電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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可愛いひと ※

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〈倉知編〉

 いまだかつて、「捨て猫」というのを見たことがない。野良猫じゃなく、捨て猫だ。
 よく漫画なんかに「拾ってください」と書かれた段ボールに入っている子猫、というのが出てくるが、そんなものは見たことがない。
 見たことが、なかった。
 過去形なのは、今まさにそれを見たからだ。
 大学の中庭の一画に、人だかりができているのを見つけた。なんだろう、と人の隙間から見てみると、「拾ってください」と書かれた段ボールに子猫が数匹入っていたのだ。
 俺の他にも珍しい、と感じる人がいるらしい。隣にいた人がスマホで写真を撮っている。
「やーん、可愛い」
 子猫を抱き上げて、女子がキャアキャア騒いでいる。
「飼うの?」
「えー、うちの家族猫嫌いだし無理」
 飼いもしないのに人肌に慣れさせるのはよくない、と聞いたことがあった。きっとこの場に橋場がいたら「無責任にベタベタ触るのは酷だ」とか言っていただろう。いなくてよかった。
「誰か飼える人いないの?」
 女子の問いかけに答える人はいなかった。
「このまま置いておいたら、処分されないかなあ」
「撤去されるよ、多分」
 残酷なようで、冷静な見方だと思った。大学側が見つけたら、多分、放置はしておかないだろう。
「私、一匹貰う」
 一人の女子が手を上げて、名乗り出た。おー、と拍手が起きる。
「あと二匹いるよ」
 うーん、と集まった生徒たちが一斉にうなる。
「駄目元で、持って帰ってみる」
 さっき、家族が猫嫌いだと言っていた女子が腕の中の猫を、大事そうに撫でた。
「じゃああと一匹。誰か飼えないの?」
 叩き売り状態だ。一人、二人と無言で去って行く。最後に残ったのは俺だった。場を仕切っていた女性と、目が合う。
「猫好き?」
「えっと……、はい、でも」
「よかった、じゃあ最後の一匹!」
 腕の中に押しつけられて、慌てて受け取った。子猫は小さくて、小刻みに震えていた。可愛いな、と撫でていると、気づいたときには誰もいなくなっていた。
 今更段ボールに戻すわけにもいかない。そのまま持って帰ることにした。
 持って帰ったものの、そもそも、うちのマンションはペットを飼ってもいいのだろうか。住人と顔を合わせることはたまにあっても、ペットを連れているのは見たことがないし、犬の鳴き声なんかも聞いたことはない。
 なんの相談もなしに猫なんて持って帰ったら、加賀さんに怒られるかも、と思うとそわそわする。怒る加賀さんも新鮮でいいかもしれないが、こんなことで喧嘩もしたくない。
 実家に持っていこうにも、母が動物の苦手な人で、今までペットを飼ったことがない。五月や六花が頼み込んでも、母が嫌がれば父は許さない。
 どうしよう、どうしようと、猫を抱え、部屋の中をウロウロしていると、玄関のドアが開く音がした。
 加賀さんが帰ってきた。
「ただいま」
「お、おかえり、なさい」
 へら、と笑うと加賀さんが俺の顔をじっと見て「何?」と訊いた。
「え、何って、なんですか?」
「なんか変」
「そうですか? いたって普通ですけど」
「挙動不審」
「それはいつものことです」
「なんでだよ」
「あの、ご飯、今日鶏肉のサッパリ煮です」
「いいね。で、何?」
「何も、あの、食べましょうか。着替えてきてください」
「怪しい。なんなの? ちょっと俺の目を見ろ」
 加賀さんが顔をわしづかみにして、目を覗き込んでくる。綺麗な顔が至近距離にある。たまらずにキスをした。
「そういうのは今いいから」
 唇を離して、加賀さんがネクタイを緩める。
「なんだよ、なんかあるの? サプライズ? 今日なんかの日だっけ?」
「いえ、ほんと、違うんです」
「変な奴」
 加賀さんが寝室に向かおうとしたそのとき、「ニャー」と声がした。
 ぴたり、と動きを止めて振り返る。
「今の」
「お、俺です、俺。ニャー」
 鳴き真似をすると、加賀さんが糸のように目を細めて、鼻から息を吐きだした。
「猫拾ってきた?」
「……すいません、大学で捨て猫が」
「このマンション、ペット禁止なんだよ」
 やっぱり、と体に力が入る。ルール違反はしたくない。
「どこにいるの? 猫」
「あの、ベランダに」
 白状すると、加賀さんがベランダに続く窓を開けた。段ボールから猫が顔を出す。
「ごめんなさい」
「うん、まあ、拾ってきたもんはしょうがない。なんか事情があったんだろ」
 怒っていない。さすが加賀さん。ホッとして後ろから抱きしめた。
「でもここじゃ飼えないしな」
「ですよね……」
「それ以前に俺は犬派だ」
 それは初耳だ。
「誰か飼えそうな奴いないの?」
「里親募集したり、探せば見つかるかもしれませんけど」
「お前んちは?」
「母が動物苦手で」
「うちの実家も無理だわ」
「お父さん、猫嫌いとか?」
「親父も犬派だから。ていうか部屋に猫入れたのバレるのが怖い」
 確かに。それは、怖い。ごめんなさい、ともう一度謝った。
「里親探しますから、今日だけでも置いてもらえませんか?」
「いいよ、俺も会社で飼える奴いないか聞いてみるし。ちょっと写真撮るか」
 加賀さんがしゃがみこんで、段ボールの中の猫に携帯のカメラを向ける。猫は中に敷いたタオルとたわむれている。
「こっち向けよ、おーい。あー、駄目だ、肝心の顔が撮れない。倉知君、抱っこして」
「はい」
 うなずいて、加賀さんの体を抱き上げた。
「そうそう、抱っこ……って、何やってんだよ」
「すいません」
 そそくさと下ろして、段ボールの中の猫を抱き上げた。
「よし、撮るぞ」
 猫に携帯を向けて何枚か撮ったあとに、二歩下がる。
「もうちょい顔の近くに持ってって」
 言われた通り猫に顔を寄せると、加賀さんが「いいね」と言って携帯を向けてくる。
「おー、可愛い」
 撮った写真を確認して、満足そうだ。
「見せてください」
 画面を覗き込むと、猫を抱く俺が写っていた。でも猫は後ろ頭しか写っていない。
「可愛いだろ」
「あの、猫、撮れてませんけど」
「うん、可愛いのは倉知君だから」
 なんだそれは。
「ご飯、食べましょうか」
 照れ隠しにそう言って、段ボールに猫を戻した。外は可哀想だから中に入れてやれ、と言ってくれたので、とりあえず脱衣所に段ボールごと避難させた。
「あとで遊ぼうな」
 俺の動きを目で追う健気な子猫に言い聞かせ、頭を撫でた。
 食事を済ませ、後片付けをしたあとで、猫をリビングに連れてきて、戯れる。子猫の、独特なぎこちない動きがすごく可愛い。抱き上げて、頬ずりして、くすぐって、至福のときを過ごす。この子を飼えたらよかったのに。手放すのが悲しい。
「加賀さんも遊びましょうよ」
 ソファに寝転んで本を読んでいた加賀さんが、こっちを見ずに「いい」と短く答えた。
「可愛いですよ」
 俺の手にじゃれている子猫をちら、と見て、眉間にしわを寄せた。すぐに本に視線を戻す。犬派、というより猫が嫌いなのだろうか。これが猫じゃなくて犬だったら加賀さんも喜んでくれたかもしれない。
「よし、風呂入るか」
 しばらくしてソファから腰を上げた加賀さんが伸びをしながら言った。
「あ、先入ってください。俺もう少しこの子と遊びます」
 猫を膝にのせてあごを撫でながら言った。加賀さんの手から、文庫本が落下する。なんだかわからないが、絶望的な顔をしている。
「加賀さん?」
「猫に、負けた」
「へっ?」
「俺と風呂入るより、猫と遊ぶほうがいいんだな……」
 消え入りそうな声でそれだけ言って、トボトボとバスルームへと消えた。
 なんだ今のは。
 もしかして。もしかしなくても。
 猫に嫉妬、したとか?
「加賀さん」
 脱衣所のドアを開けると、上半身裸の加賀さんが「ん」とこっちを見る。
「あの、ヤキモチですか?」
 恐る恐る訊くと、加賀さんは平然と「そうだよ」と答えた。猫相手に馬鹿言え、とはぐらかされると思ったのに。
「俺は猫になりたい」
 意味不明なことを言い出した。
「抱っこされたり、膝に乗ったり、なでなでされたり、猫になったらしてもらえるのにな」
 足の力が抜けて、床に膝をついた。自然とにやけてくる顔を、うつむいて、隠す。
「朝起きたら猫になってないかな」
 ため息をつきながら、可愛い発言をやめない。このままじゃまずい。加賀さんの可愛さで、俺の顔が溶けてしまう。
 子猫をそっと段ボールに戻して、半裸の加賀さんに抱きついた。
「さっき、抱っこしましたよ」
「ん、あー、そうだな」
「膝に乗ればいいし、なでなでもします。加賀さん、好きです。猫と比べるまでもないです。加賀さんの可愛さに勝てるものなんて、この世に存在しない」
 控えめに俺を見上げて、恥ずかしそうに視線を逸らす。
「猫のが可愛いだろ」
「猫より可愛いです」
 軽く耳に噛みついた。ビクッと震えた体を抱きしめて、耳元で囁いた。
「可愛い」
 加賀さんの可愛さは、子猫の可愛さのはるか上を行く。
「お風呂、入りましょうか」
「猫はもういいの?」
「猫と遊ぶより、加賀さんとお風呂に入りたいです」
「うわ、気ぃ遣わせた」
「そんなんじゃないですよ」
 下半身を加賀さんに押しつけて「ね?」と笑う。
「どうしてこうなった。勃起する要素がどこにあったんだよ」
「要素はあるじゃないですか、ここに」
 加賀さんの胸を撫でて、親指で乳首に触れた。
「はぁっ……」
 色気を帯びた吐息を零し、俺にしがみついてくる。気持ちよさそうなのが嬉しくて、指の動きが止まらない。首筋に吸いつきながら、乳首を攻めた。加賀さんの肌が、汗で湿ってくるのがわかる。俺の胸で顔を隠して、声を押し殺す仕草も可愛い。
「加賀さん、いい匂い」
「猫が」
「え?」
「猫がすげえ見てるんだけど」
 段ボールを見下ろすと、真ん丸な目がこっちを見ていた。何も知らない幼い子どもに行為を見られたような後ろめたさがある。
「風呂場でしましょう」
 肩を抱いて、バスルームに移動した。
 キスをしながら体を揺すってお互いの下腹部を刺激しあう。絡み合う舌が、擦れ合う下半身が、気持ちよくて、止まらない。加賀さんの尻を夢中で揉んだ。指を入れて、押し広げる。指を増やし、丁寧に、ほぐす。
 塞いだままの口から、声にならない声が漏れる。唇を離すと、加賀さんの潤んだ目が、せつなげに俺を見上げてくる。
「倉知君」
「はい」
「うざいこと言っていい?」
「なんですか?」
「俺だけ可愛がって」
 猛スピードで放たれた矢が、心臓に突き立った。ダメージが大きい。脚が、もつれた。加賀さんを抱えたままバスルームの壁に激突する。
「大丈夫?」
「う、だ、駄目です、イキそう」
「え」
 加賀さんが身じろぎしたせいで、頑張って制御していた射精感が限界を迎える。解き放たれる感覚に、脚が震えた。情けない声を上げて精を放つ。
「……えっと」
「……ごめんなさい」
「いや、いいけど、何がそんなに」
「加賀さんが煽るからですよ」
「煽ったっけ?」
「煽りました」
「なんかごめん」
「いえ、じゃあ、もう挿れてもいいですか?」
 加賀さんが視線を下に向けて、俺の股間を見た。精液にまみれながら、硬度を保って息づいている。
「いいよ。こっち」
 俺の腕を引いて、バスタブに足を入れた。
「中で?」
「中で」
 バスタブに浸かると、加賀さんが俺の体をまたぐ。
「腰、もうちょい上げて」
 言われた通りに体を浮かせる。水面から顔を出した俺のペニスを掴んで、自分の尻にあてがった。さっき出した俺の精液のぬめりが、進入を助けている。
 水の音が、バスルームに響く。加賀さんが腰を揺らすと、波が立ち、体がふわふわと、浮いた。
「下から、突いて」
 バスタブの淵に手をついて、加賀さんが体を上下させている。言われた通りに腰を動かした。お湯が跳ねて、飛沫が顔にかかる。浮力のせいで、やりづらい。でもこの不便さが、なんとなく楽しい。
 それに、目の前には勃起した加賀さんのペニスが誘うように踊っている。思わず手が出た。握って、手のひらで擦りながら、腰を揺する。
「んっ、あ、あっ、すげ、いい、気持ちいい」
 加賀さんの淫らな声が、反響している。二人分の息遣いと喘ぎ声、絶え間なく聞こえる水の音。湯気で霞む視界に、恍惚とした表情の加賀さんが見える。
 どこか別世界にいるような不思議な感覚になった。
 加賀さんの体が俺の上で痙攣し、握っていた先端から、精液が飛んだ。声もなく果てて、俺の体に倒れこんでくる。
「暑い」
「上がりますか?」
 加賀さんの体を抱きとめて、肩を撫でながら訊いた。
「ん、もうちょっと。なんかすげえ、気持ちいい」
 すり寄ってくるのが可愛くて、たまらずに掻き抱いた。無自覚なのか、計算なのか、この人の可愛さは底知れない。
 可愛い可愛い可愛い、と心の中で絶叫する。
 脱衣所から猫の鳴き声が聞こえた。ふっと、現実に戻る。加賀さんが俺の腹の上で「猫に聞かれたな」と笑った。
 あの子を拾ってきてよかった、と思った。
 嫉妬する加賀さんを見られたし、「俺だけ可愛がって」なんて科白もゲットできた。
 この恩は忘れない。いい飼い主を見つけてやろう、と微笑んだ。

〈おわり〉
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