電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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加賀君と倉知先生3

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※このお話はパラレルです。苦手な方はご注意ください。
加賀さん(17)と倉知君(27)の逆転設定の第三弾です。


〈倉知編〉

 ふとした瞬間に、思い出す。彼を抱いたときのことを。
 幸せだ、と言っていた。死んでもいい、と泣いていた。
 俺も同じ気持ちだった。あのときが絶頂期で、もうあとの人生はおまけと言ってもいいほどだ。想いを寄せる相手と体を重ねることが、どれほど素晴らしい経験か。思い返せば、感動で目が潤む。体温と、汗の匂いと、必死で押し殺す、喘ぎ。腕の中の少年を、愛しいと思う狂おしい感情は今でも胸を掻き乱す。そして、目がくらむほどの快感は、忘れようにも忘れられない。
 あんなことは、するべきじゃなかった。泣いて頼まれたから、なんて言い訳にはならない。後悔がつきまとう。認めなければ。抱いたことで情が沸いて、ますます彼を好きになっている。
 俺を好きだと言って、すがってくる華奢な体。手が届かないと思っていたのに、俺を見つめて、欲してくれた。
 喉元まで出かかった、愛しているという言葉を、ベッドの中で必死に飲み込んだ
 こんなことならずっと片想いのままでよかったのに。
 教壇に立っていても加賀のことばかり気にしてしまう。耐え切れず、視線を向けると必ず目が合う。俺は教師だ。だから見ている。生徒が教師に注目することは当然で、見るなとも言えない。
 加賀の視線を受け止めて、内心ではいつも取り乱していた。でも、逃げも隠れもできない。
 これは、俺に課せられた罰だ。
「ちょっとみんなぁ、加賀君がもう誰とも付き合わないって!」
 帰りのホームルームで、女生徒の一人が大声で嘆いた。加賀の前の席の女子だ。その嘆きに便乗して、教室のそこかしこからブーイングが起きる。
「なんで? 前カノのせい? もしかして引きずってるの?」
「それはないよ」
 詰め寄られ、苦笑しながら加賀が答えた。
「じゃあなんで?」
「なんでなんで?」
 女子たちが席を立ち、加賀の机の周りに集結を始めた。隙間から、俺の様子をうかがうようにこっちを見る。授業なら「座りなさい」と注意するところだが、ホームルームだから気にもならない。加賀は、申し訳なさそうに眉を下げてから、一呼吸置いたあとで口を開いた。
「好きな人がいるから」
 教室中に悲鳴が巻き起こる。窓が揺れるような衝撃があった。
「誰、誰よ、それ!」
「誰なの? どこの誰? 学校の人?」
「え、なんでその人と付き合わないの?」
 女子の興奮が伝染していく。男子のほうも多少の驚きはあったようだが、女子の騒ぎぶりに引いている。
「そんな簡単に言われても」
 加賀が隣の安原に「なあ」と同意を求めた。
「告らないのってことだろ」
 安原が適当に返事をする。
「お前を振る女なんていないんだからさ。付き合うのなんて簡単じゃん」
「告白したけど、付き合えないって振られたし」
 再び怒号がこだまする。
「加賀君を振るって、なんなのそいつ、何様!?」
「ありえない、馬鹿なの? 目ん玉腐ってんの?」
 責められて、うつむいた。確かに、何様だと思う。馬鹿だと思う。でも、振った、という表現は少し違和感がある。そんなつもりはない。
「誰、ねえ誰? うちの学校?」
「うんまあ、一応、学校の人」
 頬杖をついている加賀と、目が合った。静かに微笑んでいる。
「何年何組?」
「先輩? 後輩? 同級生?」
 ヒントをくれ、とばかりに質問をやめない女子たち。
「先生」
 加賀が言った。ビクッとして飛びのくと、黒板に背中が当たり、衝撃でチョークと黒板消しが音を立てて落下した。
「こっちは気にしないで、ホームルーム進めてもらっていいから」
 話の流れから、「告白した相手は先生だ」と宣言されたのかと思った。そんなことをするわけがないのに。冷や汗が止まらない。駆け足でホームルームを終わらせると、教室を飛び出して数学準備室に逃げ込んだ。
 あと数か月で進級すれば、担任から外れる。そして二年後には卒業する。それまでずっと、恋愛感情を隠して、関係を持ったことを後悔しながら過ごすのだろうか。
「先生」
 背後から加賀の声が俺を呼んだ。
「……ノックくらいしなさい」
 振り返らずに、精一杯の怖い声で言ったが、加賀はあっけらかんとして答えた。
「したよ」
「何、何か用?」
「みんな心配してたよ。具合悪いんじゃないかって」
「大丈夫だから、もう行って」
 この狭い空間に二人きり、というのはよくない。落ち着かない。
「後悔してる?」
 加賀が静かに訊いた。ため息をついてから、振り返らずに首を横に振る。
「後悔してるよね」
「それは、加賀もだろ」
「俺はしてないよ。すげえよかったし、何回も思い出して、いつも幸せに浸ってる」
 どうして。どうしてそんなふうに考えられるのか、知りたい。生徒と教師が、男同士で関係を持つなんて、幸せとはかけ離れている。
「先生は違う? やってみたら想像と違ってがっかりしたとか?」
 そんなことはない。首を振って否定する。
「気持ち悪かった? やっぱ男は違った? 女じゃなくて、俺で童貞捨てたの後悔してる?」
 全部違う。誤解もいいところだ。そんなふうに思われたくない。慌てて振り向くと、加賀がすぐ後ろまで迫ってきていた。思わずのけぞったが、手が、俺のシャツを素早くつかんだ。
「先生、好き」
 ぞく、と腰の辺りに快感が広がった。加賀が、頭を俺の胸にうずめてもう一度「好き」とつぶやいた。体が勝手に動いた。気づくと強く抱きしめていた。
 目を閉じる。自分の体の奥の、核の部分から、にじみ出てくる感情。愛しいと思う気持ちが止められない。涙が出そうだ。抱きしめる腕の力が強くなる。離したくない。
「やっぱ好き。すげえ好き。ごめん、好き。どうしたらいい?」
 加賀の声はうわずっていた。
「先生」
 ハッとなって、体を離す。加賀から飛びのいて、おたおたと後ずさる。二度と触れないと決めたはずなのに。
「ご、ごめん」
 謝ると、加賀が「はは」と力なく笑みをこぼす。
「そんな、汚いものでも触ったみたいな」
「汚くない。違う、そういうんじゃない」
「先生、俺のこと、嫌いになった?」
 ありえない。こんなに愛しくて、ずっと見つめていたいくらい、可愛くて仕方がないのに。
「生徒を嫌うはずないよ」
 目を逸らしてため息をつきながら答えた。
「そんなこと訊いてない。逃げないで、ちゃんと言ってよ。俺のこと好き? 嫌い?」
 好きだ。
 大切なんだ。
 お前の未来を、俺なんかが奪っていいわけがない。
「ごめん」
 それしか言えなかった。加賀がフッとはかなげな笑みを浮かべて頭を掻いた。
「俺って、先生の人生の汚点?」
 違う。絶対に、そんなことはない。
 喉がつまって、すぐに否定できなかった。
 まともに加賀の顔を見られない。うつむいて、頭の中で違う、と繰り返していた。
「もう行くわ。部活出ないと」
 あっさりとした口調でそう言うと、すぐにドアが開く音がした。
「俺らのこと、誰にも言わないし、先生に迷惑はかけないよ」
 顔を上げた。閉まるドアの向こう側でこっちを見ている加賀と、刹那、目が合った。しまった、と思った。傷つけてしまった。
 好きだと、すぐに言ってやれなかった。
 付き合ってくれと脅されているわけじゃなく、純粋に、俺の「好きだ」という言葉を欲しがっていただけなのに。
 自分の手のひらを見下ろした。加賀に触れた手が、熱い。
 両手の拳を握りしめ、そのまま顔を覆い、ごめん、と何度もつぶやいた。


〈加賀編〉

 忘れる。諦める。もう二度と、付き合ってとせがんだりしないと、約束した。
 俺はあのとき必死だった。今思えば笑えてくる。なんだよそれ、と我ながら馬鹿らしい。
 男に抱かれておいて、忘れるなんて、無理だ。
 生々しい感覚は簡単に、鮮明に、思い出せる。ぎこちない手の動きも、遠慮がちなキスも、たくましい腰の動きも。
 もっとゆっくりして、と頼んでいるのに欲望を抑えきれない余裕のなさが、可愛いと思った。稚拙な抱き方で紛れもなくこの人は童貞だと確信できた。本能をむき出しにした男の欲望が、俺に注がれている。そう思うと本当に誇らしくて、嬉しかった。
 でも、一度きり。どんなに好きでも、俺たちは結ばれない。
 本当に?
 わからない。俺にはわからなかった。
 先生が、どうしてそんなに深刻な顔で「ごめん」を繰り返して俺を拒むのか。
 教師と生徒だから。
 そんなのは、卒業すれば解決する。
 歳が離れているから。
 たかだか十歳差だ。
 男同士だから。
 世の中には同性で付き合っているカップルは腐るほどいる。
 先生は一体、何を恐れているのか。
 いや、恐れているというよりも、気づいたのか。
 俺を好きだと、確かに言った。でも実際に抱いてみると違和感があって、好きなんてのは錯覚で、時間が経って冷静になってみると、やっぱり女がいいと、目が覚めた、とか?
 俺を好きだと言ってくれなかったのは、ごめんと言ったのは、我に返ったから?
 先生は嘘がつけない。だから、ごめん、なのだ。
 悲しい結論に至る。
 そしてこの結論が正解だとでもいうかのように、数日後、先生がお見合いをしたという噂が広まった。困惑して、落胆して、絶望したのは少しの間で、何も自分から率先して結婚をしようと動き出したわけでもなさそうだと気づき、平静を取り戻した。
 まだ、望みを捨てない。
 教室中、先生のお見合い話でもちきりだった。俺は黙って聞いていたが、クラスメイトの総意は、結婚反対、ということだった。
「教頭が勧めたらしいよ」
「うぜえ、あいつマジでハゲればいいのに」
「上司に言われたら断れないじゃん。パワハラだよ、パワハラ」
「結婚ってことは、子作りとかするの? 先生が?」
「先生が童貞じゃなくなるとかめっちゃへこむ」
「うんうん、清らかなままでいてほしい!」
 先生はもうとっくに童貞じゃない。
 残念、あの人の童貞は、俺がもらいました。
 勝ち誇っていると、教室の前のドアが開いた。みんながおしゃべりをやめ、勢いよく揃って顔を向けた。出席簿を持った先生が、集中した視線に一瞬たじろいでから、「おはよう」と笑った。
「先生、お見合いしたって本当?」
「え」
 先生が驚いた顔で硬直した。教壇に上がろうと右足をかけたところで動きを止める。
「相手どんな人?」
「いつ結婚するの?」
「結婚してもいいけどさ、三十路まで童貞貫いてよ」
「よっ、童貞男子の期待の星!」
 相変わらず、どいつもこいつも無神経で横暴だ。そもそも、お見合いをした、という噂だけで、結婚すると決まったわけじゃない。
 先生は教壇に上がると、教卓に出席簿を置いて教室を見回した。
「みんななんでお見合いのこと知ってるの?」
 困った顔でそう言った。お見合いは、真実らしい。
「教頭命令で仕方なく、なんでしょ?」
「先生可哀想」
「まだ若いんだから、焦ってお見合いしなくてもいいよ」
「そうそう、先生にはちゃんと恋愛してから結婚してほしい」
 お前らなんでそんなにおせっかいなんだよ、と苦笑した。
 先生は教室内を見回して、喋っている一人ひとりの言葉をしっかりと受け止めてから、俺を見た。視線が、絡み合う。随分長い間、見られていた気がしたが、多分錯覚。
 先生は俺から目を離し、出席簿を開きながら言った。
「結婚するのもいいかなって思ったよ」
 自由奔放に言いたい放題していた生徒たちが、黙った。教室が静まり返ったのは一瞬で、すぐに大騒ぎになった。まるでお祭り騒ぎだ。
 やだとか、嘘だとか、やめてとか、ネガティブな叫びが多いのは、みんな先生が大好きで、独占したいからなのだろうか。どこの馬の骨ともわからない女に、持っていかれたくない。俺も、こいつらと同じ? 俺のこの感情は、恋じゃない?
「はいはい、静かに。とりあえず出席取ります。相原」
 先生が淡々と点呼を始めた。相原は返事をせずに、「どんな女?」と訊いた。先生はちら、と相原を見て、ふう、と息をついた。
「大人しくて、感じのいい人だったよ」
 キャー、と女子の嘆きが飛ぶ。先生は動揺することもなく、出席番号二番の内田を呼んだ。
「相手何歳?」
 内田が言った。出席を取っているのに、まるで質疑応答の時間だ。先生は冷静だった。取り乱したり照れたりせずに、顔色を変えない。
「一個上だよ」
 ヒュー、と謎の口笛を、誰かが吹いた。
「はい、宇野」
 呼ばれた宇野由香里は返事をすればいいだけなのに、わざわざ席を立った。
「先生、本当に結婚しちゃうの?」
 泣き声だった。宇野の小さな肩が、震えている。
「まだ一回しか会ってないから、なんとも言えないよ」
 クソ真面目な回答。先生らしい。
「まだってことは、次あるの? いつ会うの?」
 出席番号四番の奴が、次は自分だと張り切って手を挙げて訊いた。
「今度の日曜日に約束したよ」
 はぐらかせばいいのに。丁寧に答えて、出席番号五番の顔を見た。そいつは、待ってましたとばかりに質問を投げた。
「どこにデートに行くんですか?」
「えっと、水族館に」
 ここでようやく照れが出た。先生が頬を赤らめて恥ずかしそうにうつむくと、女子たちの好意的なキャア、という黄色い声があちこちで上がった。
 先生が結婚する、先生を盗られる、と怒っていた生徒たちが、なぜかほだされて、反対から賛成のムードになるのを感じた。でも俺は。
「か、……加賀」
 先生が出席番号六番の俺を控えめに呼ぶ。声が、出てこない。別に、一問一答形式に乗っかる必要もないし、はいと返事をするだけでいい。知りたくない。相手がどんな女で、何歳で、次にどこで会って何をするのかなんて、知りたくもない。
 黙っていると、隣の安原が俺の机を指でとんとんと叩いた。
「おーい、大丈夫か?」
「うん」
 クラスメイトがみんな、俺を見ている。ここは、みんなが喜びそうな質問を投げて、先生をあたふたさせる場面だ。可愛い先生を引き出す。それが俺の役目で、みんなが期待しているのはわかる。
 でも俺の口から出たのは流れをぶった切る、切実な響きを含んだ哀願だった。
「先生、結婚しないで」

〈倉知編〉

 教頭からいい人がいるから紹介したいと、言われた。それはいわゆる、お見合いというやつですか、と訊くと、深く考えずに会うだけでも会ってもらえないかと言われた。
 結婚なんて考えられないし、そのときはとにかく心に余裕がなかった。
 生徒に手を出した。その子のことが、いまだに好きで、忘れられない。顔を見るたびに、好きだと思う。声を聞くたびに、胸が高鳴る。
 俺は教師だ。無謀な恋を、やめたいのにやめられない。こんな状態でお見合いなんてできない。
 俺の事情を知らない教頭は、しつこかった。顔を合わせれば主語を省いて「どうだ?」と詰め寄ってくる。会うだけでも会ってみてほしい、と繰り返した。そのうち、これはチャンスかもしれない、と気づいた。今後、別の人を好きになって、まともに恋愛をする自信はない。それならいっそ、お見合い結婚でもして家庭を持てば、責任も生まれるし、加賀を忘れられるかもしれない。
 浅はかかもしれないが、そう思った。そして、教頭に紹介された女性と会う決意をした。会ってみるととても人がよさそうで、素朴な感じが安心できた。また会いたいと言われ、連絡先を交換した。
 メールでのやり取りが続き、二人でどこかに出かけませんか、と言い出したのは彼女のほうだった。水族館に行きたい、と指定したのも彼女だ。デートみたいですね、と送ると、そのつもりです、と返ってきた。
 そうか、デートなのか、と納得した。
 結婚を前提にしたお付き合いに突入するのだろうか。彼女を、好きになれるのだろうか。
 自信はなかった。
 デートの日が刻々と迫る中で、クラスの連中に「お見合い」をしたことがばれた。当然、加賀にも知られてしまった。他の生徒が盛り上がってはしゃいでいる中で、加賀は一人、思いつめた顔をしていた。面白くないに決まっている。
「先生、結婚しないで」
 身構える俺を、挑むような目で見て、はっきりとそう言った。
「結婚したいから恋愛する? そういうことだろ? 逃げるなよ」
 ざわつき始める教室で、生徒たちがお互いの顔を見合わせている。
「世間体気にして、適当な相手と結婚すれば幸せ? そんなんでいいの?」
 声に、怒りが混ざり始めた。生徒たちが固唾を飲んで、加賀を見守っている。
「本気で惚れた相手なら祝福するよ。でも違うだろ。俺は認めない」
 ただならぬ空気を感じて、教室が冷えていく。加賀がそれに気づき、いたたまれなくなったのか、席を立った。そして無言で教室を出ていった。
 一気に温度の下がった生徒たちは、心配そうだった。
「どうしたんだろう」
「怒ってなかった?」
「加賀君が?」
「怒ってるの見たことない」
 そう、加賀は、怒らない。いつも穏やかで、誰にでも優しくて、他人に気を遣わせることがない子だった。負の感情を、誰にも見せない。そんな沸点の高い加賀を、怒らせた。俺がはっきりしないから。付き合えなくても、気持ちを伝えることはできるのに。怖くてできない俺が、悪い。
 まだ好きか、嫌いになったか訊かれて、答えられなかった。
 宙ぶらりんのままお見合いをしたと聞かされればどんなに温厚な人間でも切れる。
 俺は最低だ。
 とにかく、謝ろう。
 幸い、一限目は授業がない。鞄は教室だし校内を探そう、と決めた。朝のホームルームを終え、廊下に出ると生徒が一人、追いかけてきた。
「先生」
 安原だ。
「どうした? もう授業始まるぞ」
「加賀がどこにいるか知りたい?」
「え?」
「探しにいくんじゃないの? 屋上で頭冷やすってさ」
 安原がスマホの画面に目を落として言った。
「そんだけ。じゃあね」
「ちょ、待って」
 ポケットにスマホを突っ込んで、教室に戻ろうとする安原を呼び止めた。
「あの、……なんで?」
 なんで、加賀の居場所を教えた?
 なんで、俺が探そうとしていることがわかった?
「先生、加賀となんかあっただろ」
 安原が腕を組んでドアにもたれながら言った。加賀が誰かに俺とのことを話すとは思えないが、ぎくりとした。やおら、手のひらに汗がにじむ。
「なんかって?」
「まあ、わかんないけどさ。あいつ最近ちょっと変だし」
「変? どこが?」
「すげえボーっとして考え込んでたり、昼も全然食わなかったり、要するに一種の」
 言葉を切って俺を見上げた。
「恋煩いってやつ?」
 にやりと笑った安原が、俺の腹を拳で小突いた。威力のない軽いパンチは服をかすめる程度で痛みは皆無だった。
「ま、どっかの誰かに振られたせいだろうなあ」
 驚いて目を見開く俺の腹を、今度はえぐるように殴ってくる。二発目は効いた。腹を押さえて体を曲げる俺を、安原は笑って見ている。
「これ以上こじらせないうちに、なんとかしてやってよ」
 腹を撫でさする俺を置いて、教室に戻っていった。
 安原は、気づいている。何を? どこまで?
 頭の中がぐちゃぐちゃだ。
 とにかく、加賀と話をしなければ。
 屋上に向かいながら、何をどう言おう、と考えた。考えても考えても、まとまらない。
 もういい。ありのままだ。嘘をつかない。ごまかさない。真実だけを、話そう。
 俺はもう逃げない。

〈加賀編〉

 失敗した。熱くなりすぎた。
 言いたいことを言ってすっきりはしたが、教室の雰囲気を悪くした。楽しそうだったのに、水を差すような真似をした。
 そもそも。結婚するなとか、認めないとか、俺は親か?
 それに俺たちは付き合っているわけでもない。泣き落としをして、お情けで一度抱いてもらっただけ。そして、諦める、と約束したくせに、未練がましい。
 先生が決めたことに俺が口を出す権利はない。
 制服のポケットでスマホが震えた。画面を見た。安原だ。
『どこ?』
 三文字の短いメッセージ。
 屋上。頭冷やしたらすぐ戻る、と返事を送った。
 フェンスに体を預け、空を見上げる。青い。風が冷たくて気持ちがいい。形を変えながら、静かに流れていく雲を見ていると、何もかもがどうでもよくなってきた。
 そうだよ、別に、先生がお見合いしようが結婚しようがどうでもいい。
 水族館でも映画館でもどこでも行けよ、勝手にデートでもしてろ。俺には関係ない。そのうちキスもするだろうし、セックスだってするだろう。すればいい。大人なんだから。誰でもしている。特別なことじゃない。
 そう思い込もうとした。
 無理だ。
 想像してみると寂しくて涙が出そうになる。
 俺だって、先生とデートしたい。先生と手を繋いで、水族館に行きたい。キスしたい。セックスしたい。先生と、したい。先生がいい。先生じゃないと駄目だ。
「俺、どうなるんだろう」
 つぶやいた。こんなに先生が好きで、この先まともに誰かと恋愛できるのだろうか。
 チャイムが鳴った。授業の始まりを告げる本鈴だ。このまま授業をさぼるのもいいな、と思ったが、そろそろ教室に戻ることにした。フェンスから体を離したとき、ドアが勢いよく開いた。
「え、先生?」
 走ってきたのか、息が少し乱れていた。まさか、俺を探しにきた? 淡い期待が胸をよぎる。
「加賀」
 先生がホッとした様子で俺を呼ぶ。早足でこっちに来る。これは抱きしめられるパターンだ、とワクワクしたのに、五メートル手前で失速し、足を止めた。心の準備が無駄になった。チッと舌打ちをすると、先生が申し訳なさそうに言った。
「安原に、ここだって聞いて」
「あー、なるほど。もう戻るから」
 目を伏せて、咳ばらいをしてから顔を上げ反省しています、という顔を作って言った。
「さっきはすいませんでした」
「え、……え?」
 頭を下げて顔を上げると、先生がポカンとしていた。
「なんか、感じ悪かったなって。偉そうなこと言ってすいませんでした」
「いや、そんなこと……」
 先生が俺から目を逸らし、うろうろと視線をさまよわせた。気まずい間が落ちたあとで、不意に硬い表情になり、真正面から俺を見据えた。
「この前いろいろ、いっぱい訊かれて、俺全然答えられなくて。ごめんな」
「うん、まあ、言いにくいこともあるよね」
 気持ち悪いとか、面と向かって言えるような無神経な人じゃない。先生は優しい。
「ちゃんと答える。全部本当のこと言うって約束する。絶対はぐらかさないよ。もう終わりにしたいから」
 終わり? ズキ、とみぞおちが疼く。やっぱり、そうなるのか。
「……うん」
「あ、授業」
「いいよ、さぼる」
 クソ真面目な先生が許すはずがない、と思ったが、「そうか」と微笑んだ。
 間が開いた。覚悟を決めるにはちょうどいい間だった。ごく、と唾を飲み込んで、ポケットに両手を突っ込んだ。
 心臓が、いやにうるさい。耳の近くでドクドクと、やかましい音を上げ続けている。緊張している、と気づくのに、時間がかかった。
 怖い。
 先生が大きく息を吸って、吐いた。それだけで、体が無様にびくついた。耳を塞ぎたいのを堪え、先生の口がゆっくりと開くのを、息を詰めて見つめた。
「俺は、後悔してるんだ」
 先生が言った。その科白に、心が、みるみるうちに冷えていく。泣きそうになる。泣くな、と懸命に自分に言い聞かせた。泣いたら、負けだ。
「好きだって言ったことも、お前を、その、だ、抱いた、ことも」
 しどろもどろになる先生が、頬を赤らめた。だから、そういうのは反則だって。なんでそんな可愛くなるんだよ。どんと構えて威厳を保っていてくれればいいのに、格好のつかない人だ。
「本当に、後悔してる。だって、すごく可愛くて、き、気持ちよかったし、俺、あれからずっと加賀のこと可愛くて仕方なくて、声とかも、可愛かったなって。思い出したらおかしくなるんだ、その……、体が」
 ちょっと待て。なんの話になったんだ。この人はいきなり何を言い出すんだ。
「夜とか、勃起して、収まらなくて……、ベッドの中のこと、加賀の顔とか声、思い出したらどうしようもならなくて、何回も抜いた」
「ちょ、何言ってんの?」
 さすがに恥ずかしい。慌てて止めると、先生が両手で頬を挟むようにして、可愛いポーズをしながら途方に暮れたようにうめいた。
「だって、全部本当のこと言うって」
 ああそうか。この人はクソ真面目で、頑固で、思った以上に天然だ。
「その、そういうのって、経験しなかったら知らなくてもよかったことだし、だから、後悔してるんだ。加賀が、可愛くて愛しくてたまらなくなったから、後悔してる」
「え?」
 自然と声が出た。先生が俺を真っ赤な顔で見て、「え?」とコピーしたように同じ調子で返してきた。
「え? 後悔ってそういう意味?」
 男で童貞を捨てたことを後悔しているのかと思った。
「すごいんだ。ずっと頭の中に、加賀がいる」
 照れくさそうにはにかむ先生が、可愛い。
「なんなんだよ」
 吐き捨てると、先生が弾かれたように直立する。
「幻滅したとか、気持ち悪いとか、嫌いになったとかって話じゃないの?」
「嫌いになるはずないよ。好きだよ。大好きだ」
 嬉しくて、体が震えた。胸が締めつけられて、目頭が熱くなる。
「……なんで、じゃあ、なんでごめんって」
「付き合えないからだよ」
 天国が見えたのは一瞬で、再び地獄への下降が始まった。
「好きって言われて、嬉しかった。でも、気持ちに答えるわけにはいかないんだ」
「教師と生徒だから? 男同士だから?」
 どっちもだよ、と先生が笑った。
「加賀の将来が大事だから。障害になりたくないし、邪魔をしたくないんだ」
「……わかった」
 うつむいて、口元を手で隠した。顔が、にやける。
 よかった。先生が、どれだけ俺を大事に思ってくれて、好きでいてくれるのか。確認できてよかった。
「言いたいこと、それだけ?」
「まだあるよ。巻き込んでごめんな」
「巻き込むって」
「俺が、最初に好きって言わなかったら、こんなことにならなかったよな」
 先生はとことんネガティブだ。徹底している。それがよくわかった。
「先生、俺も言いたいこと言っていい?」
「うん、最後だから、なんでも言って」
 最後にはならない。最後には、させない。
「水族館には行かないで」
「え」
「デートしないで。先生の初デートは俺がもらう」
「あ、あの」
「女と手ぇ繋ぐのもさせないから」
 先生の右手をつかんだ。汗で、ベタベタだった。先生も緊張していたらしい。
「結婚しないで」
 湿った手を握りしめて懇願した。
「お願い、俺が卒業するまで待って。駄目? 待てない? 二十代のうちに、誰でもいいから結婚したい?」
「俺は結婚がしたいんじゃなくて、加賀のことを忘れたかったから、お見合いを」
「忘れなくていいよ。先生、俺と付き合って。卒業してからでいいから。お願いします」
 先生の手を、両手でしっかりと握った。強張った右手を持ち上げて、祈るように自分のひたいに押し当てた。
「俺の将来が大事なら、断らないで。先生に振られるほうが、人生の障害だよ。廃人になって一生一人で孤独死するから」
「加賀は、そんなことにならないよ」
 優しい顔で、子どもを見るような目で、笑っている。強情だな、この野郎。
「じゃあ、男とっかえひっかえで遊びまくる。俺がいろんな男に蹂躙されても平気?」
「蹂躙って」
「想像してみて。俺のケツの穴、いろんな男に」
「こら、やめなさい」
 先生は明らかに困っていた。困ればいい。しがみついてやる。みっともなくてもいい。嫌われてないなら、俺はこの人を諦めない。
「じゃあ、一年でいいから」
 必死で言い募る俺を、先生は目を細めて見ている。
「高校卒業したら、一年だけ付き合って。一年経ったら別れよう」
 めちゃくちゃな提案だが、先生は迷っているようだ。もう一押しだ。
「百万円あげるから」
「えっ?」
「駄目? じゃあ二百万は?」
「いや、それ人身売買だよ」
「わかった、じゃあ、土下座する」
 先生の手をどけて、屋上のコンクリートの上に両膝をついた。
「やめなさい」
 先生が慌てて俺の腕を引っ張って、力ずくで立たせてくる。焦っていた。いい案が浮かばない。何かないかと考えて、思いついた。ここは屋上だ。
 こうなったら最後の手段だ。脅してやる。
 先生の体を全力で突き飛ばし、身をひるがえしてフェンスによじ登った。
「加賀っ!」
 先生が血相を変えて駆け寄ろうとする。
「それ以上近づいたら、飛ぶから」
 フェンスのてっぺんまで登って、片足を向こう側に放り出すと、先生がへなへなと脱力した。
「付き合って」
 フェンスにまたがったまま、先生を見下ろして言った。
「付き合ってくれないなら、死ぬ」
「嘘、冗談だよな」
 蒼白になって、動揺している。先生から顔を背け、ぐるりと景色を見回した。大小の建物が混在した中途半端な都会の景色。太陽光が眩しくて、綿あめみたいに巨大な雲が、真っ青な空に浮かんでいる。
「はは、すげえいい眺め」
「加賀、わかった。なんでもする。だから、もう、下りて」
 かさかさの声で、先生が訴えた。
「付き合ってくれる?」
「付き合う。約束する」
「あ、ちょっと冷静になってきた。こんなんで付き合ってもらっても空しいわ」
 脚をぶらつかせて言うと、先生がかすれた悲鳴を上げた。
 俺が落ちて死んだら、先生の責任になるだろうか。現場に居合わせたのだから、きっとそうなる。
 好きな人が手に入らないから、死ぬ。最高に女々しい。いろんな人に迷惑をかける、最悪な死に方だ。
「脅して付き合ってもらうって、ないな」
「わかった、付き合わない。これでいい? とにかく、下りて」
「安心してよ。俺、自殺なんて絶対しない。親父が泣くし、……いや、泣くか? あの人が泣くの見てみたいな」
「なんでもいい、いいから、早く」
 先生が膝に手を置いて、力を振り絞って立ち上がる。
「いや、焦らなくていい。ゆっくり、慎重に、おいで」
 そして、俺に向かって両手を大きく広げてみせた。その頼もしい感じにキュンとした。いそいそとフェンスを降りて、半分の高さから、先生の胸の中に飛び込んだ。
 先生はよろめくこともなく、しっかりと俺を受け止めた。
「先生」
 先生の体が震えている。俺を抱きしめている腕の力が、どんどん強くなっていって、骨が軋む音がした。
「痛い、苦しい」
 腕の中でもがくと、先生は「ごめん」と謝ったが、力の加減がわからなくなったのか、圧力を緩めてくれない。そして、震えも止まらない。ガクガクと揺れる体に抱かれて、目を閉じた。
 先生の腕の中にいることが、幸せでたまらない。
「デートしよう」
 先生が唐突に言った。
「え?」
「水族館でも動物園でも映画館でも、どこでもいいからデートしよう」
「何言ってんの?」
「俺の初めては、加賀が全部、もらって。だから、死なないで」
「あー、ごめんね? 最初から死ぬ気なんて」
「うん、わかってる。でも、いつどうやって死ぬか、誰にもわからないんだ。じゃあ、やりたいこと全部やって、好きな人と一緒にいて、幸せなまま、死にたい」
 急に悟りを開いた状態になった。いつの間にか震えも止まっている。
「よし」
 先生が俺の背中を撫でながら気合の入った声を出した。
「今からデートしよう」
「はい?」
「今すぐデートしよう。どこ行く?」
 完全におかしくなっている。俺の体を離すと、肩をつかんで顔を覗き込んできた。すっきりとした、満面の笑みだ。
「えっと、授業は?」
「授業」
「うん、授業」
「そうか、学校だ」
 残念そうに、ふう、と息をついた。
「じゃあ、放課後、デートしよう」
「は? え? 今日?」
「今日。絶対、今日」
 この人はなんて極端なんだ。なんというか、一直線だ。開き直ると、強い。とりあえず、よかったと言えるだろうか。うじうじと前に進まない状態を突破できたのは嬉しいし、ありがたい。
 やっとだ。やっと、手に入った。
「加賀」
 先生の大きな手が、俺の頬に触れた。長身を屈めて、顔を寄せてくる。目を閉じた。唇に、感触。ちゅ、と音を立てて、何度も吸われた。おかしくなって瞼を開けると、目が合った。
「せん」
 喋ろうとするのを無視して、キスをやめない。俺の顔を抱え込んで、くすぐるように、何度も何度もついばんでくる。笑い出す俺の唇を、先生も笑いながら、止まらない。
「好き」
 キスの合間に、先生が言った。
「可愛い」
「う、ちょ、っと」
 ぞくぞくする。身をよじる俺に構わずに、先生は追撃の手を緩めない。
「愛してる」
 幸せそうに微笑んで、キスを落とす。甘い言葉とキスの応酬が心地いい。
「これから毎日、好きって言う」
 やがて俺を抱きしめると、そう宣言した。
「毎日キスする」
「え、どうやって?」
「どうにかして」
 無駄に男らしい。この人は複雑なのか、単純なのか、どっちだろう。
「いいの? 生徒と教師で、男同士で、十歳差だけど」
 蒸し返すみたいで怖かったが、恐る恐る訊いてみた。先生はひるまずに、俺の後ろ頭を撫でて囁くように言った。
「何があっても、俺が守るから」
 先生の中で何かが吹っ切れたのは、間違いない。ショック療法のようなものだ。
 とにかく、なんでもいい。先生が俺を好きだと言ってくれた。俺も先生が大好きだ。
 好きでいていい。
 俺たちはようやくスタートラインに立てたのだ。

〈おわり〉
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