電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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邂逅

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〈千葉編〉

 社内運動会以来、俺の評価が変わった。女性社員ばかりか、男性社員にも一目置かれるようになった。と思う。不思議と仕事もやりやすくなり、頼れる新人、という位置づけに収まっている。
 加賀さんとデッドヒートを演じたおかげだろうか。多分相手が他の誰でもなく、加賀さんというのもポイントが高かったのだろう。俺は年上の女性社員に可愛がられるようになった。おもちゃにされている感は否めないが、とりあえずは自分のポジションに満足している。
「千葉、ちょっと待って」
 昼休憩で社員食堂に向かおうとする俺を、企画課の真澄先輩が呼び止めた。
「なんですか?」
「再来週辺り新年会やろうと思ってるんだけど」
「いいですね。安心してください、俺も参加しますよ」
 去年の暮れに忘年会をしたばかりだったが、飲み会のたぐいは大好きなので、週一でもいいくらいだ。
「うん、それでさあ」
 真澄先輩が両手を重ね合わせて、媚びるような目を俺に向けた。
「お願いがあって……」
「なんですか? 俺と付き合いたい?」
「違う」
 下唇を突き出して、不細工顔で否定された。
「千葉さあ、あれじゃん? ちょっと加賀君と仲いいじゃん?」
「え、そんなでもないですよ?」
「謙遜すんなよ、仲いいんだよてめえ」
 無理やり仲がいいようにこじつけようとしている。意味がわからない。
「わかりました、仲良しです。それがなんですか?」
「あのさ、営業の人たちも同じ日に新年会するらしくてさ」
 ピンときた。俺は腕を組んで、はあ、とわざとらしくため息をついた。
「営業一課と企画課で、合同でやろうって?」
「イエス」
「俺にその話を取りつけろって?」
「イエス」
「それ、俺にメリットがありますか?」
 むしろデメリットしかない。女の子の視線が、俺じゃなく加賀さんに注がれるのは目に見えている。
「メリットはある」
 キリッとして真澄先輩が言った。
「企画課女子全員が、全力で千葉を褒め称え、キャーキャー黄色い声を浴びせ、甘やかし、撫でまわし、胴上げをする勢いで崇め奉る」
「……仕方ない、やりましょう」
 というわけで、行先を社員食堂から営業のフロアに変更した。フロアを覗く。人は少ない。加賀さんの姿もない。外回りかもしれない。
 加賀さんと仲のいい、営業事務の後藤さんと前畑さんがお弁当を食べているのが見えた。彼女たちに取り入れば、おそらく話が早い。狙いを定め、中に入ろうとしたとき、膝がガクッと揺れてたたらを踏んだ。後ろから膝カックンをされたのだと気づき、こんな子どもじみたことをするのはどこの誰だと振り向くと、加賀さんだった。
「モテキング千葉だ。何してんの?」
「お疲れ様です、って、その通り名みたいなのやめてください」
 抗議すると、はは、と笑って肩をすくめた。
「お前が自分で言ったんじゃねえか」
「モテキング千葉って、なんか芸名みたいですね」
 一緒にいた高橋さんが言うと、ぶは、と加賀さんが吹いた。
「あー、なんかイエーイってすげえテンションで現れそう。ちょっとやってみてよ」
「無茶ぶりやめてくださいよ、俺のイメージ崩れちゃうじゃないですか」
「千葉君のイメージってどんなの?」
 加賀さんが笑いながら訊いた。
「今は甘え上手な愛され年下キャラですけど」
「それ自分で言ってて恥ずかしくない?」
 何が恥ずかしいのかわからないが、加賀さんが残念な奴を見るような目で見てくる。一度咳払いをして仕切り直すと、
「それより、加賀さんにお話があって来たんです」
 と真面目な顔で言った。
「何、仕事?」
「違います。いや、厳密に言うと仕事の話ではあります」
「まどろっこしいな、なんだよ」
「新年会を、企画課と営業課、合同でやりませんか? というお誘いにやってきました」
「はあ?」
 怪訝そうに眉根を寄せる。当たり前だ。多分、今までそんなことはやったことがないのだと思う。だからこそ、真澄先輩が俺を頼ってきたのだ。
「うちとそちらの新年会の日程が、同じだそうです。だからいっそ一緒にやらないかと思って」
「ふうん。幹事誰だっけ?」
「前畑さんですよ」
 高橋さんが言った。
「じゃあ前畑に直接言ってみてよ」
 そうじゃなくて、加賀さんにお願いしているのがわからないのか、と舌を打つ。
「前畑ぁ、お客さん」
 加賀さんが前畑さんを呼んだ。呼ばれた前畑さんは、ものすごい速さで飛ぶように駆けてきた。
「加賀君、呼んだ?」
 手に箸を持ったままだが、目がキラキラ輝いている。
「お客さん」
 加賀さんが俺を指さすと、前畑さんが横目で俺を見た。急激に熱が冷めたような雰囲気はやめてほしい。
「何?」
 加賀さんに対する態度との温度差がひどい。仮にもイケメンの俺を前にして、こんなふうなのは、高橋さんと前畑さんが付き合っているという噂は本当らしい。人には好みというものがあるし、俺はそれをよくわかっているつもりだ。そう、俺がモテないんじゃない。俺のようなイケメンが好みじゃないだけだ。
 いや、でも、じゃあどうして加賀さんにはこんなにメロメロなんだ?
 腑に落ちない。
「腑に落ちない」
「は? 何よ?」
 声に出ていた。
「なんでもありません。実はですね、提案というかお願いがあって」
「新年会一緒にやろうって」
 言いづらいことを、代わりに加賀さんがさらっと言ってくれた。
「え? 一緒にって、企画と? なんで?」
「なんでと言われると……、ほら、企画と営業は切っても切れない縁があるというか、一心同体というか」
「もしかして、企画女子の差し金?」
 図星を指されてぎくりとした。
「違います、単に、僕が加賀さんと飲みたいからで」
「あんたが? 加賀君と? なんで?」
 さっきからなんでばかりだ。
「昨年は、いろいろとお世話になったので、今年もよろしくお願いしますという意味を兼ねて」
「よくわかんない。怪しい」
 前畑さんが疑いのまなざしを向けてくる。
「まあまあ、別にいいじゃん。一緒にやれば? ついでに向こうに幹事任せれば前畑も楽だろ」
 加賀さんが言うと、前畑さんがまんざらでもない顔になった。
「じゃあ任せる。会費は飲み放題つきで四千円以下にしてよ」
「わかりました、お任せください」
 誰もがうっとりとする最高の微笑みを浮かべたのに、前畑さんの俺を見る目は変わらない。この人を落としてみたい、と少しだけ思ったが、無駄なことはやめておこう。
 とりあえず、合同での飲み会をセッティングできたのだ。褒めてもらおう、と企画課の部屋に戻り報告すると、女子が一斉に俺に飛びついて「よくやった」「おりこう」「イケメン」と予想以上に褒めちぎられた。たったこれだけのことで、と思ったが、悪い気はしない。
 みんな猫なで声で俺に接し、肩を揉んでくれたり、コーヒーを淹れてくれたり、三時にはケーキまで出てきた。ビップ対応は、新年会当日まで続いた。
 そして当日。今日は金曜日だ。仕事を定時で終わらせ、企画課のメンバーで会場に向かう。会場はイタリアンだ。
 貸し切りではなく、テーブル二つ分を別の団体が使っていて、すでに盛り上がっている。大学生だろうか。八人のうち二人が女子で、二人とも可愛い。一人は髪色が明るくメイクが濃い目のギャルで、もう一人はナチュラルメイクの黒髪ボブの美人。俺の存在にすぐに気づいた。二人が頭を寄せ合い、何かヒソヒソ話をしている。
 職場では禁止されているので、アクセサリーのたぐいを仕事中は着けていない。でもアフターは関係ない。企画課は私服での出社が許可されていて、俺も毎日自前だが、今日は飲み会だから一度着替えてきた。鍛えた体のラインがわかるような細身のセーターにスキニージーンズ、グッチのネックレスに手首にはさりげなくレザーのブレスレット。
 完璧なイケメンだ。男前すぎて鏡を見るのがつらい。
 さあ俺を見ろ、と視線を送っていると、見知った顔に気づいた。
「あれ」
 思わず声が出た。同時に向こうも俺に気づいた。
「あ、モテ……、千葉さん」
 運動会に来ていた、加賀さんの男だ。確か、倉知君、と呼ばれていた。倉知君は椅子から立ち上がり、小走りでこっちに来て丁寧に頭を下げた。
「こんばんは、お久しぶりです」
 律儀な奴だ、と思った。
「こんばんは。あれ、もしかして示し合わせたの?」
「え?」
 倉知君がきょとんとする。
「倉知君、知り合い?」
 倉知君の背後から、女子が二人顔を出した。俺を見るその目でわかる。「イケメン、ラッキー」というところだろう。とびきりの笑顔を浮かべて女子たちに対峙する。
「こんばんは」
「こんばんはー、社会人の方ですか?」
 ギャルのほうが言った。上目遣いの、可愛さを最大限に演出する角度で俺を見上げてくる。
「うん、そうだよ。君たちは学生?」
「大学生です。ねえ、七世君とどういう知り合い?」
 もう一人のボブ女子が、倉知君に訊ねた。
「それは」
 倉知君が困った顔で逡巡していると、店のドアが開いた。
「寒い、雪降るとか最悪!」
 前畑さんの大声がとどろくと、倉知君の目が驚いたように見開いた。
「え、あれ? 前畑さ……、あっ、加賀さん!」
「うわ、びっくりした。え、お前もここだったの?」
「七世君だ!」
「ほんとだ。おーい」
 前畑さんと後藤さんが、ブンブンと手を振った。まったくの奇遇だったらしい。倉知君が嬉しそうに加賀さんに駆け寄った。
「七世君も飲み会?」
 後藤さんが訊くと「はい、新年会です」とそわそわしながら答えた。
「マジかよ、こんなことある?」
 加賀さんが言った。
「主任、やっぱりあれですよ、定番の、う、ん、め、い」
 高橋さんが気味の悪い仕草で片目を閉じると、倉知君がへへ、と照れ臭そうに笑った。嘘だろ、とあっけにとられた。まさかとは思うが、この三人は二人の関係を知っているらしい。
 隠すつもりがないのか、信用した相手には話しているのか、どっちだろう。後者なら、嬉しいかもしれない。
「加賀さん、頭とコートに雪ついてる」
 倉知君が加賀さんの髪についた雪を、払い落とす。瞬間、二人が目を合わせたのを俺は見逃さなかった。首の裏がゾクゾクする。このなんでもないやりとりが、なぜか妙にエロティックに思えた。二人が今すぐ抱き合って、キスをするんじゃないかと、馬鹿なことを考えてしまった。
「七世君、僕たちみんな頭に雪のせてるけど、主任だけ?」
「え、じゃああの、失礼します」
 三人の頭の雪を、せっせと払い落とす倉知君を、みんなが優しい目で見守っている。ほんわかした空気が流れた。
「なーなせくん」
 倉知君の手を、連れの女子二人が、ぐいぐいと引っ張った。
「そちらは?」
「紹介してくれないのかなあ?」
 女子の目は、俺ではなく加賀さんに向けられていた。
「えっと、その、この人は……」
「こんばんは。七世君の親戚のおじさんです」
 加賀さんがにこやかに言った。女子のハートに矢が刺さる音が、俺には確かに聞こえた。声にならない狂喜の吐息が、二人の口からかすかに漏れる。
「あの、よかったら私たちとご一緒しません?」
「それいいー」
 二人がキャッキャと盛り上がったが、倉知君が硬い声色で「駄目です」と制止した。
「加賀さんは職場の人たちと来てるんです。これも仕事のうちだから、邪魔はできません。ほら、戻りますよ」
「えー」
「けちー」
 倉知君が二人を引っ張って自分たちの席に戻っていった。去り際にこっちを見て、軽く頭を下げる。
「千葉君」
 加賀さんがコートを脱ぎながら言った。
「愛され年下キャラってあいつみたいなのを言うんだと思わない?」
 確かに、と納得した。お株を奪われたようで少し悔しい気もしたが、確かに倉知君は、愛されている。さっきの女子二人も、敬語を使っていたからきっと年上だが、わかりやすく可愛がられていた。
 あんなに背が高いのに、幼い感じを残していて、そこが母性本能をくすぐるのかもしれない。
 はたと気づいた。
 もしここにいる女子に好きなタイプの男は誰かと一人ずつ聞いてランキングにしたら、一位争いが二人で、三位が俺?
 まさか、この俺が?
「千葉ー、何してるの、おいでよ」
 企画課の先輩たちが手招いている。
 いや、俺が一位に決まっている。
「今行きます」
 モテキングは、俺だ。

〈大崎編〉

 去年の十二月の初めのことだった。七世君が、突然左手の薬指に指輪をはめてきた。同棲している相手がいる、というのは彼自身が触れ回ったことだ。彼女持ちを残念に思いつつもひそかに想いを寄せる子は多かった。今はもう吹っ切れてはいるが、私もそのうちの一人だった。
 万が一、別れたときの後釜を狙っていた女たちは、あっさりと負けを認めた。指輪一つでざわつき、落胆し、白旗を上げた。
 七世君がどれだけ真面目で誠実か、みんなわかっている。告白したとき、あまりにも丁寧にお断りをされて、なおさら好きになった、という子もいる。
 彼が、薬指の指輪を大事そうに、愛しそうに見つめる目がたまらない、という女もいたが、何がなんでも奪ってやると魔の手を伸ばす女はいなかった。
 多分、直接行動に出たのは私くらいだろう。何か、七世君にはそういうことをしてはいけないような、清廉さがあった。
「結婚するの?」
 私が訊くと、七世君は少し困ったような顔をして首を横に振った。
「いえ、これはただのペアリングです」
「学生のうちは難しいよね。卒業したら結婚?」
「できたらいいですけど、多分無理です」
 どうして? と問い詰められるほど私は無神経じゃない。何か重大な、結婚できない理由がありそうだ。同棲までしていて結婚には踏み切れない、というのだからわけありに決まっている。人それぞれ事情がある。深く訊かないでおこう、と思った。
 そして年が明け、サークルで新年会を開くことになった。サークルの在籍人数に変化はないが、まともに活動しているのは夏の合宿に行った十人のメンバーくらいだった。
 今回の新年会もその中の八人で、七世君も含まれている。
 彼がこういう飲み会に参加するのは珍しい。未成年だから、というより、夜は食事を用意して、働いている彼女の帰りを待っていたいし、土日は二人の時間を大切にしたい、というのが理由だ。なんとも羨ましい話だ。
 どうして今回は参加するのか、と訊くと、同棲相手も新年会で、夕飯を作る必要がないから、ということだった。
「よーし、今夜は帰さないよー。あー、癒されるー」
 マヤ先輩が言って、七世君の腕の筋肉に頬ずりをした。私が同じことをしたら下心を疑われるのに、彼女がやるとなぜか許される。七世君個人には興味がなく、筋肉が好きだと公言しているからだろうか。
「なあ、この店なんか人少なくね?」
 メンバーの一人が疑問を口にする。食事時なのに、私たち以外の客がいないのは確かにおかしい。
「ああ、なんか団体で四十人くらい入るんだって。新年会のシーズンだからな」
 部長がワイングラスを傾けて答えた。願わくば、若者であってほしい。私には出会いが必要だ。
「いい男いないかなあ」
 ため息混じりに言うと、マヤ先輩も「ねー」と同意してくれた。マヤ先輩は男の入れ替わりが激しく、今はフリーだ。
「俺がいるじゃん」
 部長が髪を掻き上げて言った。
「おっ、俺もいますよ」
 一年の佐藤君も負けじと身を乗り出した。彼は本当に切実に、年がら年中彼女募集をアピールしている。
「いまさらサークル内で恋愛ってないよね」
「ないない」
 男どもが意気消沈する。カランカラン、と音が鳴り、店のドアが開いた。予約していた客だろうか。団体の中に、一人だけ若くていい男を見つけた。
「ねえ」
 マヤ先輩が私の肩を叩く。
「うん、結構いいかも」
 目鼻立ちが整っていて、七世君ほどではないが、背も高い。連れが店員にコートを預け、さっさと奥の席に移動しているのに、男は立ち止まり、こっちを見て何か言いたそうにしている。逆ナンを待っているような気配を感じる。正直、遊んでいそうな雰囲気だし、タイプではない。でもマヤ先輩は気に入ったようだ。行く? と言いつつ私の服を引っ張ってくる。うーん、と迷っていると七世君が突然腰を上げた。
「千葉さん」
 どうやら知り合いらしい。男のところに駆けていく。
「もうこれは、行くしかない。優菜、行くよ」
 私の腕を引いて七世君の後を追った。駆け寄ったわりに、親しい感じはしないし、どういう知り合いなのか単純に気になって訊いてみたが、七世君は口ごもって答えない。なんだろう、と思ったが、後から来た他の人たちとは特に仲がいいみたいだった。頭の雪を払ってあげるなんて、それなりに親密じゃないとやらない。
 この会社の人たちと、何かつながりがあるのだ、と理解した。
 それにしても。
 恐ろしいほどの美形がいる。私もようやく、スイッチが入った。七世君の知り合いなら、上手くやれば連絡先くらいは交換できそうだ。
「親戚のおじさんってことは、お父さんかお母さんの弟とか?」
 自分たちの席に戻ると、マヤ先輩が前のめりで訊いた。もしそういう間柄なら、「加賀さん」と名字で呼んだりはしないだろう、と思った。そもそも親戚ではない気がする。
「いえ、違います、そういうのじゃ」
 七世君は目を泳がせて言葉を濁す。
「だよね、若いもん。二十代でしょ?」
「はい、まあ」
「どこの会社勤めてるの?」
「え、っと……どこだっけ」
 マヤ先輩の質問攻撃に七世君はたじたじだった。それにしてもいちいち歯切れが悪い。何か隠している。
「これ重要だけど、既婚者じゃないよね」
「違います」
 そこだけはしっかりと否定した。
「じゃあ彼女いる?」
「……いると、……思います」
 変な間が開いた。七世君はコップの水を飲んでから、目を伏せた。
「くっそー、彼女持ちかー」
「マヤ先輩、もう一人のあの人は?」
 私が言うと、マヤ先輩が「うーん」と首を伸ばして、最初のイケメンを見た。
「いいんだけど、霞んじゃった。スーツの男っていいなあ」
 向こうの団体の飲み会がスタートすると、一気に賑やかになり、声を張り上げないと会話ができない。さっきから結構な大声で彼を褒め続けている。くたびれたサラリーマンが多い中で、加賀さんというあの人は異質な存在だった。とにかく綺麗だ。
 多分、社内でもモテているのだと思う。彼のテーブルにちょっかいをかける女性が後を絶たないし、遠目で見ていると、離れたテーブルに座っている女性たちが彼のほうを注目しているのがわかる。
「はあ、やっぱいいわ。美しいわ」
 七世君の上腕二頭筋を揉みしだきながら、マヤ先輩が悩ましげなため息をついた。筋肉が好きなくせに、ああいうスマートなタイプもいけるのだから、この人は節操がない。
「倉知君、あの人の連絡先知ってる?」
「え、えっと……、知ってますけど」
 自分のスマホを鞄から取り出すと、「じゃあ教えて」と急かした。
「勝手にそんなこと、できません」
「えー、もー、真面目なんだから」
 唇を尖らせて文句を言うマヤ先輩が、私の腕をつかんで、立ち上がる。
「行くよ」
「え?」
「本人に直接訊くんだよ」
「私も?」
「優菜だってお近づきになりたいでしょ。滅多にいないよ、あんな男」
 ちら、と七世君を見た。不安そうな顔をしている。
「えっと……、部外者だし、ちょっと勇気いるよね」
 暗に、やめよう、と言ったつもりだったが、マヤ先輩は気にしていない。もしかしたら酔っているのかもしれない。
「平気だって」
「私はいい、やめとくよ」
 七世君の様子がおかしい。悲しそうで、苦しそうで、とにかく気がかりだ。
「私は一人でも行くからね。番号ゲットしても教えてあげないよ」
 そう言うと、内股でぴょこぴょこと跳ねるように飛んでいった。
 はあ、と七世君が息を吐く。
「マヤ先輩も困った人だね」
 明るい声で言ってみたが、暗い声が返ってきた。
「そうですね」
 七世君はうつむいて、薬指の指輪を右手の親指で、撫でていた。どうしてだか、元気がなくなった。しょんぼりとした姿に胸がキュンとなる。体が大きいのに、この子は本当に、やけに可愛い。七世君の頭に伸ばしかけた手を引っ込めて、ちら、とマヤ先輩のほうを見た。
 針のむしろだ。ものすごく棘のある冷たい女性たちの視線に、気づいていないのだろうか。相当の強心臓だ。やがて回れ右をしてこっちに帰ってきた。
 泣き真似をしながら私に抱きついてきた。
「すごい爽やかな笑顔でごめんねって言われたあ」
 七世君が顔を上げる。すぐに表情が和らいだ。視線の先を見る。加賀さんがビールジョッキに口をつけながら、こっちを、というか七世君を見ていた。
 え、と声が出そうになった。二人が、見つめ合っている。
 何度も首を左右に振って、交互に見比べてみた。どう考えても二人の視線が重なっていて、見つめ合っている。周囲の騒々しさなど無関係に、二人だけの世界を、作り上げている。
 じわりと背中に汗がにじむ。気づいているのは、私だけ。体が、熱くなる。顔が火照る。多分私は今、人生で最大級の赤面状態だ。
「大崎、顔赤くない? 酔った?」
 部長に気づかれてしまった。
「へっ、やっ、いや」
 激しく狼狽する私に、七世君以外の、みんなの視線が集中する。慌てて手で顔を仰ぐ。
「二次会、カラオケだけど、行ける?」
「行くよ、うん。なっ、七世君も、来るよね」
 二人の混ざり合う視線を邪魔するように、視界を遮って訊いた。
「え?」
 七世君がようやくこっちの世界に戻ってきた。
「二次会、カラオケ」
 単語だけで喋る私を、七世君はうつろな目で見て「はあ」とあいまいな返事をした。
「ちょっと確認します」
 そう言って、スマホを取り出した。
「彼女が一次会で帰るなら、自分もって? どんだけラブラブなの?」
 部長が呆れ半分羨ましさ半分の複雑そうな表情で言った。七世君がスマホを操作しながら、「だって」と呟いた。
「ちょっとでも二人きりでいたいんです」
 みんなの動きが止まる。
「おっまえ、すげえな!」
「はずっ」
「やーん、私も言われたい!」
 盛り上がるみんなを差し置いて、私はじっと、七世君を観察していた。画面はさすがに見なかったが、送信が完了して顔を上げ、ちら、と確認したのは加賀さんの方向だった。すかさず、そっちを見る。私の想像が正しければ、数秒以内に加賀さんが、携帯電話を確認する。
 仲間と会話していた加賀さんが身じろぎをして、スーツのポケットから携帯を取り出した。固唾を飲んで見守る。携帯を操作して、しばらくしたあと、顔を上げた。にこ、と優しく笑った相手はやはり、七世君だ。
 七世君のスマホがバイブ音を鳴らす。
「お、返事来た?」
「なんて?」
「ていうか同棲してんのに、そんなに一緒にいたいもん?」
 七世君はスマホに目を落として幸せそうに微笑んだ。
「はい、いたいです。あの、俺二次会はパスします」
「ああはいはい、そうですか」
「お幸せにー」
 囃し立てるみんなは、知らない。七世君の同棲相手は、今ここに、同じ空間にいることを。
 七世君は、男の人と、同棲している。
 思い返せば七世君本人は、一度も彼女、という言葉は使っていなかった。女性だと決めつけたのは、私たちだ。
 言えなくて、でも言いたくて、つらい思いをしたこともあったと思う。
 もし女性なら、店で遭遇した時点で「この人が俺の彼女です」と堂々と私たちに紹介できていた。関係を訊かれて、親戚のおじさんなどと、彼に言わせるのは心苦しかったと思う。彼女はいるか、と訊かれて、「いると思う」としか答えられなかったのも悔しかっただろう。
 しゅんとして寂しそうだったのは、そのせいだ。
 七世君の横顔を見つめる。
 急に、抱きしめたくなった。健気さに、愛しくてたまらなくなった。
「優菜? あんた泣いてない?」
 マヤ先輩に言われて、ハッとなった。勝手に涙が流れていた。
「何、大丈夫? 酔った? 気持ち悪い?」
「なんでもないよ。ちょっと、お手洗い行ってくるね」
 そそくさとトイレに避難する。鏡を見ながら、ハンカチで涙を拭いた。目が赤い。なんで泣いたのか、自分でもわからない。
 呼吸を整えてからトイレから出ると、ドアの向こう側に七世君が立っていた。
「わ、びっくりした。七世君もトイレ?」
「いえ、心配だったんでついてきただけです、すいません」
「心配って、私のことが?」
「はい、倒れたりしないか心配で。大丈夫ですか?」
 気が抜けた。いい子すぎて、また泣けてきそうだ。
「七世君、私ね」
「はい」
「七世君の大事な人が誰なのか、わかっちゃったんだ」
「え」
 驚いた顔で声を漏らしてから、もう一度「え?」と半笑いになって首に手をやった。
「あの、なんで……」
「大丈夫だよ、気づいたの私だけだから」
「えっと、俺、何かバレるようなこと、言いました?」
「言ってないよ」
「じゃあ、なんで」
「七世君のこと、じっと見る癖ついちゃってるからかな?」
 七世君が口元を手で覆う。壁に背中を預けると大きく肩で息をついた。
「誰にも……、言わないでもらえますか?」
「もちろん、言わないよ」
「ありがとうございます」
 七世君が、安心したように笑う。
「私は七世君の味方だよ」
 自分に言い聞かせるように言った。七世君は柔らかく微笑んでもう一度私にお礼を言った。
 いいな、と思った。
 男同士なのに、なんの嫌悪も感じない。
 多分、知っているから。
 七世君が、どれだけひたむきに彼を愛しているか。
 夏の合宿での出来事以来、彼のような恋愛をすることが理想で、目標にしていた。その意識は、今日ますます強くなった。男同士でも関係ない。
 愛して、愛されたい。
 私の大切な人は、どこにいるのだろう。

〈おわり〉
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