電車の男ー社会人編ー

月世

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Ⅰ.倉知編

「初出勤の朝」

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 朝が変わる。
 学生時代は加賀さんを送り出したあと、のんびりと掃除洗濯に勤しんでいたが、もうそんな余裕はない。帰りは何時になるかわからないから、早朝に掃除を済ませることにした。
 毎日掃除をする必要はない、多少の埃は気にならないと加賀さんは言うが、やらないと気が済まない。これは一種の趣味のようなものなのだ、と言うと肩をすくめて笑っていた。
「明日から、俺ももうちょい早起きしよ」
 向かい合っていただきますと声を揃えたあとで、加賀さんが言った。
「そうすりゃ倉知君が掃除してる間に朝ご飯作ったり、いろいろやれるし。合理的だろ」
「え、いや、いいですよ、俺が好きでやってるだけなんで」
「俺も好きでやるんだよ」
 味噌汁の湯気を吹いてから、一口すすり、加賀さんが首を傾げる。
「ん? 好きでやる? ていうか倉知君が好き」
「俺も加賀さんが好きです。あの、大丈夫です、ほんと」
 お椀を持ったまま俺を上目遣いで見て、そこからは無言だった。俺も無言で完食して、二人で食器を洗う。
「こういう洗い物だって、最悪帰ってからやっても別にいいんじゃない?」
 それは、と口を開いた俺を素早く振り仰ぎ、脈絡なくキスをされた。
「今のは?」
「したくなったからやった」
「は、はあ」
「そういう選択もあるし、できないときがあってもいいよって言いたかっただけ。倉知君頑固だからなあ」
「俺頑固かな?」
「まあ、うん、あれだ。お前は手抜きがストレスだもんな」
 加賀さんは俺をよくわかってくれている。
 我ながら神経質で完璧主義なところは緩くしたいとは思うが、なかなか難しい。加賀さんはいつもこうでもいいという選択肢をくれて、押しつけないし、無理強いをしないで俺の好きなほうを選ばせてくれる。ありがたい。好きだ。
「ていうかさ」
 慣れないスーツに着替え、スタンドミラーで入念にチェックする俺とは対照的に、ベッドに腰掛けて脚を組み、全身完璧な余裕の加賀さんが、腕時計に目を落として言った。
「早起きしすぎじゃない? セックスできそうなくらい時間余ってるけど」
「余ってませんよ」
 言った直後、洗濯機の電子音が聞こえてきた。
「ほら、計算通りです」
「緻密すぎて怖くなってきた」
 洗濯物を、二人で干す。
 ベランダにスーツの男が並んで洗濯物を干している光景は、傍から見るとちょっと面白いだろうとは思う。
「よし、終わり」
 ぶら下がった俺のパンツを眺め、加賀さんが満足そうに笑う。今日も加賀さんは美しい。朝日に照らされた横顔が、神々しい。目を細めて魅入ってしまう。
 視線に気づいた加賀さんが、ちょっとだけ照れが混じった、呆れ顔を俺に向けた。
「もう出る時間だな。ほら、動け」
 腕時計を確認してから、俺の体をつついてくる。
「初出勤、緊張する?」
 玄関で靴を履く俺の背後で加賀さんが言った。
「いえ、今日はワクワクしてます。それより来週の始業式の挨拶がプレッシャーで……、あ、もう緊張してきた」
「大勢の前で話すとき、こいつら全員全裸だって思うと緊張しないんだって」
 俺に鞄を手渡し、加賀さんがニヤリと口を斜めにした。
「なぜ全裸……、それ効果あるんですか?」
「さあ? 俺あんま緊張しないからな」
 言いながら顔を寄せて、唇を重ねてくる。
「加賀さん」
「うん」
「緊張、解けました」
「え、キスで?」
「ありがとうございます。緊張したら加賀さんの全裸、思い浮かべますね」
「やめとけ、大惨事になる」
 おかしそうに俺の尻を乱打してくる。二人で笑いながら玄関のドアを開け、廊下に出ると、前後に並んでエレベーターに向かう。先に立って歩く加賀さんが、肩越しにちら、と振り向いた。
「なんですか?」
「いや、一緒に出勤するの、なんかウケる」
「はあ、まあ、なんかウケますね」
 エレベーターの下ボタンを押して、加賀さんが振り返り、俺の首元に手を伸ばした。
「倉知君、ネクタイ曲がってる」
 優しい顔だ。すごく柔らかく微笑みながら、ネクタイを直してくれた。伏し目の長い睫毛が綺麗だった。抱きしめたい。と口中でつぶやくと、加賀さんが目を上げ、俺の胸をぽん、と叩いた。
「スーツ姿も板についてきたな」
「大人に見えますか?」
「はは、うん」
 エレベーターの扉が開く。二人で乗り込んで、閉まるボタンに指が触れる寸前で、「乗ります!」と声が響いた。ヒールの音を響かせて、人が駆けてくる。
 隣人の芽唯さんだった。
 慌てて飛び込んで、胸を撫で下ろす仕草をした。
「セーフ……、あっ」
 中にいるのが俺たちだと気づくと、目を見開き、乱れた髪を撫でつけてから、叫ぶように言った。
「やばい、おはようございますっ」
「おはよう」
 声をハモらせる俺たちを輝いた瞳で見上げ、もう一度「やばいっ」と言った。彼女は出会った頃から「やばい」が口癖だったので、何がと疑問を抱くこともなくなった。
「二人がスーツだ」
 目を輝かせ、流れるようにジャケットのポケットからスマホを取りだした。
「撮っても?」
「え、なぜ」
 加賀さんが素早くツッコミを入れる。
「お姉ちゃんが起こしてくれなくて、寝坊しちゃって。何も食べてないから二人の写真でお腹いっぱいにしようかなって」
 下降していくエレベーターの中で、芽唯さんはめちゃくちゃなことを言い出した。
「芽唯ちゃんも今日から仕事?」
 加賀さんが俺の腕に体をくっつけて、女子みたいに目元でピースサインをした。つられて同じポーズをすると、芽唯さんのスマホがカシャ、と音を鳴らす。
「今日研修なんですよ。早起きしんどい、無理」
 彼女も今年の四月から社会人だ。専門学校を卒業し、念願だったウエディング関連の会社に就職した。
「やばい、可愛い」
「どれ、見せて」
 芽唯さんのスマホを覗き込み、加賀さんが「はは、ホントだ」と笑う。
 可愛い可愛いとスマホ画面を覗き込む二人。俺は一人、静かに舞い上がっていた。加賀さんがこっそりと、俺のジャケットの裾をつまんでいる。
 人前で見つからないように甘えてくるのが、可愛い。許されるなら、今この場で抱きしめたいが、許されないので我慢した。
「そんじゃ、二人ともいってらっしゃい」
 一階でエレベーターが停まると、加賀さんが笑顔で手を振った。
「いってきます、いってらっしゃい。運転、気をつけて」
「うい」
 エレベーターを降りて振り返ると、閉まりかけの扉の奥で、加賀さんが笑って敬礼していた。急いで敬礼を返したときには扉は完全に閉まっていて、「あっ、間に合わなかった」と思わず声が出た。
 隣で芽唯さんが吹き出し、下降していくエレベーターからかすかに加賀さんの笑い声が聞こえた。芽唯さんが「やばい、笑う」と顔を両手で覆い、いたたまれなくなった俺は、小さく咳払いをする。
「い、行こうか」
「倉知さん、高校の先生なんだよね? なんか心配だなあ」
 エントランスを歩きながら、芽唯さんが俺を見上げて眉を下げる。そんなに頼りなく見えるだろうかと頭を掻くと、芽唯さんがニヤリとした。
「可愛いから男子にも女子にもモテモテだよ。加賀さん、心配してない?」
「うーん、どうだろう」
 加賀さんは俺が教師になることで、ネガティブ寄りの発言をしないし、そんな素振りも見せない。ちょっとしたことで迷って不安になる俺を、大丈夫と笑って励ましてくれる。
「もし俺がモテモテになったとしても、加賀さんだって今も昔も変わりなくモテモテだし」
「それはあれだね、俺たちの間には割り込めない、来るなら来いやってやつだね」
「うん? うん、そうかな?」
 曖昧に返事をして外に出た。
 清々しいほどに晴れた日で、気持ちがよかった。
「倉知さんは電車? バス? 私こっち、バス」
 マンションの敷地を出て、芽唯さんが左を指差しながら言った。
「俺は電車、こっち」
 右を指差して答えた。
「じゃ、お互い頑張ろうね」
「うん、頑張ろう」
 うなずき合ったとき、マンション地下の駐車場のほうからエンジン音が聞こえた。スロープから黒いフェアレディZが顔を出す。運転席の加賀さんが俺たちを認めた。笑顔になり、ステアリングを握ったまま、右手の指をさりげなくひらりと振って、走り去って行く。
「やばいっ」
「うん、やばい、ね」
 二人でやばいやばいと繰り返し、テールランプが見えなくなると、正気に戻った。芽唯さんがスマホを見て「やばい」と本日何度目かの口癖を零す。
「遅刻しそう? 途中でコンビニ寄れない?」
 朝食を抜いているのが心配でそう言うと、芽唯さんがスマホを操作しながら「いいんだ」と答えた。
「朝食べないことよくあるし。でもありがと。倉知さんほんと優しい、神」
 俺を見上げ、親指を立てて見せた。
「おかげで今日という日を乗り越えられそう。じゃあね」
 なぜかお礼を言って駆けていく元気な後姿を見届けて、俺もしっかりせねばと胸を張った直後、スマホが鳴動した。画面を見ると、芽唯さんからだった。
 さっき撮った写真が送られている。加賀さんがものすごく可愛い。地団太を踏みかけて、堪えた。
 両手で顔を叩き、気合を入れる。
「よし」
 今日の一歩を踏み出した。
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