電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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秘密

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 大学生、いや、高校生だろうか。背の高い男の子だ。濃いグリーンのカットソーにジーンズというラフな格好だ。幼い顔立ちをしているから、社会人ではないだろう。
 突然降り出したにわか雨のせいで、髪も、服も、少し濡れている。背は高いのに、濡れた子犬みたいでなんだか可愛く感じた。
 彼は私の視線に気づき、軽く会釈をしてから、こっちに来た。受付のガラス窓を開けると、もう一度頭を下げて挨拶をした。
「こんにちは」
「こんにちは。どうされました?」
「あの、ちょっとここで待たせてもらってもいいですか? 忘れ物を届けに来たんですけど」
「お呼びしましょうか? 部署はわかります?」
「いえ、さっき携帯に入れたんで、すぐ来てくれると」
「倉知君」
 フロアを走る音が聞こえ、現れたのは営業一課の加賀君だった。自然と背筋が伸びて、顔が笑う。今日は、ラッキーだ。こっそり咳ばらいをして高い声を出す準備をする。
「サンキュ、助かった。学校の時間大丈夫?」
「大丈夫です」
「あれ? なんで濡れてんの? 雨降ってた?」
「少しだけです。急に降ってきてすぐやみました」
「うわー、ほんとごめん。ちょっと屈んで」
 加賀君がハンカチで男の子の頭を拭い始めた。
 私はその光景を、息を詰めて見守った。
 なんだこれは、なんだか素敵だ。よくわからないが、じわじわと胸のあたりがむず痒くなる。
 そもそもこの子は一体、加賀君のなんなのだろう。
 敬語を使っているから兄弟ではないし、じゃあ他に何が考えられる?
 ただの友達? 年の差がありすぎる。親戚の子? 顔は似ていない。
「加賀さん、これ」
 男の子が服をめくって、封筒を取り出した。雨に濡れないようにおなかに入れて守っていたのだろう。一瞬だけ見えた、割れた腹筋にドキッとした。
「サンキュ。せっかく作った資料忘れるとか、アホすぎる」
「遅くまで頑張ってたから、疲れてるんですよ」
 今、なんと? 遅くまで頑張ってた? それを知っているということは、一緒に住んでる?
 やっぱり兄弟……、いや、加賀さん、と呼んだから、違う。
「お前、体冷えてない? ほっぺた冷たい」
 加賀君が男の子の頬を撫でた。触れられた男の子が、加賀君の手にそっと手を重ね合わせて、嬉しそうに顔をほころばせた。
「加賀さんの手、温かい」
「お前の手が冷たいんだよ」
 そう言って、男の子の手を引いて、自販機のほうに引きずっていった。引きずられる男の子が、私を見て頭を下げた。
「ちょっとちょっと、加賀君なんだったの?」
 同僚の千佳子が私の両肩に手を置いて、身を乗り出して言った。千佳子は加賀君ファンだ。というか私もだし、女子社員はほとんどがそうだ。彼は誰にでも優しくて、気軽に話してくれるから好きになってしまう子が多い。
「なんか忘れ物したみたいで、あの子が届けに来てくれたの」
「誰? 家族の人?」
「違うと思う」
「忘れ物届けに来たのに?」
 私たちは顔を見合わせた。そして、二人を見る。あったかい飲み物を買ってあげたらしく、湯気の出ているカップを両手で持って、ふうふうしている。大きいのに妙に可愛らしい子だ、と思った。
「ねえ、あの子って、運動会に来てた子じゃない?」
 千佳子が言った。
「営業部の助っ人でリレー出てた子」
 そういえば、あの子だ。アンカーの加賀君にバトンを渡した子がやけに速くて、何者だ、と話題になった。加賀君の知り合いだということ以外、何もわからず仕舞いだ。
 名字で呼び合っているし、家族や親せきではない。
 じゃあ、なんだ?
「なんかすごい、仲良さそう」
 千佳子が私の肩に乗っかったまま、しみじみとした口調で言った。自販機の前で喋っている二人の会話は、聞こえない。でもその様子は遠目で見ても、親密そうだった。家族とか友人とかではなくむしろ。
「うん、恋人みたい」
 私の発言に、千佳子は反応しなかった。ちら、とすぐ横にある顔を見ると、じっと二人を見つめていた。二人は、顔を寄せて笑い合っている。
「恋人みたいじゃない?」
 もう一度言ってみた。二人を見ている千佳子の目が険しくなっていく。私の質問には答えない。
 彼が登場したところから記憶を巻き戻して思い返してみた。最初から最後まで親しげで、距離がやたら近かった。それに多分、一緒に暮らしている。
「なんでそう思うの? そんなわけなくない? 加賀君だよ?」
 急に責めるような態度で千佳子が詰め寄ってきた。
「変なこと言わないでよね」
 千佳子は怒って自分の席に戻っていった。私の言ったことは、そんなに的外れだっただろうか。思ったままを言っただけなのに。
 受付の窓ガラスを閉めかけたとき、二人が目の前を通り過ぎていった。
「じゃあ、仕事頑張ってくださいね」
「おう。お前も頑張れよ」
 入り口の自動ドアの前で、加賀君が手を振って見送っている。一度外に出た男の子が戻ってきて、加賀君の手首をつかむ。身を低くして、顔を近づけた。あっ、と声を出すところだった。加賀君が体を逸らして事なきを得たが、よけなかったらどうなっていたか。見ていたこっちが驚いて、心臓が駆け足を始めた。
「何やってんだよ、危ねえな」
 加賀君が男の子の太ももに蹴りを入れて、しっしっと手で追い払うような仕草をしている。
「おつかいのご褒美が欲しくなって」
「はいはい、帰ったらやるからお楽しみに」
 そんなやり取りが確かに聞こえた。手のひらと脇の下に汗がにじむ。ただの戯れなのか、本気なのかわからない。
 駆けていく男の子の背中を見届けると、加賀君が踵を返す。腕時計で時間を確認しながら早足で目の前を通り過ぎる。その目が私を捉えた。一体私はどんな顔をしているのだろう。加賀君が私を二度見して、「あ」という形に口を開いた。そして、人差し指を唇に当てて、片目を閉じて笑った。
 爽やかな笑顔に見惚れている間に、早足で去っていく。なんの弁解もせずに。
 じゃあ、そういうことなのだろうか。見たまま、聞いたまま、ということか。
 軽く体が震えた。なんだかすごい体験をした。
 加賀君の秘密を知った、ということも勿論すごい。もっとすごいのは口止めされなかったことだ。
 ばれてもいいのか、私が言い触らすような人間じゃないと思ったのか。
 もし後者なら、誇らしい。いや、もし、ではないと思う。だって、黙っていてほしい、というジェスチャーをしていた。じゃあやっぱり、私を信じてくれたのだ。
 自尊心が満たされる。秘密を守れる女だと、加賀君が私を認めてくれた。あの加賀君が。
 信頼に、報いてみせよう。
 私は今日のことを胸にしまっておくことにした。
 絶対に、誰にも言わない。

〈おわり〉
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