電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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渇愛

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※ほのぼのテイストが薄く、シリアスな展開になっています。ご注意ください。

〈加賀編〉

 倉知に、言わなければいけないことがある。ダメージを最小限に減らすためにギリギリまで黙っていた。日曜の午後。タイミング的には今が一番いい。
 食事を終えて、風呂に入り、リビングのソファでお笑い番組を見ていた。倉知の好きな芸人が出ているおかげで終始楽しそうだ。今しかない。
「倉知君」
「はい?」
「俺、明日から一週間出張だわ」
 CMに入ったところで、なんでもないふうを装って言った。明日の天気を告げるかのような自然さだった。倉知はテレビを見たまま「そうですか」と声のトーンを変えずに相槌を打ったが、スイッチが入るのはすぐだった。
「一週間?」
 勢いよく首をこっちに向けて、もう一度言った。
「一週間、出張?」
「はい」
「明日から? 一週間?」
「はい」
「え?」
 なかなか飲み込めない様子だ。CMが終わり、番組が始まっても混乱は解けていない。
「明日から? いないんですか? 加賀さんが?」
「うん、ごめん。もっと早く言えばよかったんだけど」
 この世の終わりのようなどん底に暗いオーラが目に見えるようだった。こうなるから今まで言えなかったのだ。
「県外にできる新しい営業所の、立ち上げの応援で……、一週間っていうか土曜の午前中に帰るから」
 慰めにならなかったようだ。泣き顔で抱きついてきた。
「俺、干からびて死ぬかもしれません」
「え、なんで。ちゃんと食えよ?」
「泣き続けて、干からびて死ぬんです」
 付き合い始めてやがて二年。同棲を始めて半年。一人の時間があっても、それはそれで新鮮になってくる時期なのに。
「寂しい」
 鼻をぐずつかせ、俺にしがみついた倉知は小刻みに震えていた。今のこの落胆ぶりを動画に撮っておいて、倦怠期がきたときに見せてやりたい。と思ったが、そんな日は来ない気がした。
「明日から実家帰ったら? 家族といたら寂しくないよ」
 大きな背中を撫でながら言った。すすり泣きは、やまない。予想通りの反応だ。
「同じです。寂しいです」
 倉知は首を振って涙声で言った。
「うん、俺も寂しいよ」
「五日も加賀さんの顔が見れないなんて、気が狂う」
 本当にこいつは大丈夫なのか、と心配になってきた。倉知は黙っている。ひたすら鼻をすする音と、テレビから流れる笑い声がアンバランスだった。
 数分後、倉知が動いた。俺から離れて、ティッシュで鼻をかむ。テレビを消して、はあ、とため息を吐き出した。
「仕事、頑張ってください」
 整理がついたらしい。
「うん。お土産買ってくるからいい子でいろよ」
 ソファから腰を上げ、準備してくる、と言い置いて、倉知の頭を撫でる。
「加賀さん」
 キャリーバッグに着替えを詰め込んでいると、背後から倉知が呼んだ。
「一人ですか?」
「え?」
「出張行くの、一人?」
「いや、一人じゃないけど」
 そんなことを知ってどうするんだ。
「女の人と一緒?」
 不安そうに俺を見下ろしている。なるほど、と苦笑する。
「全員男だよ」
 ここで安心しないのが倉知だ。曇った表情のまま、質問を重ねてくる。
「ホテルに泊まるんですよね。一人部屋?」
 会社の人間と、しかも男と同じ部屋で寝たからと言って、何かが起きるはずもない。普通、嫉妬の対象にはなりえない。俺を信用していないわけじゃないのはわかる。それでも変な勘繰りをしてしまうほど、倉知は心配性だ。
「確かツインだけど、別にそんな」
 言いかけて思い出した。今回の出張メンバーに九條がいる。誰と同じ部屋かなんて気にも留めていなかったが、もし九條だったら。
 襲われる? 馬鹿な。ない。それはない。
「今、何考えてました?」
「え、いや、何も。なんでもないよ」
「俺に言えないこと?」
 ギク、として一瞬返答に詰まった。倉知はそれを、見逃さない。
「隠しごととか、ないと思ってた」
 声ににじむ失望の色。倉知を振り仰いで、「違う」と言った。まっすぐな目で、まばたきもせずにじっと俺を見据えている。心臓が、痛い。鋭い痛みがチクチクと、やまない。
「ごめん、でも、言わなくてもいいことだってあるだろ?」
「それはたとえばどういうことですか?」
 怒っている。のだろうか。よくわからないが、倉知から体温が消えたように感じる。
「こんなことで喧嘩とか、やめようよ」
 俺が言うと、倉知が目を細めて口元を歪めた。
「喧嘩ですか? これ」
「違う? なんかすげえ責められてるよね、俺」
「すいません。でも俺は、知りたいです。加賀さんのこと、なんでも知りたい」
 俺を好きだから、好きすぎるからこうなっているのはわかる。でも、相手の全部を根こそぎ知り尽くすことが本当に必要なのか。
 キャリーバッグのファスナーを閉めて、息をついてから腰を上げた。
「付き合いたての頃、会社の慰安旅行で温泉行ったの覚えてる?」
 倉知は目顔でうなずいた。
「あのとき同期の奴に告白された」
 ああ、やっぱり。こんなことは「言わなくてもいいこと」なのだと、倉知の顔を見て確信した。
「ずっと好きで、でも言えなくて、結婚すれば忘れると思ったのに、嫁も子どもも愛せない。だから一回抱かせてくれって言われた」
 これも、「言わなくてもいいこと」だ。倉知は静かに取り乱している。目が揺れて、唇をわななかせ、狼狽している。
「俺はあいつのこと友達だと思ってるし、当然何もないよ。あいつも家族を大事にするって結論出したし、俺も付き合ってる奴がいて、そいつのことめちゃくちゃ好きだからって言ったから」
 お前のことだよ、と胸のうちで囁いた。倉知は身動き一つしない。
「明日からの出張、そういやあいつも一緒だなって、考えてたんだよ。こんなこと、知りたかった?」
 頭を掻いて壁に寄りかかり、少し間を置いて訊いた。
「告られたこと、どうして黙ってたかわかる?」
 倉知は蒼白になってただぼんやりと立っている。
「言わなくてもいいこと、だからだよ。それを隠しごとだと思うかどうかは個人差があるかもしれないけど、疚しいことは何もない」
 ショックを受けているのが手に取るようにわかる。抱きしめて、俺が悪かった、黙っててごめんな、と頭を撫でてやれば安心を与えられる。でもそれだけだ。何もプラスにならない。甘やかしてばかりだと、成長しない。今後、同じ過ちを繰り返す。
「俺、今日リビングで寝るわ」
 倉知が素早く俺を見た。ものすごく、驚いた顔をしている。時には距離を置くことも大事だ。頭を冷やして、ちゃんと考えてほしい。
「明日いつもより早いし、朝適当に食べて出てくから。お前もちゃんと食べて学校行けよ」
 ドアを開けて、「おやすみ」と言って寝室を出た。
 リビングにいても、重苦しい空気を感じる。ドア一枚隔てた向こうで、一人でいる倉知を思うと胸が痛む。考えないようにした。甘えるのも、甘やかすのも、なしだ。
 ソファで眠り、次の日の早朝、音を立てないように寝室に入った。体を丸めた倉知が、ベッドの端で眠っている。多分、何時間も眠れずに、悶々と考えていたのだろう。顔を覗き込んで、頬を撫でた。涙の痕が見える。可哀想なことをした。でもこれは、俺たちにとって必要な試練だ。
 とはいえ、きつい。
 仕事は激務で、朝から晩まで動き回り、休まる時間はない。そんな中で、常に頭の片隅にあるのは倉知のこと。険悪になったまま、フォローせずに置いてきた。
この程度のすれ違いは、付き合っていれば遅かれ早かれ起こるのが普通だ。でも俺たちにとっては初めてのことで、あいつの性格上、俺が思っているより何倍も深刻に捉えているだろう。
 その証拠に出張中、倉知から一度も連絡がなかった。落ち込んでいる? 怒っている? とにかくネガティブ路線まっしぐらなのは間違いない。冷静になると俺も大人げなかった。もっと他に言い方があった。倉知を落ち着かせて、ゆっくりと言い聞かせることができたはずだ。仕事のストレスとプレッシャーは言い訳にはならない。
「大丈夫か?」
 九條の声に、ハッとする。隣に座っている九條が、心配そうに俺を見ていた。出張の最終日、当然というか、飲むぞ、という流れになった。どこにそんな余力があったのか、一仕事終えてハイになった連中が大騒ぎする中で、俺は一人悶々と考え込んでいた。
「さっきから全然食べてない」
「あー、うん、ちょっと疲れただけ」
 泡の消えたビールに口をつける。
 九條の低い声がぼそりと何かを呟いた。周りがやかましくて聞こえない。
「何?」
「……いや、出張中ずっと、気になってた。元気がないな」
「え」
 顔に出さないように、気をつけていたつもりだった。
「何か悩みでもあるのか」
 火のついていない煙草を咥えながら、九條が言った。
「まあ、うん、ちょっと」
 言葉を濁すと、九條が壁に寄りかかり、苦笑した。
「俺には言えないか」
「別にお前だからってわけじゃ」
「いい、無理するな」
 体を起こしてテーブルの上のビールを掴むと、咥えていた煙草を口から外してグラスを傾けた。火をつけないのは、俺に遠慮しているからか。と言っても俺以外全員喫煙者で、そう広くもない個室はすでに紫煙が蔓延している。
「加賀」
 九條がスマホの画面を俺に向ける。ツインテールの小さな女の子が、至福の表情でソフトクリームに齧りついている写真だ。
「それ、娘?」
「大きくなっただろ」
「すげえ可愛いな。嫁さん似か」
「俺に似なくてよかった」
 真顔で言ったのがおかしくて笑うと、九條がフッと目元をやわらげた。
「やっと笑ったな」
 俺の肩に手を置いて、腰を上げる。
「安心したから厠へ行く」
「おう、いっといれ」
 九條が個室を出ていくと、向かい側にいた総務部の浅田課長が、派手な音をさせてジョッキをテーブルに置いて「おいおいちょっと」と身を乗り出した。
「加賀、お前、九條と同期で仲いいんだよな?」
「はい、まあ、仲良しですね」
「最近喧嘩した?」
「え? いや特に」
「ふうん。だよな、別に、普通に喋ってるもんな」
 何が言いたいのかわからない。首をかしげると、浅田課長は煙草を咥えて火をつけて、煙を吐きながら言った。
「宿泊先、お前ら同室の予定だったんだよ。でもあいつ、変えてくれって」
「え」
「それって実は嫌われてるってことじゃないすか? 課長、そういうのは本人に言ったらまずくないすか」
 製造部の男がゲラゲラと笑う。
「あれ、そういうあれ? すまん、聞かなかったことにして」
「加賀、泣くな、安心しろ。誰がお前を嫌いでも、俺はお前が好きだからな」
 隣に座っていた同僚の原田が俺の腰に手を回し、密着してくる。誰かが囃し立てる口笛を吹くと、部屋の中がドッと沸く。アルコールと煙草の混じった息に、吐き気がする。原田の脂でぎらついた顔を押しのけて、席を立つ。
「こら、どこ行くんだよ。浮気か?」
「電話してくる。原田てめえ、あとで毛根抜くから覚えてろ」
「ひどい、お前はいつもそうだよ! 加賀のせいで俺、こんな頭になっちまったんだ」
 原田は薄毛で悩んでいるが、たびたび自分で笑いにする。毛根を抜く、は鉄板ネタなのだ。
 笑い声がこだまする個室を出て、どこか静かに電話ができるところはないか、と見回したが居酒屋に静寂はない。店内はどこも騒々しい。
 暖簾をくぐり、外に出た。外は静かだった。車が一台やっと通れるくらいの狭い路地裏だ。年季の入った店が立ち並び、人通りは少ない。
 携帯を操作しながら、出入り口から離れた店の隅に移動する。倉知の番号を呼び出して、深呼吸をした。
 何を言おう。何から言おう。
 まとまらない。
 呼び出し音を聞きながら、空を見上げる。夜なのに、厚い雲に覆われているのがわかる。星も、月さえも、見えない。首元を、冷たい風が撫でていく。ワイシャツ一枚だと、寒い季節になってきた。右手をポケットに突っ込んで、身をすくめる。救急車の音がどこか遠くで聞こえている。不吉な音は、徐々に小さくなって、消えた。
 目を閉じた。
 あと三コール。待とう。
 一回、二回、そこで、呼び出し音が途切れた。
『もしもし』
 かすれた声が、囁くように応えた。
「出ないかと思った」
『……すいません、出るのが怖くて』
「怖い?」
『別れるって言われるのが、怖かったんです』
「なんでそうなる」
 一笑する。倉知の震える呼吸の音が聞こえた。泣いているのか、何も言わなくなった。
「ごめん、ごめんな。ほんっとごめん」
 相当心細くて怖い思いをさせていたらしい。
『電話で、電話でお別れは嫌です』
 泣きじゃくりながら倉知が言った。
「ちょっと待て。落ち着け。別れないよ? なんで? あ、何? 別れたいのはそっち?」
『う……っ、やだ、別れ、ない』
 途切れ途切れに聞こえる声は、生気がなく、疲れ切っているように感じた。
「大丈夫だって。ああもう、ほんと、違うんだよ。多分仕事で頭いっぱいで、言い方が悪かったんだよな。ごめん、怒ってたわけじゃないんだよ。怖がらせてごめん」
 しゃくりあげる泣き声だけが、しばらく聞こえていた。どう言えば倉知の不安を取り除けるのか、わからない。
「倉知君、聞いてる?」
『……はい』
「耳の穴かっぽじってよく聞けよ」
 息を吸い込んで、吐く音。はい、としわがれた声が返事をする。
「愛してる」
 風が吹いて、たった今吐いた言葉を、攫っていく。そんな錯覚にとらわれて、もう一度言い直した。
「愛してる。すげえ愛してる」
 嗚咽が聞こえてくる。慟哭は、しばらく続いた。愛しさがこみ上げて、後悔が押し寄せてきた。ごまかしてでも、甘やかしてでも、あのとき軽く流してしまえばよかった。とにかくもう二度と、こいつをこんなふうに泣かせたくない。
「わかった?」
『はい』
 鼻声が返ってきた。
『俺、嫌われたと……、思って』
「ないよ。一瞬たりともそんな瞬間はない。逆に、俺のほうが嫌われたと思ったけど」
『なんで……、そんなの、俺、俺が加賀さんを嫌うなんて、俺のくせに、生意気です』
 妙なことを真剣な声色で口走った。笑いそうになったが、受け狙いではなさそうだ。
「隠しごとされて、がっかりしたんだろ?」
『がっかり……、そう、ですね、少しショックで』
 ごくり、と唾液を飲み込む音が聞こえた。
『でも、俺、考えたんです。ずっと、一人で考えてました。加賀さんが言ったこと、言わなくてもいいことがあるって、その意味がよくわかりました。だから、俺、情けなくて、自分に嫌気がさして、ほんと、なんで俺、俺なんか』
「ストップ」
 五日間ずっと、落ちて落ちて深い泥沼に潜り込んでいたらしい。救い出せるのは俺しかいない。
「もう考えるな。俺が帰るまで、考えるの禁止な」
『……わかりました。加賀さん、会いたい。加賀さんに、触りたい』
 息苦しそうに声を絞り出した倉知が、加賀さん、加賀さん、と切なそうに俺を呼び続ける。
「倉知君、ちゃんと食べてる? 眠れてる? 冗談抜きで干からびて死ぬなよ?」
『死にそうです。加賀さんを抱きしめたい。早く顔が見たい』
 店の扉が乱暴に開き、大声で「加賀!」と呼ばれた。
「キャバクラ行くぞ、キャバクラ!」
 酔っ払いの喧噪に顔をしかめて振り返る。目が合った。赤提灯の脇で、店の壁に寄りかかって立っている九條と、目が合った。ぶら下げた右手に、短くなった煙草を挟んでいる。
 もしかして、ずっとそこにいたのか?
 見たことがない顔をしている。どう表現していいのかわからない、複雑な表情。
 苦しい。切ない。痛い。悲しい。
 そして、困惑。
 指から、煙草が零れ落ちた。それに気づかずに、九條は放心して俺を見つめていた。

〈九條編へつづく〉

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〈九條編〉

 煙草を、やめられない。やめようという意志が、実はないからだ。
 娘の前では吸わない。一日五本まで。自分でルールを作って、それを忠実に守っている。
 体に悪いのはわかっている。吸っていてもいいことはない。何より周囲に迷惑がかかる。煙草を吸わない人間にとっては、気持ちのいいものではないのもわかっている。
 出張に参加した社員のうち、吸わないのは加賀一人だった。打ち上げの飲み会で、一斉に煙草に火を点ける社員たちに殺意が湧いた。副流煙で加賀を殺す気か、と怒鳴りつけたいのを堪え続けていた。
 トイレに行くと席を立ち、外で煙草を吸っていた。俺の分の煙を吸わせないためだ。外は寒かった。徐々に頭が冴えてきて、自分のこの行動が不気味に思えてきた。独りよがりというか過干渉というか過保護というか、とにかく、勝手に他人から健康を気遣われているなんてきっと気持ちが悪い。
 これも煙草と同じだ。やめなければと思っていても、やめられない。
 自己嫌悪に陥りながら煙草を燻らせていると、店から人影が出てきた。驚いてむせるところだった。加賀だ。
 わざわざ外で煙草を吸う理由を問われたらどう答えようかと身構えたが、携帯に視線を落としたままで俺には気づいていない。
 携帯を耳に当てて、空を見上げている。
 好きだと告げてから、二年。加賀との関係に表面上の変化はない。顔を合わせれば挨拶もするし、仕事以外の世間話もする。時には軽口も叩く。これでいい、と思う反面、つらくなるときもある。
 加賀は、優しい。誰にでも平等に優しい。普通は男に好かれて、抱かせてくれなどと頼まれれば、相手を敬遠する。でも加賀はしない。以前と変わらずに接してくれる。
 そういう奴だから、自分で区切りをつけるしかない。
 俺は苦労して区切りをつけた。やり場のない慕情は心の奥にしまい込んで、鍵を掛けた。
 俺には家族がいる。
「出ないかと思った」
 電話の相手に加賀が言った。出張初日から、ふとした瞬間に沈んだ表情を見せていた。誰にも気づかれないように上手く隠していたつもりだろうが、甘い。俺の目はごまかせない。おそらく彼女と喧嘩でもしたのだろうと思っていた。
「ごめん、ごめんな。ほんっとごめん」
 加賀が虚空に向かって謝罪を繰り返している。その背中を見て、笑みが漏れた。必死に謝る姿が健気で可愛い、と思ってしまった。電話の向こうで相手も昂っているのか、加賀の狼狽が後姿だけでもよくわかった。
 これ以上盗み聞きするのはよくない、と我に返り、店に戻ろうと踵を返したところで、加賀の言葉が俺の足を止めた。
「倉知君、聞いてる?」
 どうやら電話の相手は女ではなかったらしい。友人だろうか。加賀が誰かと喧嘩をして、ここまで低姿勢で許しを請うのは違和感がある。そもそもこいつは誰かと喧嘩をするほど本気で向き合わない。争い事を好まない。いつも自分が折れて、その場が丸く収まればいい、という事なかれ主義なところがある。
 振り返ったが、相変わらず背中しか見せない。何か、引っ掛かる。胸が、ざわついた。
 加賀は俺には気づかずに、電話の相手に全神経を注いでいる。
「愛してる」
 息が止まった。風に押されて体がふらついた。追い打ちをかけるように、加賀の熱の籠った声が、風に乗って俺を貫いた。
「愛してる。すげえ愛してる」
 心臓が、凍りつく。立ちくらみがして、壁に肩がぶつかった。膝が揺れる。手が、震える。黒く醜い嫉妬心が全身を支配する。何年も、喉から手が出るほど欲しかった男を、誰かが、横から搔っ攫っていった。女なら仕方がないと思えた。でも男となると、いやでも考える。
 俺でもよかったんじゃないか。
 もし俺が先に想いを告げていたら。
「加賀! キャバクラ行くぞ、キャバクラ!」
 営業部の原田の濁声が思考を遮った。加賀が振り返り、すぐに俺に気づく。まずい、という表情。聞かれていたことを悟ったらしい。
 会社の人間たちがガヤガヤと店から出てくると、浅田課長が俺に気づいた。
「お前、外にいたの? 九條もキャバクラ行くだろ?」
 手の震えを気づかれまいと、ポケットに突っ込んで、咳払いをする。
「行きません」
「嫁さんが怖いか? 言わなきゃばれないよ」
 そう言う浅田課長は既婚者で、メンバーのうち独身なのは加賀と原田だけだ。飲み会のあとは、既婚未婚にかかわらず、キャバクラや風俗で遊びたがる男がなぜか多い。俺はごめんだ。
「いやいや、行かないって。行くわけないし」
 電話の向こうにも聞こえたらしい。加賀が言い繕っている。
「行かないって言っといて行くんですよー。それが男ってもんだよな。ほら、行くぞ」
 加賀の肩に腕を回すと、にやけながら原田が言った。
「一旦切るわ。ごめん」
 加賀は携帯をポケットに突っ込むと、原田の髪を無言でわしづかみにした。
「あっ、やめて、毛根はやめて!」
「加賀」
 俺が呼ぶと、加賀は動きを止めて恐る恐るこっちを見た。
「飲み直さないか。二人で」
「う、お、おう」
 愛想笑いで応じると、気まずそうに視線を逸らす。
「なんだよ、加賀も行こうぜ、キャバクラ」
 原田が言った。内心で舌を打つ。こいつは本当に加賀が好きだな、と自分を棚に上げてうんざりした。
「まあまあ、加賀は毎日がキャバクラみたいなもんだからな」
 浅田課長がフォローのつもりかよくわからないことを言い出したが、なぜか満場一致し、原田も納得した様子だった。全員が夜の街へと消えていくのを見届けると、加賀が俺をおずおずと、上目遣いで見てきた。
「あー、その、さっきの、聞いてた、よな」
「愛してるってやつか?」
 地面に視線を落とし、何をどう言おうか考えているようだ。
「聞くつもりはなかった。悪かった」
「九條、その」
「俺が」
 加賀の科白を遮って、続けた。
「俺がお前に告白したとき、付き合ってる奴がいるって言ってたな。今のはそいつか? あれからずっと、続いてるのか?」
 小さく息を吐いてから加賀が顔を上げる。何か、吹っ切れたように見えた。
「うん」
「男か」
「うん」
「高校生だったな」
「今大学一年だよ」
「お前は、男が大丈夫なんだな」
 よどみなく答えていたが、ここで反応が遅れた。加賀の眉間にしわが刻まれる。
「俺でもよかったか?」
 ポケットの中で、拳を握りしめる。
「もし俺が、俺がもっと早く好きだと言ってたら」
 加賀は悲しげに顔を曇らせた。困らせたくはない。
「俺と付き合ってくれたか? 俺にも、愛してると言ってくれたか?」
「やめろよ」
 静かにため息を吐いたのが聞こえた。もうやめたほうがいい。明るくおどけて、笑い話にしてしまえばいい。今ならそれができる。冗談だ、という一言で切り上げればいい。平穏に続いていた俺たちの無難な関係が、崩れてしまう前に。
「抱かれてるのか?」
「九條……」
「そうなんだな? どんな奴だ? どうして男と付き合おうと思ったんだ?」
 加賀は答えずに、うつむいて首を撫でている。
「俺じゃ駄目か? いや、俺でもよかったってことだろう?」
「九條、もうやめろ」
「どうして、どうして男なんだ。これは、なんの罰だ?」
 苦しい。悔しい。過去の自分が、憎くてたまらない。言えばよかった。嫌われてもいい、何を失っても、つらくはなかったはずだ。今よりは。
「好きだ」
 閉じ込めていた感情が堰を切って溢れ出してくる。
 決着をつけたはずなのに。醜い欲が、暴走して止まらない。
「加賀、好きだ」
 手を伸ばす。うつむいたままの加賀の頬に指先が触れた。弾かれたように顔を上げて、距離を取ろうとする。素早く腕を掴んだ。逃がさない。体を引き寄せ、顔を近づける。唇が触れる寸前で、加賀の手がそれを阻む。冷たい、手のひらの感触。鼻先で、長い睫毛が力なく、ゆっくりとまばたきをする。
「落ち着けよ。外だぞ」
「外じゃなければいいのか?」
「何それ。とりあえず離れろ」
 俺の顔面を力任せに押しのけて、手を振りほどこうとする。
「離せって」
「嫌だ」
 居酒屋の隣のバーから人が出てきた。男女の二人組で、俺たちを一瞥すると顔を寄せて囁き合うのが聞こえた
「喧嘩?」
「痴話喧嘩?」
 クスクス笑って去っていく。そういう関係に見られることが嬉しくて、誇らしい気持ちになった。
「ほら、往来でこんなことしてると誤解されるぞ」
「じゃあ、ホテルに戻るか。俺の部屋に来い。あいつらが帰るまで猶予がある」
 手首を引っ張って歩き出す。加賀は足を踏ん張って、抵抗している。
「馬鹿、離せ。なんなんだよ、酔ってんのか?」
「酔ってない」
「冷静になれよ、らしくねえ」
「冷静でいられるわけがない。俺は……」
 喉が渇いて、声が掠れる。唾を飲み込んでから口を開いた。
「俺は何度もお前を抱く夢を見てる」
 終わりだ。きっと、次に会うときは避けられるだろう。こんなことを言われて不快にならない人間はいない。
「俺の歪んだ欲望が、お前を穢してるんだ」
 俺は嫌われたいのだろうか。加賀が優しいから、いつまでも燻り続けている。いっそのこと無視されれば。俺に向けられるのが笑顔ではなく、冷たい視線なら。
 俺を軽蔑してくれ。
 罵倒してくれ。
 立ち直れないほどに、叩きのめしてくれ。
 同情するような目で、加賀が俺を見る。
「夢って自分じゃコントロールできないよな。なんかごめん」
「違う。そうじゃない」
 どこまでお人よしなんだ、と苛立ち、こぶしを握り締めた。
「俺は、お前を抱きたい。でもできないから、夢で見るしかないんだ」
 加賀が困っている。頭を掻いて、それから少し寒そうに身をすくめた。
「お前、俺を美化しまくってない? 現実はただのおっさんだし、たとえばの話な、仮に抱かれたとしても、幻滅して終わりだよ」
 全否定してやりたいところを堪えて、「じゃあ」と急いで言った。
「じゃあ、抱かせてくれ。俺に、幻滅させてくれ。終わりにしたい」
「終わりって?」
「関わりを断つ。他人に戻る。俺のことは無視してかまわない」
「同じ会社で働いてるのに? できるかよ、そんなこと。つーか、手首すげえ痛い。折れそう」
 握り潰す勢いで、握力を込めていたことに気づく。慌てて手を離した。加賀は、自由になった手首を振って「いてえ」とぼやく。
「悪かった」
「うん」
 手首を撫でさすりながら、はあ、とわかりやすくため息をついた。疲れ切った響きを隠そうともせず、腹の底から吐き出されたため息が、コンクリートに吸い込まれていく。
 気持ち悪い、うざい、と切り捨てる言葉を覚悟した。それでいい。早く俺の息の根を止めてくれ。
「俺は、お前と友達でいたい」
「……なんだと?」
「同期で一番気が合うのはお前だし。今まで通りじゃ駄目なのか?」
「残酷な奴だな」
「どうしても無視しろって言うなら努力はするけど、嫌いにはなれないからな?」
 足元に視線を落とし、煙草の吸殻に気づいた。かかとでそれを踏みにじりながら、奥歯をかみしめてから口を開く。
「下心がある男と、友人を続けられるのか?」
「腹ん中で何考えてたって、九條は九條だろ」
 顔を上げた。加賀が、笑っている。この世のどんなものよりも、美しいと思った。自然と涙が溢れ出た。視界が揺れる。涙が、止まらない。
 嫌いにはなれない。
 加賀がくれたその言葉が、何よりも嬉しかった。
 顔を覆ってもう一度、好きだ、と念を押す。うん、と答える加賀の声。頭にふわ、と手が乗った。子どもにするように、撫でてくる。大人になってから誰かにこんなふうにされたことはない。その懐かしい感触は俺を癒し、心を軽くした。
 誰もやらないようなことを、さらりとやってのける。そんな加賀を、本当に好きだと思った。
「加賀、ごめん。お前が好きだ」
 いつか終わるのだろうか。早く終わればいい。
 この不毛な恋の終わりが、俺には想像がつかなかった。

〈倉知編へつづく〉

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〈倉知編〉

 通話の切れたスマホを胸に抱いて、ベッドの上で横になっていた。
 考えるの禁止な。
 加賀さんが言った。
 携帯を切ってから、ずっと考えていた。禁止されたからといって、無になることはできない。
 よかった。
 渦巻くのはその思い。
 心の中に居座るあらゆるネガティブな感情が、消えていく。
 隠しごとをされたと決めつけて、一方的に責めた。息苦しい思いをさせてしまったと思う。
 今までもそういうことはよくあった。嫉妬してばかりで、そのたびに束縛した。
 加賀さんに、嫌われたと思っていた。
 加賀さんだって、きっとずっと我慢していた。いいよ、と気にしてないふうでも、積み重なった鬱憤がバランスを崩し、倒れるときだってある。
 慰安旅行で同期に告白されたことを黙っていたのは、余計な心配をかけないためだ。言えば俺がどう反応するか、わかっていたからだ。それなのに、言うのが正解のように、自分の価値観を押しつけた。一方的に寄せられる好意を、加賀さんにどうにかできるはずもないのに。
 告白されただけで、それ以上何もなかった。だから黙っていた。むしろ何かがあったらすぐに言ってくれていたかもしれない。あの人はそういう人だ。
 息をついて、きつく目を閉じる。
 早く帰ってきて。
 顔を見て、謝りたい。
 抱きしめたい。
 こんなに長く離れていたことは今までなかった。なんのコンタクトも取らなかった日も、ほぼない。
 そう思うと今まで加賀さんには窮屈な思いをさせていたのかもしれない。
 お前に束縛されるのは嫌いじゃない、とよく言うが、限度がある。
 ごめんなさい、加賀さん、ごめんなさい、早く会いたい、ごめんなさい。
 ブツブツと呪文のように唱えていると、「倉知君」と声が聞こえた。ベッドの隅に、加賀さんが腰掛けていた。
「加賀さん」
「ただいま」
「おかえりなさい、……加賀さん、よかった……、帰ってきてくれた」
 なぜだか猛烈に体が重くて、手を伸ばすのがやっとだ。加賀さんが俺の手を握って、顔を覗き込んでくる。
「倉知君、ごめんね」
 瞼も重い。必死で起き上がろうとするのに、できない。
「ごめん、俺、浮気した」
「……え?」
「ごめんね」
「う、そ、嘘ですよね?」
「他の男と寝たんだ」
「嘘だ。絶対、加賀さんはそんなこと、しない。絶対しない」
 目が開かない。涙が流れて、顔が濡れる。
 咽び泣いていると、スマホが鳴った。やかましい。今はそれどころじゃない。どこだ。スマホはどこだ。音を止めなければ。
 起きなければ。
 ハッとして跳ね起きた。部屋が明るい。開け放したカーテンから朝日が差し込んでいた。
 部屋を見回した。加賀さんは、いなかった。
「加賀さん?」
 寝室を出て呼んでみた。冷やっこい空気だけがそこにある。身震いをした。全身にひどく汗をかいていることに気づいた。震えながら寝室に戻り、鳴り続けるスマホを手に取った。
 加賀さんからの着信だ。混乱しながら耳に当てる。
『おはよう。ごめん、まだ寝てた?』
 加賀さんが言った。
「夢」
『え?』
「夢だった」
 脱力して、ベッドに突っ伏した。信じられない。ものすごくリアルだった。確かにそこに、加賀さんが座っていたのに。
「夢ですよね? 加賀さん、今どこ? まだ帰ってきてないですよね? 浮気なんて、他の人と寝たなんて、嘘ですよね。夢だって言ってください」
 怖くて震えが止まらない。震える自分の体を押さえつけながら、目を閉じて懇願する。加賀さんが黙った。
「加賀さん」
『ごめん』
「嫌だ、加賀さん」
『お前がそんな悪夢見たのは俺のせいだよな』
「悪夢? 夢、夢ですよね?」
『夢に決まってんだろ。浮気したら腹を切るよ、俺』
「駄目です、死なないでください」
『うん。泥酔して前後不覚でもやらない自信あるから』
 加賀さんは絶対に浮気はしない。わかっていても、混乱して、受け入れそうになるくらい現実感のある夢だった。夢というより幻覚に近かった。ずっとまともに睡眠をとっていなかったせいかもしれない。
 安心しすぎて泣きそうになる。深呼吸をして脳に酸素を送ると、ふと思いついた。
「キャバクラは?」
『はっ? あ、キャバクラ行ったら浮気?』
「行ったんですか?」
『行ってないけど。行くと思う?』
 金を払って女の人と酒を飲む。そんな店に加賀さんが行きたがると思えない。
「そういうところは仕事の付き合いで行くなら仕方がないし、ギリギリセーフです」
『あれ? え、倉知君だよね?』
「なんですか、俺です」
『びっくりした。めっちゃ大人な意見だから別人かと思った』
「もう大学生ですから」
 誇らしげに答えると、加賀さんが吹いた。
『うん、そうだね。もう大人だね』
 二人同時に笑い声を上げる。こういうくだらなくてなんでもない会話を、またできるなんて思わなかった。目の端に浮かんだ涙を拭って、服の上から胸を掴む。甘く、軽い痛みが疼いている。
「いつ、何時に帰ってきますか? ていうか今何時ですか?」
『八時ちょい過ぎ。まだ移動中なんだけど、ちょっと仕事したいから会社寄るわ』
「え?」
 絶望的な声が出てしまった。加賀さんが早口で言った。
『終わったらまた連絡するから』
 感情を押し殺し、物わかりのいい声で「待ってます」と言って電話を切った。
 ベッドに腰掛けたまま、窓の外を見る。やけに天気がいい。チカチカと、小さな光が舞っている。
 外に出よう。太陽を、浴びよう。
 加賀さんの出張中、俺は抜け殻だった。体だけが大学に行って、意識はどこかに飛んでいた。そのせいか、ここ数日の記憶が曖昧だ。ただ習慣で動いていただけで、生ける屍同然だった。
 加賀さんの魔法で息を吹き返した俺は、朝食を済ませ外に出た。大学に向かい一コマだけ授業を受けて、電車に乗って向かった先は、加賀さんの会社だ。
 ここに来てもすぐに会えるわけじゃない。でも待っていられなかった。
 今日は土曜日だ。休日でも出社している社員はいるらしい。広大な駐車場に、まばらに車が停まっている。その中に黒のZを見つけて、それだけで胸が締めつけられた。
 駐車場を囲む植え込みの淵に腰を下ろし、腕時計で時間を確認した。まだ十二時前だ。加賀さんから連絡はない。
 こんなところで待っていたら、多分すごく迷惑だ。人通りはそれほど多くはないが、不審者丸出しだし、どれだけ時間がかかるかわからない。やっぱり大人しくマンションに戻って待っていようか、と逡巡していると、駐車場の出入り口から出てきた車が目の前を通り過ぎたところで急停車した。白のインプレッサだ。ハザードランプが点灯する。運転席から降りてきたスーツの男が、迷いのない足取りでこっちに来た。
「突然申し訳ない」
「え、あっ、はい」
 何か、警察官のような厳格そうな雰囲気のある男だった。ここに座っていることを咎められるのかと思い、慌てて腰を上げた。立ってみると俺より背が低かったが、妙に威圧感のある人だった。
「君、うちの運動会で走ってた?」
「え? ああ、はい、リレーで。そうです」
 俺を見つめる目は険しかったが、一瞬泣きそうに、弱々しく歪んだ気がした。
「誰の家族だろうと思ってた」
「あの、俺、誰かの家族っていうか」
「倉知君か?」
 名前を言い当てられて硬直する。
 なんだろう。やけに見られている。視線が痛い。
「そうか……、君が倉知君か。そうだったのか。やけに親しそうだとは思ってた」
 よくわからないが納得している様子だ。そもそもどうして俺の名前を知っているのだろう。
「加賀を待ってる?」
 加賀さんを知っているらしい。下手なことを喋って迷惑はかけられない。迷いながら「はい」と肯定した。
「出張中に溜まった仕事を整理してる。まだかかるよ」
「そうですか、ありがとうございます」
 頭を下げて、顔を上げると目が合った。そしてしばしの間。逸らすのが失礼な気がして、視線を合わせたまま、微笑んだ。男は難しい顔で俺を凝視している。にこりともしない。怒っているのだろうか。
「訊きたいことがある」
 突然男が言った。
「はい? なんでしょうか」
「どうしたら加賀と付き合えるんだ?」
「え?」
「何をどうすればあいつと付き合えるのか、知りたい」
 息をのむ。この人は、俺たちの関係を知っているらしい。
「九か月、電車で見続けた?」
「あ、あの」
「俺は何年も、あいつを見続けた。君より先に、俺が加賀に告白していたらどうなっていたと思う?」
 この人だ。加賀さんが言っていた、同期の男。加賀さんに告白し、抱かせてくれと言った男。鳥肌が立って、冷や汗が出る。半歩後退り、踏みとどまる。
「わかりません」
「俺のものになっていた。と思わないか? あいつは他人を拒むのが下手だ」
 この人は後悔している。最初、怒っていると感じたのは、自分自身への怒りだ。
 俺より先に、もっと早くに想いを伝えていたら。そうしなかった理由を知りたいとも思わない。加賀さんとこの人が、付き合っていたかもしれない。でも、後になって、もし、だとしたらと仮定してみても意味がない。以前の俺なら、想像して暗くなっていた。空想相手に嫉妬して、落ち込んでいた。
 もう、そんなことで悩んだりしない。
「かもしれません。俺は、運がよかったんだと……」
「運?」
 男が眉間にしわを刻んだ。ごめんなさい、と筋違いな謝罪を口にするところだった。
「見てるだけで満足だったんです。話しかけようなんて思ったこともなくて」
 知り合ってから付き合うようになった経緯を話すと、男はフッと儚げに笑った。
「加賀らしいな」
 優しい顔でそう言った。この人は本当に加賀さんのことが好きなんだ、と落ち着かなくなる。
「あの」
 男の顔から笑みが消え、気難しそうな眉間のしわが再び現れた。
「お名前を教えてください」
「俺か?」
 頷くと、「九條だ」と答えた。
「九條さん、加賀さんは俺が幸せにします」
 眉間のしわが濃くなるのを見て唾を飲み込んだ。
「俺はまだ大学生です。親に養って貰ってる身で偉そうだと思われるかもしれませんが、加賀さんは俺のすべてです。あの人がいない人生はありえない」
 九條さんの目は、俺を捉え続けている。
「俺に任せてください。死ぬまで守ります。大事にします」
 噛みしめるようにゆっくりと言った。離れていた数日間で、再認識した。俺は加賀さんがいないと生きていけない。
「それは牽制か?」
 九條さんが口元だけで笑った。
「俺が加賀に手を出すと思ってるだろう」
 訊かれて速攻で「いいえ」と返した。
「加賀さんは、九條さんのことを友達だと言ってました。無理やり何かする人ならそんなふうに言わなかったと思います」
 告白されたことを黙っていたのは、この人のことを大切な友人と思っているからだと、今やっとわかった。
「ただ、安心して欲しいだけです。俺は加賀さんを一生離さない。命懸けで愛していきます」
 九條さんがうつむいて口を押えた。眉間のしわは消えていない。
 大丈夫だろうか、と急に不安に襲われた。俺が喋ったことによって、加賀さんに迷惑をかけたら。
 内心でうろたえていると、九條さんの肩が震えているのが目に入った。泣いている、と思ったが違った。笑っている。笑い声を懸命に堪えている。
 やがて、はあ、と大きなため息をついて顔を上げた。そこに笑みはなく、張りつめた厳しさが用意されていた。
「最後に一言だけ言わせてくれ」
「はい」
 背中をまっすぐにして肩に力を入れる。九條さんが、その肩に手を置いた。
「加賀を、誰にも盗られるな」
 そう言い残して車に戻っていった。走り去る車に一礼する。
 今のでよかったのだろうか。あの人にとって、俺の科白は慰めになっただろうか。ぐるぐると考えていると、後ろから声がした。
「倉知君」
 体が揺らぐ。喉が詰まり、鼻の奥がつんとなり、目頭が熱くなる。胸が、張り裂けそうだ。笑顔でおかえりなさいを言うと決めていた。それなのに、泣きそうだ。
「迎えに来てくれたの?」
 目元を拭って、振り返る。加賀さんだ。とろけそうな、まろやかな笑顔で俺を見ている。言葉が出ない。馬鹿みたいに何度もうなずいた。加賀さんが困った顔で笑って、俺の頬を撫でた。
「泣くなって」
 精一杯我慢したのに、勝手に溢れてくる涙。
「加賀さん……っ、加賀さん、加賀さん」
 抱きしめて、何度も名前を呼ぶ。加賀さんは俺を受け止めて背中をポンポンと叩いてくれた。
「加賀さん、ごめんなさい」
「うん、俺もごめんね」
「好きです」
「俺も好きだよ」
「愛してます」
「うん、俺も」
 抱きしめた瞬間に、安堵で体が軽くなる。恋しかった。どうにかなりそうなくらい、愛しいと感じた。
「倉知君、ちょっと離して」
 抱き合う俺たちの横を、車が通り過ぎていく音が聞こえた。
「外でこんな、抱きついたら駄目だってわかってるんですけど」
 離したくない。懐かしくて、気持ちよくて、離れられない。
「うん、でも離して。じゃないと顔見えない。すげえ顔見たい。俺の、可愛い倉知君の顔、見せて」
 顔が熱を帯びる。膝が震えて腰が砕けそうになる。
「道端で、殺し文句やめてください……」
「えー? はは、何、ときめいた?」
 苦労して加賀さんの体を解放する。目を細めて俺の顔を覗き込み、涙で濡れた頬を手のひらで丁寧に拭ってくれた。
「なんかやつれた?」
 両手で顔を包み込んで、心配そうに加賀さんが言った。
「ごめんね」
「加賀さんは悪くありません。悪いのは俺です」
「うん、でも俺も悪かったよ。言い方とか、もっと考えればよかった」
 ごめんね、と重ねて上目遣いで許しを請う。可愛い。もう、なんでもいい。もう一度加賀さんを掻き抱いた。つらかった数日間の闇が消え去って、脳内に広がる幸福感。
「倉知君」
「すいません、もうちょっとだけ。どうしよう。大好きです」
「場所変えよう。うちに帰るぞ」
 胸を押されてしぶしぶ腕の力を抜いた。加賀さんがするりと逃げていく。どこかで繋がっていたくて、素早く手を取った。加賀さんが呆れたように、それでも少し嬉しそうに、笑う。
「仕事、もういいんですか?」
 手を繋いだまま、加賀さんが先に立って歩き出す。
「いや全然」
「え? じゃあ終わるまで待ってます」
「いいよ、もうオフモード。月曜頑張るから。それよりさっき、上から見てたんだけど」
「上?」
 加賀さんが建物を指さして言った。
「営業のフロアから見えた。大丈夫だった? 話しかけられてたけど」
 もしかして、だから仕事を途中にして飛んできた?
「あいつはその、同期の」
「九條さん」
 加賀さんが足を止めて肩越しに俺を振り向いた。
「どうやったら加賀さんと付き合えるのかとか、自分が先に告白してたらどうなってたと思うとか、いろいろ訊かれました」
 加賀さんはばつが悪そうに頭を掻いた。
「あー……、昨日お前と電話してるとこ聞かれて」
「もしかして、男と付き合ってるって言ってなかったんですか?」
 うん、と加賀さんがうなずいた。恋人が男だと黙っていたのは、少しでもショックを和らげるためだろう。加賀さんは、優しい。
「ていうかあいつなんでお前が俺のだってわかったんだ? エスパー?」
「多分そうです」
 首を傾げる加賀さんの手を引いて、フェアレディZを目指す。
「加賀さんを、誰にも盗られるなって言われました」
「え」
「それって自分は盗らないってことですよね。もう二度と加賀さんに、抱かせろとか迫ったりしませんよね」
「お、おう」
「安心しました」
 なんとなく、あの人がもっとも危険な存在に思えた。加賀さんへの思いの強さが他の人とは比べ物にならない気がする。
「確認ですけど、何もないですよね」
「何も、とは」
「俺、夢見たんです」
「うん、例の悪夢?」
「夢の中で加賀さんが言ったんです。浮気したって。他の男と寝たって」
「ないない」
 笑いながらすぐに否定する。
「そんなことしないのはわかります。でも、本当に何もなかったのか、気になります。キスされたりとか」
「……ないよ」
 足を止めて加賀さんに向き直る。
「今の間はなんですか?」
「されそうになったけど、避けたからセーフだよなって」
 気持ち的にアウトなのだが、咎めるのは筋違いだ。息を吸って、わだかまりを吐き出した。
「じゃあ、抱きしめられたとか」
「あれ、どうだっけ」
「加賀さん」
「はい」
「乗って」
「の、乗る?」
「車にです」
 目の前にZが鎮座している。加賀さんが苦笑して運転席のドアを開けた。俺も助手席側に回り込み、シートに滑り込む。
 車内は静かで、外に比べると温かかった。同時に息をつく。少し目線を合わせ、笑うのも同時だった。
「帰る?」
 加賀さんが訊いた。
「帰りましょう」
「尋問は終わり?」
「終わりです。もう何も聞きません。俺に言わなきゃいけないことがあれば、黙ってても加賀さんから言ってくれる」
 それが、今回俺の学んだことだ。同じ過ちは犯さない。
「俺、嫉妬やめます」
「はっ?」
 加賀さんが裏返った声を出す。
「って言っても、やめようと思ってやめられるものじゃないですよね。でも、口に出さないように頑張ります」
 無言になる加賀さんに、もう一度「帰りましょう」と言った。何か言いたそうにしながら、ステアリングに手を添えて、「うい」と返事をした。
 車を走らせ、帰路に着く。ウインドウの向こう側に視線をやる。運転する加賀さんを、見ないようにした。マンションに帰るまでは、見ない。見たらいろいろと我慢ができなくなりそうだ。すぐ隣にいる。考えただけで心臓が早くなる。意識しない。心を空っぽに。
「嫉妬して欲しいなあ」
 加賀さんのねだるような声が聞こえた。思わず隣を確認しそうになって、手で目を覆った。今のは幻聴だ。気のせい。都合のいい、ただの俺の願望。
「聞いてる?」
「何も、聞いてません」
 はは、と小さく笑う声。車が減速し、ゆるやかに止まった。信号が赤だ。
「俺、倉知君に嫉妬されるの好きだよ」
 耳元に息がかかる。ぞく、として身震いが起きた。
「聞こえた?」
「そこで喋らないで。耳、やばいです」
 満足そうな笑い声が遠ざかっていく。
「お前もやたら俺を嫉妬させたがるけど、好きな奴に妬かれるのって嬉しいよな。特にお前は妬くとめちゃくちゃ可愛い」
 顔が熱くなる。うつむいて、両手で仰ぐ。
「お、俺、もう、下手くそな嫉妬で加賀さんを傷つけたくないんです」
「嫉妬に上手いとか下手とかあるの?」
 わからない。でも自分でそう思う。
「倉知君ってさ」
 加賀さんがシフトレバーを動かしながら笑いを含んだ声で言った。
「反省するのも上手だよね」
「そう、ですか?」
 そんなことは初めて言われた。
「何が悪かったのかちゃんとわかってるなら大丈夫だよ」
 だから、と続けて加賀さんが言った。
「嫉妬してよ、ダーリン」
 一体どんな顔で言っているのか。我慢できずに横目で見ると、視線がぶつかった。加賀さんが、可愛い顔で笑っている。目を逸らして胸を押さえ、必死で息を吸う。
 そろそろ限界だ。
 抱きしめたい。補給したい。今、圧倒的に、加賀さん不足だ。
「加賀さん、早く」
「ん?」
「安全運転かつ、急いでください」
「はは、何それ」
 暢気に笑いながら、「了解」と加速する。エンジンが唸り声を高め、景色が飛ぶように過ぎ去っていく。
 一週間分の抱擁を交わそう。
 もう離さない。俺の、大事な人。

〈おわり〉
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