電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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加賀君と倉知先生2

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※このお話は「加賀君と倉知先生」のその後です。当然ながらパラレルです。
前回の続きなので、27歳の倉知君と17歳の加賀さんですのでお気を付けください。

また、教師と生徒が関係を持つことを倫理的に許せず、フィクション、パラレルだとしても受け入れられないという方も無理に読まないようにお願いします。
あと、明るいお話じゃないです。ごめんなさい。
心を無にして楽しめる方のみどうぞ。
もう一度だけ言う…。
この作品はパラレルです。よろしくお願いします。


〈加賀編〉

 付き合おうか。
 と言ったものの。相手は男で、しかも教師。学生同士のようにお気楽にはいかない。こんなにままならない恋愛は初めてで、そのせいか先生に対して異様に愛着を感じる。
 好きだと言われて誇らしい気持ちでいっぱいになり、応えたい、と思った。
 恋愛経験皆無の、二十七歳の童貞の男。相当ややこしい物件なのに、やることなすこと可愛くて、愛しくてたまらない。
 二人きりになれない。触れたいのに触れられない。
 そのもどかしさが自分を盛り上げているのかもしれない。
 あれから一週間が経った。夢だったんじゃないかと思うくらい、俺たちは普通に教師と生徒の関係のまま、進展がない。先生はバスケ部の顧問で、俺は陸上部に所属している。放課後はお互いに時間がない。部活が終わってからじゃ遅すぎるし、夜にこっそり会うのは危険だ。空いた時間にどこか遊びに行くにしても、誰かに見られたら言い訳に困るし妬まれる。クラスメイトはみんな、先生が大好きだからだ。
 先生が一人暮らしならよかったが、実家住みだし、そうなると二人きりになれる場所は一つしかない。
 俺の家だ。
 幸いというか、昨日から父が東京出張で家を空けている。チャンスだ。どうにかして先生を自宅に誘わねば。
 教壇に立って黒板にチョークを走らせる先生の背中を見つめた。
 授業中に好きな人をどれだけ眺めても、誰にも咎められないのはラッキーだが、ある意味生殺しに近い。
 うなじにキスしたい。噛んだり舐めたりしたら、どんな反応をするのだろう。
 ムラ、と性欲が沸いた。慌てて目を逸らす。まずい。勃起する。
 萎えネタを求めて視線をさまよわせ、最終的に隣の席を見た。俺の視線に気づいたのか、安原が口を開けてこっちを見た。
「あ? なんだ?」
「なんか気持ち悪い顔して」
「はあ?」
「たとえば、ウインクとか」
「俺のウインクが気持ち悪いってこと?」
「うん」
「見ろ、どうだ、気持ち悪いか!」
 バチンバチンと音がしそうな勢いで片目をつぶる安原の顔面が、ものすごく気持ちが悪い。
「安原、この問題解いてみて」
 先生が言った。黒板に三角関数の問題が用意されていた。
「うー、えー、わかりません」
「こら、諦めるのが早いぞ。とりあえず前出てやってみて」
 安原が恨みがましい目で俺を見る。笑いながら小声で謝った。安原が黒板に向かう姿を眺めて、胸を撫で下ろす。おかげで股間が治まった。
「やっぱりわかりません」
 数分間あがいたのち、安原がアメリカ人のように肩をすくめてチョークを置いた。
「じゃあ他にわかる人」
 みんな、うつむいたり教科書で顔を隠したり、目が合わないようにしている。多分俺だけが、先生を見ている。頬杖をついて見つめた。先生がそれに気づく。息を飲み、たじろいだ。頬を染めて、教科書で顔を隠し、そろそろと目だけ覗かせてこっちを見る。なんだこの人、可愛いな。
 俺はノートに素早くペンを走らせると、静かに破り取り、二つに折ってから手を挙げた。
「あ……、加賀、……解ける?」
 先生が遠慮がちにそう言った。立ち上がると、クラスメイトの目が一斉に俺を見る。
「さっすが加賀きゅん、抱いて!」
 席に戻る安原が、黒板に向かう俺にすれ違いざまに抱きついた。女子の怒号が巻き起こる。
「汚い!」
「触んないで!」
「安原爆発しろ!」
「安原砕け散れ!」
 ブーイングを浴びせられる安原を置いて、先生の待つ教壇に上がる。近づいてくる俺に、気圧されるように体をのけ反らす先生の手から、チョークを取る。代わりに、隠し持っていた紙切れを手のひらに押し込んだ。先生は一瞬体をこわばらせたが、何事もなかったかのようにポケットに手を突っ込んだ。
 とにかく、進展させたい。もっと話したいし、もっと近くで、二人だけで話したい。
 でも、もしかしたら、と思いつく。
 先生は、なかったことにしたいのかもしれない。
 俺に好きだと告げたことも、付き合おうかと言ったことも、キスしたことも。
 先生は真面目だ。クソがつくほど真面目だ。ルールを破ることを許さない。今時珍しいほど融通が利かない。
 生徒との個人的な連絡先の交換は禁止されていて、携帯番号もメールアドレスも誰にも教えない。もちろん、俺にも。
 他の教師がガイドラインだ、と言って簡単に破る規則を、先生は律儀に守る。
 そんな人が生徒と付き合うなんて、無理がある。教育者の道から外れたことを、するとは思えない。
 だから、闇に葬ろうとしている。
「させるかよ」
 呟いて、解答の最後の「2」を黒板に書き殴るとチョークが折れた。
「うん、あの、正解……、です。よくできました」
 キャー、と謎の声援と拍手が起きる。先生は俺を見ない。教科書に目を落とし、授業を進めていく。腹が立った。教壇に立つ先生の後ろを通りすぎるときに、さりげなく、手の甲で尻を撫でた。
「うわ……っ!」
 先生が跳ねた。バサバサと教卓の上のものが落下する。
 どうしたの? 大丈夫? と心配されているが、俺は素知らぬ顔で自分の席に戻った。
 落ちたものを拾い集める先生は、動揺して、赤面している。少し意地悪だったかな、と反省した。
 でも、俺をちゃんと意識しているのは間違いない。まだ望みはある。
 絶対に、終わらせない。なかったことには、させない。


〈倉知編〉

 今日親いないし泊まりにきて。
 ノートの切れ端に書かれた短いメッセージを、何度も読み返した。
 そんなこと、できるはずがない。
 俺は、後悔していた。
 好きだと伝えたことを、ずっと悔やんでいた。教師が生徒を恋愛の対象にしていいはずがないのに。加賀は優しいから、俺を拒むことができずに受け入れた。多分、成り行きというか勢いで、受け入れた。
 冷静になれば間違いだったとすぐに気づく。加賀は、賢い生徒だ。
 同世代の女の子と付き合っていた健全な男子高校生が、俺のような十歳も年上の男と、恋愛関係を築いていけるはずがない。
 とにかく、謝ろうと思った。
 放課後の部活動を終えると、加賀の自宅の住所を調べ、訪問した。
 表札の「加賀」の文字を何度も確認し、インターホンにそろそろと指を伸ばす。指が、無様に震えた。なぜなら、ものすごい豪邸だからだ。
『どちらさまですか?』
 女性の声が言った。親がいない、というのは嘘だったのだろうか。驚いて「あ、あのっ」と裏返った声が出た。
「わたくし、定光君のクラスの担任をさせていただいております、倉知と申します」
『お待ちください』
 しばらくすると門扉が自動で開いた。思わず後ずさる。
『どうぞ、お入りください』
 インターホンが言った。恐る恐る敷地に足を踏み入れる。外は暗かったが、足元を照らすようにいくつものライトが灯っていた。ぼんやりと浮かび上がる手入れの行き届いた景色は、生活感がなく、まるでドラマか何かの世界のようだった。
「先生、いらっしゃい」
 嬉しそうに玄関から飛び出してきた加賀が、俺に走り寄ってくる。
「よかった。来てくれないかと思った」
 髪が濡れている。風呂上りだろう。やけにいい匂いがする。うつむいて、視線を逸らした。
「あれ、手ぶら? 着替えとか持ってこなかったの?」
「すぐ帰るから」
「は? なんで?」
 加賀のいぶかしげな声に、ドアが開く音が重なった。玄関から出てきたのは、中年のふっくらした女性だった。母親だろうか。一瞬、戸惑って間が開いてしまった。驚くほど似ていない。
「夜分遅くに申し訳ありません」
 頭を下げると、女性は「どうも、こんばんは」と朗らかに笑ってから、加賀を見た。
「もう夏じゃないんだし、乾かさないと風邪ひくよ。早く入って」
 心配そうに顔をしかめてそう言うと、ぶら下げていたバッグを肩に担いで「じゃあ帰るね」と加賀の背中を撫でた。
「うん、またね、おやすみ」
 女性が俺に会釈して門扉のほうに向かっていく。背中を見送りながら、首を傾げた。
「お母さんじゃないの?」
「あれは家政婦さん。週三日だけ手伝いに来てくれてる」
 そういう職業があるのは知っているが、見るのは初めてで妙に感慨深かった。この豪邸だから家政婦の一人や二人、いてもおかしくはない。
「うち、離婚して母親いないから」
 平然と、表情を変えずに言った。言葉に詰まる俺を見て、頭を掻いて、肩をすくめた。
「とりあえず上がって」
「あ、うん、お邪魔します」
 玄関が広い。土足で入っていいのか不安になる。どこもかしこも綺麗に磨かれていて、モデルルームのような完璧さだった。きょろきょろと見回しながら、加賀の後をついていく。
「なんか……、すごいな。おうち、おしゃれだね」
「親父がこだわりの人だから」
「お父さん、何してる人?」
「さあ」
「さあって」
「先生」
 加賀が、らせん状の階段を一段上ったところで足を止めた。
「好きだよ」
 振り返って、唐突に言った。
「すげえ好き」
 目線の高さが同じで、顔が近い。驚いて身を引いた。そして、にわかに体が熱くなる。
「先生、可愛い」
「か、可愛くない」
「授業中ずっと見てるの、知ってる?」
「あの、俺、謝りに来たんだ」
「謝るって」
「付き合えるわけない。なかったことにしたい」
 加賀は、らせん階段の手すりにもたれかかるようにして「はは」と笑った。
「言うと思った」
「ごめん、ごめんな。生徒なのに、好きになってごめん。キスしてごめん。ごめん、俺、教師失格だ」
「キスしたの、俺だし」
 どっちからしたかなんて、問題じゃない。無言で首を横に振る俺に、加賀が小さく息をついてから言った。
「一個確認していい?」
「うん」
「俺のこと本気で好きだよね?」
 答えられずに、もう一度静かに首を振った。
「俺は好き。めちゃくちゃ好き。先生、またキスしていい?」
「もう……、やめて、お願いだから」
 その場に座り込みたくなった。惚れた相手にここまでストレートに好意をぶつけられたら、教師の顔を続けられない。腰が砕けそうだ。立っているのがやっとで、赤くなる顔を、ふらふらになりながら両手で隠した。
「加賀は、勘違いしてる」
「勘違い?」
「俺を好きなんて、勘違いだよ。いや、思い込みだ」
「勝手に人の気持ちをカテゴライズすんなよ」
「だって、俺が好きだって言わなかったら、加賀は今頃きっと、別の女の子と付き合ってた」
 加賀は何も言わなくなった。気を悪くしたのか、考えているのか、反論しない。
「先生」
 手首をつかまれた。顔を覆っていた手をどけて、加賀を見る。泣きそうに見えた。胸にこみ上げる、愛しいという感情。
「俺、フリーのときに告られたら、大抵はオッケーしてきた。断り続けるのも面倒だし、彼女がいれば付き合ってってせがんでくる女が減るし、楽だから。彼女持ちだって周りの奴らに認識してもらえれば、誰でもよかったんだ」
 誰でもよかった。そうか、と納得する。俺が好きだと告げたとき、加賀は彼女と別れたばかりだった。
 つまり、誰でもよかったのだ。俺でも、よかった。
「あ、違う」
 加賀が、俺の右手を両手でつかんでもう一度「違う」と言った。
「先生がそうだって言いたいんじゃないよ。そもそも、先生と付き合ってるなんて誰にも言えないじゃん」
 俺の手を握る加賀の手は、風呂上がりのくせに冷たかった。
「あの日、付き合ってくれって何回も言われたけど、全員断った。どういうことかわかる?」
 大抵はオッケーしてきたのに、フリーでも断った理由。
「ああもう、まどろっこしいな」
 加賀が濡れた頭を掻き乱した。
「さっきの質問の答えは?」
「質問って」
「俺のこと、好き? どんくらい好き? 生徒だからって諦められる程度? 両想いになれたって浮かれてんのは俺だけ? 先生、俺と付き合って。お願い、触らせて、キスさせて」
 俺の手を握る加賀の手が、汗ばんできた。泣き顔で俺の返事を待っている。こんなに必死に、全身で好きだとアピールされて、平静を保てるはずがない。
 加賀の手を引き寄せて頬に当て、そっと囁いた。
「……好きだ、好きだよ。ごめんな、……好きだ」


〈加賀編〉

 もう、我慢できなかった。
 この可愛い人を、どうにかしたい。
 手を引っ張って引き寄せた。驚いた先生の顔が、鼻先に迫る。噛みつくように唇を奪う。強引に舌をねじ込んで、舌先で口腔内をなぞってやる。先生の体が小さく跳ねた。
 先生は目を閉じていない。俺も開けたままだ。見つめ合った状態。妙に、興奮する。
 舌を絡めとり、優しく吸うと、先生が俺の体にすがってきた。
「ん、……ふぅ」
 鼻から抜けるような、甘ったるい声を漏らし、必死で俺の唾液を飲み込んでいる。可愛い。たどたどしい舌の動きも可愛い。俺の服を握りしめて、拒みたいのに拒めない感じも可愛い。
「先生、可愛い」
 キスを中断してつぶやくと、先生がだらしなく口を開けて荒い息をついた。
「ちょ、待って、苦し……」
「やべえ、勃ってきた。ほら」
 先生の手を自分の股間に持っていくと、手のひらに、硬くなったものを押しつけた。
「え、わ、うわ、ご、ごめん」
「なんで謝ってんの? 先生のも触らせて」
 言うと同時に下腹部をまさぐった。大きくなっているのを確かめると、嬉しくなって階段の上から先生に飛びついた。
「先生の、見たい。見せて?」
 首にしがみついて、耳を甘噛みしながら言った。
「んっ、う、も、もう、だ、駄目」
「なんで?」
「もう、おしまい。離れて、早く」
「俺の部屋で続きしようよ」
 耳の中に舌を入れると、先生の体が大きくよろめいた。
「あっ、あぶ、危ない、もう、いい加減にしなさい!」
 真っ赤な顔で、精一杯の教師の威厳を見せつけている。俺は笑って先生から離れると、手を引いて階段に足をかける。
「加賀、待って」
 抵抗する先生の動きは、弱々しかった。
「本当に駄目なんだ。もうやめよう」
 声が震えている。
 深刻になるな、と言っても無理な話なのかもしれない。教師と生徒で、男同士で付き合おうとしている。深刻に、慎重になるのが正解だ。
 もしバレたら。先生は教師をクビになるかもしれないし、俺も停学処分とか? 退学かもしれない。
 そんなのは、どうでもよかった。
 先生が可愛い。
「先生、俺」
 すげえやりたい、と言おうとしたとき、空気を読まないくしゃみが出た。先生がビクッと大げさに反応して、夢から覚めた顔になると、俺の髪を撫でた。
「髪、乾かしたほうがいいな」
「じゃあ乾かして」
「……ごめん、もう帰るよ」
 俺の手を振りほどいて、肩を落とす。逃げる、と思った。
 階段の上から飛んで、再び先生に抱きついた。先生が慌てて俺を抱きとめる。
「俺、今日一人なんだよ。こんなでかい家に一人って、可哀想じゃない?」
 父の不在には慣れていて、別に寂しいなんて思ったこともないし、むしろ一人で好きにできる時間は気に入っていた。でも、先生を引き留めるためならどんな手でも使おう、と思った。
「あ、やばい。寒い。なんか寒い。風邪ひいたかも」
 鼻をすすって咳き込んでみる。先生が「えっ」と声を上げて俺を抱きかかえたまま、顔を覗き込んでくる。
「熱は?」
 本気で心配してくれている。にやけそうになる。
「んー、熱っぽい」
 先生の首にしがみついて、ぐったりとするふりをして匂いを嗅ぐ。男くさい。そりゃそうだ。男だ。でも不思議だ。嫌いじゃない。むしろ好きだ。いい匂いだ。
「あの……」
 鼻をくっつけて嗅いでいると、先生が俺を抱えながら途方に暮れたような声を出した。
「自分で歩ける? よな?」
「歩けない。ベッドまで運んで」
 両手両足でしっかりホールドすると、先生が諦めた様子でため息をついた。俺の体を支えて、階段を一歩ずつ、ゆっくりと上がっていく。
「先生」
「うん」
「バレないように、こっそり付き合おうよ」
 先生は答えない。無言で階段を上り切り、「部屋どれ?」と訊いた。
「手前の、その部屋」
 先生がドアを開ける。電気を消し忘れていて、中は明るかった。
「はい、降りて」
 先生が背中を軽く叩く。俺はしがみついたまま離れない。
「加賀」
「付き合ってくれる?」
「……降りて」
 静かな声に、どこか冷たさを感じて怖くなり、言うとおりにした。
「先生、俺」
「ごめん、付き合えない」
 それだけ言って、身をひるがえす。ドアと先生の間に素早く割り込んで、立ち塞がる。背中でドアを閉めると、困った顔で立ち尽くす先生を見上げた。
「じゃあ、卒業したら付き合ってくれる? 教師と生徒じゃなきゃいいんだよね?」
「俺、十歳も上だよ。それに男だ。俺は加賀の未来を奪いたくない」
「何それ」
「加賀にはもっとふさわしい人がいるよ」
 先生は、優しい顔で諭すように言った。
 好きだって言ったのに。一旦受け入れておいて、今更突き放すなんて、あんまりだ。
「先生がいい」
「ごめん」
 先生の声は毅然としていた。教師としての誇りを持っていて、信念を曲げない。
 先生が俺を好きなのは間違いがない。でも、何をどうしても付き合ってくれることはないのだと、悟った。
 お互いに好きなのに、付き合えない。教師と生徒だから。男同士だから。歳が離れているから。
 胸がつまる。息が苦しい。泣きそうになり、頬の内側を噛んで、堪えた。
「一人で平気? 熱上がりそうなら、もう少しいるけど」
 先生が言った。落ち着いた、優しい声色。ああ、好きだなあ、と再確認する。
 俺はこの人が好きだ。
「俺、諦めるよ」
 ドアに背中を預けて言った。
「もう二度と、付き合ってって言わない」
 先生が眉を下げて悲しそうに「うん」とほほ笑んだ。
「約束するよ。だから、先生の童貞、俺にちょうだい」
「え……?」
「そしたら忘れる。先生のこと、ちゃんと諦めるから」
 忘れる。諦める。そんなことは自分でコントロールできるはずがない。約束なんて、意味がない。でも、もうなんでもいい。とにかく俺は、この人の人生の一部になりたい。何か、爪痕を残したい。
 綺麗な思い出で終わりたくなかった。


〈倉知編〉

 童貞をあげる。すなわち、関係を持つということ。
 付き合えない、と言っているのに、馬鹿げた提案だ。俺は首を横に振った。
「駄目だよ」
「じゃあ、諦めない。毎日好きだって言うし、付き合ってって言い続けるから」
「加賀……」
「先生が好きだってみんなにも言うし、キスしたってばらしてやる」
 こんなに子どもじみた脅迫をするとは思わなかった。多分、本音じゃない。そんなことは絶対にしない。
 好きにしなさい、と言って、部屋から出ればそれで終わり。加賀は泣いて落ち込むかもしれない。俺も同じだ。でも、それが正しい選択だと思う。
「先生、お願い」
 加賀の声が涙で揺れている。懸命に堪えているが、泣く寸前だ。
「すげえ好き。先生、好き。他の女に渡したくない。付き合えないなら、せめて初めての相手に俺を選んでよ」
 俺を、助けて。
 悲痛な叫びを上げて、糸が切れたようにその場に座り込んだ。声を殺して泣く加賀の前に、屈む。
 頭を撫でた。真黒な湿った髪は、驚くほど綺麗で、しなやかだった。
 この先何十年生きたとしても、加賀以上に好きになれる人は現れない。
 もしかしたらもう誰も、好きになれないかもしれない。
 愛しくて、大切な存在。
「わかった」
 加賀の肩が反応した。ゆるゆると顔を上げて期待に満ちた目で俺を見る。
「なんの価値もないと思うけど……、俺の童貞、貰ってくれる?」
 苦笑して訊いた。加賀が潤んだ瞳を俺に向けて、嬉しそうに笑う。屈託なく笑うその顔は、美しかった。
 どちらからともなくキスをして、抱き合って、お互いの服を脱がし、触れ合った。加賀の体はどこもかしこも整っていて、きめの細かい肌は指に張りつくようだった。
 夢中だった。本能のまま、抱いた。途中から加賀は泣いていたが、痛いのかと思って訊くと、涙で濡れた顔をくしゃくしゃにして言った。
「嬉しいんだよ。すげえ幸せ。今死ねたらいいのに」
「まだ死なないで」
 冗談に本気の口調で返す俺を、加賀は笑った。
 可能性に溢れた十代の高校生。これからいろんな人間と出会って、社会に出て、成長する。それをそばで見届けられたら最高だっただろうな、と思った。
 もし俺が気持ちを打ち明けなかったら。
 高校時代の担任教師として付き合いが続いていたかもしれない。たまに飲みにいって、仕事の愚痴を聞いたり、恋愛の悩み相談をされたり。そのうち加賀が結婚して、結婚式でスピーチをしたり、子どもが生まれたら抱かせてもらったり。
 そんな未来もあったかもしれない。
 でももう、俺は加賀の人生には関わらない。関われない。
 今は、俺のことを好きだと言って泣いてくれている。でも、そのうち顔も名前も忘れられる。きっとそうなる。
 それでいい。それがいい、と思った。
 その夜、先に眠った加賀のそばで、一晩中起きて寝顔を見ていた。
 見ていると泣けてきて、声を出さないように、涙をぬぐい続けた。
 すぐには吹っ切れないかもしれない。でも大丈夫だ。時間をかければ少しずつ傷は癒える。
 俺たちの関係も、少しずつ元通りになる。
 月曜日、加賀は落ち込んだ様子もなく、クラスメイトと笑い合っていた。廊下で出くわした俺と目が合うと、以前と違わぬ屈託のない笑顔を向けて「先生、おはよう」とあいさつをする。おはよう、と返してすれ違う。
 そうだった。若い頃というのは、傷が塞がるのが早い。俺もそうだった。
 加賀が元気で、笑っていてくれるならなんでもいい。
 心から大切に思える人が現れて、その人と一緒に人生を歩む。過去に男の教師に惚れたことは、きれいさっぱり忘れてしまえ。
 でも俺は。忘れられる自信がない。引きずって、毎日思い出して、声に出さずに慟哭する。
 足を止めた。胸を押さえ、肩越しに振り返る。
 息が、止まるかと思った。
 加賀がこっちを見ていた。少しの間、視線が交錯する。先に逸らしたのは加賀だった。
 俺は立ち尽くしたまま、加賀の姿が視界から消えるまで、見つめ続けていた。

〈おわり〉
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