電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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〈加賀編〉

 小春が包丁を両手で握りしめ、切っ先を俺に突きつけてくる。肩が上がり、呼吸が荒い。
「お兄ちゃん」
 包丁を持つ手が、ぶるぶる震えている。
「怖い、私、怖いよ」
 泣き顔でそう言った。俺は両手を上げて後ずさりながら言った。
「いや、怖いの俺だし」
「ううう……、どうしたらいいの」
 歯を食いしばって何かに耐えている。
「小春、いいから一旦包丁置けよ」
 政宗が宥めるように言ったが、小春は首を左右に振って叫んだ。
「無理! 包丁が! 手から離れない! これは呪われた剣なんだ! 一回装備したら、外せないやつなんだ! この中に、魔法使いの方はいらっしゃいませんか!? どうか私の呪いを解いて!」
「小春ちゃん、落ち着いて、深呼吸」
 深呼吸をしながら倉知が言った。小春が横目でそれを見て、真似をする。やがて震えが止まり、肩の力が抜け、呼吸も正常になっていった。
「よし、いいよ、その調子。じゃあここに、包丁置ける?」
 倉知に誘導され、小春がゆっくりとまな板の上に包丁を置いた。全員の緊張が同時に解けた。揃って、大きなため息をつく。
「……なあ、もう帰っていい?」
 頭を掻きながら言うと、政宗と小春が同時に「えっ」と声を上げた。
「別に料理教えるのはいいよ。でもそれ以前の問題だよな」
 二人が俺たちに、料理を教えてくれと頭を下げてきた。
 聞けば、政宗の嫁、敦子の誕生日だそうで、金をかけずに何かできないかと考えたすえ、手料理にしよう、ということになったらしいが、二人とも壊滅的に何もできない。
 生まれてから一度も包丁を触ったことがないという小春と、学校の調理実習で三か所指を切って以来、米をとぐ以外にしないと決めた政宗。
 とりあえず、小春に包丁を握らせるところから始めたら、この始末。俺たちの手に負えない。
「待って、帰らないで。わかった、俺がやる」
 政宗が真剣な顔つきで包丁に手を伸ばす。
「政兄、頑張って!」
 小春が政宗を励ました。政宗は袖をまくり上げ、鼻を鳴らして包丁を手に取った。
「任せろ。俺はできる。俺ならできる。俺にしかできない。やってやる、見てろ、見てろよ」
「いいから早くしろよ。たかが人参切るだけだろ」
 馬鹿らしくなってきた。
 ダイニングの椅子を引いて腰掛ける。もう倉知に任せよう、と思った。
「あ、そんな持ち方危ないよ」
 倉知が指摘すると、政宗が素っ頓狂な声を上げた。
「ほわっつ! 何、どういうこと、なんで?」
 おろおろする政宗に、倉知があくまで冷静に、ゆっくりと説明する。
「指曲げてこうやって」
「こう」
「うん、で、こう」
「こう? こう?」
「あ、待って。人参、半分しか使わないから半分に切って」
「えっ、半分ってどこ?」
 二人のやり取りを後ろから眺めて笑いを堪える。小春は政宗の隣で身を固くして見守っている。
「この辺でいいよ。あ、指また戻ってる」
「何? 何が!?」
 大騒ぎする政宗に、倉知は温度を変えずに一定だ。根気がいいというか、やっぱり教師に向いているのかもしれない。俺は人にものを教えるのが嫌いで、自分がやったほうが早い、と思うたちだから、こういうことには向いていない。
「えっと、あ、猫の手。初心者は、猫の手を意識するといいんだよ」
「猫の手? どういうこと? 意味わかんないんだけど」
「ほら、ニャーって、猫」
 倉知が両手の指を折り曲げて、顔の横でポーズをつける。
「な、猫の手だろ」
「ははあ、なるほど」
「猫だ、猫の手だ」
 政宗と小春がしきりに感心している後ろで、俺は一人悶絶していた。
 可愛い。可愛すぎるだろ。今のはなんだ? ニャーって。天然か? それとも狙ってるのか? 頼むから、俺を誘惑するな。
「あ、駄目だ」
 顔を覆ってうめいた。我慢できない。今日は抱こう。
 ちょっとしたことでわたわたと取り乱す二人に、イラつく素振りも見せず、倉知は終始穏やかだ。本当にお前ってやつは、お人よしというかなんというか。それにしてもいい尻だな。今日はバックでするか。
 料理を教える倉知の後姿を視姦していると、突然振り返って俺を呼んだ。
「加賀さん」
「何? 俺の可愛い子猫ちゃん」
「え、は? な、なん、なんですかそれ」
「しまった、つい」
 政宗と小春に冷めた目で見られる、と思ったが、玉ねぎの皮を黙々と剥いている。
「あの、思ったより時間かかりそうで」
「オムライスだろ? そんなにかかる?」
「多分一時間以内には終わりません」
 二人の危なっかしい手つきを見ていたら、そうだよな、とうなずける。
 腕時計で時間を確認する。今日は久しぶりに外食をして、そのあと映画館でレイトショーを観る予定だった。昨日から決めていたことなのに。時間が押すと、予定がすべて狂ってくる。そもそも誕生日当日に突然泣きついてこられてこっちはいい迷惑なのだが、倉知は人がいいというか付き合いがいい。
「映画はまた今度にするか」
「はい、すいません」
「なあ倉知、玉ねぎってどこまでが皮?」
「ねえ中身どれ? なんかどんどん小さくなってくね」
 政宗と小春が言った。倉知が二人の手元を見て絶句している。
 一体いつ出来上がるのやら。出来の悪い二人の生徒に辛抱強く指導を続ける倉知を眺めていると、玄関のドアが開く音がした。小さな足音が迫ってくる。
「たーだいま」
 光がキッチンのドアを開けて顔を覗かせた。
「おーかえり」
 出迎えたのが父親ではなく、見慣れないどこかのおっさんで驚いたのか、目を見開いて回れ右をすると「ばばちゃん、ばばちゃん」と去っていった。
「定光、来てたの」
 両手に荷物を抱えた母が、脚に光をまとわらせながら顔をほころばせた。
「久しぶり」
 毎度この挨拶だな、と思ったが、滅多に会わないから当たり前だ。
「お邪魔してます」
 倉知が母に気づいて頭を下げる。
「こんにちは。どうしたの、二人して」
「助けを求められたんだよ」
 政宗の背中を指したが、本人は知らん顔だ。集中しているのか、聞こえないふりかはわからない。
「二人でできるって言うから任せたのに」
 母が呆れ顔で荷物をテーブルに置いた。ケーキの箱がある。なんだか幸せの象徴のように感じた。
「光、おじちゃんだよ。ほら、前に会ったでしょ」
 もじもじする光に母が言った。首を激しく横に振って母の脚から離れない。
「あー、重たい。ちょっと光、離れて」
 冷蔵庫に買ってきたものを詰め込む作業をしているが、光が邪魔そうだ。怖がっているというより、警戒している。自分の縄張りを、見知らぬ他人が占拠しているような感覚なのかもしれない。
「よし、光。おいたんが肩車してやるからおいで」
 席を立ち、姿勢を低くして言った。肩車、という単語に反応して、母の脚から手を離し、恐る恐るこっちに来る。光の体を抱え上げ、肩に載せると「かたぐるま!」と叫んだ。
「夜ご飯、食べてく? チキンもたくさん買ってきてあるよ」
 母が振り返って訊いた。
「いやいや、帰るよ」
 断じて遠慮のつもりはないのだが、母には通じなかったようだ。
「ケーキもあるよ。倉知君は甘いもの好き?」
 名前を呼ばれた倉知が、弾かれたように振り返った。
「えっ、あっ、いえ、特別好きってほどじゃないですけど、たまに食べます」
 馬鹿正直に答えて、これでよかったのか、という感じで俺を見た。
「じゃあ食べていってよ。人数多いほうが楽しいし」
 完全にその気になっている。母が冷蔵庫に視線を戻した隙に、倉知に向かって小さく首を振る。早く帰って二人きりになりたいんだよ、とテレパシーを送る。倉知がハッとした顔になって声を上げた。
「お母さん、すいません、あの……」
 言葉を切って言いにくそうにしていると、母が冷蔵庫を閉めて「うん」とうながした。
「早く帰って二人きりになりたくて」
 ぶーっ、と政宗が吹いた。小春がきゃああ、と甲高い悲鳴を上げる。それにつられて、俺の頭にしがみついている光も、ひゃああと奇声を発した。
「そ、そっかあ」
 母が真っ赤になって、咳払いをした。
「それじゃあしょうがないね、うん」
「はい、また今度ご一緒させてください。よろしくお願いします」
 丁寧にお辞儀する倉知を、母は眩しそうに見ている。
 それにしても。
 俺が考えていることを見事に当てるとは。そのまま口にされた恥ずかしさはなく、通じ合っていることにひたすら感動を覚えた。
「そういうわけだから、お前らとっとと完成させろよ。いつまで玉ねぎ刻んでんだ? お前らも刻んでやろうか」
「めっちゃ怖いんですけど!」
 玉ねぎが目に染みるのか、涙を拭いながら政宗が言った。鼻をぐずつかせる小春が、目を輝かせる。
「お兄ちゃんカッコイイ」
「早くしろよ。ほら、じゅーう、きゅーう、はーち」
 肩車をしたまま、スクワットをしながらカウントダウンを始める俺を、照れくさそうに倉知が見ている。光が俺の頭を連打して大喜びしているが、倉知の視線は一直線に俺に注がれている。しばらく見つめ合っていると、政宗が申し訳なさそうに割り込んできた。
「あのさ、俺も精一杯努力するから続き教えてもらえる?」
「ごめん、よし、じゃあとっとと作ろう」
「とっとと!」
 つっこむ政宗に、倉知が「さっさと」と言い直したがニュアンスは同じだ。
「倉知君は、いい子だね」
 オムライスの完成に向けて奮闘する三人を見守りながら、母が言った。しきりにぬいぐるみを紹介してくる光に生返事をしながら「うん」とうなずいた。
「幸せ?」
「うん」
 即答する俺を見て、母が下唇を噛んだ。泣きそうに見えた。嬉しいのか、悲しいのか、安心したのか、心配なのか。どれだろう。よくわからない。
 この人は紛れもなく俺の母だが、感覚としては他人に近い。むしろ、目を見ただけで気持ちが通じてしまう倉知のほうが、よほど家族らしい。
「大丈夫だよ」
 母の真意はわからないが、他にかける言葉が見つからない。
 大丈夫。とにかく俺たちは大丈夫だ。
 オムライスが完成し、役目を終え、早々に帰ることにした。母は倉知を敦子に会わせたいらしく、なんとか引き留めようとしたが、これ以上長居をしたくない。
「なんかごめんな」
 帰りの車の中で、倉知に謝った。
「え、何がですか?」
「めんどくさいこと押しつけて」
「いえ、料理も好きだし教えるのも好きだし、楽しかったです」
 明るく笑う倉知の横顔を見て口元が緩む。
「倉知君」
「はい?」
「猫の手やって」
「え?」
「ニャーって」
「あ、……さっきの?」
「めっちゃ可愛かったんだけど。なあ、今晩いい?」
「な、何が……何を、ですか」
「わかってるくせに」
 なんせ、目を見て通じ合うことができる二人だ。
 倉知は俺から顔を背け、窓の外を見ているふりをしている。耳と首が真っ赤だ。自然と笑みが漏れる。
 休日の予定を台無しにされたが、可愛い倉知を見られたから、万事オッケイだ。

〈おわり〉
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