの成長は早い。会話が成立するほどになっているとは思わなかった。
「はあ、なんかセレブになったみたい。成功者の部屋って感じ」
 ソファに背中を預けた小春が慣れない様子で脚を組む。コーヒーカップを両手で持って、羨望のまなざしで部屋を見回している。
「家賃高そう」
 ポツリとつぶやいた。家賃は発生しない、とは言わずに黙っていると、小春が身を乗り出して言った。
「お兄ちゃんて年収いくら?」
「は?」
「一千万超えてる?」
「こら小春」
 政宗がとがめたが、小春はぎらついた目で俺を見て、止まらない。
「カッコイイし優しいし、料理もできて、こんなマンションに住んでて、年収一千万超えとかハイスペックのスパダリだよね。絶対、お兄ちゃんみたいな人と結婚する」
 お兄ちゃん、じゃなくて、お兄ちゃんみたいな人、と言えるようになったのは褒めてやりたい。それでも夢見がちなところは変わっていないようだ。きっと小春は常日頃からこんなことばかり言っているのだろう。政宗の呆れた顔でわかる。
「兄ちゃんが年収一千万なんてあるわけないだろ。普通のサラリーマンだぞ」
「そうなの?」
「金で男選ぶと失敗するからな」
 光に冷たいお茶を用意してテーブルに置くと、小春の隣に腰掛けて、やんわりと注意した。
「えー、でも、お金持ちの人と付き合ってみたい」
 うすら寒くなるほどの危なっかしさだ。説教してやりたかったが、唐突に面倒になり、やめた。俺が何か言ったところで考えを改めるとは思えない。小春は頑固だ。
「ひかる、ここでたべる」
 光がドーナツを持って俺の膝の上によじ登ってきた。
「うわー、マジか。ソファにこぼさないでね」
「こぼさないよ?」
 心外そうに返しながらドーナツを両手で持ってぱくついた。こぼさないわけがない。大小のドーナツの欠片が、ボロボロと落下する。
「あーあーあー、倉知君に怒られる」
「倉知って怒るの?」
 政宗が訊いた。
「怒らないけど」
「だよなー。昔からあいつ怒ったとこ見たことない」
「うん、可愛いよな」
「え? その返し間違ってない?」
 最近、何をしても可愛いと思ってしまうから、つい自然に口から出た。
「倉知さん何時に帰ってくる?」
 ドーナツを頬張りながら、小春が訊いた。
「三時半までには帰ってくるよ」
「じゃあそれまで待つか。久々に顔見たいし」
 政宗がスマホの画面を見ながら言った。あと一時間以上あるのだが、この面子でどうやって時間を潰せというのだろうか。間が持たない。
「あー、テレビでも観る?」
「アンパンマン!」
 光が俺の膝で叫んだ。
「すまない、おいたんとこにアンパンマンはない」
「じゃあバイキンマン!」
「いや、どう違うんだよ」 
「カレーパンマン?」
「訊かれても」
 俺と光のやり取りを、政宗と小春が声を上げて笑う。
「えほんは?」
「ない」
「つみきは?」
「ない」
「ぶろっくは?」
「ない」
「なにもない?」
「何もない」
「だめだなあ」
「ごめんね」
 政宗と小春は無責任に腹を抱えて笑うだけだ。うちに幼児が喜ぶアイテムがあるはずもなく、仕方がないのでゲームをすることにした。
「お兄ちゃん、ゲームとかするんだ」
 小春がゲームソフトを吟味しながら言った。
「まあ、ほとんどしないけどね」
 学生時代はわりとゲーマーだったが、社会人になってからは惰性でソフトを買い、開封すらしないことが多い。
 五月がゲーマーなせいか、倉知もそれなりにゲームはしてきたらしいが、なければないでなんの支障もないし、もっと別のことに時間を使いたいと言っていた。その点は同意見だ。
「ぷよぷよある。これ知ってる。これにしようよ」
 小春が言った。五月のソフトだ。前に遊びに来たときに忘れていって、そのままになっていた。あれ以来ゲーム機は触ってないから中に入れたままだ。テレビを点けて、本体の電源を入れる。映し出されたゲーム画面に、光がわけもわからず手を叩いて喜んでいる。
「そういや倉知の姉ちゃんってさ」
 コントローラーを持った政宗が、思い出したように言った。
「二人ともすんげえゲーマーだったよな」
 弟の小学生の頃の友人に「すんげえゲーマー」と認識されているとは。五月がゲーマーなのは知っているが、六花もとは意外だ。
「倉知んちソフトの数多くてさ、それ目当てで行くんだけど、大抵姉ちゃんがやってて使わせてもらえなかったんだよね」
 懐かしそうに言いながら、思いついたように付け足した。
「お姉さんたち、どんな感じになった? 可愛い? 美人?」
「二人ともすげえ美人」
「マジで。写真ないの写真」
「見てどうすんだよ、既婚者のくせに」
 ゲーム画面を見ていた政宗が、肩越しに振り返ってニヤリと笑った。
「見たいよそりゃ。兄ちゃんだって可愛い子とか興味あるだろ」
「ないよ。俺、倉知君命だもん」
 即答する。小春が嬉しそうに俺を見る。政宗は腑に落ちない顔でうなっている。
「でもさ、正直裸見たくなったりおっぱい触りたくなったりしない?」
「さいってー」
 小春が政宗をにらむ。元々恋愛対象は女だし、男と付き合っていても女体に未練があるのが普通かもしれない。
「ないな」
 不思議なことに、ない。倉知が俺の性欲を吸い取っているのかもしれない。
「倉知君にしか欲情しない体になったみたい」
 溜まらないから、他に向きようがない。光の耳をふさいで答えると、小春が顔を赤くして「素敵」とつぶやいた。
「絶対浮気しない一途なところもお兄ちゃんの魅力だよね」
「俺だって浮気しないよ」
 政宗が言った。何か言い返そうとした小春が、急に神妙な顔になり、黙った。 
 浮気、という単語は俺たち兄弟にとって地雷のようなものだった。
 母の浮気が原因で両親が離婚し、俺たちはバラバラになった。もし母があんなことをしなかったら。それぞれの人生はどう変わっていただろうか。
 何か、嫌な空気が流れた。俺の膝で、光だけが上機嫌で、「ふぁいやー!」と騒いでいる。
 二人の対戦を見ながら、何度も時計を見る。
 早く。
 早く帰ってきてくれ。
 この空気を緩和できるのはあいつしかいない。
 今か今かと待ちわびて、玄関のドアが開く音がすると、体が勝手に動いた。ソファに光を残して玄関に飛んでいく。
「おかえり」
 靴を脱いでいる倉知の体に勢いよく抱きついた。
「わ、びっ……くりした」
「会いたかった」
 力いっぱい抱きしめて、たくましい胸に頬ずりをする。ストレスが霧散するのがわかる。胸がじんわりと温まって、好きが溢れてくる。
「ああもう、すげえ好き。なんで俺を置いてバイトすんだよ。そんなにラーメンが好きか? 俺よりラーメンがいいのか? じゃあ俺もラーメンになる」
「加賀さん、あの」
「面白い」
 倉知の後ろから、声がした。
「いつもそんなふうなのか?」
「お、親父」
 倉知の背後に、父が立っていた。


〈倉知編〉

 バイトを終えてマンションに帰ると、エントランスで光太郎さんに出会った。
 約束をしているのだと思い、そのまま一緒に部屋に入ったのだが、加賀さんが俺にしがみついて意味不明なことを言った時点で、予期せぬ訪問なのだと悟った。
 俺の体から飛びのいて、何食わぬ顔で加賀さんが言った。
「別に、いつもこんなじゃないよな、俺」
 同意を求められて曖昧にうなずくと、光太郎さんが楽しそうに笑った。
「七世君にだけ見せる姿ということだな」
「うあー、ちくしょう、なんで今日に限って親父が……、あ、まずい」
 その場にうずくまる加賀さんが、がばっと顔を上げた。
「ちょ、待って。今来客中で」
「ひかる、ひとりぼっち!」
 バタバタと足音がしたと思ったら、光ちゃんが泣きべそをかいて走ってきた。加賀さんの背中に飛び乗ると、そのまま肩によじ登り、「かたぐるま」と涙を溜めた目で笑った。その目がふと、俺と光太郎さんに移動し、怯えた表情で凍りついた。
「来客というのは、この子のことか」
 光太郎さんが言った。玄関に並んだ靴を、鋭い視線で見下ろしている。ひとりぼっち、というから一人で来たのかと思ったが違うようだ。来客は三人だ。
「政宗と小春か?」
「えーと、はい」
 光ちゃんを肩に載せた加賀さんが、しゃがんだまま気まずそうに肯定した。
「俺ら邪魔なら帰るけど」
 話し声が聞こえたらしく、辻が顔を覗かせた。後ろに小春ちゃんもいる。二人とも顔が強張っていて、表情が硬い。
「久しぶりだな」
 光太郎さんが言った。
「そうだね、二年ぶり? もう忘れたわ」
 辻が投げやりに言って、小春ちゃんは後ろで目を泳がせている。加賀さんもしゃがんだまま何も言わない。光ちゃんはフリーズした状態で、沈黙が落ちた。
「あの、とりあえずみんな入ってください」
 明るい声で提案すると、全員が俺を見た。一斉に肩の力を抜いたのがわかった。ぞろぞろとリビングに移動し、立ち尽くす。ソファは三人がけだが、誰が座るのか、牽制し合っている。
「ひかる、おりる」
 最初に口を開いたのは光ちゃんだった。場違いにウキウキと楽しそうな声色だった。肩車から下りると、ソファに辻と小春ちゃんと加賀さんを座らせた。
「パパはここ、おいたんはここ、こはるはここ」
 それから、きょろきょろと部屋を見回して、ダイニングの椅子を見つけると、指を差して「みんなはここ」と俺と光太郎さんに言った。指示通りに二人で腰掛けると、光ちゃんは満足そうになぜか父親の辻ではなく加賀さんの膝にちょこんと座った。
「それで」
 重苦しい空気の中、加賀さんが声を絞り出した。
「親父は今日、なんだった?」
 なんの用もないのにこの人が突然来ることはない。光太郎さんは持っていた黒い書類ケースをダイニングテーブルに置くと、俺のほうに押して寄越した。
「英二さんから聞いた。旅行に行くんだろう」
 加賀さんが、八月の俺の誕生日に合わせて休みを取ってくれた。お盆休みを挟んでいるから実質有給休暇は一日だけだが、トータルで前の週の土日を合わせた九日間、休めることになる。教師になれば旅行する暇はない。学生の今のうちに満喫しておこう、と加賀さんの発案だった。加賀さんと一緒にいられることが何よりも嬉しい。九日間、ずっと、二人でいられる。嬉しくて幸せで、加賀さんを抱きしめて本気で泣いた。
「パンフレットと資料だ。どこに行くか迷ってるそうだから、アドバイスを、と思ったんだが」
「それはどうも」
 加賀さんが頭を掻く。ものすごく、居心地が悪そうというか、気まずそうだ。三人は兄弟で、光太郎さんは父親。家族であって、家族じゃない。複雑な、関係。
 辻の口ぶりでは随分会っていないようで、それを責めている気がした。
 辻と小春ちゃんは光太郎さんのほうを見ようとしない。緊張した様子で膝の上で手を握りしめている。
「あっ、ドーナツだった」
 光ちゃんが声を上げて加賀さんの膝から飛び降りると、テーブルの上にあった箱を抱えて、こっちに走ってきた。
「くらちくんはこれ」
 中からドーナツをわしづかみにして俺に手渡してくる。加賀さんが俺を倉知君と呼ぶからか、光ちゃんも同じように呼ぶ。それが妙に可愛くて、俺は気に入っている。
「ありがとう」
 礼を言って受け取ると、満足そうに微笑んで「どういたまして」とたどたどしく返し、今度は光太郎さんに目を向けた。ドーナツの箱と、光太郎さんを交互に見比べてから、ふー、と鼻から息を吐き出した。
「これはひかるのだけど、たべな?」
 仕方ない、という感じでドーナツを手づかみし、光太郎さんに差し出した。
 空気が冷えた。きっと息子の加賀さんでさえ、こんな雑な扱いをしたことはないだろう。
 全員が固唾を飲んで見守る中、難しい顔をしていた光太郎さんが、目を細めた。そして、口の両端を持ち上げて、笑う。
「ありがとう。でもこれは光が食べなさい」
 そう言って、光ちゃんの頭に一度、ポンと軽く触れた。辻を見た。何かを堪えるように、唇を噛んで目を閉じていた。小春ちゃんは顔を覆っていて、加賀さんは両隣にいる二人の頭を笑って撫でている。
「ひかるがたべていいって」
 光ちゃんがドーナツを振り回して加賀さんに報告する。
「うん、よかったな。でもそれ、最後の一個はおいたんのじゃないの?」
「ひかるのだよ? おいたんはたべたでしょ。くいしんぼ!」
「ごめんなさい」
 加賀さんと光ちゃんの会話が可愛い。ほっこりしていると、辻と小春ちゃんの肩が震えていることに気づいた。我慢できない、という感じで同時に吹き出した。爆笑する二人に、光ちゃんは足を踏み鳴らして喜んでいる。
 光太郎さんを見た。笑っていた。とても柔らかく、笑っている。
 子どもはすごい。光ちゃんのおかげで張りつめた空気があっという間に和んでしまった。
「政宗」
 光太郎さんが辻を呼んだ。目をこすっていた辻が弾かれたように顔を上げて、「はい」と返事をする。
「困っていることはないか」
「えっ? 困ってること……」
 その質問に困っているようだ。何かないか、腕を組んで慌てて考え始めた。多分、光太郎さんは金銭面のことを言っているのだと思うが、辻は険しい顔でブツブツと「困ってること?」と悩みを絞り出そうとしている。
「ないならいい。もし何かあったら言いなさい」
「あ、はい」
 ホッとした顔で辻がうなずいた。
「小春も」
 名前を呼ばれた小春ちゃんがビクッと体を震わせてから、急いで立ち上がった。
「はいっ」
「何かあればいつでも言いなさい」
「あ、ありがとう……、ございます」
 もじもじして、うつむいたまま頭を下げる。その様子を見ていた光太郎さんが、深呼吸をしてから言った。
「二人とも、大人になったな」
 辻と小春ちゃんが顔を見合わせて、はにかんだ。兄弟らしい、同じ表情だった。いろんな出来事を、喜怒哀楽を、時間を共有した、一緒に暮らす家族だからこそ、仕草や喋り方が似る場合がある。加賀さんは、こういう顔はしない。兄弟なのに。それが少し寂しかった。
 加賀さんを見た。優しい顔で、笑っている。
 こういう形もある。離れ離れになった家族でも、笑い合えるときがくれば決して不幸じゃない。
 光ちゃんがドーナツを食べ終えると、辻が「帰るわ」と腰を上げた。小春ちゃんも兄にならい、素早く腰を上げた。
「ひかるはかえらないよ」
 光ちゃんは加賀さんの上からどかない。辻が引きはがそうとしてもイヤイヤと首を振ってしがみついている。
「帰らないんだな? パパもママもいないぞ? ばばちゃんも小春もいないし、アンパンマンも見れないぞ? おもちゃもないし、光のお布団はパパが貰うぞ? いいのか? ここんちの子になるか?」
 脅し文句のつもりなのか、辻が畳みかけるように言うと、光ちゃんは即答した。
「なる」
「なるのかよ!」
 らちが明かないと思ったのか、加賀さんが光ちゃんを抱っこして立ち上がった。
「下まで送るわ」
「兄ちゃんごめん。あ、あの、お、お父さん、えっと、失礼します」
 他人行儀な挨拶をして、辻が頭を下げる。小春ちゃんも何度も小刻みにペコペコして、二人は逃げるように玄関に向かった。光太郎さんは笑ってはいたが、黙ってそれを見つめるだけだった。
「倉知、なんかごめん。またな」
 部屋を出るとき、辻がなぜか謝った。何が、と思ったが聞き返さずに笑って手を振り、見送った。
「気まずい思いをさせてすまなかった」
 リビングに戻ると、光太郎さんがケースの中身をテーブルに並べていた。向かい側に腰かけて、「いいえ」と答えた。
「光は、政宗の小さい頃によく似てる。一瞬、過去に戻った気がした」
 パンフレットに目を落とし、光太郎さんが微笑んだ。父親の顔だ、と思った。
「八月の中旬だったな」
「え?」
「避暑目的なら軽井沢もいいが、上高地も素晴らしいぞ」
 旅行の話に切り替わっていたらしい。余韻に浸る様子もない。
「一週間あるなら北海道もいいし、逆に沖縄というのも捨てがたい。潜ったことは?」
「潜る?」
「海だ。シュノーケリングの経験は?」
「ないです」
「一度はしたほうがいい」
 光太郎さんの生き生きとした解説に聞き入っていると、いつの間にか戻っていた加賀さんが「コーヒー? 紅茶?」と訊いた。
「紅茶を頼む」
「すいません、気がつかなくて」
 ハッとして謝ったが、光太郎さんはわずらわしそうに手を振って、俺に資料のようなものを手渡した。
「いい。それよりこれを見てくれ。日本各地の温泉旅館をまとめたものだ。この旅館は死ぬまでに一度は泊まるといい」
 矢継ぎ早に次から次へと提案が止まらない。旅行が好きなのだろう。本当に行動的な人だと思った。
「八月だよ? 一か月以上先の話なんだけど」
 加賀さんが光太郎さんの前に紅茶を置いて言った。
「旅館の予約には遅いくらいだ。いい部屋に泊まりたかったらすぐにでも予約しなさい」
「はいはい」
 加賀さんが俺の手元の資料を見下ろして、「ここ」と指を差した。
「ここにしよっか」
「即決ですか?」
 適当に決めたとしか思えない。光太郎さんが首を伸ばして覗き込むと、満足そうにうなずいた。
「賛成だ」
「北陸方面行ったことないしさ。新幹線も乗りたいな。ついでに長野寄って軽井沢で二泊くらいして……、ってなんか親父ニヤニヤしてない?」
「いや、なんでもない。楽しんでこい」
 加賀さんが俺を見る。目が合った。軽くあごを引いてうなずいて見せると、加賀さんが肩をすくめてから、光太郎さんに訊いた。
「一緒に行きたい?」
「そうだな、それも悪くない」
 実家でこの話をしているときに、うちの家族がひたすら羨ましがって、いいなあ、まぜてよ、と繰り返していた。五月はともかく、父も母も六花も全員だ。
 ちょうどお盆休みが重なるせいで、物理的にも可能な話ではある。
 冗談だと思っていたが、もしかすると本気だったのかもしれない。
「まあ、どうせ仕事だろ」
 加賀さんが沖縄のパンフレットをめくりながら言った。
「あの、でも、途中で合流するとか、ずっと一緒じゃなくても何日かだけでも、うちの家族も行きたがってたし、みんなでどうでしょうか」
 加賀さんが「うん」と同意したが、光太郎さんは紅茶のカップを持つと何も言わずに一口飲んで、微笑んだ。
「二人でいたいだろう?」
 加賀さんと顔を見合わせた。
「夜さえ二人きりになれればいいよ、なあ」
 その通りなのだが、その通りすぎて恥ずかしい。返事をせずに、熱くなった顔を伏せて手のひらで覆い、うめく。光太郎さんの視線を感じる。ちら、と目を上げると視線が噛み合った。
「私がいてもいいのかな?」
 含み笑いをしながら訊かれた。羞恥を堪え、小さくうなずく。去年の夏に五月と六花と一緒に旅行をしたが、あれはあれで楽しかった。多分、一緒に行けて、よかったのだと思う。
「大勢のほうが楽しいです、きっと」
「考えておこう」
 光太郎さんは笑みを浮かべてそう言うと、カップを唇にあて、傾ける。忙しい人だから、予定が詰まっていそうだ。と思った瞬間、腕時計に目を落とし、「さて」と腰を浮かせた。
「長居してしまったな」
「いやいや、三十分くらいしか経ってないから」
「三十分も経ったか」
 加賀さんが苦笑する。足早に玄関に向かう光太郎さんを二人で追いかけると、すでに靴を履いていた。
「なんか用事あるの? 晩ご飯一緒に食べない? 倉知君の手料理」
 加賀さんがポケットに両手を突っ込んで言った。
 ドキッとして肩に力が入る。心の準備もなしに光太郎さんに手料理を振る舞うなんて、と血の気が引く。自信のあるメニューを思い起こし、あれをして、これをして、と組み立てていると、加賀さんが思い出したように言った。
「あ、駄目だ。今日、俺の当番だった。ごめん、俺の手料理だわ」
「いえ、俺が作ります。すごい作ります。作らせてください」
 慌てて手を挙げると、光太郎さんが笑った。そして、加賀さんの頭を抱き寄せて胸の中にうずめ、次は俺を、同じように抱きしめた。
「お前たちは可愛いな。愛してるぞ」
 目じりの下がった優しい顔で言って、「だが帰る」と頑として聞かない。
「ハルのつたない手料理が待ってるんだ」
 それなら仕方ない。
 最後までせっかちな光太郎さんを見送ると、ようやく二人きりになった。
 加賀さんが空になったドーナツの箱を潰しながら、片足立ちで足の裏を確認して「うわー、踏んだ」と悲鳴を上げた。
「この辺一帯、光の食い散らかしたドーナツがすごいことになってる」
「掃除機持ってきますね」
「うん、倉知君て怒らないよね」
「え?」
「怒ってもいいよ。怒ったとこ見たい。怒っても可愛い?」
 よくわからないが急に何かのスイッチが入ったようだ。目が、怪しい。
「どうしたら怒る?」
「ちょっと思いつきません」
「はは。だよな」
 折りたたんだドーナツの箱をゴミ箱に投げ入れると、飛びついてきた。
「なんか来客の多い日だったな」
「ですね」
 疲れたのだろうか。加賀さんは俺にしがみついて、ため息をついた。
「二人きりになった瞬間が、すげえいい。あー、甘えられて幸せ」
 すごくよくわかる。人がいたら触れたくても触れられないのだが、「触れたい」「好き」が蓄積されて、二人きりになれたときに爆発する。気持ちが、より濃密になる気がするのだ。
 だから、二人じゃない時間もそれはそれで大切だし、必要なのだ。
 とにかく今は、この一言に尽きる。
 甘えてもらえて、幸せだ。

〈おわり〉
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