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孤独な正義
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〈橋場編〉
僕は友人がいない。昔からそうだ。
小学生の頃から、よく仲間外れにされた。友人だと思っていた相手から、「お前めんどくさい」と拒絶されたこともあった。
めんどくさい、の意味がわからずに、でも、そう言われることは不愉快で、他人との関わりを断つようになっていった。一人でいることに教師や親は心配したが、無理矢理友人を作っても、お互いにいいことなどないと悟った。
中学、高校と進学するにつれて、友人が欲しいとは思わなくなっていった。それこそめんどくさかった。
相手に合わせて自分を偽るのは苦痛だった。嘘をつくのが嫌だからと、ありのままの本音で接すると、苦笑いで去っていく。だからもう、一人がいい、一人にして欲しい、とバリアを張った。
大学に入ってもスタンスを変えなかった。大学はいい。勉強に集中していれば、他に何も必要ない。友人を作りなさい、と強要する教師もいない。一人でいることを、上から目線で哀れんでくる奴もいない。みんな、誰も僕には興味がない。
自由だ、と思っていた。
大学に進学してしばらく経った頃、構内を移動中、目の前の学生が何かを落としていった。それがガムの包み紙だと気づき、前を歩く学生を呼び止めた。
ゴミを落とした、と指摘すると、「捨てたんだよ」とうっとうしそうに言われ、それに腹が立ち、どうしてゴミ箱に捨てないのか、と問い詰めた。相手には連れがいて、二人とも僕より背が高く、態度も高圧的だった。
「そんなにゴミ箱に捨てたいならお前が捨てとけよ」
と、にやついて僕の肩を軽く突いた。軽く、というのはあくまで本人の力加減の問題で、僕の痩せた体にはそれなりの衝撃があった。よろめいて、尻餅をつく僕を、押した本人は一瞬驚いた顔で見下ろしていたが、すぐに手を叩いて大笑いを始めた。
一体何が楽しいのか。大学生にもなってこんなことが楽しいなんて、小学生に戻ったらどうだ。
尻餅をついたまま吐き捨てると、二人が笑うのをやめて怒りを露わにした。暴力を振るうつもりだと察し、息を呑む。
そのとき、僕の腕を誰かが引いた。後ろから抱え上げて、僕を立たせてくれた人物がいた。
「大丈夫?」
大きな男だった。見上げないと顔が見えない。男は、廊下に落ちたガムの包み紙を拾い上げると、「はい」と言って捨てた本人に差し出した。
「いるかよ、馬鹿」
行こうぜ、と二人が去っていく。ゴミを受け取らずに行ってしまった。「待て」と呼び止めようとする僕を、男が止めた。
「ああいう人っているよね」
笑って、手のひらでゴミを丸める。
「腹が立たないの?」
「まあ、いつかあの人にもわかるときが来るといいなと思うよ」
なんだそれは。大学生になってゴミをゴミ箱に捨てられない奴が、いつか改心するとでも思っているらしい。気の長い話だ。
「わかるときなんて来ないよ」
「うん、そうかも。こういうのって、親の背中なのかな」
のほほんとした口調でそう言うと、思いついたように付け足した。
「あの人に、すごく好きな人ができて」
「……はあ?」
「その相手に注意されたら、もしかして悪いことだって気づくかもね」
去っていった二人の背中を見ながら微笑む男は、その日から、僕の友人になった。
同じ学年で、同じ学部の倉知七世という男は、変わった奴だった。
どこが変わっているか。
僕に話しかけ友人になろうとするのだから、相当変わっている。
僕は今まで友人を持たなかった。面倒な性格だからだ。倉知もきっと、面倒に感じると思う。だから、無理に友人をやらなくてもいい。
そう突き放すと、不思議そうな顔をした。
「友達って自然になってるもんだよね」
自然に友達になるという感覚が、僕にはわからなかった。戸惑う僕に、倉知は少しずつ距離を縮め、徐々にいろんなことを話すようになった。
家族のこと、高校での思い出や、恋愛の話、将来の夢。今まで、他人のそんな話には興味がなかった。でも、誰かのプライベートを共有するのは、妙に面白く感じた。
次第に自分のことを話すようにもなり、倉知は僕の、初めての友人になった。
その友人が、道を踏み外そうとしているのを黙って見てはいられなかった。
倉知には好きな人がいて、高校卒業と同時に一緒に暮らすようになったそうだ。倉知は真面目な奴だし、きっと結婚を前提にした相手なのだろうと思っていた。
よく惚気話を聞かされ、「加賀さん」と相手を呼ぶ嬉しそうな表情を見ていると、幸せなんだろう、と微笑ましく感じていた。
でもその「加賀さん」が男だということが、後日判明した。
昼食をとっていた定食屋でたまたま遭遇したのだが、最初は信じられなかった。別の「加賀さん」だ、と思いたかった。彼の姉か妹が、倉知の相手だと思いたかった。
が、すぐに、間違いなくこの人が加賀さんだ、と認めざるを得なくなる。倉知が彼を見る目は、恋人を見るそれだった。
どうして。男同士だなんて、どうして。倉知は真面目で、賢い。将来を決めて、信念を持って大学に通っている。とりあえず大学を出ておけ、という無計画な他の学生とは違う。
それなのに、どうして同性と付き合うなんて、危険な真似をするのか。
「男の人、だったんだね」
定食屋を出て大学に向かう途中でつぶやいた。倉知は「え?」ととぼけた声を出した。
「加賀さんって、男の人だったんだ」
もう一度言うと、倉知の足が止まった。
「あ、いや、その」
狼狽する様子から見ると、僕にばらす予定はなかったらしい。
「いつから付き合ってるの?」
散々、惚気られてきたが、いつ、どうやって知り合ったのか、言わなかった。多分、意図的に。同性だと気づかれるようなことを、極力言わないようにしていたのかもしれない。僕のほうから詳細を問いただすことはないと、高をくくっていたのだ。
「高二の、ときから」
「十歳上の社会人が、高校生に手を出したってことか」
倉知がハッとした顔で何か言い訳をしようとしたが、唇を噛んで、やめた。
「どうして男の人と付き合ってるの?」
「どうしてって」
「倉知って、ゲイ?」
「違うと思うけど、……わからない。俺、加賀さんが初恋だし」
「じゃああの人がゲイ?」
「それはないよ。過去に付き合ってきたの、全部女の人だし」
倉知が目を伏せる。
「どっちにしろ同性と付き合うなんてハイリスクだよ。同性愛自体、否定はしないけど、倉知は教師を目指してるだろ?」
指摘すると、表情がかげった。
「ばれたらどうするの? それとも、隠さないで堂々と公表する? ただで済むと思う?」
しおれた花のように、首を曲げてしょんぼりする倉知を見ていると、胸が痛んだ。
でも、僕が言わなければ。あとになって職を失いかねない。つらい思いを、させたくない。
「別れたほうがいいよ」
倉知は僕を、悲しそうな顔で見た。それきり何も喋らなくなり、この世の終わりのような様子で肩を落とし、午後からの講義も上の空だった。
倉知が「加賀さん」をどれだけ好きかは、知っている。こんなことを他人に言われたくはないだろう。
お節介、面倒な奴、と離れていくことを覚悟していた。
でも倉知は、次の日も普通に話しかけてきた。気にしていないわけではないと思う。「加賀さん」の話はしなくなったし、僕の忠告をなかったことにしたいのだ。
別れたほうがいいと言われて、素直に聞くほど倉知の気持ちは軽くない。盲目的に、恋愛にはまっている。
それなら方法を変えようと思った。
大人なら。社会に出て働く、まともな大人ならわかるはずだ。
あのとき一緒にいた後輩らしき男の言動は中学生のそれだったが、あの人はまともに見えた。
優しくて、温かくて、面白くて、大人で、最高にいい人なんだ、と倉知がよく話していた。
それが本当なら、僕の話を聞いて、理解してくれるはずだ。
定食屋で見た男の身分証を思い起こす。高木印刷の営業本部営業一課、と書かれていた。大きな会社だから、アポなしに直接訪ねても繋いでもらえるかはわからない。でも、行ってみる価値はある。
このまま何も知らない顔をして、やり過ごすのは嫌だった。
ちょうど三時限目が休講になった日を見計らい、高木印刷を訪れた。受付の女性に名前を名乗り、「営業一課の加賀さんをお願いします」と言うと内線で取り次いでもらえたが、外出中で戻りは遅いと言われ、伝言を残すことにした。
携帯番号を言い置いて、高木印刷をあとにする。倉知から僕の名前を聞いていれば気づくだろう。かかってくるかどうか、賭けのようなものだった。もしこれで連絡がなければ、諦める。言ってもわからない相手に時間を費やすことはしたくない。
電話は、その日のうちにかかってきた。
言いたいことを言う僕に、ほとんど反論することもなく冷静に話を聞いてくれた。整った容姿で、物腰も穏やかで、きっと女性に人気がある。あんな人が、ゲイでもないのにどうしてわざわざ男と付き合うのか、わからない。
もし本気だとしたら、倉知の将来が大事なら、きっと身を引く。
遊びなら、怖くなって逃げ出す。
別れない、という選択肢を選ぶとは思えなかった。
だから次の日、倉知の口から「別れない」とはっきりと告げられたときは耳を疑った。
「別れないよ、絶対」
朝からずっと何か言いたげだった倉知が、昼休み、中庭のベンチに僕を座らせて、そう宣言した。
「加賀さんもそう言ってる?」
隣に座った倉知が、鼻の頭を掻きながらためらいを見せた。
「別れようって言われた」
思っていた通り、加賀さんはまともな大人だったようだ。正しい選択だ。
「橋場はよかれと思ってやったんだろうけど」
倉知は僕を見ずに、行き交う人々を目で追っている。
「殴りたくなった」
ギクリとしたが、その言葉とは裏腹に、口元は笑っていた。
「ひどいことたくさん言って、加賀さんを泣かせた。傷つけて、追い詰めた」
「僕は倉知が将来教師になったときに」
「教師は」
僕の科白を遮って、ちら、とこっちを見た。
「別に、どうしてもなりたい職業ってわけじゃないし、夢ってほどでもないよ。そもそも俺は、加賀さんより大事なものなんてない」
「じゃあ、教師は諦める?」
「今まで通り、教師を目指すよ。でも加賀さんとは別れない。そんな必要ない」
言い切れる理由を聞きたい。倉知はベンチの背もたれに背中を預けて、空を見上げた。
「後悔、しない?」
「うん、絶対しない。加賀さんと別れるより悲惨なことなんてないよ」
わからない。背徳を感じながら、追求を恐れながら、それでも別れないでいるメリットが、なんなのか。
思ったまま疑問を口にすると、倉知は困った顔で笑った。
「橋場は人を好きになったこと、ない?」
ない、と即答すると、うん、とうなずいた。
「好きな人ができたら、わかるよ」
そんなもの、できる予定はない。恋愛なんて、僕には不要なものだ。
倉知がベンチから腰を上げた。突然ストレッチを始めた大きな背中に向かって、訊いた。
「もう、友人じゃいられないよね」
「え?」
振り返った倉知がポカンとする。
「覚悟はしてるよ。僕はそれだけのことをした」
何よりも大事な人と別れろと口を挟み、二人の関係を掻き乱した。何もなかったかのように、友人を続けられるはずもない。現に倉知は僕を殴りたい、と言っている。
「でも後悔はしてない。僕は、倉知に教師になって欲しかった。教師になった君を見たかったんだ」
真面目で純粋で人の気持ちをくみ取るのが上手い。こんな教師がいたら、救われる生徒は多いのではないかと思う。
「ありがとう」
倉知が柔和な笑みを浮かべた。
「俺、そんな大した奴じゃないけど」
謙遜してみせて、ストレッチを再開する。
「加賀さんが言ったんだ」
僕の目をじっと見て屈伸運動を続けながら、とても優しい表情で嬉しそうに言った。
「友達やめるなよって」
「え……」
「だからってわけじゃないけど、友達やめたりしないよ。あ、でも橋場はもう、俺と友達でいたくない?」
体が震えるのを、必死で堪えた。胸と喉に痛みが走り、締めつけられるようだった。目元が熱くなる。涙が出ないように、うつむいて、膝に爪を立てた。
「加賀さんって、いい人……だね」
やっとのことでそう言った。
「うん、優しいよ。怒らないんだ、あの人」
倉知が明るい声で言った。再び僕に背を向け、肘を伸ばして腕のストレッチを始めた。
「普通、会社に突然現れるとか、それだけで怒られたり咎められたりすると思うよ」
そうだと思う。非難を覚悟で出向いたが、彼は何一つ文句を言わなかった。心が広い。常識から外れた僕の行動を、叱りつけたって罰は当たらないのに。
「ごめん」
自然と謝罪が口をついて出た。倉知は振り返らずに「うん」と答えた。
「友人で、いてくれる、かな」
恐る恐る訊ねると、倉知が動きを止めて振り向いた。僕の前に屈み込んで目線を合わせると、突然大きな手で顔を挟まれた。パチン、と音が響き、目の奥に火花が散った。
「あ、ごめん。ちょっと強かった」
悪びれずにおかしそうな声で言うと、僕の頬を撫でさすってから腰を上げた。
「今のは加賀さんの分」
痺れる頬に手をやって、ああ、と納得する。これ以上の痛みを感じただろう。
「倉知の分は?」
「あれ? 殴られたい?」
振りかぶる真似をされ、慌ててぶんぶんと首を横に振った。
「いいよ。もういい。友達だから」
まっすぐだ。倉知には、歪みがない。どうしたらこんなふうになれるのか。友人を続けていたら、僕も少しは変われるだろうか。
空に向かって伸びをする背中は、頼もしく、輝いて見えた。
〈おわり〉
僕は友人がいない。昔からそうだ。
小学生の頃から、よく仲間外れにされた。友人だと思っていた相手から、「お前めんどくさい」と拒絶されたこともあった。
めんどくさい、の意味がわからずに、でも、そう言われることは不愉快で、他人との関わりを断つようになっていった。一人でいることに教師や親は心配したが、無理矢理友人を作っても、お互いにいいことなどないと悟った。
中学、高校と進学するにつれて、友人が欲しいとは思わなくなっていった。それこそめんどくさかった。
相手に合わせて自分を偽るのは苦痛だった。嘘をつくのが嫌だからと、ありのままの本音で接すると、苦笑いで去っていく。だからもう、一人がいい、一人にして欲しい、とバリアを張った。
大学に入ってもスタンスを変えなかった。大学はいい。勉強に集中していれば、他に何も必要ない。友人を作りなさい、と強要する教師もいない。一人でいることを、上から目線で哀れんでくる奴もいない。みんな、誰も僕には興味がない。
自由だ、と思っていた。
大学に進学してしばらく経った頃、構内を移動中、目の前の学生が何かを落としていった。それがガムの包み紙だと気づき、前を歩く学生を呼び止めた。
ゴミを落とした、と指摘すると、「捨てたんだよ」とうっとうしそうに言われ、それに腹が立ち、どうしてゴミ箱に捨てないのか、と問い詰めた。相手には連れがいて、二人とも僕より背が高く、態度も高圧的だった。
「そんなにゴミ箱に捨てたいならお前が捨てとけよ」
と、にやついて僕の肩を軽く突いた。軽く、というのはあくまで本人の力加減の問題で、僕の痩せた体にはそれなりの衝撃があった。よろめいて、尻餅をつく僕を、押した本人は一瞬驚いた顔で見下ろしていたが、すぐに手を叩いて大笑いを始めた。
一体何が楽しいのか。大学生にもなってこんなことが楽しいなんて、小学生に戻ったらどうだ。
尻餅をついたまま吐き捨てると、二人が笑うのをやめて怒りを露わにした。暴力を振るうつもりだと察し、息を呑む。
そのとき、僕の腕を誰かが引いた。後ろから抱え上げて、僕を立たせてくれた人物がいた。
「大丈夫?」
大きな男だった。見上げないと顔が見えない。男は、廊下に落ちたガムの包み紙を拾い上げると、「はい」と言って捨てた本人に差し出した。
「いるかよ、馬鹿」
行こうぜ、と二人が去っていく。ゴミを受け取らずに行ってしまった。「待て」と呼び止めようとする僕を、男が止めた。
「ああいう人っているよね」
笑って、手のひらでゴミを丸める。
「腹が立たないの?」
「まあ、いつかあの人にもわかるときが来るといいなと思うよ」
なんだそれは。大学生になってゴミをゴミ箱に捨てられない奴が、いつか改心するとでも思っているらしい。気の長い話だ。
「わかるときなんて来ないよ」
「うん、そうかも。こういうのって、親の背中なのかな」
のほほんとした口調でそう言うと、思いついたように付け足した。
「あの人に、すごく好きな人ができて」
「……はあ?」
「その相手に注意されたら、もしかして悪いことだって気づくかもね」
去っていった二人の背中を見ながら微笑む男は、その日から、僕の友人になった。
同じ学年で、同じ学部の倉知七世という男は、変わった奴だった。
どこが変わっているか。
僕に話しかけ友人になろうとするのだから、相当変わっている。
僕は今まで友人を持たなかった。面倒な性格だからだ。倉知もきっと、面倒に感じると思う。だから、無理に友人をやらなくてもいい。
そう突き放すと、不思議そうな顔をした。
「友達って自然になってるもんだよね」
自然に友達になるという感覚が、僕にはわからなかった。戸惑う僕に、倉知は少しずつ距離を縮め、徐々にいろんなことを話すようになった。
家族のこと、高校での思い出や、恋愛の話、将来の夢。今まで、他人のそんな話には興味がなかった。でも、誰かのプライベートを共有するのは、妙に面白く感じた。
次第に自分のことを話すようにもなり、倉知は僕の、初めての友人になった。
その友人が、道を踏み外そうとしているのを黙って見てはいられなかった。
倉知には好きな人がいて、高校卒業と同時に一緒に暮らすようになったそうだ。倉知は真面目な奴だし、きっと結婚を前提にした相手なのだろうと思っていた。
よく惚気話を聞かされ、「加賀さん」と相手を呼ぶ嬉しそうな表情を見ていると、幸せなんだろう、と微笑ましく感じていた。
でもその「加賀さん」が男だということが、後日判明した。
昼食をとっていた定食屋でたまたま遭遇したのだが、最初は信じられなかった。別の「加賀さん」だ、と思いたかった。彼の姉か妹が、倉知の相手だと思いたかった。
が、すぐに、間違いなくこの人が加賀さんだ、と認めざるを得なくなる。倉知が彼を見る目は、恋人を見るそれだった。
どうして。男同士だなんて、どうして。倉知は真面目で、賢い。将来を決めて、信念を持って大学に通っている。とりあえず大学を出ておけ、という無計画な他の学生とは違う。
それなのに、どうして同性と付き合うなんて、危険な真似をするのか。
「男の人、だったんだね」
定食屋を出て大学に向かう途中でつぶやいた。倉知は「え?」ととぼけた声を出した。
「加賀さんって、男の人だったんだ」
もう一度言うと、倉知の足が止まった。
「あ、いや、その」
狼狽する様子から見ると、僕にばらす予定はなかったらしい。
「いつから付き合ってるの?」
散々、惚気られてきたが、いつ、どうやって知り合ったのか、言わなかった。多分、意図的に。同性だと気づかれるようなことを、極力言わないようにしていたのかもしれない。僕のほうから詳細を問いただすことはないと、高をくくっていたのだ。
「高二の、ときから」
「十歳上の社会人が、高校生に手を出したってことか」
倉知がハッとした顔で何か言い訳をしようとしたが、唇を噛んで、やめた。
「どうして男の人と付き合ってるの?」
「どうしてって」
「倉知って、ゲイ?」
「違うと思うけど、……わからない。俺、加賀さんが初恋だし」
「じゃああの人がゲイ?」
「それはないよ。過去に付き合ってきたの、全部女の人だし」
倉知が目を伏せる。
「どっちにしろ同性と付き合うなんてハイリスクだよ。同性愛自体、否定はしないけど、倉知は教師を目指してるだろ?」
指摘すると、表情がかげった。
「ばれたらどうするの? それとも、隠さないで堂々と公表する? ただで済むと思う?」
しおれた花のように、首を曲げてしょんぼりする倉知を見ていると、胸が痛んだ。
でも、僕が言わなければ。あとになって職を失いかねない。つらい思いを、させたくない。
「別れたほうがいいよ」
倉知は僕を、悲しそうな顔で見た。それきり何も喋らなくなり、この世の終わりのような様子で肩を落とし、午後からの講義も上の空だった。
倉知が「加賀さん」をどれだけ好きかは、知っている。こんなことを他人に言われたくはないだろう。
お節介、面倒な奴、と離れていくことを覚悟していた。
でも倉知は、次の日も普通に話しかけてきた。気にしていないわけではないと思う。「加賀さん」の話はしなくなったし、僕の忠告をなかったことにしたいのだ。
別れたほうがいいと言われて、素直に聞くほど倉知の気持ちは軽くない。盲目的に、恋愛にはまっている。
それなら方法を変えようと思った。
大人なら。社会に出て働く、まともな大人ならわかるはずだ。
あのとき一緒にいた後輩らしき男の言動は中学生のそれだったが、あの人はまともに見えた。
優しくて、温かくて、面白くて、大人で、最高にいい人なんだ、と倉知がよく話していた。
それが本当なら、僕の話を聞いて、理解してくれるはずだ。
定食屋で見た男の身分証を思い起こす。高木印刷の営業本部営業一課、と書かれていた。大きな会社だから、アポなしに直接訪ねても繋いでもらえるかはわからない。でも、行ってみる価値はある。
このまま何も知らない顔をして、やり過ごすのは嫌だった。
ちょうど三時限目が休講になった日を見計らい、高木印刷を訪れた。受付の女性に名前を名乗り、「営業一課の加賀さんをお願いします」と言うと内線で取り次いでもらえたが、外出中で戻りは遅いと言われ、伝言を残すことにした。
携帯番号を言い置いて、高木印刷をあとにする。倉知から僕の名前を聞いていれば気づくだろう。かかってくるかどうか、賭けのようなものだった。もしこれで連絡がなければ、諦める。言ってもわからない相手に時間を費やすことはしたくない。
電話は、その日のうちにかかってきた。
言いたいことを言う僕に、ほとんど反論することもなく冷静に話を聞いてくれた。整った容姿で、物腰も穏やかで、きっと女性に人気がある。あんな人が、ゲイでもないのにどうしてわざわざ男と付き合うのか、わからない。
もし本気だとしたら、倉知の将来が大事なら、きっと身を引く。
遊びなら、怖くなって逃げ出す。
別れない、という選択肢を選ぶとは思えなかった。
だから次の日、倉知の口から「別れない」とはっきりと告げられたときは耳を疑った。
「別れないよ、絶対」
朝からずっと何か言いたげだった倉知が、昼休み、中庭のベンチに僕を座らせて、そう宣言した。
「加賀さんもそう言ってる?」
隣に座った倉知が、鼻の頭を掻きながらためらいを見せた。
「別れようって言われた」
思っていた通り、加賀さんはまともな大人だったようだ。正しい選択だ。
「橋場はよかれと思ってやったんだろうけど」
倉知は僕を見ずに、行き交う人々を目で追っている。
「殴りたくなった」
ギクリとしたが、その言葉とは裏腹に、口元は笑っていた。
「ひどいことたくさん言って、加賀さんを泣かせた。傷つけて、追い詰めた」
「僕は倉知が将来教師になったときに」
「教師は」
僕の科白を遮って、ちら、とこっちを見た。
「別に、どうしてもなりたい職業ってわけじゃないし、夢ってほどでもないよ。そもそも俺は、加賀さんより大事なものなんてない」
「じゃあ、教師は諦める?」
「今まで通り、教師を目指すよ。でも加賀さんとは別れない。そんな必要ない」
言い切れる理由を聞きたい。倉知はベンチの背もたれに背中を預けて、空を見上げた。
「後悔、しない?」
「うん、絶対しない。加賀さんと別れるより悲惨なことなんてないよ」
わからない。背徳を感じながら、追求を恐れながら、それでも別れないでいるメリットが、なんなのか。
思ったまま疑問を口にすると、倉知は困った顔で笑った。
「橋場は人を好きになったこと、ない?」
ない、と即答すると、うん、とうなずいた。
「好きな人ができたら、わかるよ」
そんなもの、できる予定はない。恋愛なんて、僕には不要なものだ。
倉知がベンチから腰を上げた。突然ストレッチを始めた大きな背中に向かって、訊いた。
「もう、友人じゃいられないよね」
「え?」
振り返った倉知がポカンとする。
「覚悟はしてるよ。僕はそれだけのことをした」
何よりも大事な人と別れろと口を挟み、二人の関係を掻き乱した。何もなかったかのように、友人を続けられるはずもない。現に倉知は僕を殴りたい、と言っている。
「でも後悔はしてない。僕は、倉知に教師になって欲しかった。教師になった君を見たかったんだ」
真面目で純粋で人の気持ちをくみ取るのが上手い。こんな教師がいたら、救われる生徒は多いのではないかと思う。
「ありがとう」
倉知が柔和な笑みを浮かべた。
「俺、そんな大した奴じゃないけど」
謙遜してみせて、ストレッチを再開する。
「加賀さんが言ったんだ」
僕の目をじっと見て屈伸運動を続けながら、とても優しい表情で嬉しそうに言った。
「友達やめるなよって」
「え……」
「だからってわけじゃないけど、友達やめたりしないよ。あ、でも橋場はもう、俺と友達でいたくない?」
体が震えるのを、必死で堪えた。胸と喉に痛みが走り、締めつけられるようだった。目元が熱くなる。涙が出ないように、うつむいて、膝に爪を立てた。
「加賀さんって、いい人……だね」
やっとのことでそう言った。
「うん、優しいよ。怒らないんだ、あの人」
倉知が明るい声で言った。再び僕に背を向け、肘を伸ばして腕のストレッチを始めた。
「普通、会社に突然現れるとか、それだけで怒られたり咎められたりすると思うよ」
そうだと思う。非難を覚悟で出向いたが、彼は何一つ文句を言わなかった。心が広い。常識から外れた僕の行動を、叱りつけたって罰は当たらないのに。
「ごめん」
自然と謝罪が口をついて出た。倉知は振り返らずに「うん」と答えた。
「友人で、いてくれる、かな」
恐る恐る訊ねると、倉知が動きを止めて振り向いた。僕の前に屈み込んで目線を合わせると、突然大きな手で顔を挟まれた。パチン、と音が響き、目の奥に火花が散った。
「あ、ごめん。ちょっと強かった」
悪びれずにおかしそうな声で言うと、僕の頬を撫でさすってから腰を上げた。
「今のは加賀さんの分」
痺れる頬に手をやって、ああ、と納得する。これ以上の痛みを感じただろう。
「倉知の分は?」
「あれ? 殴られたい?」
振りかぶる真似をされ、慌ててぶんぶんと首を横に振った。
「いいよ。もういい。友達だから」
まっすぐだ。倉知には、歪みがない。どうしたらこんなふうになれるのか。友人を続けていたら、僕も少しは変われるだろうか。
空に向かって伸びをする背中は、頼もしく、輝いて見えた。
〈おわり〉
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