となりの柴崎さん

月世

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第三話 清算

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 悪夢だ。忘れたい。なかったことにしたい。
 でもこれは現実で、沢村はそれを残酷に突きつけてくる。
「お前、柴崎さんがどんな人か知らないのか?」
 休み時間のたびに俺のところに来て、ごちゃごちゃと喋っていく。
「知らん」
「一年とき同じクラスだったんだけど、喧嘩で停学んなってダブったって。だから俺らの一個上なんだよ」
「知らん、知りたくない」
「でも付き合うんだろ?」
 首を横に激しく振って精一杯拒絶したあとで、力尽き、机に突っ伏した。
「とにかく、詐欺師呼ばわりしたのは謝っとけよ。今は大人しいけど、あの人昔はめっちゃ凶暴だったらしいし。鬼とか狂犬とかあだ名ついてたって」
 こんなことになったのは、もとを正せばお前のせいだろう。と言いたかったが、わかっている。ただの、俺の早とちりでこんな事態に発展したのだ。
 となりのクラスの柴崎さん。
 ざきとさき。濁るか濁らないか。
 二組と四組。どちらも「となり」のクラス。
 でも、柴崎さん、と言われたら、女子だろう。
 男をさん付けで呼ぶはずがないという先入観もあったが、一歳上の同学年を「さん付け」にするのはわからないでもない。沢村は悪くない。
 これは不幸な事故だ。誰が悪いという話でもない。
 でも、こんな些細な勘違いと行き違いで俺の平穏な高校生活がぶち壊されていいのか。
 いいわけがない。
「やっぱ詐欺だよ」
 体を起こして、机を叩く。沢村が机の横に屈み込んで「どこが?」と声を潜めた。
「だって、見ただろ? あんな可愛い感じでおしゃべりされたら、女だって思うだろ?」
 同意を求めたが、沢村は首を傾げてから、半笑いになって否定した。
「可愛くないし、女だと思わないし、柴崎さんだって女のふりしてないと思うけど?」
「えっ?」
「えっ、じゃねえよ。もう一回、よく読んでみろ」
 沢村が腰を上げた。チャイムが鳴る。ほどなくして授業が始まったが、俺はスマホの画面を凝視し続けていた。
 読み返すうちに怒りのようなものが消えて、沢村の言葉を一理あると思う自分がいた。sivainu0120を、柴崎琴音だと思っていたから可愛く感じた。それはあるかもしれない。今改めてあの目つきの悪い男で再生してみると、確かに全然女には思えないし、女のふりをしようなどという意図は見えない。
 ため息をつく。スマホの画面を暗くして、頭を抱えた。
 女じゃなくても、柴崎琴音じゃなくても、「sivainu0120」が可愛い。
 男の柴崎の発言だとわかっていても、可愛いと思ってしまうのだ。
 あんな見た目なのに、柴犬をアイコンにしてみたり、フリーダイヤルをアカウントに入れてみたり、俺を好きだと言って、時間をかけてよろしくお願いしますと、答えたのだ。
 きっと、とても緊張して。
 俺のように適当に楽しんでいたのとは違う。
 一字一句、考えて、間違わないように、慎重に送信したのだろう。
 俺が好きだから。
 胸を抑えた。チクチクと、痛む。
 ひどいことを言った。
 謝らなくては。
──昼休み、直接話せませんか? 体育館の裏で待ってます
 メッセージを送ってみた。ブロックされているかもしれないと思ったが、既読がつき、直後に「はい」とだけ返ってきた。
 怒っているだろうか。怒っているだろう。そりゃ、誰でも怒る。
 俺が勝手に間違えただけで、あっちは騙しているつもりはないのに、詐欺だとか騙されたとか言われて、腹が立たないはずがない。
 喧嘩で停学。凶暴。鬼。狂犬。
 恐ろしいフレーズの数々が蘇る。
 俺は半殺しにされるかもしれない。だから、待ち合わせ場所の体育館の裏で、柴崎を土下座で出迎えた。
「大変っ、申し訳ありませんでしたぁっ! あのっ、実は、……二組のシバサキさんと、四組の柴崎さんを……、思い違い……してて」
 無言だ。恐る恐る顔を上げた。鬼の形相を予想していたが、違った。
 柴崎は、わかりやすく困った顔をしていた。肩透かしを食らった気分だ。
「お、怒ってます、よね?」
「……怒ってない」
 ポケットに両手を突っ込んで俺から目を逸らすと、腹に響く低音ボイスで続けた。
「相手が俺だとわかってたら、沢村からのメモを受け取るはずがない。納得した」
「え、あ」
 そんなことはないとは言えずに、まごついていると、柴崎が踵を返した。
「昨日は楽しかった。それと、悪かった」
 柴崎の背中が遠ざかっていく。なんだかその背中が小さく見えて、このまま行かせてはいけないと思った。慌てて立ち上がり、呼び止める。
「待って、柴崎さん」
 柴崎は、足を止めたが振り返らない。
「なんで? なんで俺なの?」
 どうして俺を好きになったのか。別に俺は何かに秀でているわけじゃないし、目立たない、普通の男のつもりだ。でももしかしたら、自分に何か光るものがあるのかと、ドキドキしながら訊いた。
「別に……。新入生で、好きな顔の奴がいるなって」
「それだけ? 車に轢かれそうになってる子犬を助けたのを見たとか、そういうのじゃなく?」
「轢かれそうな犬を助けたのか?」
「ないけど」
 柴崎の肩が、ほんの少し揺れた。もしかしたら笑ったのかもしれないと思うと、ホッとした。
「あれ、待って、新入生って、結構前から好きなの? 俺のこと」
 柴崎が黙る。背を向けているからわからないが、どんな顔をしているのか、見たいと思った。
「柴崎さん、今日誕生日だよね」
 ポケットからラッピングされた小さな紙袋を取り出した。
「おめでとうございます。これ、よかったら」
 柴崎が肩越しに振り返った。困惑しているのがわかる。すごくゆっくりと体の向きを変え、ぎくしゃくと、距離を詰める。そして、両手で紙袋を受け取った。
「開けてみて」
 硬直する柴崎を促すと、中身を取り出し、顔の前にぶら下げた。眉間に皺を寄せ、それを睨みつけたまま、黙りこくる。
「ごめん、女子だと思ってたから」
 昨日、あれからすぐに雑貨屋に走った。抱きしめられるくらいの大きさの、柴犬のぬいぐるみを探した。結局理想のものはなかったが、柴犬に見えないこともない、小さなキーホルダーを発見し、飛びついた。
 柴崎琴音がこれを通学鞄につけてくれたら可愛いなと妄想でにやついていたが、それは叶わぬ夢となった。
「捨ててくれていいから」
「いや」
 速攻で否定し、柴崎が大きな手のひらの中に、大切そうにキーホルダーを包み込む。
 そして、嬉しそうに、目尻を下げて、笑った。
「気に入った。ありがとう」
 ぐ、と息を呑む。
 可愛い。
 なんてことだ。笑うと可愛い。
 スマホ画面の中じゃなく、現実で、この男を可愛いと思ってしまうともう駄目だった。
 翌日。
 狂犬柴崎が通学鞄に犬のキーホルダーをつけていると周囲がざわついて、俺はそれを見て、また可愛いと思うのだ。
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