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父の再来
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〈倉知父編〉
高級外車に、高そうなスーツと靴、身に着けているものすべてが一流だ。またそれが嫌味じゃなく、相応だと感じる。目の力が強く、背筋が伸びて姿勢がいい。隙がなく、そつがない。清潔感のある整えられた黒髪は若々しく艶があり、年を重ねた大人の男の色気を備え、服の上からでもわかる鍛えられた体はこの人の自分への厳しさを表しているようだった。
職業は弁護士で、息子にマンションを買い与えたり、ためらいなく他人に高級腕時計をプレゼントしたりする。
ここまで完璧な人を見たことがない。何かの冗談のような人だ。
初対面のときは緊張で我を忘れていたが、今日は観察できるほどのゆとりがある。改めて、いい男だと思った。親子揃って人目を惹く容姿をしている。
七世と加賀さん抜きでお父さんが単体でやってくる、と聞いて驚きはしたが緊張はなかった。今度はもう少しゆっくり話がしたい、と思った。お互いの息子が男同士で付き合って、同棲までしているというのにまともに会話もできていない。
プレゼントを置いて、さっさと帰ってしまう気がする。どうにか引き留めて、話がしたい。できるなら、二人だけで。来訪からずっと、提案するタイミングを探していた。
五月と六花に対峙した加賀さんのお父さんは、落ち着いた低音の声で切り出した。
「定光から、二人とも新社会人になると聞きました」
五月と六花の顔を交互に見て、「おめでとうございます」とほほ笑んだ。
「あっ、ありがとうございます!」
ソファの上で五月が声を弾ませた。六花も静かに頭を下げて礼を言う。
「ありがとうございます。お忙しいのにわざわざすみません」
四月に入り新生活をスタートさせた二人に、約束通り腕時計のプレゼントを用意してくれたのだ。二人にそれぞれ包装された箱を手渡して、どうぞ、開けてください、と手のひらを向けて言った。
「意味のある贈り物になってよかった」
「いやほんと、申し訳ないです。七世だけでも悪いのに娘にまで」
恐縮する俺を差し置いて、五月が黄色い声を上げる。
「すごい、これ、ヴェルサーチだ!」
ひゃあああ、と奇声を発してケースから腕時計を取り出すと、立ち上がって天井に恭しく掲げてみせた。
ヴェルサーチ、と聞けば、ブランド物に詳しくない俺でも高いとわかる。ブランド物など一切持っていない妻も、「ヴェ」と舌を噛んだような音を出して、固まっている。顔色が青い。
「可愛い、オレンジ!」
「五月さんは活発で可愛らしいイメージだから、明るい色がいいと思ったんだ」
加賀さんのお父さんが優しい声で言った。五月は嬉しそうにケースから時計を取り出すと、右手首にはめて再び奇声を上げる。
「やーん、かわゆい! そして似合う!」
「うん、イメージ通りだ」
お父さんは満足そうだ。そして六花を見て「六花さんも開けてみて」と促した。六花はハイテンションな五月とは対照的に、冷静だった。プレゼントには手をつけていない。許可が出てようやく開封し始めた。
「りっちゃんはどんなの?」
六花の手元を覗き見て、五月が落ち着きなく「見せて、見せて」と急かしている。
「わ、グッチ!」
拍手する五月の隣で、六花は驚いた顔でのけぞっている。ダイニングテーブルで息をひそめてやり取り静観していた俺と妻は、顔を見合わせ、グッチ、と脳内で囁きあう。
「六花さんは知的でクールな印象だから、控えめで大人っぽいデザインのものにしたよ」
六花は困っていた。感情を抑えられない五月とは違って本当に理性的な娘だ。
「こんなに高価なもの……」
「あまり気に入らなかったかな?」
「いえ、すごく、素敵です」
六花の顔を見れば、気に入っていることはわかる。でも、手放しで喜べないのだろう。弟の恋人の父親から高価な腕時計をプレゼントされたのだ。普通ありえない。五月のように、しめしめ貰っておけ、と頂戴できるほど六花は図太くない。
「六花さんも着けてみてくれないか」
受け取れない、とごねてもいいことはないし、逆に失礼にあたる。六花はそれを承知している。粛々と、つけてみせた。
「よかった、よく似合う。美しい」
やり遂げた表情でそう褒められて、六花は素直に照れている。
「二人ともバンドの微調整が必要だな。定光に直して貰うといい」
「やった、会う口実ゲット」
方向性の違う喜び方をする五月を六花が小突いて、愛想笑いを浮かべた。しばし微笑み合う加賀さんのお父さんと、六花。
「あの、加賀さん」
今だ、と声を上げた。
「よければ少し、二人で話せませんか」
本当に忙しい人だ、と七世からよく聞かされている。今日も本当は食事を用意しようと思っていたが、時間が遅くて断念した。
「ええ、話をするべきだと私も常々思っていました」
奇跡的に断られずに済んだ。胸をなでおろすと、妻が勢いよく立ち上がった。
「じゃあ、ビールでも用意しますね」
待て、とすぐにツッコミを入れる。
「車でいらしてるんだから」
「あ、そうか。それならコーヒーにしますね」
いそいそとキッチンに向かう。それを見て、六花がソファから腰を上げた。
「じゃあ、私たちはこれで。ごゆっくりどうぞ」
「え、あたしも加賀さんのお父さんとお話ししたい」
「空気読みなよ。ほら行くよ」
「えー」
六花に手を引かれて、五月が渋々立ち上がる。
「今日はありがとうございました。時計、大事に使わせていただきます」
六花が頭を下げて、五月もそれに倣う。
「ありがとうございます、会社に着けて行きますね。すんごい自慢しちゃう!」
加賀さんのお父さんは、二人の娘をほほえましそうに見送るとスーツの上着の内側から、スマホを取り出した。着信中らしく、振動音が鳴っている。
「お仕事ですか? どうぞ、出てください」
「いえ、息子です」
「出ないんですか?」
「用があれば伝言を残すでしょう」
スマホをスーツに戻すとどこか哀愁が漂う表情でフッと笑った。
「可愛い娘さんが二人もいると、華やかでいいですね」
「いやあ、女の比率が高いと肩身が狭いですよ」
七世がいないと三対一だ。以前にも増してやり込められることが多くなった気がする。
「私にも娘はいますが、もう何年も会っていません」
弟と妹がいる、と以前加賀さんが言っていた。離婚の原因は知らないが、兄弟がバラバラに引き取られたのは悲劇だと思う。
「情けない話ですが、下の息子と娘には愛情を注げないんです」
重い言葉を漏らして、両手の指を組み合わせ、視線をその手に落とした。何をしても絵になる人だ、とのんきな感想を抱いた。
「可愛いと、大事だと思うのは、定光だけです」
自分が引き取って育てた子どもと、数年会っていない子どもだと、差がついても仕方がないかもしれない。
「ひどい親だと思うでしょう」
「いいえ」
脊髄反射的に、すぐに否定した。
「別れるに至った経緯とか、いろいろ事情があるだろうし、他人の俺が判断することじゃないですよ。ひどい親なんて、とんでもない」
目を上げて、早口の俺をじっと見た。
「息子さんは心が広くて優しくて穏やかで、俺のくだらない話もいつも楽しそうに聞いてくれるし、七世が言ってました、絶対に怒らないって。そういう彼の人格を作り上げたのは、お父さんの教育の賜物でしょう。あなたでなければあんなふうに育てられなかった。だから、お礼を言いたいくらいです」
加賀さんのお父さんが、軽く笑みを漏らした。
「あなたも変わった人だ。ずっと訊いてみたかった。息子が男と付き合うのを、どうして許したのか。抵抗がなかった?」
俺は頭を掻いて、うーんと唸った。
「そうですねえ、男同士に抵抗はないかな」
「ほう、それは珍しい」
海外ドラマを観ていると、ごく自然にゲイが登場するし、禁忌を犯しているような描き方はされないことが多い。要するに、慣れてしまったのだと思う。
「七世が男と付き合ってるのを知って、驚きはしました。でもあいつが決めた相手なら、大丈夫かなって」
「信じてるんですね、七世君を」
「間違うこともあるとは思うけど、おおむね信じてます。それにまあ、あれだ、人によりますよ。連れてきたのが二枚目で爽やかな礼儀正しい好青年だったからな」
マナーのないチャラついた男とか、タトゥーまみれのヤクザものなら、機を見てやんわり警告していたかもしれない。でも七世なら元からそんな人間に惹かれたりはしない。
「いやあ、ほんと、俺が付き合いたいくらいいい男ですよ」
俺の科白に、加賀さんのお父さんが破顔する。初めて、心から笑った顔を見た気がした。
「お父さん」
頭の上から妻の声が降ってきた。振り仰ぐと、コーヒーを載せたトレイを持って悲しい表情で立っていた。
「なんだよ、どうした。お化けみたいな顔して」
「今の、本当?」
「今のって?」
「お父さん、加賀さんと付き合いたいの?」
「はあっ?」
コーヒーを飲んでいなくてよかった。飲んでいたら今頃ぶちまけている。
「やっぱり、そうだったの?」
「ちょっと待て、やっぱりってなんだ?」
「私より加賀さんのほうが綺麗だから……」
なんだかおかしなことになっている。妻の目に、涙が浮かんだところで慌てて腰を上げた。トレイを引き取って一旦テーブルに置くと、妻の両肩を掴んで顔を覗き込む。泣き顔だ。
「お父さん、加賀さんのこと大好きだもんね。いつも楽しそうに話してるし……、でも、そんな、付き合いたかったなんて」
「あー、違う、誤解だ、誤解! 言葉のあやっつーか、ギャグっつーか。俺が好きなのはお母さんだけだよ。当たり前だろ」
普通こんなことを真に受けない。でも妻は、ずれている。言い繕う俺を見て、加賀さんのお父さんが声を上げて笑った。ハッとした。恥ずかしい場面を見られてしまった。
「仲がよろしくて羨ましい」
いえいえ、と謙遜するのが正しい反応なのだが、俺は大げさに「そう!」と声を高くすると、妻の肩を抱き寄せた。
「もうほんと、ラブラブでお恥ずかしい」
妻の顔を横目で確認する。機嫌は直っている。息をついてソファに座り、コーヒーカップを「どうぞ」と差し出した。
「いただきます」
ただコーヒーを飲んでいるだけなのに、漂うダンディズムが半端じゃない。見惚れていると、隣に妻が座った。
「え、なんでお母さんも座るの」
「コーヒー飲むからだよ?」
確かにコーヒーカップが三つある。二人きりで話したかったが、言えない空気になってしまった。男同士の会話は早々に打ち切らざるを得ない。
「ああ……、あの、加賀さんこそ息子さんが男と付き合うことに抵抗なかったんですか?」
この厳格そうな父親が、どうして許したのか。不思議だった。お父さんはカップをソーサーに戻すと、天井を見上げてから口を開いた。
「いろんな愛の形があります。私は同性愛を否定しません。ただ、定光が高校生の男の子と付き合っていると知ったときは、殺そうかと思いました」
カップに口をつけたところだった。動揺したせいでコーヒーが大きく波打ち、零れそうになる。震える手でカップをテーブルに置いて、恐る恐る訊ねた。
「こ、殺す?」
隣の妻が小さく身震いをしたのがわかった。きっと誰でもそうなる。本気の目をしているからだ。冗談です、と朗らかに笑ってくれるかと思ったが、そんな様子もなく、真顔で続けた。
「人様に迷惑をかけることは許せない。でも定光は、七世君と別れるなら私と縁を切ると脅してきた」
「そんな」
あの温厚な加賀さんが、そこまでしていたなんて。父子家庭で育てられた息子が、縁を切るなんて冗談でも言えるはずがない。七世がどれだけ想われているか、痛いほど伝わった。自分のことのように、嬉しい。
「真剣なんだとわかりました。命を懸けて愛しているという覚悟が見えた。だから許すことにしました」
この人はすさまじい。厳粛が服を着て歩いているような人だ。
「それに私も結局は、息子を信じています」
最後は優しい父親の顔になり、コーヒーカップを傾ける。その様子を見てこっちもようやく気を抜ける。ふう、と息を吐く。妻も同じように、ふう、と口にした。
「ああ、びっくりした。加賀さんのお父さんは、なんだか殺し屋さんみたいね」
「こ、こらこら」
ダークヒーローが好みの妻に悪気はなく、いい意味で言っているのだが、他人にそれがわかるはずもない。
「すいません、妻はヒットマンに憧れてて」
謝ると、加賀さんのお父さんは口を押えてうつむいた。気を悪くさせた、と冷や汗が噴き出た。項垂れて、肩を震わせている。そして、堪えきれない様子で吹き出した。
「殺し屋か。面と向かって言われたのは初めてです」
「あっ、あの、ごめんなさい。私、興奮して失礼なこと」
妻が遅れて自分の失態に気づく。
「外国の俳優さんみたいだから、つい、あの、褒め言葉なんです。すごく、素敵だな、カッコイイなって思って……、ああ私、すぐ思ったこと口にしちゃって」
「大丈夫です」
たどたどしく釈明を続ける妻に、「伝わりましたよ」と笑顔を向けた。
「奥さんは家内と話が合いそうだ。今度、皆さんで我が家へいらしてください」
「えっ、はい、ぜひ」
招待されたことがよほど嬉しかったのか、なぜか俺に向かってドヤ顔をして見せた。
「うちのは料理が苦手で、よければ教えてやっていただきたい」
「はい、喜んで!」
意気揚々と答えると、再び俺を見てドヤ顔を作る。
それから一時間ほど会話は続いた。おもに七世と加賀さんのことだ。話しているうちに、安堵が積み重なっていく。この人が味方なら心強いと思えた。厳しさの中にも優しさがある。頼もしくて、包容力に溢れる魅力的な人柄は、加賀さんを見ているようだった。
家族総出で去っていくアウディを見送ると、ポケットでスマホが音を立てる。七世からだ。
五月と六花がお互いの腕時計を見せびらかしながら家に入っていく。後に続く妻が、俺を振り返った。
「お父さん、電話?」
「七世だよ」
「先入ってるね」
「うん、もしもし」
『あ、出た』
「なんだよ、出るよそりゃ」
玄関のドアが閉まって、一人になる。澄み渡った夜空を見上げ、玄関先のポーチに腰を下ろした。
『加賀さんが、お父さんにかけても出ないって言うから』
「うん、なんだった? 今帰られたけど」
『いや、特に何もないけど……、あの、大丈夫だった?』
「おー、楽しかったよ」
『五月とお母さん、失礼なことしなかった?』
答えるまでに間が空いてしまった。総合的に見て、失礼だったと思う。
『何したの?』
七世の声が険しくなる。
「まあ、許容範囲内かな。今度みんなでうちおいでってお呼ばれされちゃったよ」
『それは社交辞令じゃないかな』
「さあ、どうだろうな。とりあえず連絡先交換したからこれから会う機会も増えるかな」
『……すごく不安なんだけど』
「平気平気。ちゃんと冗談もわかる人だし。なあ、七世」
『何?』
「お前つくづく、いい人見つけたな」
男同士のカップルで、なんの問題もなく家族ぐるみで仲良くできるなんてことは奇跡に近いと思う。加賀さんもいい人だし、お父さんもできた人だ。
「絶対、逃がすなよ」
『うん……、お父さん、ありがとう』
電話を切って、もう一度空を見上げる。
これから先の将来、あの二人は少なからず壁にぶち当たる。何かよくないことが起きたとき、そのときは、二人を守ってやろう。
俺は死ぬまで、何があっても味方だから。
照れくさくて言えない言葉を、夜空に向かって呟いた。
〈おわり〉
高級外車に、高そうなスーツと靴、身に着けているものすべてが一流だ。またそれが嫌味じゃなく、相応だと感じる。目の力が強く、背筋が伸びて姿勢がいい。隙がなく、そつがない。清潔感のある整えられた黒髪は若々しく艶があり、年を重ねた大人の男の色気を備え、服の上からでもわかる鍛えられた体はこの人の自分への厳しさを表しているようだった。
職業は弁護士で、息子にマンションを買い与えたり、ためらいなく他人に高級腕時計をプレゼントしたりする。
ここまで完璧な人を見たことがない。何かの冗談のような人だ。
初対面のときは緊張で我を忘れていたが、今日は観察できるほどのゆとりがある。改めて、いい男だと思った。親子揃って人目を惹く容姿をしている。
七世と加賀さん抜きでお父さんが単体でやってくる、と聞いて驚きはしたが緊張はなかった。今度はもう少しゆっくり話がしたい、と思った。お互いの息子が男同士で付き合って、同棲までしているというのにまともに会話もできていない。
プレゼントを置いて、さっさと帰ってしまう気がする。どうにか引き留めて、話がしたい。できるなら、二人だけで。来訪からずっと、提案するタイミングを探していた。
五月と六花に対峙した加賀さんのお父さんは、落ち着いた低音の声で切り出した。
「定光から、二人とも新社会人になると聞きました」
五月と六花の顔を交互に見て、「おめでとうございます」とほほ笑んだ。
「あっ、ありがとうございます!」
ソファの上で五月が声を弾ませた。六花も静かに頭を下げて礼を言う。
「ありがとうございます。お忙しいのにわざわざすみません」
四月に入り新生活をスタートさせた二人に、約束通り腕時計のプレゼントを用意してくれたのだ。二人にそれぞれ包装された箱を手渡して、どうぞ、開けてください、と手のひらを向けて言った。
「意味のある贈り物になってよかった」
「いやほんと、申し訳ないです。七世だけでも悪いのに娘にまで」
恐縮する俺を差し置いて、五月が黄色い声を上げる。
「すごい、これ、ヴェルサーチだ!」
ひゃあああ、と奇声を発してケースから腕時計を取り出すと、立ち上がって天井に恭しく掲げてみせた。
ヴェルサーチ、と聞けば、ブランド物に詳しくない俺でも高いとわかる。ブランド物など一切持っていない妻も、「ヴェ」と舌を噛んだような音を出して、固まっている。顔色が青い。
「可愛い、オレンジ!」
「五月さんは活発で可愛らしいイメージだから、明るい色がいいと思ったんだ」
加賀さんのお父さんが優しい声で言った。五月は嬉しそうにケースから時計を取り出すと、右手首にはめて再び奇声を上げる。
「やーん、かわゆい! そして似合う!」
「うん、イメージ通りだ」
お父さんは満足そうだ。そして六花を見て「六花さんも開けてみて」と促した。六花はハイテンションな五月とは対照的に、冷静だった。プレゼントには手をつけていない。許可が出てようやく開封し始めた。
「りっちゃんはどんなの?」
六花の手元を覗き見て、五月が落ち着きなく「見せて、見せて」と急かしている。
「わ、グッチ!」
拍手する五月の隣で、六花は驚いた顔でのけぞっている。ダイニングテーブルで息をひそめてやり取り静観していた俺と妻は、顔を見合わせ、グッチ、と脳内で囁きあう。
「六花さんは知的でクールな印象だから、控えめで大人っぽいデザインのものにしたよ」
六花は困っていた。感情を抑えられない五月とは違って本当に理性的な娘だ。
「こんなに高価なもの……」
「あまり気に入らなかったかな?」
「いえ、すごく、素敵です」
六花の顔を見れば、気に入っていることはわかる。でも、手放しで喜べないのだろう。弟の恋人の父親から高価な腕時計をプレゼントされたのだ。普通ありえない。五月のように、しめしめ貰っておけ、と頂戴できるほど六花は図太くない。
「六花さんも着けてみてくれないか」
受け取れない、とごねてもいいことはないし、逆に失礼にあたる。六花はそれを承知している。粛々と、つけてみせた。
「よかった、よく似合う。美しい」
やり遂げた表情でそう褒められて、六花は素直に照れている。
「二人ともバンドの微調整が必要だな。定光に直して貰うといい」
「やった、会う口実ゲット」
方向性の違う喜び方をする五月を六花が小突いて、愛想笑いを浮かべた。しばし微笑み合う加賀さんのお父さんと、六花。
「あの、加賀さん」
今だ、と声を上げた。
「よければ少し、二人で話せませんか」
本当に忙しい人だ、と七世からよく聞かされている。今日も本当は食事を用意しようと思っていたが、時間が遅くて断念した。
「ええ、話をするべきだと私も常々思っていました」
奇跡的に断られずに済んだ。胸をなでおろすと、妻が勢いよく立ち上がった。
「じゃあ、ビールでも用意しますね」
待て、とすぐにツッコミを入れる。
「車でいらしてるんだから」
「あ、そうか。それならコーヒーにしますね」
いそいそとキッチンに向かう。それを見て、六花がソファから腰を上げた。
「じゃあ、私たちはこれで。ごゆっくりどうぞ」
「え、あたしも加賀さんのお父さんとお話ししたい」
「空気読みなよ。ほら行くよ」
「えー」
六花に手を引かれて、五月が渋々立ち上がる。
「今日はありがとうございました。時計、大事に使わせていただきます」
六花が頭を下げて、五月もそれに倣う。
「ありがとうございます、会社に着けて行きますね。すんごい自慢しちゃう!」
加賀さんのお父さんは、二人の娘をほほえましそうに見送るとスーツの上着の内側から、スマホを取り出した。着信中らしく、振動音が鳴っている。
「お仕事ですか? どうぞ、出てください」
「いえ、息子です」
「出ないんですか?」
「用があれば伝言を残すでしょう」
スマホをスーツに戻すとどこか哀愁が漂う表情でフッと笑った。
「可愛い娘さんが二人もいると、華やかでいいですね」
「いやあ、女の比率が高いと肩身が狭いですよ」
七世がいないと三対一だ。以前にも増してやり込められることが多くなった気がする。
「私にも娘はいますが、もう何年も会っていません」
弟と妹がいる、と以前加賀さんが言っていた。離婚の原因は知らないが、兄弟がバラバラに引き取られたのは悲劇だと思う。
「情けない話ですが、下の息子と娘には愛情を注げないんです」
重い言葉を漏らして、両手の指を組み合わせ、視線をその手に落とした。何をしても絵になる人だ、とのんきな感想を抱いた。
「可愛いと、大事だと思うのは、定光だけです」
自分が引き取って育てた子どもと、数年会っていない子どもだと、差がついても仕方がないかもしれない。
「ひどい親だと思うでしょう」
「いいえ」
脊髄反射的に、すぐに否定した。
「別れるに至った経緯とか、いろいろ事情があるだろうし、他人の俺が判断することじゃないですよ。ひどい親なんて、とんでもない」
目を上げて、早口の俺をじっと見た。
「息子さんは心が広くて優しくて穏やかで、俺のくだらない話もいつも楽しそうに聞いてくれるし、七世が言ってました、絶対に怒らないって。そういう彼の人格を作り上げたのは、お父さんの教育の賜物でしょう。あなたでなければあんなふうに育てられなかった。だから、お礼を言いたいくらいです」
加賀さんのお父さんが、軽く笑みを漏らした。
「あなたも変わった人だ。ずっと訊いてみたかった。息子が男と付き合うのを、どうして許したのか。抵抗がなかった?」
俺は頭を掻いて、うーんと唸った。
「そうですねえ、男同士に抵抗はないかな」
「ほう、それは珍しい」
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「七世が男と付き合ってるのを知って、驚きはしました。でもあいつが決めた相手なら、大丈夫かなって」
「信じてるんですね、七世君を」
「間違うこともあるとは思うけど、おおむね信じてます。それにまあ、あれだ、人によりますよ。連れてきたのが二枚目で爽やかな礼儀正しい好青年だったからな」
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「いやあ、ほんと、俺が付き合いたいくらいいい男ですよ」
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「お父さん」
頭の上から妻の声が降ってきた。振り仰ぐと、コーヒーを載せたトレイを持って悲しい表情で立っていた。
「なんだよ、どうした。お化けみたいな顔して」
「今の、本当?」
「今のって?」
「お父さん、加賀さんと付き合いたいの?」
「はあっ?」
コーヒーを飲んでいなくてよかった。飲んでいたら今頃ぶちまけている。
「やっぱり、そうだったの?」
「ちょっと待て、やっぱりってなんだ?」
「私より加賀さんのほうが綺麗だから……」
なんだかおかしなことになっている。妻の目に、涙が浮かんだところで慌てて腰を上げた。トレイを引き取って一旦テーブルに置くと、妻の両肩を掴んで顔を覗き込む。泣き顔だ。
「お父さん、加賀さんのこと大好きだもんね。いつも楽しそうに話してるし……、でも、そんな、付き合いたかったなんて」
「あー、違う、誤解だ、誤解! 言葉のあやっつーか、ギャグっつーか。俺が好きなのはお母さんだけだよ。当たり前だろ」
普通こんなことを真に受けない。でも妻は、ずれている。言い繕う俺を見て、加賀さんのお父さんが声を上げて笑った。ハッとした。恥ずかしい場面を見られてしまった。
「仲がよろしくて羨ましい」
いえいえ、と謙遜するのが正しい反応なのだが、俺は大げさに「そう!」と声を高くすると、妻の肩を抱き寄せた。
「もうほんと、ラブラブでお恥ずかしい」
妻の顔を横目で確認する。機嫌は直っている。息をついてソファに座り、コーヒーカップを「どうぞ」と差し出した。
「いただきます」
ただコーヒーを飲んでいるだけなのに、漂うダンディズムが半端じゃない。見惚れていると、隣に妻が座った。
「え、なんでお母さんも座るの」
「コーヒー飲むからだよ?」
確かにコーヒーカップが三つある。二人きりで話したかったが、言えない空気になってしまった。男同士の会話は早々に打ち切らざるを得ない。
「ああ……、あの、加賀さんこそ息子さんが男と付き合うことに抵抗なかったんですか?」
この厳格そうな父親が、どうして許したのか。不思議だった。お父さんはカップをソーサーに戻すと、天井を見上げてから口を開いた。
「いろんな愛の形があります。私は同性愛を否定しません。ただ、定光が高校生の男の子と付き合っていると知ったときは、殺そうかと思いました」
カップに口をつけたところだった。動揺したせいでコーヒーが大きく波打ち、零れそうになる。震える手でカップをテーブルに置いて、恐る恐る訊ねた。
「こ、殺す?」
隣の妻が小さく身震いをしたのがわかった。きっと誰でもそうなる。本気の目をしているからだ。冗談です、と朗らかに笑ってくれるかと思ったが、そんな様子もなく、真顔で続けた。
「人様に迷惑をかけることは許せない。でも定光は、七世君と別れるなら私と縁を切ると脅してきた」
「そんな」
あの温厚な加賀さんが、そこまでしていたなんて。父子家庭で育てられた息子が、縁を切るなんて冗談でも言えるはずがない。七世がどれだけ想われているか、痛いほど伝わった。自分のことのように、嬉しい。
「真剣なんだとわかりました。命を懸けて愛しているという覚悟が見えた。だから許すことにしました」
この人はすさまじい。厳粛が服を着て歩いているような人だ。
「それに私も結局は、息子を信じています」
最後は優しい父親の顔になり、コーヒーカップを傾ける。その様子を見てこっちもようやく気を抜ける。ふう、と息を吐く。妻も同じように、ふう、と口にした。
「ああ、びっくりした。加賀さんのお父さんは、なんだか殺し屋さんみたいね」
「こ、こらこら」
ダークヒーローが好みの妻に悪気はなく、いい意味で言っているのだが、他人にそれがわかるはずもない。
「すいません、妻はヒットマンに憧れてて」
謝ると、加賀さんのお父さんは口を押えてうつむいた。気を悪くさせた、と冷や汗が噴き出た。項垂れて、肩を震わせている。そして、堪えきれない様子で吹き出した。
「殺し屋か。面と向かって言われたのは初めてです」
「あっ、あの、ごめんなさい。私、興奮して失礼なこと」
妻が遅れて自分の失態に気づく。
「外国の俳優さんみたいだから、つい、あの、褒め言葉なんです。すごく、素敵だな、カッコイイなって思って……、ああ私、すぐ思ったこと口にしちゃって」
「大丈夫です」
たどたどしく釈明を続ける妻に、「伝わりましたよ」と笑顔を向けた。
「奥さんは家内と話が合いそうだ。今度、皆さんで我が家へいらしてください」
「えっ、はい、ぜひ」
招待されたことがよほど嬉しかったのか、なぜか俺に向かってドヤ顔をして見せた。
「うちのは料理が苦手で、よければ教えてやっていただきたい」
「はい、喜んで!」
意気揚々と答えると、再び俺を見てドヤ顔を作る。
それから一時間ほど会話は続いた。おもに七世と加賀さんのことだ。話しているうちに、安堵が積み重なっていく。この人が味方なら心強いと思えた。厳しさの中にも優しさがある。頼もしくて、包容力に溢れる魅力的な人柄は、加賀さんを見ているようだった。
家族総出で去っていくアウディを見送ると、ポケットでスマホが音を立てる。七世からだ。
五月と六花がお互いの腕時計を見せびらかしながら家に入っていく。後に続く妻が、俺を振り返った。
「お父さん、電話?」
「七世だよ」
「先入ってるね」
「うん、もしもし」
『あ、出た』
「なんだよ、出るよそりゃ」
玄関のドアが閉まって、一人になる。澄み渡った夜空を見上げ、玄関先のポーチに腰を下ろした。
『加賀さんが、お父さんにかけても出ないって言うから』
「うん、なんだった? 今帰られたけど」
『いや、特に何もないけど……、あの、大丈夫だった?』
「おー、楽しかったよ」
『五月とお母さん、失礼なことしなかった?』
答えるまでに間が空いてしまった。総合的に見て、失礼だったと思う。
『何したの?』
七世の声が険しくなる。
「まあ、許容範囲内かな。今度みんなでうちおいでってお呼ばれされちゃったよ」
『それは社交辞令じゃないかな』
「さあ、どうだろうな。とりあえず連絡先交換したからこれから会う機会も増えるかな」
『……すごく不安なんだけど』
「平気平気。ちゃんと冗談もわかる人だし。なあ、七世」
『何?』
「お前つくづく、いい人見つけたな」
男同士のカップルで、なんの問題もなく家族ぐるみで仲良くできるなんてことは奇跡に近いと思う。加賀さんもいい人だし、お父さんもできた人だ。
「絶対、逃がすなよ」
『うん……、お父さん、ありがとう』
電話を切って、もう一度空を見上げる。
これから先の将来、あの二人は少なからず壁にぶち当たる。何かよくないことが起きたとき、そのときは、二人を守ってやろう。
俺は死ぬまで、何があっても味方だから。
照れくさくて言えない言葉を、夜空に向かって呟いた。
〈おわり〉
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