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Ⅳ.加賀編
「二人の夜」
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注文したラーメンを待っている間、ホールを駆け回る店員を眺めていた。
懐かしかった。
同じようにここで働いていた大学生が、今や教壇に立っている。
つい最近、高校生だった気もする。大学生になったと思ったら、駆け足で教師になってしまった。
倉知が変化していく中、俺はいつでもスーツを着て、カウンター席の隣には変わらぬ連れが座っている。
だからどうということもないが、なんとなく対比が面白い。
「主任、おめでとうございます」
スマホゲームに没頭していた高橋が、突然言った。
「何が?」
「ハワイで挙式、羨ましいです」
高橋がスマホを手渡してきた。LINEのトーク画面だ。画面上部に「チーム加賀(4)」と出ている。みなさんご存じだと思いますが、と千葉の発言から始まっていた。
『加賀さんがハワイで挙式をされるとのことで、つきましては、チーム加賀のメンバーで、サプライズのお祝いをしませんか?』
一番反応の早かった前畑の返信は、ほんの数分前だ。
『何それ聞いてない! いつ!?』
びっくりしたクマと、おめでとうございます、と紙吹雪をまき散らしているクマのスタンプが連続している。後藤だ。
職場の人間には、誰にも言っていない。千葉は、六花から聞いたのだろう。
「これ、俺が見たらダメなやつじゃない?」
高橋にスマホを返して苦笑する。
「なんでですか?」
「本人にバラしたらサプライズにならないじゃん」
「あ、そっかあ。じゃあ知らないふりでビックリしてくださいね」
「お前は本当にそそっかしいな」
とはいえ、高橋は高橋で成長はしている。一緒に外に出ることもあるが、基本外回りは一人だ。新規の顧客も獲得できるようになったし、たまに遅刻はするものの、何より仕事を続けていることを褒めてやりたい。
「ハワイ、いつ行くんですか?」
「年末の二十九日に日本出て、来年二日に帰国かな」
「二十九、三十……、長いなあ」
どのみち会社が休みで会うこともないのに、指を折りながら高橋がなぜか寂しそうだ。
「二人で行くんですか? ご家族も一緒? どういうとこに泊まるんですか? 旅費っていくらかかるんですか? タキシード着ます?」
「質問攻めかよ」
「だってなんか、ワクワクするんですもん」
高橋は夢見る少女の目で、いいなあ、結婚式、とため息を交じりに零す。
「年末ならもう式の準備は完璧ですか?」
質問に答える前に、さらなる質問を被せてくる。
「まあなんかぼちぼち決まってるね。マンションの隣の子がウエディングプランナーみたいなのやってて、すげえ助かってる」
あれから、芽唯には世話になりっぱなしだ。男二人でウエディング会社を訪れるなんて、なかなかできることじゃない。最低限の打ち合わせを自宅でやって、衣装合わせに出向いたが、他のスタッフは配慮の塊だった。男同士ですいません、のような、卑屈になる必要がまったくなく、心から祝福してくれていると感じた。価値観の相違もあるだろうし、やりにくいに決まっているのに、おくびにも出さなかった。プロというのはすごい。
「いいなあ、写真、送ってくださいね。あれ、外国から送れるのかな?」
「味玉チャーシュー、お待たせいたしました」
ラーメンの器が、二つ、目の前に置かれたあと、カウンター越しに厨房からごつい手が伸びてきた。
「おめでとう」
こそっと囁いた店長は、涙ぐんでいた。どうやら話を聞いていたらしい。差し出された手を握って、頭を下げる。
「ありがとうございます」
「七世にも顔出すように言ってね。すっごくハッピー!」
俺の手を振り回してから、フゥー、と叫んで踊るように身をひるがえす。以前は無口で気難しいラーメン屋の店主を演じていたが、最近素を出すようになったらしい。筋骨隆々とした風貌からは想像できない乙女ぶりが、可愛いとか面白いとかで人気になっていて、今もルンルンで湯切りをしている彼の姿を、客がほのぼのと笑って見ている。
「僕も結婚したいです」
店を出て、会社に戻る帰り道、高橋が深刻そうな声で言った。
「何回プロポーズしても断られちゃうし、じゃあ、同棲ならいいですかって言ってみたんです。そしたら、前畑さん、カンカンに怒っちゃって。なんででしょう」
そりゃあそうだろうな、と思った。前畑の怒りの理由がわからないうちは結婚できない。
「僕だってもう入社七年目ですよ? 大人なのに、あんたはガキだからって、もう二十八歳なのにガキって、おかしいですよね」
「個人的な意見だけど」
「はい、お願いします」
前置きをすると、真剣な声が返ってきた。運転する俺の横顔を、見つめている気配。この状況をなんとか打開したいという熱意は感じる。
「お前に必要なのは、自立だ。つまり、一人暮らしをおすすめする」
「一人暮らし、ですかぁ」
一気に声が曇ってしまった。そういうところが前畑の怒りを煽るのだが、本人は気づきもしない。
「朝、母親に起こして貰ってるだろ?」
「なんで知ってるんですか?」
「で、母親に洗濯も料理も掃除も、全部やって貰ってるよな」
「だって、お母さんじゃないですか」
「同棲したら、今度は前畑に起こして貰う? 家事も全部丸投げ?」
「そうなるのかなぁ。でもそれじゃ、ダメですよねぇ……」
声の響きが変わってきた。自分でも何かおかしいぞと思い始めたらしい。赤信号で車を止める。助手席を見ると、高橋が難しい顔で腕を組み、唸っていた。
「母親代わりにされるのわかってて、同棲なんてしたいわけないだろ」
「でも主任、もし七世君がなんにもできなかったら? 一緒に暮らすのやめてました?」
「何もできない倉知君なんてそんなんお前、……可愛いな?」
「ほらぁ」
「論点をずらすな。今はお前と前畑の話だからな」
前畑が何もできない高橋を可愛いと思っていて、甘やかしたいならとっくに結婚している。
「でも、やったことなくても、きっと家事くらいできますよ」
「いやいや甘い。家事を舐めるな」
生まれてこの方、自分で何一つやってこなかった男が、他人と暮らす。悲惨な未来しか見えない。
「あと心配なのは金銭感覚だな。今月スマホのゲームにいくら課金した?」
「えー、わかりません」
これだ。あまりにも自由過ぎるのだ。
「自分の稼いだ金だけで、一人で生活してみたらいい。そうすりゃそのうち大人になれる」
「そうか、前畑さんの言う通り、僕はまだ子どもだったんだなぁ」
高橋は、遠い目をしてつぶやいた。家事をする高橋が、まるで想像できない。提案しておいて不安になった。
「あのな、おすすめはするけど、やれとは言わないし、無理すんなよ?」
「後悔したくありません。今やらなきゃ、駄目な気がする。僕、やります」
「うん」
なぜ、前畑がプロポーズを受けないのか。
なぜ、それでも別れないのか。
少し考えたらわかるだろうに。
付き合いが長いから、前畑の考えていることや、行動パターンはよくわかる。
「加賀君、聞いてない!」
会社に戻ると、思った通り、前畑が詰め寄ってきた。何を、とは言わずに「ごめん」と肩をすくめた。
「おめでとう」
前畑の後ろで後藤が小さく拍手している。自分の身に起きた大体のことを、後藤にだけはいつでも話してきた。
でも今回は、なんとなく気恥ずかしくて、ハワイ挙式が決まって二か月経っても言えずにいた。報告しなかったことをなじることもなく、後藤は母性に満ちた優しい表情で、俺を見ている。
「まあ、もう結婚してるようなもんだし、今更感あるけどね」
「それでも嬉しいよ。なんかすごく、嬉しい。なんだろうね、これ」
声を詰まらせ、目を赤くする後藤を見て、体が勝手に動いた。まだ就業中だし、当然フロアに社員は大勢いたが、俺は我慢できずに後藤を抱きしめていた。
後藤の手が俺の背中をさする。仕事でもプライベートでも、弱音を吐き出させてくれたのは後藤だった。つらかったとき、助けてくれた。姉のような存在だ。心から喜んでくれたのが嬉しくて、いてもたってもいられなかった。
「えっ、めぐみさんずるい、私も!」
前畑が俺と後藤を両手で抱え込むようにして抱きついてきた。
「じゃあ僕も」
高橋が背中にくっついてきて、さらに団子状態に膨れ上がる。
「なんか知らんが俺も」
原田が混ざってくる。おめでとう、おめでとうとみんなが言うから、何かめでたいことがあったらしい、と周囲が認識した。営業フロアにいる職員の目は温かかった。謎の拍手も起きている。なんだこれは、とは思うものの、本当に、いい職場だ。
「うん、みんなありがとう。よし、仕事に戻ろうね、解散」
俺が言うと、団子が散らばっていく。
「加賀君」
ネクタイを締め直していると、営業部長が身を乗り出して俺を呼んだ。
「何、どうした? なんかおめでたいことあったの?」
「宝くじが当たったんですよ。お騒がせしました」
「おっ、おめでとう。今度奢ってよ」
部長のデスクの前に立っている男が、振り返って俺を見ていた。九條だ。持っていた書類を部長に手渡すと、軽く頭を下げてこっちに来る。
「宝くじ?」
「お、おう」
「いくら当たった?」
「百億円?」
九條の頬が、少しだけ緩んだ。
別に、何かが変わるわけじゃない。戸籍をどうにかするとか、何かの制度を利用しようとかは、予定にない。けじめというか、なんというか。
「ただ、あいつの喜ぶ顔が見たいだけっていうか」
誰もいない社員食堂に引っ張っていき、説明した。こいつには話しておかなければいけない気がしたからだ。椅子に腰かけて黙って聞いていた九條が、唐突に笑いだした。笑いながら眉間を掻いて、俺を見る。
「なんで言い訳してる?」
「いや……、なんででしょう」
「まあ気持ちはわかる。挙式とか披露宴ってのは、なんとなく照れ臭いもんだ」
なるほど、俺は、照れているらしい。
「おめでとう。お前が幸せで、俺は嬉しい」
九條の声は柔らかかった。スーツの内ポケットから煙草のパッケージとライターを出して、フ、と笑みを浮かべ、腰を上げた。
「楽しんでこい」
俺の肩を叩いて、食堂から出て行った。
そう、楽しみだ。クールぶってはいるが、実は俺は、ハワイがめちゃくちゃ楽しみだ。
二家族合同の旅行が単純に嬉しいのだが、何よりも、倉知のタキシード姿を早く見たい。見たくて見たくて発狂しそうだ。本番のお楽しみにしようと、お互いに、試着した姿を見ていないのだ。
試着室のカーテンの向こうで、女性スタッフたちが倉知を絶賛する黄色い声に嫉妬した。
それはもう、絶対に、カッコイイに決まっている。
楽しみ過ぎて、毎日カウントダウンしている。
挙式まで、あと五十七日。
長い。とは思うが、その日になれば、あっという間だったと感じるだろう。今日も、そろそろ一日が終わる。明日になれば、あと五十六日。
パソコンの電源を落とし、スマホを見る。倉知からのLINEが届いていた。
『今日は早く帰れたので、金曜じゃないけどカレーにしますね』
一日の疲れが瞬時にして吹き飛んだ。
今すぐ帰る、と返信をして、席を立ち、フロアを飛んで出た。Zを走らせ、愛する倉知とカレーの待つわが家へと直行する。
マンションが見えた。鼻歌が出る。マンションの敷地に入る手前の植え込みに、人がいた。若者が、三人。こんな場所にたむろしているのは珍しい。
カレーライスの歌を口ずさみながら、徐行して、彼らの横を通り過ぎる。
縁石の縁に座り込んだ女を取り囲むように、自転車から降りた男が二人。ナンパだろうか。
こんな場所で? こんな時間に?
妙だな、と思ったが、鼻歌は止まらなかった。地下の駐車場に車を停め、エレベーターに向かいかけた足を止めた。進路を変更し、地下駐車場のスロープを上がる。
地上に出ると、さっきの三人を認めた。外は暗くて寒い。外灯の下の三人の男女も、身を小さくして、寒そうだ。
「どっか暖かいとこ行こうよ。お腹空いてない?」
男の声と、すすり泣きが聞こえた。二人の男の隙間から、女が見えた。女子高生だ。見覚えのある制服を着ている。倉知の学校の生徒だ。
「こんばんは」
三人に歩み寄り、声を掛ける。振り向いた男たちが、俺を見てばつの悪そうな顔をした。
「な、なんすか?」
「ここの住人だけど、何かトラブルかなって」
「別に……、俺らは通りすがりで、この子が泣いてたから話しかけただけで……」
「最初から泣いてたんすよ。俺らが泣かせたんじゃないんで」
誰も泣かせたとは言っていないが、弁解する二人は必死だった。
「そっか、困ってる子を助けようとしたんだ? 偉いね」
この二人も高校生くらいかもしれない。褒めると、ホッとした顔を見合わせた。得意そうに鼻をすすっていた一人がスマホの画面を見て「やべ、もう八時だよ」と自転車にまたがった。
「なんかお兄さんいい人そうなんで、あとは任せました。さいなら」
「え、うん、さようなら」
さみー、とぼやきながら、二人が自転車で遠ざかっていく。
「で、どうしたのかな?」
腰を落とし、目線を合わせて訊いた。泣きじゃくる女子高生が、顔を上げた。長い髪を二つに結んでいて、顔立ちも幼い。泣き顔は子どものそれだ。
「スマホ、充電切れちゃって、ここどこだかわかんなくってぇ」
現代の若者は、スマホに頼り切っている。スマホが使えないだけで、全裸で未開の地に放り出されたかのように混乱し、思考能力も行動力も著しく低下する。
「駅まで送ろうか?」
「……怪しい」
「え?」
「親切で優しい爽やかなイケメンは、サイコパスのシリアルキラーって相場が決まってるもん。うっかりついていったら、殺されるパターンじゃん」
可愛らしいコロコロとした声で、怖いことを言うから吹き出してしまった。
用心深いのはいいことだが、埒が明かない。倉知を召喚しよう、とポケットからスマホを取り出した。
「お母さん、怒ってるかも……。尾行なんて、しなきゃよかった」
彼女がツインテールの二つの尻尾を両手でつかんで、涙声でしゃくりあげる。
「ん? 尾行?」
「大好きな先生と、今日、帰り、たまたま一緒になって、それで、私……、どこに住んでるのか、知りたかっただけなのに」
途切れ途切れに彼女は言った。
「なるほど」
俺は静かに息をついて、腰を上げた。スマホを操作し始める俺を、彼女は不安げに見上げている。
「何、悪の組織に連絡するの? 私、どうなるの? 人身売買のオークションにかけられるとか? アラブの石油王に見初められて、海を渡るの?」
「それドラマチックだね」
適当に返事をしながら、「ちょっと下降りてこれない?」と倉知にメッセージを送信した。
『どうしました?』
すぐに既読がつき、返事がくる。
『迷子の女子高生がマンションの前にいるんだよ。お前んとこの生徒。寒がってるからなんか羽織れそうなの持ってきて』
すぐ行きます、と返事を確認してから、スマホをポケットに押し込んだ。
「とりあえず、ここ寒いし、エントランスに入ろうか。お母さんに連絡したいならスマホ貸すよ」
「なんでそんなに優しいの? イケメンで優しいなんて、怪しすぎる……。なんの罠?」
「ええ……、めちゃくちゃ警戒心強いね」
マンションの入り口に目をやった。倉知は素早い。すぐに来るだろう。俺が倉知を呼んだと知れると、勘繰られて、あとあと厄介だ。
「じゃあ、怪しいおじさんはもう行こうかな」
「えっ」
「えっ?」
非難の色を含んだ「えっ」に、思わずおうむ返しをしてしまった。
「行っちゃうの?」
「だって、今日カレーだし」
「カレー……、食べたい……」
腹を押さえて背中を丸め、俺を見上げた女子高生が、唇を尖らせた。
「……サイコパスとか言ってごめんなさい。私にカレーを恵んでください」
「どうした、さっきまでの警戒心はどこいった」
「だって、お兄さん面白いし、悪い人じゃなさそうだもん」
「そういう奴が一番ヤバいんじゃなかった?」
「もういい、カレー食べたい、お腹空いたぁ」
嘆きの直後、エントランスのドアが開いた。倉知だ。
「持田さん」
倉知が呼ぶ。
「あっ」
彼女が甲高い声で「倉知先生!」と叫び、駆けていく。小さな体で倉知に抱きつくと、泣き出した。泣いている隙に、ひっそりといなくなろう。忍者の足取りで背後を素早く通り過ぎた。
「先生、カレーのにおい。先生のおうちも今日はカレーですか?」
入口のドアが閉まる瞬間、彼女の問いかけが聞こえた。振り返る。ガラスのドアを隔てた向こうから、倉知が俺を見て、口を開きかけた。「加賀さん」の「か」の形だ。
今は、他人にならなければ。あくまでお互いを知らないふりで通さないと、ややこしくなる。
唇に人差し指を当てて見せると、倉知が小さくうなずいた。
外の二人から目を逸らす。振り返らずに、エレベーターに飛び乗った。
玄関のドアを開ける。俺たちの部屋はカレーの匂いがした。それに、暖かい。でも、誰もいない。
ポケットで、スマホが振動した。
『駅まで送ってきます。先に食べててください』
うい、と返信を打って、寝室のドアを開ける。スマホをベッドに放り投げて、スーツを脱ぐ。帰宅後のルーティンを無心で終え、とりあえずリビングのテレビを点けた。
何も考えないようにしたが、明らかに、俺は悶々としている。
いや、わかる。
心細かったところに知った顔が現れたら、まだ子どもだし、そりゃあ抱きつくくらいはするだろう。
人は、あらゆる場面で抱擁を交わす。その抱擁にはそれぞれ違った意味が込められている。
俺だって、後藤を抱きしめた。生徒を抱きつかせる倉知をとやかく言えない。
それにあいつはみんなの「倉知先生」だ。
「ただいま」
倉知が帰宅すると、ソファから腰を上げた。玄関まで飛んでいき、靴を脱いで振り返ったところに飛びついた。両腕を肩に回し、両足で、倉知の腰をホールドする。
「おかえり」
倉知は硬直している。すぐに飛び降りて、何食わぬ顔でキッチンに向かう。
「早くカレー食うぞ、カレー」
コンロに火を点けて鍋の蓋を開けた。
「まだ食べてないんですか?」
「うん、待ってた」
鍋を掻き混ぜる俺の腰を、倉知が後ろから抱き寄せた。
「さっきの、あの……、可愛いです」
「だいしゅきホールド?」
「だいしゅき……、はい、あの、ちょっと、勃ちました」
尻に押しつけてくる感触は、確かにちょっと勃っている。
「倉知君」
「はい」
「だいしゅき」
倉知が無言で俺の首筋に、顔をうずめてきた。くすぐったい。笑っている。
「俺もだいしゅきです」
「ふはは、だいしゅき可愛い」
くっついた体を左右に揺らしながら、二人でカレーの鍋を掻き混ぜる。
「さっきの子、大丈夫だった? 持田さん?」
「はい、おうちにも電話して、電車乗るの見届けてきました。加賀さんのこと、すごく気にしてましたよ」
「え、なんで?」
「さっきまで親切なイケメンがいたのに、いつの間にか消えた、幽霊だって、ずっと騒いでました」
「はは、うける」
「加賀さん、ごめんなさい」
急に声が暗くなった。ちら、と横顔を見上げて「ん?」と聞き返す。
「持田さんには、他の人に家を教えないでっていうのと、もう来ないようにって釘を刺しておきました。すいません、浅見先生から、家までついてくる生徒もいるから気をつけろって言われてたのに」
「いや、そんなさ、毎日尾けられてないか警戒すんの、無理じゃん」
俺も一度やらかしているだけに、尾行されることに関しては、ほとんど諦めている。セキュリティを突破して部屋に侵入されるわけでもないし、そう大きな問題でもない。
「そうですけど、俺、尾行されたの二回目だし……、情けなくて」
「いいよ。なんかそういう、後ろががら空きな倉知君可愛い」
「加賀さん、俺のことなんでも可愛いですよね」
「そうそう、全部可愛い。だいしゅき」
ふふ、と倉知が笑って、冷たい鼻を、うなじにすり寄せてくる。夜は冷え込むようになってきた。もうそろそろ季節は冬だ。
「倉知先生、お疲れ様」
「はい、ありがとうございます」
「今日はもう先生終わりな。夜は俺専用の倉知君になって?」
倉知が黙った。黙ったまま、俺の頭に頬ずりをしたり、首の裏にチュッチュと吸いついたり、忙しい。
可愛いなあ、と思った直後に倉知が言った。
「可愛い」
笑いながら、カレーを混ぜる。
「加賀さんだけの、俺です」
キスからの、二人の夜が始まる。
懐かしかった。
同じようにここで働いていた大学生が、今や教壇に立っている。
つい最近、高校生だった気もする。大学生になったと思ったら、駆け足で教師になってしまった。
倉知が変化していく中、俺はいつでもスーツを着て、カウンター席の隣には変わらぬ連れが座っている。
だからどうということもないが、なんとなく対比が面白い。
「主任、おめでとうございます」
スマホゲームに没頭していた高橋が、突然言った。
「何が?」
「ハワイで挙式、羨ましいです」
高橋がスマホを手渡してきた。LINEのトーク画面だ。画面上部に「チーム加賀(4)」と出ている。みなさんご存じだと思いますが、と千葉の発言から始まっていた。
『加賀さんがハワイで挙式をされるとのことで、つきましては、チーム加賀のメンバーで、サプライズのお祝いをしませんか?』
一番反応の早かった前畑の返信は、ほんの数分前だ。
『何それ聞いてない! いつ!?』
びっくりしたクマと、おめでとうございます、と紙吹雪をまき散らしているクマのスタンプが連続している。後藤だ。
職場の人間には、誰にも言っていない。千葉は、六花から聞いたのだろう。
「これ、俺が見たらダメなやつじゃない?」
高橋にスマホを返して苦笑する。
「なんでですか?」
「本人にバラしたらサプライズにならないじゃん」
「あ、そっかあ。じゃあ知らないふりでビックリしてくださいね」
「お前は本当にそそっかしいな」
とはいえ、高橋は高橋で成長はしている。一緒に外に出ることもあるが、基本外回りは一人だ。新規の顧客も獲得できるようになったし、たまに遅刻はするものの、何より仕事を続けていることを褒めてやりたい。
「ハワイ、いつ行くんですか?」
「年末の二十九日に日本出て、来年二日に帰国かな」
「二十九、三十……、長いなあ」
どのみち会社が休みで会うこともないのに、指を折りながら高橋がなぜか寂しそうだ。
「二人で行くんですか? ご家族も一緒? どういうとこに泊まるんですか? 旅費っていくらかかるんですか? タキシード着ます?」
「質問攻めかよ」
「だってなんか、ワクワクするんですもん」
高橋は夢見る少女の目で、いいなあ、結婚式、とため息を交じりに零す。
「年末ならもう式の準備は完璧ですか?」
質問に答える前に、さらなる質問を被せてくる。
「まあなんかぼちぼち決まってるね。マンションの隣の子がウエディングプランナーみたいなのやってて、すげえ助かってる」
あれから、芽唯には世話になりっぱなしだ。男二人でウエディング会社を訪れるなんて、なかなかできることじゃない。最低限の打ち合わせを自宅でやって、衣装合わせに出向いたが、他のスタッフは配慮の塊だった。男同士ですいません、のような、卑屈になる必要がまったくなく、心から祝福してくれていると感じた。価値観の相違もあるだろうし、やりにくいに決まっているのに、おくびにも出さなかった。プロというのはすごい。
「いいなあ、写真、送ってくださいね。あれ、外国から送れるのかな?」
「味玉チャーシュー、お待たせいたしました」
ラーメンの器が、二つ、目の前に置かれたあと、カウンター越しに厨房からごつい手が伸びてきた。
「おめでとう」
こそっと囁いた店長は、涙ぐんでいた。どうやら話を聞いていたらしい。差し出された手を握って、頭を下げる。
「ありがとうございます」
「七世にも顔出すように言ってね。すっごくハッピー!」
俺の手を振り回してから、フゥー、と叫んで踊るように身をひるがえす。以前は無口で気難しいラーメン屋の店主を演じていたが、最近素を出すようになったらしい。筋骨隆々とした風貌からは想像できない乙女ぶりが、可愛いとか面白いとかで人気になっていて、今もルンルンで湯切りをしている彼の姿を、客がほのぼのと笑って見ている。
「僕も結婚したいです」
店を出て、会社に戻る帰り道、高橋が深刻そうな声で言った。
「何回プロポーズしても断られちゃうし、じゃあ、同棲ならいいですかって言ってみたんです。そしたら、前畑さん、カンカンに怒っちゃって。なんででしょう」
そりゃあそうだろうな、と思った。前畑の怒りの理由がわからないうちは結婚できない。
「僕だってもう入社七年目ですよ? 大人なのに、あんたはガキだからって、もう二十八歳なのにガキって、おかしいですよね」
「個人的な意見だけど」
「はい、お願いします」
前置きをすると、真剣な声が返ってきた。運転する俺の横顔を、見つめている気配。この状況をなんとか打開したいという熱意は感じる。
「お前に必要なのは、自立だ。つまり、一人暮らしをおすすめする」
「一人暮らし、ですかぁ」
一気に声が曇ってしまった。そういうところが前畑の怒りを煽るのだが、本人は気づきもしない。
「朝、母親に起こして貰ってるだろ?」
「なんで知ってるんですか?」
「で、母親に洗濯も料理も掃除も、全部やって貰ってるよな」
「だって、お母さんじゃないですか」
「同棲したら、今度は前畑に起こして貰う? 家事も全部丸投げ?」
「そうなるのかなぁ。でもそれじゃ、ダメですよねぇ……」
声の響きが変わってきた。自分でも何かおかしいぞと思い始めたらしい。赤信号で車を止める。助手席を見ると、高橋が難しい顔で腕を組み、唸っていた。
「母親代わりにされるのわかってて、同棲なんてしたいわけないだろ」
「でも主任、もし七世君がなんにもできなかったら? 一緒に暮らすのやめてました?」
「何もできない倉知君なんてそんなんお前、……可愛いな?」
「ほらぁ」
「論点をずらすな。今はお前と前畑の話だからな」
前畑が何もできない高橋を可愛いと思っていて、甘やかしたいならとっくに結婚している。
「でも、やったことなくても、きっと家事くらいできますよ」
「いやいや甘い。家事を舐めるな」
生まれてこの方、自分で何一つやってこなかった男が、他人と暮らす。悲惨な未来しか見えない。
「あと心配なのは金銭感覚だな。今月スマホのゲームにいくら課金した?」
「えー、わかりません」
これだ。あまりにも自由過ぎるのだ。
「自分の稼いだ金だけで、一人で生活してみたらいい。そうすりゃそのうち大人になれる」
「そうか、前畑さんの言う通り、僕はまだ子どもだったんだなぁ」
高橋は、遠い目をしてつぶやいた。家事をする高橋が、まるで想像できない。提案しておいて不安になった。
「あのな、おすすめはするけど、やれとは言わないし、無理すんなよ?」
「後悔したくありません。今やらなきゃ、駄目な気がする。僕、やります」
「うん」
なぜ、前畑がプロポーズを受けないのか。
なぜ、それでも別れないのか。
少し考えたらわかるだろうに。
付き合いが長いから、前畑の考えていることや、行動パターンはよくわかる。
「加賀君、聞いてない!」
会社に戻ると、思った通り、前畑が詰め寄ってきた。何を、とは言わずに「ごめん」と肩をすくめた。
「おめでとう」
前畑の後ろで後藤が小さく拍手している。自分の身に起きた大体のことを、後藤にだけはいつでも話してきた。
でも今回は、なんとなく気恥ずかしくて、ハワイ挙式が決まって二か月経っても言えずにいた。報告しなかったことをなじることもなく、後藤は母性に満ちた優しい表情で、俺を見ている。
「まあ、もう結婚してるようなもんだし、今更感あるけどね」
「それでも嬉しいよ。なんかすごく、嬉しい。なんだろうね、これ」
声を詰まらせ、目を赤くする後藤を見て、体が勝手に動いた。まだ就業中だし、当然フロアに社員は大勢いたが、俺は我慢できずに後藤を抱きしめていた。
後藤の手が俺の背中をさする。仕事でもプライベートでも、弱音を吐き出させてくれたのは後藤だった。つらかったとき、助けてくれた。姉のような存在だ。心から喜んでくれたのが嬉しくて、いてもたってもいられなかった。
「えっ、めぐみさんずるい、私も!」
前畑が俺と後藤を両手で抱え込むようにして抱きついてきた。
「じゃあ僕も」
高橋が背中にくっついてきて、さらに団子状態に膨れ上がる。
「なんか知らんが俺も」
原田が混ざってくる。おめでとう、おめでとうとみんなが言うから、何かめでたいことがあったらしい、と周囲が認識した。営業フロアにいる職員の目は温かかった。謎の拍手も起きている。なんだこれは、とは思うものの、本当に、いい職場だ。
「うん、みんなありがとう。よし、仕事に戻ろうね、解散」
俺が言うと、団子が散らばっていく。
「加賀君」
ネクタイを締め直していると、営業部長が身を乗り出して俺を呼んだ。
「何、どうした? なんかおめでたいことあったの?」
「宝くじが当たったんですよ。お騒がせしました」
「おっ、おめでとう。今度奢ってよ」
部長のデスクの前に立っている男が、振り返って俺を見ていた。九條だ。持っていた書類を部長に手渡すと、軽く頭を下げてこっちに来る。
「宝くじ?」
「お、おう」
「いくら当たった?」
「百億円?」
九條の頬が、少しだけ緩んだ。
別に、何かが変わるわけじゃない。戸籍をどうにかするとか、何かの制度を利用しようとかは、予定にない。けじめというか、なんというか。
「ただ、あいつの喜ぶ顔が見たいだけっていうか」
誰もいない社員食堂に引っ張っていき、説明した。こいつには話しておかなければいけない気がしたからだ。椅子に腰かけて黙って聞いていた九條が、唐突に笑いだした。笑いながら眉間を掻いて、俺を見る。
「なんで言い訳してる?」
「いや……、なんででしょう」
「まあ気持ちはわかる。挙式とか披露宴ってのは、なんとなく照れ臭いもんだ」
なるほど、俺は、照れているらしい。
「おめでとう。お前が幸せで、俺は嬉しい」
九條の声は柔らかかった。スーツの内ポケットから煙草のパッケージとライターを出して、フ、と笑みを浮かべ、腰を上げた。
「楽しんでこい」
俺の肩を叩いて、食堂から出て行った。
そう、楽しみだ。クールぶってはいるが、実は俺は、ハワイがめちゃくちゃ楽しみだ。
二家族合同の旅行が単純に嬉しいのだが、何よりも、倉知のタキシード姿を早く見たい。見たくて見たくて発狂しそうだ。本番のお楽しみにしようと、お互いに、試着した姿を見ていないのだ。
試着室のカーテンの向こうで、女性スタッフたちが倉知を絶賛する黄色い声に嫉妬した。
それはもう、絶対に、カッコイイに決まっている。
楽しみ過ぎて、毎日カウントダウンしている。
挙式まで、あと五十七日。
長い。とは思うが、その日になれば、あっという間だったと感じるだろう。今日も、そろそろ一日が終わる。明日になれば、あと五十六日。
パソコンの電源を落とし、スマホを見る。倉知からのLINEが届いていた。
『今日は早く帰れたので、金曜じゃないけどカレーにしますね』
一日の疲れが瞬時にして吹き飛んだ。
今すぐ帰る、と返信をして、席を立ち、フロアを飛んで出た。Zを走らせ、愛する倉知とカレーの待つわが家へと直行する。
マンションが見えた。鼻歌が出る。マンションの敷地に入る手前の植え込みに、人がいた。若者が、三人。こんな場所にたむろしているのは珍しい。
カレーライスの歌を口ずさみながら、徐行して、彼らの横を通り過ぎる。
縁石の縁に座り込んだ女を取り囲むように、自転車から降りた男が二人。ナンパだろうか。
こんな場所で? こんな時間に?
妙だな、と思ったが、鼻歌は止まらなかった。地下の駐車場に車を停め、エレベーターに向かいかけた足を止めた。進路を変更し、地下駐車場のスロープを上がる。
地上に出ると、さっきの三人を認めた。外は暗くて寒い。外灯の下の三人の男女も、身を小さくして、寒そうだ。
「どっか暖かいとこ行こうよ。お腹空いてない?」
男の声と、すすり泣きが聞こえた。二人の男の隙間から、女が見えた。女子高生だ。見覚えのある制服を着ている。倉知の学校の生徒だ。
「こんばんは」
三人に歩み寄り、声を掛ける。振り向いた男たちが、俺を見てばつの悪そうな顔をした。
「な、なんすか?」
「ここの住人だけど、何かトラブルかなって」
「別に……、俺らは通りすがりで、この子が泣いてたから話しかけただけで……」
「最初から泣いてたんすよ。俺らが泣かせたんじゃないんで」
誰も泣かせたとは言っていないが、弁解する二人は必死だった。
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この二人も高校生くらいかもしれない。褒めると、ホッとした顔を見合わせた。得意そうに鼻をすすっていた一人がスマホの画面を見て「やべ、もう八時だよ」と自転車にまたがった。
「なんかお兄さんいい人そうなんで、あとは任せました。さいなら」
「え、うん、さようなら」
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「で、どうしたのかな?」
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「駅まで送ろうか?」
「……怪しい」
「え?」
「親切で優しい爽やかなイケメンは、サイコパスのシリアルキラーって相場が決まってるもん。うっかりついていったら、殺されるパターンじゃん」
可愛らしいコロコロとした声で、怖いことを言うから吹き出してしまった。
用心深いのはいいことだが、埒が明かない。倉知を召喚しよう、とポケットからスマホを取り出した。
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彼女がツインテールの二つの尻尾を両手でつかんで、涙声でしゃくりあげる。
「ん? 尾行?」
「大好きな先生と、今日、帰り、たまたま一緒になって、それで、私……、どこに住んでるのか、知りたかっただけなのに」
途切れ途切れに彼女は言った。
「なるほど」
俺は静かに息をついて、腰を上げた。スマホを操作し始める俺を、彼女は不安げに見上げている。
「何、悪の組織に連絡するの? 私、どうなるの? 人身売買のオークションにかけられるとか? アラブの石油王に見初められて、海を渡るの?」
「それドラマチックだね」
適当に返事をしながら、「ちょっと下降りてこれない?」と倉知にメッセージを送信した。
『どうしました?』
すぐに既読がつき、返事がくる。
『迷子の女子高生がマンションの前にいるんだよ。お前んとこの生徒。寒がってるからなんか羽織れそうなの持ってきて』
すぐ行きます、と返事を確認してから、スマホをポケットに押し込んだ。
「とりあえず、ここ寒いし、エントランスに入ろうか。お母さんに連絡したいならスマホ貸すよ」
「なんでそんなに優しいの? イケメンで優しいなんて、怪しすぎる……。なんの罠?」
「ええ……、めちゃくちゃ警戒心強いね」
マンションの入り口に目をやった。倉知は素早い。すぐに来るだろう。俺が倉知を呼んだと知れると、勘繰られて、あとあと厄介だ。
「じゃあ、怪しいおじさんはもう行こうかな」
「えっ」
「えっ?」
非難の色を含んだ「えっ」に、思わずおうむ返しをしてしまった。
「行っちゃうの?」
「だって、今日カレーだし」
「カレー……、食べたい……」
腹を押さえて背中を丸め、俺を見上げた女子高生が、唇を尖らせた。
「……サイコパスとか言ってごめんなさい。私にカレーを恵んでください」
「どうした、さっきまでの警戒心はどこいった」
「だって、お兄さん面白いし、悪い人じゃなさそうだもん」
「そういう奴が一番ヤバいんじゃなかった?」
「もういい、カレー食べたい、お腹空いたぁ」
嘆きの直後、エントランスのドアが開いた。倉知だ。
「持田さん」
倉知が呼ぶ。
「あっ」
彼女が甲高い声で「倉知先生!」と叫び、駆けていく。小さな体で倉知に抱きつくと、泣き出した。泣いている隙に、ひっそりといなくなろう。忍者の足取りで背後を素早く通り過ぎた。
「先生、カレーのにおい。先生のおうちも今日はカレーですか?」
入口のドアが閉まる瞬間、彼女の問いかけが聞こえた。振り返る。ガラスのドアを隔てた向こうから、倉知が俺を見て、口を開きかけた。「加賀さん」の「か」の形だ。
今は、他人にならなければ。あくまでお互いを知らないふりで通さないと、ややこしくなる。
唇に人差し指を当てて見せると、倉知が小さくうなずいた。
外の二人から目を逸らす。振り返らずに、エレベーターに飛び乗った。
玄関のドアを開ける。俺たちの部屋はカレーの匂いがした。それに、暖かい。でも、誰もいない。
ポケットで、スマホが振動した。
『駅まで送ってきます。先に食べててください』
うい、と返信を打って、寝室のドアを開ける。スマホをベッドに放り投げて、スーツを脱ぐ。帰宅後のルーティンを無心で終え、とりあえずリビングのテレビを点けた。
何も考えないようにしたが、明らかに、俺は悶々としている。
いや、わかる。
心細かったところに知った顔が現れたら、まだ子どもだし、そりゃあ抱きつくくらいはするだろう。
人は、あらゆる場面で抱擁を交わす。その抱擁にはそれぞれ違った意味が込められている。
俺だって、後藤を抱きしめた。生徒を抱きつかせる倉知をとやかく言えない。
それにあいつはみんなの「倉知先生」だ。
「ただいま」
倉知が帰宅すると、ソファから腰を上げた。玄関まで飛んでいき、靴を脱いで振り返ったところに飛びついた。両腕を肩に回し、両足で、倉知の腰をホールドする。
「おかえり」
倉知は硬直している。すぐに飛び降りて、何食わぬ顔でキッチンに向かう。
「早くカレー食うぞ、カレー」
コンロに火を点けて鍋の蓋を開けた。
「まだ食べてないんですか?」
「うん、待ってた」
鍋を掻き混ぜる俺の腰を、倉知が後ろから抱き寄せた。
「さっきの、あの……、可愛いです」
「だいしゅきホールド?」
「だいしゅき……、はい、あの、ちょっと、勃ちました」
尻に押しつけてくる感触は、確かにちょっと勃っている。
「倉知君」
「はい」
「だいしゅき」
倉知が無言で俺の首筋に、顔をうずめてきた。くすぐったい。笑っている。
「俺もだいしゅきです」
「ふはは、だいしゅき可愛い」
くっついた体を左右に揺らしながら、二人でカレーの鍋を掻き混ぜる。
「さっきの子、大丈夫だった? 持田さん?」
「はい、おうちにも電話して、電車乗るの見届けてきました。加賀さんのこと、すごく気にしてましたよ」
「え、なんで?」
「さっきまで親切なイケメンがいたのに、いつの間にか消えた、幽霊だって、ずっと騒いでました」
「はは、うける」
「加賀さん、ごめんなさい」
急に声が暗くなった。ちら、と横顔を見上げて「ん?」と聞き返す。
「持田さんには、他の人に家を教えないでっていうのと、もう来ないようにって釘を刺しておきました。すいません、浅見先生から、家までついてくる生徒もいるから気をつけろって言われてたのに」
「いや、そんなさ、毎日尾けられてないか警戒すんの、無理じゃん」
俺も一度やらかしているだけに、尾行されることに関しては、ほとんど諦めている。セキュリティを突破して部屋に侵入されるわけでもないし、そう大きな問題でもない。
「そうですけど、俺、尾行されたの二回目だし……、情けなくて」
「いいよ。なんかそういう、後ろががら空きな倉知君可愛い」
「加賀さん、俺のことなんでも可愛いですよね」
「そうそう、全部可愛い。だいしゅき」
ふふ、と倉知が笑って、冷たい鼻を、うなじにすり寄せてくる。夜は冷え込むようになってきた。もうそろそろ季節は冬だ。
「倉知先生、お疲れ様」
「はい、ありがとうございます」
「今日はもう先生終わりな。夜は俺専用の倉知君になって?」
倉知が黙った。黙ったまま、俺の頭に頬ずりをしたり、首の裏にチュッチュと吸いついたり、忙しい。
可愛いなあ、と思った直後に倉知が言った。
「可愛い」
笑いながら、カレーを混ぜる。
「加賀さんだけの、俺です」
キスからの、二人の夜が始まる。
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