電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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となりの二人

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※この話は「トマトな二人」に出てきた隣の住人たちの視点で書いています。

〈妹〉

 隣に男の人が二人、引っ越してきた。優しそうなイケメンのお兄さんと、体育会系バリバリな感じの男の子。挨拶にきた二人を見た瞬間に、素直な心の声がダダ漏れになって「やばい!」とその場で叫んでしまった。
 イケメンのほうが加賀さん、体育会系が倉知さん。どっちもカッコよかった。特に加賀さん。ダントツに加賀さん。カッコイイ、モデルみたいと褒め称える私に、姉は「そうだね」とうわの空で返事をした。
 男に興味がない姉は、アラサーになっても彼氏がいたことがない。そんな姉が、どうやら隣人の一人に恋をしたらしい。とあとになって気づいた。
 高校生か大学生かわからないけど、姉よりだいぶ若いと思う。童顔で、すれていない初々しい感じがする。
 隣に越してきた、明るくて背の高い男の子。
 姉にとっては少女漫画のような、奇跡の出会いになった。
 私には彼氏がいる。だから、イケメンが好みだと言っても本気でがっつくわけにはいかない。でもキャーキャー言うことくらいは許されてもいいと思う。だってカッコイイもんはカッコイイし、嘘はつけない。
 私は加賀さん、お姉ちゃんは倉知さんね、と勝手に所有物のように振り分けて「かぶらなくてよかったね」と冗談を言うと、姉が真顔で大きくうなずいた。あ、この人本気なんだ、とものすごく驚いた。
 でも残念なことに、夜遅くまで働いている姉より、部活もなく遊びまわっている自由気ままな女子高生の私のほうが、倉知さんに会う機会が多かった。マンションのエントランスで一緒になったり、部屋の前で出くわしたり、世間話程度で喋るようになった。
「大学生ですか?」
「うん、そうです。そっちは高校何年生?」
「二年生です」
 とか、短い会話だけど。
 学校帰りによく会って、そのたびに少しずつ話をしていてわかったことを整理すると、倉知さんは四月から大学生で、料理が得意ということ、バスケをしていて、それにこれは姉にとっての朗報。
「倉知さん、彼女いないって」
「えっ」
 報告すると、姉は驚いた顔で固まった。
「彼女はいないけど、ってなんか困ってたから、もしかしたら好きな人でもいるのかな?」
 いじわるを言ってみた。にやにやして姉を見る。姉は私から目を逸らした。
「何、いきなり、何よ」
「えー、情報収集してあげたんじゃん。気になるんでしょ?」
 マンションの住人とは何も話すな、と前に姉が言っていた。変態に目をつけられるとでも思っているらしいけど、倉知さんは例外に決まっている。
「それと、年上がいいんだってさ。やったね、イエー」
「ちょっと、余計なこと言ってないでしょうね」
「姉があなたのこと好きみたいです、なんて言わないよ」
 姉は顔を赤くした。わかりやすすぎ。でも可愛い。こんなに可愛い姉を見たことはない。素直に、応援したいし協力したい、と思った。
 月日が経ち、夏のある日。二人がトマトを持ってうちに来た。トマトが大嫌いなのに嬉しそうに受け取る姉が、可愛い。なんとかならないかな、二人がくっつけばいいのに、と思うようになっていた。
 そして夏休みになった。私はその日、朝から補習があるせいで、ぶうぶう言いながら普段より早く家を出た。早起きは三文の徳というのは本当だ、と思った。
 玄関のドアを閉めるのと同時に、お隣のドアが開き、スーツ姿の加賀さんが出てきた。どきっとして体が数センチ真上に跳ねた。
「あ、おはよう」
 私に気づくとさわやかに笑ってくれた。うおお、まぶしい。なんだこれ。おかげで目が覚めた。
「おはようございまーす」
「あれ、夏休みじゃないの? 部活?」
 制服の私に、ツッコミを入れてくれた。
「えへへ、補習です」
「そっか。がんばってね」
「はいっ」
 補習なんてだるいしやる気ゼロだったのに、急にがんばれる気持ちになった。
 エレベーターまで並んで歩きながら、ちらちらと盗み見る。倉知さんと並んでいると小さく見えたけど、単体だとそうでもない。百七十五センチの彼氏と、同じくらいだと思う。そうか、モデルみたい、と思ったのは容姿のせいもあるけど、姿勢がいいからだ。背筋がピンとしてて立っているだけでカッコイイ。やっぱり、やばいくらいカッコイイ。やばい。相当やばい。こんな人見たことない。やばい。
「やばい!」
「え、何が?」
 エレベーターのボタンを押して、加賀さんが振り返る。
「あっ、あのっ、あのですね」
「ん?」
 キラキラ光線にやられて、私は完全にテンパってしまった。倉知さんと姉をくっつけるためにはこの人にあれこれ訊いたり協力してもらったり、するべきなのに。まごまごしているとエレベーターが到着してしまった。
「どうぞ」
 加賀さんが扉を押さえてにっこりした。
 こっ、これはまさかのレディファーストというやつ?
 内心で滝汗を流す。こんなこと、彼氏にすらされたことがない。
「あ、ありがとうございます」
 脚がふらついた。熱でもあるみたいに体が火照ってきた。エレベーターの扉が閉まると、二人きりになった。密室に、二人きり。この狭い空間に、二人きり。
 待って、息してもいいの? 止めるべき?
 ていうか、うわ、この人男の人なのにすごい肌キレイ。ツヤツヤじゃん。なんで? 髭の剃り跡とか皆無? 陶器の美しさなんですけど。髪の毛さらっさらだしまつげ長いし二重瞼なのに女っぽくなくて凛々しいっていうか、男前って言葉もすんなりくるし、おまけに男くさいどころかなんかいい匂い。香水? シャンプー? いや、そんな人工的なのじゃなくて、もっとさりげなくほのかに香るこの感じはまさか、フェロモン?
「おーい、近い近い」
 加賀さんの声がすぐ近くで聞こえて、ハッとした。無我夢中で首の辺りの匂いを嗅いでしまっていた。
「ひいっ、ごめんなさい!」
「いいけど、何? 俺、匂う? やっぱおっさん臭い?」
「おっさん!? なんで、全然、いい匂いです!」
 力強く反論すると、加賀さんが「はは」と笑った。キュン、と胸が鳴る。なんて優しそうに笑う人なんだろう。彼女はいるのかな、と気になり始めたとき、エレベーターが止まって扉が開いた。パネルを見上げると一階だった。クソッと出かかった口汚い言葉を、慌てて飲み込む。
「俺地下だから。いってらっしゃい」
 加賀さんが手を振って言った。もっとおしゃべりしたかったのに、とため息が出そうになったけど、いってきます、と元気に飛び出した。
 よし、明日も同じ時間に家を出よう。そしたらまた加賀さんに会える。
 億劫な補習が楽しくなって、早起きが苦痛じゃなくなった。むしろ早く朝になれ、と願った。
 エレベーターを降りるまでの短い時間だったけど、幸せだった。
 朝ご飯、何食べたんですか? とか、昨日のあのドラマ観ましたか? とか、つまらない質問をする私に、加賀さんは面倒くさそうな顔一つしないで付き合ってくれた。
「あ、そういえばトマト、ありがとうございました」
 補習三日目の朝、突然思い出して遅すぎるお礼を言うと、加賀さんが一瞬なんのことかわからないという顔をしてから「すげえ今更だね」と笑った。
「嫌いなもの押しつけちゃってごめんね」
「いえー、すっごい喜んでましたよ、お姉ちゃん」
 エレベーターに乗り込むと、今だ、とばかりに切り出した。初心忘るべからず。姉が倉知さんに好意を持っていることを、におわせておこう、と思った。
「もらったトマト、うっとり眺めちゃったりして」
 思い出したら笑えてきた。あはは、と声を上げて笑っていると、視線を感じた。加賀さんが私を見つめていた。
「はは、は……」
 笑い声がしぼんでいく。そんなに見つめられたらやばいんですけど。じわじわと顔が熱くなってきた。
「お姉さんって倉知君のこと好きだよね」
「……えっ、あー、えー、そう、そうなんですよ、やっぱわかります?」
「うん、わかる」
 バレているのなら話が早い。
「じゃあ、もしよかったら今度デートでもしてやってくれませんか?」
「デート」
 加賀さんが小さな声でつぶやいた。
「あっ、でもいきなり二人きりはハードル高いから、私と加賀さんも一緒にダブルデートで……とか、どうですか?」
 いい。それはいい。すばらしい。我ながら名案。天才。鼻息を荒くしてドヤ顔を向けると、加賀さんが一呼吸置いてから「ごめんね」と悲しそうな顔をした。
「デートはできない。悪いけど」
 囁き声でそう言った。
「お姉さんに、倉知君は俺のだから諦めてって伝えてくれる?」
「はい?」
「付き合ってるから、俺たち」
「つき……?」
 絶句して、加賀さんの美しい顔面を凝視した。
「降りないの?」
「へっ?」
「一階でございます」
 エレベーターガールのような気取った口調で加賀さんが言った。扉が開いていて、エントランスが見える。
「いってらっしゃい、気をつけて」
 加賀さんが手を振って、いつも通りの素敵な笑顔で見送ってくれる。
「……いってき、ます」
 ぼんやりしながら歩き出す。脳みそが活動をやめた。足だけが自動的に右、左、と交互に出ている。
 わんわんわん。
 途中で散歩中の犬に激しく吠えられて、正気に戻った。
 えっと、今のはどういうこと?
 あれ? そういえば二人の関係って。
 なんだっけ?
 兄弟じゃないだろうし、加賀さん、倉知君、と呼び合っているから親戚でもない。
 いやいや、そうじゃない。違う。考える必要なんてない。そうだよ、もう答えは出てるじゃない。
――付き合ってるから、俺たち。
 なるほど、うん、わかった。
 一緒に住んでるのは同居じゃなくて、恋人同士だからつまりは同棲。
 そういうことだよね?
 私には彼氏がいる。彼のことは好きだし浮気する気なんてさらさらない。加賀さんのことは別に本気で好きとかじゃなくて、隣のイケメンお兄さんに会えたらラッキーってだけで、うん、全然、恋愛感情はないから、ショックなんて感じない。
 足を止めて道端にうずくまる。
「ウソでしょ」
 あの二人が、そういう関係? 加賀さんのお肌がツヤツヤなのって、そういうあれ? ワイシャツの下の、見えない部分にキスマークつけてたり、するのかな。そういや加賀さんの声って、妙に色っぽいっていうか、さっきの囁き声とか結構やばい。
 やばい。というかエロイ。今度会うとき、どんな顔すればいいの?
 と、そわそわしながら一日を過ごし、なんだかんだで次の日の朝。早起きの癖がついてしまっていつもの時間に目が覚めた。時間をずらして会わないようにするのは失礼だし、やっぱりここは、何事もなかったような顔で。
「おはよう」
 ドアを開けるとちょうど加賀さんが隣から出てきたところだった。
 ドカン、と音が出そうな勢いで、顔が熱くなった。
「おおおおおおはようございます」
「すげえ赤いけど大丈夫?」
「ふえっ!? ふぁ、ふぁい、今日あっついですよね!」
 右手と右足を同時に前に出して歩き出す。
「あー、なんかごめんね」
「ごっ、ごめんとは」
 顔が見られなくて、うつむいた状態でエレベーターへと突き進む。
「隣に同性カップルが住んでるとか、気まずい思いさせて」
 私の後ろをついてくる加賀さんが、申し訳なさそうに言った。
「マンションの住人にはできるだけ知られないようにしたかったんだけど」
「誰にも言いません、私」
 振り返って宣言すると、加賀さんが目を細めてフッと息をついた。
「お姉ちゃんにも、言いません」
「え」
「あわよくばくっついたらいいのにって、私が勝手に思ってて。お姉ちゃんはそんな気さらさらないんです」
 好きとか、デートしたいとか、具体的な単語は姉の口から聞いたことがなかった。好きなのは間違いない。でも付き合いたいなんて、絶対考えてない。
「あの人多分、初恋なんです。だから、なんていうか、もうちょっと浸らせてあげたいっていうか」
 恋人がいる現実に、多分ショックを受ける。相手が男でも女でも関係ない。そんなことは問題じゃない。
 姉が男の人に興味を持つこと自体が奇跡のような出来事だから、今はそっとしておきたい。もしかしたら余計なお世話かもしれないけど、姉が傷つくのは見たくない。
「お姉さん思いだね」
 加賀さんが優しい顔で、ぽん、と私の頭に手をのせた。
 全身に電流が走ったみたいな衝撃。
 やばい、この人何?
 目線を上げると、優しい顔で私を見ていた。
 もうやだこの人。イケメンで性格もいいとか、反則。
「いい子いい子」
 子どもにするみたいに頭を撫でられて、思わず絶叫した。
「好きになる!」
「え」
「いいんですか、好きになっても!」
「よく、ないです」
 加賀さんがそっと私の頭から手をどかした。
「女の子はこういうの弱いんだから、加賀さんみたいなイケメンは気軽にやっちゃダメですよ。わかりました?」
 すごんでみせると、加賀さんが真面目な顔で、頭を下げた。
「わかりました、以後気をつけます」
「よろしい」
 ふんぞり返って腕を組んで言うと、加賀さんが笑った。神々しい、と思った。
 叫びたい。なんでもいいから叫びたい。
 心臓がバクバク鳴っている。こんな人と付き合うなんて、絶対に疲れる。まして一緒に生活するなんて、私には無理。倉知さんはとんでもない猛者だ。
 あ、なんか今、すごく彼に会いたい。
 冴えない平凡な顔を見て、ホッとしたい。
 補習が終わったら速攻で会いに行こう、と思った。

〈姉〉

 小学生の頃から、男の人が苦手だった。
 多分、男子にいじめられたことがトラウマになっている。確実にそれが原因かわからないから、多分としか言いようがない。自己分析したくもない。考えたくなかった。
 私には年の離れた妹がいる。妹はとても要領がよく、誰からも好かれた。両親も、私より妹をよく可愛がった。妹のことは大好きだし、大切だと思うのだが、たまに妬ましくて仕方がなくなるときがあった。私が欲しいものを、すべて持っているからだ。
 父は、私の前で、よく妹を褒めた。お前は可愛い、お前は気が利く、お前はスタイルがいい、お前は、お前はと、まるで私は駄目だと、欠陥品だとでも言いたいようだった。
 母も、同じだった。直接私をけなすことはなかったが、いつも父の言いなりで、なんのフォローもなかった。
 父と母は妹を可愛がり、たとえ欠点があっても、いいようにとらえて、とにかく褒めた。
 お前は勉強ができなくても可愛いから大丈夫。大学なんて行かなくてもいい。女は勉強なんて、できなくてもいいんだよ。
 それを聞いて、私はとにかく勉強だけは頑張ろうと思った。誰にも負けないように、努力した。何か誇れるものがあるとしたら、そこだけだった。
 化粧品会社の商品企画部に就職が決まると、すぐに家を出た。仕事はやりがいがあり、楽しかった。毎日残業続きで、日にちをまたぐことがあっても、苦にならなかった。他人に認められ、褒められる。こんな自分でも、必要とされているのが嬉しかった。
 働き始めて数年後、一人暮らしを満喫していたのに、妹がマンションに転がり込んできた。父と、大喧嘩をしたらしい。父に内緒で彼氏を作ったことがばれたというのだ。なんて馬鹿げた話だ、とうんざりした。
 父も妹も馬鹿だ。関わりたくはなかったが、ここから高校に通うと妹は言い張った。土下座され、泣いて頼まれれば首を縦に振るしかない。
 しばらくすれば父が先に折れて迎えにくるだろうと高を括っていた。目論見は外れた。一か月経っても、半年経っても迎えにこない。父は病的に頑固な人だったと思い出した。
 正月に二人で実家に戻ると酒の入った父は上機嫌で「気が済んだか? そろそろ帰ってくるだろう?」と訊いた。妹は、帰らないと言った。
 するとなぜか私が責められた。お前が甘やかすから味を占めたんだと叱られた。
 我慢の限界だった。長年溜めた鬱憤が、爆発した。
 甘やかしているのはどっちだ。私と暮らすようになって、初めて家事を手伝った。米をとぐことも、皿を洗うこともできなかった。掃除機の使い方も洗濯物の畳み方も知らなかった。妹が何もできないのはあなたたちのせいだ。この子は私といたほうが成長できる。
 声を荒げる私を、父と母は呆然と見ていた。怒鳴られる前に、私は妹の手を引いて家を飛び出した。
 今まで、「でも」とか「だって」という言葉は使ったことがなく、理不尽に怒られても黙って耐えてきた。
 初めて、親に逆らった。
「気持ちよかった?」
 爽快な気分を感じ取ったのか、妹が私に訊いた。
「最高」
 マンションに帰る車の中で、二人で声を上げて笑った。
 その日から、妹のいる生活を前向きに受け入れることにした。
 それから間もなく、隣に人が越してきた。挨拶に来たのは若い男性だった。身構える私の警戒心に気づいたのか、自分は無害だとでも言うかのように、柔和な笑みを浮かべた。
「隣に越してきた加賀です。よろしくお願いします」
 その完璧な笑顔の裏に、闇を抱えている気がしてならない。顔がいい男というのは、外面がいいだけで、総じて自意識が高く、傲慢だ。女は自分に好意を持つのが当たり前、と思っている。もっとも苦手な部類の人間だった。
 妹は、カッコイイとかやばいとか大騒ぎしていたが、私は絶対に、気を許さないでおこうと思った。
 そもそも、挨拶に来ること自体が怖い。私が越したときも、女の一人暮らしだからと挨拶はしなかった。同じ階に新しく人が入っても、誰も挨拶に来なかった。マナーがないとか常識外れだとは思わない。そういう時代で、それが通例になっていた。だから、いまだに住人の誰一人として名前と顔を把握していない。
 今のご時世、何があるかわからない。ストーカー被害に遭わないとも限らない。妹にも、住人とはなるべく関わるなと言ってある。仲良くなる必要なんてない。顔を合わせても会釈程度にして、個人情報は絶対に漏らすな、詮索するな、と言い聞かせてある。妹を守るためだ。
 干渉しない。それが一番だと思っていた。だから、この人が挨拶に来たことに若干苛立ちを感じていた。
「あ、同居人がいるんです。ていうか同居の予定ですけど」
 男が言った。はあ、と相づちを打つと、ドアの隙間のやたら高い位置からひょこ、と顔を覗かせた人が、「こんにちは」と快活に言って、連れの前に割り込み、頭を下げた。
「初めまして。倉知七世です。三月からお隣さんになります。よろしくお願いします」
 すごくハキハキしている。高校生だろうか。あどけない雰囲気がする。背は高いが、男の子、という表現がぴったりだ。
「あの、これ、よかったらどうぞ」
 熨斗紙のかかった箱を差し出してくる。お礼を言って受け取ると、照れ臭そうに付け足した。
「手打ちのそばです」
「え? て、手打ち?」
 あっけにとられて聞き返した。
「初めて作ったんですけど、結構自信作です。食べていただけると嬉しいです。あ、アレルギーとか大丈夫ですか?」
「え、あ、はい、大丈夫……です」
「よかった」
 胸を撫で下ろし、姿勢を正すともう一度頭を下げた。
「お隣なんで、困ったことがあったらなんでも言ってください。よろしくお願いします」
 面接会場を後にする学生のようにきっちりと頭を下げ、美しく敬礼をすると、そのままドアの向こう側に消えた。
 ぶはっと吹き出した加賀さんが、すいません、と肩を震わせながら謝った。
「引っ越しと言えばそばだっつって、あいつ朝から真顔でそば打ってたんです」
 どうやら思い出し笑いらしい。
「えー、すごい、おそばって自分で作れるんですか?」
 手打ちだと言ったのに、妹が馬鹿丸出しの質問をすると、加賀さんはにこ、と微笑んだ。
「うん、すごいよね」
 呆れているふうでも馬鹿にしているふうでもなく、心からの同意に感じた。もしかしたら、悪い人ではないのかもしれない。
 それじゃあ失礼しました、と言い置いて加賀さんが去ると、妹がバタバタと足を踏み鳴らして乱舞した。
「めっちゃイケメン、やばくない? モデルか何かかな。カッコイイし、なんか優しそうだし、やばい、ラッキーすぎる」
 加賀さんは確かにイケメンで、優しそうだ。いい人かもしれない。本質がどうであれ、私には興味がなかった。私は男の人に好意を抱いたことがない。いいな、と感じたことがなかった。だから自分の心境の変化に、戸惑っていた。
 倉知さんに、好感を抱いてしまったのだ。
 お隣さんになります、という言い方が、なんだか可愛かった。背が高いのに、幼く見えるせいで、安心感を与えてくれる。まだ若いだろうに物怖じせず、緊張する様子も見せず、堂々とした振る舞いが頼もしかった。
 引っ越しの挨拶の手土産が手打ちのそばなんて、そんなことある?
 アレルギーの心配までしてくれて、いい子だ。
 なんだかすごく、心が温かくなった。気づくと笑顔になっていた。妹が私の顔をじっと見ているのに気がついて、慌てて背を向ける。
 確実に自分より年下の男の子に惹かれつつあるなんて気づかれたくない。と思ったのだが、姉妹なのであっさりと私の恋心は見抜かれてしまったようだった。
 付き合いたいなんて思わない。ただ漠然と、いいな、と感じるだけ。
 隣に住んでいても、そうそう会うこともなく、たまに会っても挨拶をするのが精一杯だった。
 胸の中に「好き」というむず痒い感情が根づいている。男の人を憎んでさえいたこの私が、トマトをおすそ分けされたというだけで舞い上がり、目が合っただけで幸福感に包まれる。
 これ以上、何も望まないのに、妹は親切心で彼の情報を私の耳に入れたがった。正直、ありがたくもあり、怖くもある。倉知さんに好きな人がいるとか、年上が好みとか、知らなくてもよかったことだ。
 私はただ、好きだなあとほのぼのとしていたいだけだった。だから、彼が誰かと付き合っているとしても、できるなら、ずっと知らないでいたい。そう思っていた。
 でもいつかは、片思いを終えなければいけないときはくる。その日は突然やってきた。
 私は昔から、男の人に頼る、ということを極力しないようにしてきた。男の手を借りないと何もできない女、という位置づけにだけは絶対に収まりたくなかったのだ。瓶のふたが固くて開かなくても、男の手は借りない。テレビの配線もするし、電球も自分で換える。そうやって生きてきた。
 だから、たとえタイヤがパンクしても、自力でなんとかする。と意地になっていた。
「ねえ、まだ?」
 妹が寒そうに身をすくめて言った。昨夜、帰宅するとき、なんだかハンドルが思うように動かないし、変な音がする気がしていた。パンクしていることに気づかないなんて、どんくさくて嫌になる。
 土曜日だから夜は外食にしようと二人で出かけようとしたときだった。妹がパンクに気づいた。
 颯爽とスペアタイヤを出して、工具を用意して、姉らしく頼りになるところを見せようと思ったのだが、ナットが固くて動かないし、工具の使い方もうろ覚えだし、徐々に自信喪失し始めていた。
「もうJAF呼ぼうよ、JAF」
「会員じゃないからお金かかるし無理」
「変なとこケチなんだから」
「倹約家と言って」
「そもそもタイヤ交換なんてしたことあるの?」
「教習所で習ったから大丈夫」
「それ何年前の話?」
 妹が呆れてため息をついたあとで、「あっ」と顔を輝かせた。
「あの車、加賀さんじゃない?」
 見覚えのある黒い車体が隣の駐車スペースに停まると、運転席から加賀さんが、助手席から倉知さんが降りてきた。
「あれ、パンク?」
 加賀さんが言った。妹が加賀さんに駆け寄って、甘えるような声で言った。
「姉が自分でやるって言い張って、もうこの状態で三十分以上経ってるんですよ」
 三十分は言い過ぎだ。ムッとしてから、ちら、と倉知さんを見た。手に買い物袋を下げている。妹から聞いた話だと、二人は特に夜はあまり外食をしないらしい。かたや、料理をするのが億劫だからと外食で済ませようとしている女が二人。少し、恥ずかしい。
「手伝うよ」
 加賀さんが簡単に言った。
「わ、いいんですか? ありがとうございますぅ」
 妹が上目遣いで媚びた笑いを浮かべてから、小さく跳ねた。私は慌てて声を上げる。
「いえ、悪いです。これくらいできますから」
「でも、ナット回らないんじゃない? 車体上げる前に緩めないと。それにジャッキかける場所違ってるし危ないよ」
 加賀さんがコートを脱ぎながら言った。自信満々のくせに間違えていたのが恥ずかしくて、無言になってしまった。
「加賀さん」
 腕まくりをする加賀さんを、倉知さんが呼んだ。
「俺にやらせてください」
「え、できる?」
「この前講習で習ったとこだし、実戦でやってみたくて」
 加賀さんに荷物を手渡すと、倉知さんが私を見る。ドキッとして硬直した。
「俺にやらせていただけませんか? 慎重に扱いますので」
「えっ、あっ、あの、はい、……よろしく、お願いします」
 頭を深く下げて、持っていたレンチをそのままの体勢で差し出した。妹がすかさず小さく笑ったのが気配でわかったが、気づかないふりをして、邪魔にならないように隅っこに移動した。
「倉知さん、免許もうそろそろ取れそう?」
 作業をする倉知さんのそばに屈みこんで、妹が訊いた。図々しいというか馴れ馴れしい。敬語じゃなくなっているのにもモヤモヤする。教習所に通っていることもどうしてか知っているし、親しげにしているのが悔しい。と思うのは心が狭いだろうか。
「うん、今年中は無理だけど」
「車は? 買うの?」
「大学生のくせに生意気だし、買うとしても社会人になってからかな」
 大学生のくせに生意気、という言い方が妙に可愛く感じて口元が緩みそうになり、慌てて引き締める。パンクしてよかった。なんて、不純なことを考えてしまう。私の車を、倉知さんの手で、直して貰えるなんて光栄だ。やはり、男の人だからか、早い。あっという間にタイヤを外した状態になった。拍手をしたい気分だった。
「加賀さん、今のとこ大丈夫ですか?」
「うん、完璧。あ、ナット締めるのは対角線上な」
「対角線……、四つだから、こう、こうの順番?」
「そうそう」
 二人を見守っていると、妹がいつの間にか真横にいて、肩をぶつけてきた。
「パンクしてよかったじゃん」
「よくないよ。買い替えないといけないし」
「もう、素直じゃないんだから」
 他の住人は悪戦苦闘している私を見て、知らんふりで通り過ぎた。同じマンションに住んでいるというだけで、なんの接点もない名前も顔も知らない他人。当然の反応だと思う。私もそうする。
 でもこの二人なら、知り合いじゃなかったとしても手を貸してくれただろう。そんな気がする。
 作業が終わると何度も頭を下げてお礼を言った。パンクしたタイヤを積み込んでもらってから、ふと気づいて「手が」と声を上げた。
「ごめんなさい、手、汚れませんでしたか?」
 汚れないわけがない。せめて軍手でも用意しておくんだった、と激しく後悔した。
「洗うんで平気です。気にしないでください」
 手を払いながら倉知さんが言った。でも、と出かかった声が、しぼんでいった。優しく笑う倉知さんの左手に光るものが見えたからだ。
 目が、釘付けになる。
 指輪をしている。
 ただのアクセサリーじゃないことは、わかる。だって、左手の薬指だ。
 いつから? どうして? もしかして、結婚した? 大学生なのに? 待って、そういえば加賀さんは未婚? 興味がないから確認したこともなかった。
 加賀さんはちょうど腕時計に目を落としていた。薬指には指輪が。
「お姉ちゃん!」
 突然妹が大声を上げた。
「もう、めっちゃお腹空いた。早く、早く行こうよ」
 視界を遮るように目の前に立ち塞がると、二人に向かって「助かりました、ありがとうございました、また今度お礼させてくださいね」と早口でまくし立てた。
 そして私の体を無理やり運転席に座らせると、素早く助手席に飛び込んだ。
「はい、エンジンかけて。早く早く」
 言われるままエンジンをかけて、パーキングからドライブにシフトレバーを動かした。
「ありがとうございます、おやすみなさーい」
 妹がウインドウを下げて手を振った。妹に手を振り返し、私に目線を寄越すと、二人が同じタイミングで軽く会釈をする。その光景を横目で眺めながら会釈を返し、一瞬だけバックミラーを確認した。
 加賀さんが、倉知さんの頭を撫でているのが見えた。嬉しそうに破顔する倉知さんを見て、すぐに目を逸らす。今ので、確信を得た。
「知ってたんだね」
 ハンドルを握りしめて、前を見たまま言った。
「えっ?」
 妹がいやに甲高い声を出した。
「いつから知ってたの?」
「なななんのこと?」
「なんで黙ってたの? 大学生のこと気にしてる勘違いおばさん観察して、楽しんでたとか?」
 自虐的な私の言葉に、妹は反論しなかった。
「倉知さんのこと、あれこれ教えてくれてたのはなんだったの?」
 妹は無言になった。隣を見ると、スカートを両手で握りしめてうつむいていた。
「二人が付き合ってるのも知らないで、若い男の子にのぼせ上がってるババア、ざまあみろって思ってた?」
「違うもん」
「何が?」
「違うよ、私、だって……」
 鼻声になってきた。泣けばその場が丸く収まると思っている。
「あんたはいいよね。昔から可愛い可愛いって褒められて、成績悪くても怒られないし、彼氏もいるし、何もない私が、誰にも愛されない私が、さぞかし可哀想に見えてるんだろうね」
 妹が隣で嗚咽を漏らし始めた。しばらく無言で車を走らせ、コンビニの駐車場に駐車した。妹はずっと泣きじゃくっている。
「別に私、倉知さんと付き合いたいなんて言ってないよね? 好きだとも言ってないのに探り入れたり、情報集めたり、……どうしたかったの? からかうのが面白かった? ねえ」
「お姉ちゃん、ごめんなさい」
 鼻をぐすぐす言わせて妹が謝った。完全に八つ当たりだ。妹は多分何も悪くない。
 私の密かな好意に気づき、よかれと思ってやった。わかっている。
 妹が誰からも愛されるのは、素直で人当たりがよくて、悪意の欠片もないから。
 私が誰からも愛されないのは、性根がねじ曲がっていて、卑屈で、根暗だから。
「ごめん、私が悪かった」
 大きく息をついてから謝った。
「言い過ぎた。ごめん」
 ズビー、と汚い音を立てて、妹が盛大に鼻をすすりあげた。二回咳き込んで、それから「あのね」と涙声で言った。
「私、お姉ちゃんが男の人に興味持ったのが、なんか嬉しかったの」
「……うん」
「恋してるお姉ちゃんが可愛くて、だから、もう少し見てたくて、でもそれって、エゴだよね」
 ごめんね、と服の袖で涙を拭いながら妹が謝った。恋してる、と指摘されるのは居心地が悪いし、可愛いと言われるのもゾッとする。
「もういいよ。謝るのやめて」
「あとね、私、お姉ちゃんのこと尊敬してるし、大好き。すっごい愛してるからね」
 妹の突然の告白に「はっ?」と上ずった声が出た。
「な、何それ、何、気持ち悪い」
「だってお姉ちゃんさっき、誰にも愛されないって言ったじゃん。違うからね。私は愛してるからね」
 愛してる、なんて言葉は誰にも言われたことがなかった。この先言われることもないと思っていた。まさか、妹に最初で最後の言葉をもらうとは思わなかった。
 そうだった。この子だけは、いつでも私の味方だった。親から冷たくあしらわれても、妹だけは私をけなさず、慕ってくれた。
 腹の底から笑いが込みあがってきた。ゲラゲラ笑う私を、妹は不服そうに口を尖らせて見ていた。
「本当だからね!」
「うん、ありがと」
 妹の頭を撫でた。可愛くて、そうせずにはいられなかった。
 きっとさっきの加賀さんも、似たような心境だったのだろう。
「なんかすっごい高い肉でも食べに行こうか」
「えっ、ステーキ? 焼肉?」
「どっちがいい?」
「ステーキ!」
「よし、じゃあ分厚いやついっとこうか」
「やったー」
 人を好きになるという経験は、大切だと思う。
 今まで、私には無縁、と強がっていた。柄じゃないと、拒絶していた。
 でも、彼に抱いていた感情は、とても気持ちが良くて、少し切なくて、尊いものだ。
 ありがとう。
 こんな気持ちを私にくれた彼に、心から、感謝したい。

〈おわり〉
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感想 21

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